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西部邁 『「国柄」の思想』を読んで。

(本書は、私の思考が正しかったのだ、という点と、また反して私の思考は間違えであったのだという両極にあるものでした。 そして、西部さんの言霊に、ん???と思う点もあった次第ですが、西部さんの「知性」は思想家として世界のトップ・レヴェルにあると、まざまざと教えてくれるものでした)


1、(この本書は平成8年に書かれたものです)


2、そのようにみなせばこそ、近代保守思想の発祥の地である英国では、プリスクリプションという言葉にまず「時効(持続の効果)」という意味を与え、次にそれが活動のための「処方箋」になると解釈したのである。
同じ伝で、プレジュディスは、あらゆる判断にとって必須の「予めの判断」となりうるのであり、またトラディションは「持続によって選ばれしもの」としての伝統になることもできる。
したがって、保守派は「改革」を、というよりは改革と聞いただけで良き事態の発生を予期してしまう独善を、忌避する。


3、改革を叫び立てるものたちは、改革のための大前提が自分らの情熱や理性のなかに自然に備わっていると思い違いをしている。
情熱を節度あらしめ理性を健全たらしめるのは伝統であるということに思い至らないのである。


4、ロシア革命の狙いはフランス革命の理念をより徹底的に実現させることであり、そしてそのユートピアに向けての冒険の結果が「抑圧・不平等・嫉妬」を旨とするディストピアなのであった。


5、伝統、それは真っ当な人間の「生き方」(小林秀雄)であり、「精神の形」(三島由紀夫)である。
それが「方型」であることからしてすでに、伝統は人間精神にたいする根本的な「規制」だということが明らかである。


6、しかし完全情報社会は経済学の得意とする夢物語の産物にすぎず、ましてや今は「不確実性の時代」とよばれている状態にある。


7、ただでさえ乏しい米国の歴史を、人権だ平等だといった類のイデオロギーにかられて、また技術的合理をつらぬくことによって、さらに貧しいものにする(民主党系の)人々がリベラルと呼ばれ、そして個人的自由というそれ自体としては反歴史的な構えを米国の歴史だと強弁する(共和党系の)人々がコンサーヴァティヴとよばれている。
この言葉づかいそのものが錯乱しているのである。


8、官僚は政策を立案している。
政策立案能力を政治家が持つべきであるとか、それを首相官邸に集中させるべきであるとか、機構上の議論はいろいろあるが、いずれにせよ情報の収集と分類と解析に秀でた官僚たちの助力なしには政策メニューが出来上がらない。


9、官僚出身者が選挙に出たがること、それを異常のこととみなす精神風土が官僚機構のうちに少しも育ってこなかったこと、官僚がごく安直なやり方で賄賂の提供に応じること、それをおこの沙汰として指弾する声が官僚機構のうちに高まっているとは思われないことなどをみれば、官僚が自分たちを「ノブレス・オブリージュ」とはみなしていなかったといってよいのであろう。


10、アイルランドにはECの資本が流入し、年7%強の経済成長に成功している。
その意味では、アイルランドは「国際化」なるものを大歓迎している。
しかし同時に、その国はおのれのナショナル・アイデンティティを鮮明にすることを求めて、たとえばイングランドとの対立を隠そうとしない。
イングランドとの経済的紐帯がきわめて強いにもかかわらず、そうするのである。
したがってアイルランドの現状は、国際化において「相互依存と相反反発」の両面が一般的にみられることを、みごとに物語っているように見受けられる。
そして来るべきEUにおいても、そうした二面性が剥き出しにされるであろうこと、また二面性がEUをダイナミックな存在にするであろうことを思わずにはおれないのである。


11、自国が特殊であることに劣等感を抱くことそれ自体が、つまり日本的であることを恥とする日本のあり方が、異常なのである。
同じく、自国が普通であることに優越感を抱くことそれ自体が、つまりアメリカ的でないことを罪とみなすアメリカのあり方が、異常なのである。
正常な国ならば、自国が、他国とのあいだで、「普遍と特殊」の両面性を有していることをもって国の正常なあり方をみなすであろう。


12、私は戦後50年を敗戦50年とよぶことにしている。
というのも、敗戦の後遺症とでもよぶべき状態がこの半世紀間の日本を濃く彩っているからである。


13、ところで、この凡庸なる世論は誰が創造するのであろうか。
マスコミがそれを誘導するといっても、人々によって受け入れられない見解をマスコミがばらまくわけがない。
他方、大衆はおのれの見解を筋道立てて組み立てるにはあまりにもリテラシーを軽んでいてる。
結局、マスコミと大衆は誰かの意見に順応することによってマスコミ世論を形成しているのだとみるほかない。
その誰かとは、ほかでもない、アメリカン・イデオロギーである。


14、だがここにアメリカという国家が存在していて、それは前近代化および後近代という観念の両翼を持たずに、ウルトラモダニズムとよぶのが適当な近代を展開したのである。


15、なぜなら、言語的動物としての人間にとって、この世はつねに観念によって「ヴァーチャル・リアリテイ」という相貎を帯びるのだからである。


16、日本人は見通すかぎりアメリカ的に生きることから免れえないのだとしても、それが、恥辱にまみれたとはいわぬまでも、幼稚な生き方であることを自覚しておかなければならない。
もし文明の成熟を願うのならば是非ともそう自覚すべきである。


17、去勢されたものに特有の弱々しき生、それが戦後日本の繁栄の正体にほかならない。
だから、生の享受がいくら謳われようとも、そこには不安や焦燥がしつこくとりついている。
というより、そうした未充足感を追い払うために、生を謳歌しつづけるのが戦後日本人の習わしとなってしまったのだ。


18、私のいいたいのは、アジアの「解放」というのはあくまで消極的な正義であって、「自由と民主」という連合国がわの積極的な正義には敵わなかったということである。
つまり、抑圧から解放されたあとに個人や集団がいかに生きるべきか、それについて何事かを提示する精神の力量が大東亜戦争の推進者たちになかったということだ。
そうであればこそ、連合国がわが、「人格的完成」としての個人の自由主義と「多数派民衆の英和」としての集団の民主主義を標榜して、第二次世界大戦という名の聖戦を闘ったのにたいし、枢軸国がわは、たかだか、ナチスの「血と土」や日本天皇主義者の「大和魂」といったような神秘主義めかした標語をしか準備できなかったのである。
したがって、敗戦後、アメリカ的な「自由と民主」に易々と膝を屈するという大転換をするのやむなきに至ってしまったわけだ。


19、アメリカの作成による憲法を日本が押し載いたことによって、日本の安全保障体制がどれほどひ弱になったか、そんなことは今更の話だ。
日本国憲法が問題であるのは、むしろ次の点にある。
歴史の土壌なきところに「自由と民主」の理想国を建設したアメリカ的な実験主義を実現するためのほぼ完成された処方箋、それが日本国憲法なのである。


20、いずれにせよ、日本国憲法はアメリカニズムによって去勢された戦後日本人の意識の非歴史性を象徴するものであり、また逆に、その憲法に拘泥することを通じて戦後日本の国民精神はますます非歴史的なものになっていった。


21、戦後日本にあって破壊された慣習は次の5点セットにまとめられる。
第一に「家族」、第二に「学校」、第三に「都市および田園のコミュニティ」、第四に「国防軍」そして第五に「自然環境」である。


22、原子もしくは砂粒のような「平等に孤立せる個人」としての生き方を経験したことは一度もないくせに、またそれに近い生き方を諸個人に強いたところにアメリカ文明の混乱の因があったことが判明しているというのに、戦後日本人はアメリカンになりたいと叫んでいる。
敗戦のトラウマがかくも深いものであったかと思い知らされて、私はうんざりしている。


23、それがマスコミ世論の要求に沿う政策決定であったことを思うと、大蔵省はバブル経済の少なくとも第一責任者ではないのかもしれない、と考える力量である。
またたとえば、大蔵省はバブルの幕引きをしようと努めたのであってみれば、たとえ大蔵省のいわゆる総量規制が、住専問題が顕在化する切掛けになったのだとしても、その大蔵省の企てを無視した住専や不動産業界の責任のほうがずっと重いのではないか、と思ってみる力量である。
さらに、バブルを煽ったのが経済予測にかかわった知識人たちであったことに注目して、ひっよとしたらエコノミストたちが責任者の筆頭に挙げられるのであり、さすれば大蔵省の責任を指揮してやまぬエコノミストには少なくとも道義的な制裁が加えられて然るべきかもしれない、と思考してみる力量である。


24、一つ具体例を挙げれば、経済学者という専門人がまさに相対主義の途をひた走っている。
つまり彼らは、経済の現実のうちに権力にまつわる政治的要素、慣習にかかわる社会的要素そして価値をめぐる文化的要素が含まれていることをおおむね無視し、それゆえそれらの諸要素が市場のあり方を規制せずにはいないという現実にも眼をつぶって、市場理論という単純な概念に対応する現実があたかも存在するかのように思い込むという仮想のなかで、規制緩和の大合唱に明け暮れしている。


25、デモクラットは、本来、既成の権力に厳しい批判の眼を向ける。
だが、民主主義が完成に近づくとき、立法も行政も司法も基本的には世論の動向によって決定されるということになる。
そうならば、民主主義が確立されるということは世論が第一権力になるということと同じである。
そして、もし世論がプレスやテレビによって決定的に左右されているというのなら、マスメディアこそが第一権力になる。

 

26、たとえば、バブル経済の発生・昂揚・破裂について間違いだらけの予測をしていた経済学者・評論家は、いったいいかなる根拠で、大蔵省なり銀行なりの責任を云々できるのか。
小選挙区制の導入で日本の政治が改善されると予測していた政治学者・評論家は、いったいどんな論拠で、政治家の責任を喋々できるのか。

 

27、アメリカニズムの教本、それは日本国憲法である。
天皇条項と戦争放棄条項を除けば、それは、アメリカ流の自由主義、アメリカ流の人間主義、アメリカ流の民主主義そしてアメリカ流の進歩主義の権化だといってよい。
つまりそれらは、個人とその自由そして社会とその進歩を、歴史的土壌のなかにではなく、抽象的理念のなかに構想している。


28、そもそも、自衛隊が安定的かつ持続的に存在していることによって、その条文はすでに死文と化している。


29、教師があえて価値の優劣についての判別表を呈示すれば、それは押し付けの徳育であり、その結果は、いわゆる日教組教育がまさにそうなったように、生徒・学生の価値観を鋳型にはめたり、生徒・学生に価値観そのものを忌避するようにさせる。
いずれにせよそれは徳育の失敗である。
気概なき青少年を大量発生させるだけのことだ。


30、仮面を被りつづけていると、それが顔から剥がれなくなり、ついにはその仮面がその人の顔相になってしまう。
このようにパーソナリティがペルソナによって規定されるというのは、言語によって虚構を(つまり仮面を)製作するのを本性とする人間にとって、やむをえない成り行きではある。
しかし被る仮面がたった一つしかなく、しかもそれが伸縮自在さの一片を持たないとなれば、その人の人格は、死者のそれのように、硬直のきわみに達する。
その種の人間たちが社会のなかで目立った集団を構成するようになったとき、その民族なり国民なりは、錆びついて徐々に崩落していく機械の死よりももっと醜い死のなかに、つまり生きながらの腐敗のなかに放り込まれたとみて間違いではない。
戦後日本人が被ってきた様々な仮面のうちで最高の段位におかれてきたのは民主主義であった。


31、戦後の半世紀、日本人は自分らの歴史にたいしてまず罪悪感を、次に侮蔑感を、最後に無関心を寄せてきたのだ。


32、議員を選んだのは、ほかでもない、民衆なのである。
腐敗した候補者しかいなかったというのは言い逃れにすぎない。
清潔この上ない民衆のうちの誰かが立候補すればよかっただけのことである。
健全な代表者を選出する能力すらない自分たちに、なぜ、個別具体的な政策について健全な判断力が備わっていると考えることができるのか、莫迦も休みやすみいえとはこのことである。


33、古代アテネの昔から直接民主制は歴史とともに古い、というのは議会制廃止のための論拠になんかにはならない。
アテネ市民の直接投票がオクロクラシーをみせつけたせいである。
それどころか、歴史上の独裁者は、ほとんどすべて、世論による絶大な支持を背景にして誕生したのであった。


34、最近、よく地方自治のことが話題になるが、セルフ・ガヴァメントの前にセルフ・オートノミーがなければならない。
そして地方が自律しうるための最も基礎的な条件は、その地域の伝統が安定しているということである。


35、沖縄の住民投票についても同じことがいえよう。
当地における米軍基地の縮小や撤廃のみをテーマとする住民投票には公共性が欠けているといわざるをえない。
米軍基地をなくすかわりに自衛隊の基地を増やすべきかどうか、米軍基地を日本国内におきつづけるとすれば沖縄の代替地をどこにすべきか、また日本の軍事協力を今後どのように改変していくべきであるのか、といったようなことにかんする何らかの積極的な提案がなされないかぎり、その投票は、しょせん沖縄私的利害のみにかかわるという意味で、地域エゴの一種といわれても致し方ない。
私自身は、米軍基地の必要を認めておきながらそれを沖縄人たちに過重に担わせるという日本本土人たちのやり方に非を鳴らすべきだと考えている。
それのみならず、外国軍の基地が自国に配置されていることに羞恥も屈辱も感じない日本本土人の国は、結局のところ、アメリカの属国なのであろうといわずにもおれない。
だから沖縄の米軍基地に大きな変更を加えることそれ自体に反対する気は毛頭起こらないのである。
しかしその変更は、我が国の安全保障体制や軍事戦略にかんする公共的な検討の一部をなすものとして提起されるのでなければならない。
しかしみたところ、沖縄の住民投票の進められ方は、平和主義もしくは非武装主義という似非の公共的構えにもとづいている。
こんな構えが本土内の米軍基地問題にも適用されるようになるについての最初の切掛、それが今度の沖縄住民投票だとういうのなら、それは日本の歴史における一つの汚点となるに違いない。


36、歴史的土壌の浅いアメリカでは、放っておくと、人種差別と市場競争の機構がフルに稼働し、結果として弱肉強食の世界が出現し、弱者は自由を発揮する余地がなくなる。
で、政府が福祉をはじめとする社会政策に乗り出すことを歓迎するのがリベラルだと形容される、という奇妙な言葉づかいが定着してしまったのだ。


37、この人間の生の逆説を知らぬものを市民とよんだとて仕様がない。
今の(民主党によって率いられようとしている)市民主義は、シチズンの原義をわかっていない。
市民であるとは、その所属する国家に忠誠を誓うこととの引き換えで、国家からの保護を獲得することにほかならない。
国家といって語弊があるというのなら、国家の基礎をなすものとしての国柄とよんでもよい。
国柄を失うものは人柄をも無くす。
そののっぺらぼうなものたちの集まりを市民と名づけて「市民中心型社会」をつくるのが民主党の企てであるらしい。


38、我が国の有権者の政治的な判断力は、いいにくいことだが、戦後民主主義という名の流行性感冒に冒されつづけたために、ほぼ完全に狂っている。
考えてみよう、民主党の政治家たちは、その三分の二が社民党出身であり、残りの三分の一が新党さきがけ出身だということについて、両党の残党組がかくも無残に大敗し、離党組が無傷であるという選挙結果をいかに解釈すべきか。
答えは簡単で、古いものは悪くて新しいものが良いという相も変わらぬ雰囲気に選挙民が染まっているというだけのことである。


39、シヴィルつまり市民的であるとは、国家においてであれ都市においてであれ、人々の集まりのなかに、単なる個人性と私人性のみではなく、集団性や公人性をも帯びて現れることである。
つまり、他者との差異を表現行為によって顕在化させると同時に、他者との同一を価値観において潜在化させるのであり、また他者との差異を習慣の違いの中に潜在化させるとともに、他者との同一の伝達行為において顕在化させる、これらの四種の振る舞いにバランスを与えようと務めるのが本来の市民である。


40、人間は大して聡明な代物ではない、また人間理性が逐次完成に向かっているとうい啓蒙主義もしくは進歩主義の考え方も人間の本性をうがつものではない、このことをしっかりと把握していないかぎりどんな文明批評も児戯の典型であるようにみえる。


41、私が現代日本を高度大衆社会とよぶのは、技術・情報を評価するに際して、「豊かさ」と「等しさ」という近代の(表面の)価値を疑うことを知らない人々が社会の全域において権力を掌握したからである。


42、だが、国民性の基礎なりを形成している伝統はかならずしも慣習と同じものではない。
わかりやすくいうと、慣習は人々によって無自覚的に保有されているものであるが、伝統は慣習の意味するところを自覚的に解釈する営為を通じて蓄積されるものだ。
いいかえれば、伝統とは国民の生き方のいわば思想化形態のことである。
そうならば、日本の慣習が崩壊していくことをいかに思想的に解釈するかという作業のなかで日本の伝統が確認されるということもありうるということになる。
いわゆる「戦後の総決算」において果たさなければならない第一のものは政治改革でも規制緩和でもありはしない。
慣習崩壊のただなかにおける伝統回復、この大いに逆説的な仕事こそが「戦後の総決算」の中軸をなすのである。


43、それもそのはず、われらの憲法に非常事態条項がないばかりでなく、その条項を追加する必要についての議論が半世紀にわたって皆無だったのである。


44、政治の不甲斐なさもまた国民の水準によく適合しているといわざるをえないのだ。


45、危機を内包しているからこそ公共の場は人間が登場するに値するものとなる。
危機の綱渡りこそが人間の生の本質であり、そんな凄い精神の術が個人の才能だけで育てられるわけはないので、人間は過去における危機管理の成功と失敗とから学ばなければならないのである。
日本は、一見したところ、(おおよそ)単一民族国家であったり温暖の地であったり、四方を海で囲まれていたりするせいで、危機の少ない国柄にあるとみなされている。
だが仔細にみれば、またしてもあの大戦争が好例であるように、日本の歴史は危機と無縁でおれなかったのだ。
歴史から危機管理を学ぶ、この課題に応えることがすべての日本人にとって喫緊の重要事となりつつあるのではないか。
阪神大震災は、戦後最大の被害をもたらすことを通じて、このことをわれわれに知らせているのである。