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西部邁 『マスメディアを撃て』を読んで。

これぞ正に西部さんだ!と思わせてくれる名著でした!

西部さんの著書の中でも、かなり上の水準だと思います(まだ『虚無の構造』を読んでないけど)。

あまりに印象に残った言霊が多いですが、羅列してゆきます。

皆さんも途中で飽きずに、是非、最後まで読んで頂きたい所存です。

(本書は平成2年に書かれたものです)

 

1、断っておくが、私には、株をばらまいたリクルートを弁護する気はないし、リクルートが不法をはたらいていないと保証する気もない。
ただ、今までのところ、不法の証拠がなにひとつ示されていないばかりか、法的な容疑すら特定されていないのは確かである。
こんな報道が許されてよいものだろうか。


2、カネそれ自体はしょせん天下の回り物、あの150人がいなければ、その儲けはリクルートの直接の関係者か金融機関に回ることになる。
加えて、カネを儲けたからといって仕合わせになるとはかぎらないのであってみれば、健常な庶民たるもの、他人の財布を覗いて嫉妬に狂うような愚を犯してはならない。
大事なのは、カネそのものではなく、カネをめぐって人々がどんな言葉を吐き、どんな振る舞いをするかということだ。
現在の報道は卑しい言葉をふんだんにばらまき、卑しい振る舞いをさんざんみせつけることによって、健康な庶民をして低劣な大衆へと堕落させるべく努めている次第である。


3、リクルートの場合、そうした行いに精出し過ぎたことは否定すべくもないようだ。
しかし批判にも種々の水準と様々な文体があろうというものである。
皮肉や諧諕、諷刺や揶揶、示唆、ともかく色合い豊かな修辞を駆使してリクルートおよびその関係者を批判するのならば、それは必要かつ有益な言論活動だといえる。
このように言論が多面的かつ多層的に展開されることをつうじて文化の質が打ち固められていくのである。


4、偽善者たちが手っ取り早く槍玉にあげるのは政治家である。
政治家に悪罵を投げつけるのは民主政治の悪弊であり、政治家がその悪弊に逆らうことができないのは、なにはともあれ票を集めなければならないからだ。
選挙民の悪罵が奏効する確率の高いのは、政治家が「濡れ手に粟」の稼ぎ方をしたときであろう。
悪しき大衆が最も関心を寄せるもの、最も簡便に判断を下せるもの、それは政治家のカネについてである。
彼ら大衆は「人は生まれながらにして平等である」という人権宣言によってのみ生きているので、あるいは死につつあるので、「人は不平等のうちに生まれ育ち、その不平等を背負って生きなければならない」という冷厳な真実に直面したくないのである。


5、その役割を果たそうにも、マスメディアが、とくに新聞が、そのための場所を供しないという事情もある。
とりたてて考えるまでもなく異常なのは、半年に及んで、新聞の一面から三面まで、リクルート事件にふれないことはないというのに、事件にたいする解釈が一色にぬりつぶされているという点である。
せめて百分の一のスペースでもよいから異論を載せてみようとするような度胸や才覚は、新聞にはないのだ。
こんなのが言論だとはいえない。
私ならば、読者へのサービスのためにも、新しい論点をつくりあげて、論争の面白さを味わってもらいたいと思うのだが、そういう愛嬌はとうに過去のものであるらしい。


6、ところで、天皇に形式的責任はあるのだろうか。
いくら大臣たちの輔弼を受けるにせよ、陸海軍を統帥する以上は、形式的責任くらいはあるという意見が少なくない。
しかし、これも無理な立論であると私は思う。
第三条の「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」という規定があるからである。
侵すべからざるものに責任があるわけがないではないか。
残るのは、いわゆる道義的責任のみである。
しかし、あの戦争を支持した人間は、そしてあの戦争を阻止できなかった人間は、天皇の道義的責任を追及はできはしないのだ。
それ以上に、天皇がそうした責任感を有していないと断言できるだろうか。
逆かもしれないではないか。
この43年間、戦争の犠牲のことを最も深刻に、最も持続的に考えつづけたのは陛下であるという可能性が十分にある。
少くとも、死者たちのことをすみやかに忘れ、生者たちだけの民主主義に浮かれてきた平均的日本人に天皇の道義的責任を喋々する資格はないのである。


7、それにしても、日本における議論はなぜかくも皮相に流れるのであろうか。
病気報道、記帳騒ぎ、自粛批判、戦争責任追及、それらに思想のにおいをかぐのは不可能である。
これが世論というのなら、ルソーがいったように、「世論は情念に流される」ものであり、またホップスがいったように「正論は不条理のかたまりである」というしかない。


8、また私も民主制を支持するものであるが、それに参加する民衆が愚昩に流れるならば、デモクラシーが衆愚政治に堕ちることをあっさり認める。
この危険に無頓着なものは、人間は生まれながらにして等しく性善であり完成への可能性をふんだんに有しているという虚偽に立っているのであり、そういう人間はデモクラットというよりも、いわば主義者としての、デモクラティストにすぎないといいたい。
ところが、大行天皇戦争責任やら象徴的天皇主権在民のかかわりやらを論じるに際して、デモクラティズムがかつてない楽観をもって称賛されている有様である。


9、ヨーロッパの王室と日本の皇室を同列に論じることだって要注意である。
エンペラーはキングの尊厳を強調するための呼称だが、天皇の場合、その尊厳性には宗教的なものがつきまとっている。
日本人が個人として神道を信仰するかどうかということではなく、国家の成立と発展にまつわる神道的な神話の問題として、またそれにもとづく神道的な儀式の問題として、天皇象徴には弱いかたちにおいてであるにせよ宗教性が込められている。
英国の王室は、国教会とのつながりがあるとはいえ、宗教的な権威よりも政治的な権力の象徴なのであった。
だから、ヨーロッパと比べるのなら、ローマ法王を引き合いに出すのが筋である。
私の知るかぎり、ローマ法王が赤新聞の餌食になったことは、ないといわぬが、少ないのである。


10、「葬場殿の儀」を皇室の私事とし、「大喪の礼」から神道色を追い払おうとした竹下総理のやり方は将来に大きな過根を残すものとなるであろう。
つまり平成二年の秋の大嘗祭をどうするのかということである。
それをやらなければ新天皇はいわゆる半帝にすぎず、われらの象徴としての資格が備わらない。
また、大嘗祭とは新天皇の行う最初の新嘗祭のことであるが、それは天照大神に新殻を献じ、天神地祗を祀る行事である。
つまりそれは神事の中の神事なのであって、宗教色ぬきとはいかない。


11、大衆社会についてはいろんな定義が可能だが、ルールを無視するのがその重要な特質であることは確かである。
憲法、法律、習慣といった様々な次元におけるルール、それらの集蔵体こそが伝統である。
そしてその伝統のうちに、半ば性悪で、また永遠に不完全な人間たちがかろうじて平衡を保って生きていくための知恵が含まれている。
儀礼もまたそうしたルールの一種である。
天皇の御葬儀にたいしてすらきちんとした儀礼を払えないものが、他の儀礼を守れるはずがない。
儀礼を守れないものが習慣の重要さを理解できるはずがない。
習慣を守れないものが法律の意義をわかるはずがない。
法律を守れないものが憲法の大事を理解できるはずがない。
かくて、われわれの眼前にあるのはルールなき大衆社会なのである。


12、大衆はいま方向喪失、価値喪失のなかで退屈したり苛立ったりしている。
大衆をむしばんでいるのは価値の衰弱という文明の病いである。


13、検察権力と報道機関が癒着するくらい恐ろしいことはない。
検察を訴追することがどれほど難しく、マスコミを批判することがいかに難しいか、人々は知っているはずだ。
それらの訴追や批判から自由な両者が手を携えて世論形成に着手すれば向かうところ敵なしである。


14、マスコミ人士が第一権力者として故意に横暴を振っているというのではない。
マスコミは自らの地位をきちんと認識しておらず、今も反権力のがわにいると錯覚している。
それゆえ、マスコミが世論を動かしつつ自分以外の権力を瓦解させてしまうと、そこに出現するのは権力の不在状態である。
反権力が権力の座に登るとき無秩序が到来する。
マスコミの横暴にチェックがほどこされる一つの契機、それはマスコミが自分の第一権力者としての地位をきちんと認識することである。

 

15、マスメディアが低きに流れつつ汚濁にまみれつつあることはもう隠しようもないところまできている。
朝日新聞の「サンゴ損傷事件」、毎日新聞の「グリコ誤報事件」、マスコミ人士の紅涙をしぼったという「一杯のカケソバ詐話事件」、そして赤新聞の手口による「宇野総理の女性醜聞事件」というふうに数えていくと、マス的であることは単に「大量」を意味するにとどまらず、まさに「大衆」にふさわしい行いのことだということがわかる。
ここで大衆というのはあくまでヨーロッパ的の語法にもとづくのであって、低劣、卑劣、愚劣な人々といった意味である。
あっさりいえば、日本社会はいよいよ本格的に衆愚の姿をさらしつつあるということである。


16、実際的に貢献できることがないわけではない。
しかしそれは、人間の命は地球よりも重い、などという人道主義の空語を唱えることではない。
たとえば財界は、在日の中国留学生たちの生活や安全の確保のために、金銭を供出したらどうか。
中国人民を支援するために義勇軍を派遣せよとまではいわない。
しかし、人道の美名をかざして日本政府を批判している暇があったら、日本への政治的亡命者への支援を約束したらよい。
そのことが切っ掛けになって、日本への移民が急増することを恐れるというのなら、人道などきれいごとをいわぬがよい。


17、私は人道主義者ではないので、「暴徒」を批判する気は毛頭ない。
これは闘いなのである。
そう「暴乱」なのである。
「暴乱」なしに反社会主義反革命が進抄すると思うのは要するに平和ボケということなのだ。
ついでにいえば、兵士の殺害をやった「暴徒」たちを軍隊がわの回し者、つまり弾圧の口実をつくるためのスパイとみるの平和ボケのしるしである。
民衆は殺害に走らない、などという思い込みは大衆民主主義が得意とする偽善であり欺瞞である。
解放軍の大量殺略を弁護する気は壱もないが、マスコミは生起した事態を冷静に、できるだけ客観的に報道してくれなくては困る。
軍隊は殺すがわ、人民は殺されるがわという二分法は、歴史の統計的平均であっても、個別の現象はもっと複雑な様相を帯びるのである。


18、消費税問題で最も懸念すべきなのは自民党の腰砕け問題である。
政権担当能力をもつ唯一の政党である自民党が、マスコミ世論にたいする警戒心も闘争心もなくして、ずるずると後退し、自信をなくし、右顧左眄しはじめている。
ほかに有力な政党があるというのなら自民党が瓦解するのも結構だ。
しかし、消費税の意義すら理解できない野党が自民党以下であることは論を俟たない。
なにも自民党議員のすべての背骨がしゃっきりしなくてもよい。
50人くらいの自民党代議士がマスコミ世論への迎合をやめ、選挙に落ちることくらい平気という覚悟で、正々堂々と闘うなら、事態は大いに改善するであろう。
好きでなった政治家稼業ではないか、政治の危機に際して右往左往するくらいなら、日本の舵取りをしてみせるなどと大きなことをいわぬがよい。


19、日本は政治は三流だが経済は一流だという見方を私はとらない。
経済といえども単に貨幣と技術のみによって成り立つものではないであろう。
とくに経済摩擦が深刻化するような局面にあっては、経済のなかに政治や文化が混入せずにはいない。
そこで生じる葛藤を乗り切るには、貨幣や技術の力だけでなく、経営者の政治力や文化的力量もまた必要になるであろう。
消費税問題ひとつにきちんとした応対をできない財界が政治や文化において一流であるとは考えられない。


20、これほどにルール意識の希薄な国民がなぜ「ルールにもとづいて難民問題を処理せよ」というかというと、それは、自分らのせせこましい排外主義を正当化する口実にルールを利用したいからではないだろうか。


21、プライバシーが法律によって保証されるとき、いわゆるプライバシー権がうまれる。
プライバシー権はおおよそ二つの構成要素から成るとみなされている。
一つは、ある主体が他の主体からの干渉を排除する権利、つまり「干渉阻止権」である。
もう一つは、ある主体にかんする情報が他の主体に流れていくのをその当の主体が制御する権利、つまり「自己情報制御権」である。
もちろん、厳密に考えれば、主体の観念がさほど確かなものでないことに気づかざるをえない。
なぜなら、私たちの人格なるものが、ほとんど首まで、いや頭まで、自然や時代や環境の産物であると認めるほかないからである。
したがって自由なるものもまったく不確かな観念だということになる。
いいかえれば、私たちの自由とみえる営みがおおよそ自然や時代や環境の影響によって左右されているということである。
プライバシー権を破砕してきたのは、いわゆる「知る権利」である。
マスコミがこの権利をどれだけ称揚してきたか、暇な人は数えてみればすぐわかるだろう。
情報社会とかいわれる現代にあって、「知る権利」はまさにマスコミの特権と化しつつある。


22、個人主義自由主義さらには資本主義が堕落や失敗の可能性をもち、現に随所で堕落や失敗をさらしているとしても、それらは乗り越え不可能の近代的原理なのである。
それらを他の原理によって置き換えることは、少なくとも私たちが近代の枠組みのなかにいるかぎり、できはしないのだ。
社会主義体制の全般的崩壊はそのことを確かに教えてくれている。
しかし同時に、社会主義もまた近代の産物であることを見逃しにするわけにはいかない。


23、たしかにリベラル・デモクラシーは近代人の最後の到達点なのではあろう。
しかし「自由」も「民主」も伝統の制限のうちにあるということを忘れるなら、それは衆愚政治になってしまう。
ここで衆愚というのは、知識をもたぬもののことをさすのではない。
むしろ逆である。
ありあまる知識をもちながら、その知識を疑うことを知らぬもの、そして知識の確かな意味を尋ねずにそれを単なる情報として便宜的に使用するもの、それが衆愚である。


24、ならば、マスコミ人士の公共的性格は民主主義の帰趨にかかわることだ。
室伏流にいえば、マスコミ人士のいかがわしき人格が、一切のルールを無視して、徹底的に暴かれるべきだということになろう。


25、お前も同じ日本人ではないかなどと反発してもらいたくない。
小生、ただいま、ある筋から2月11日までに処刑するとの宣告(あるいは嚇かし)を受けている最中で、安全ボケとはいかない仕儀にあるのです。
(補足として、…西部宅には24時間、脅迫の電話が鳴りっぱなしの状態です)


26、もしある状況下でテロルの不法をなすことこそ「よく生きる」ことだと判断するものがいるとしたら、法律ではなく価値の問題として、いかに対処すればよいのか。
平凡ではあるが、「よき言論」をなすことが「よく生きる」ことの基本だということを繰り返し強調するほかに手はないのである。
ところが、「よき言論」をなしつづけるには、人間はあまりに不完全だときている。
誤解、偏見、嫉妬、軽率、傲慢、その他一切の不徳が言論には多かれ少なかれつきものである。
この不徳が過剰に達すると、言論そのものへの断念、言論そのものからの逃避がはじまる。
そこで芽生え、そこに生長するニヒリズムがテロルの精神的土壌となる。
この土壌を浄化するには、これまた平凡ではあるが、言論における自己の不徳を眺める眼が必要になる。
デルフォイ神託「汝みずからを知れ」はそのことをさしている、と小生は思う。


27、自民党が勝つか野党が勝つか、それも重要であろうが、それ以上に重要なのは、政治をめぐる言論が腐敗の極に近付き、そこでテロリズムすらが頭をもたげているという現状を認識し改善することである。
こんな当たり前のことを指摘しなければならないとは、まったく、批評子とはつまらぬ存在ではある。


28、少し抽象論をやれば、インターナショナリズムとコスモポリタニズムとは異なるものである、この点を押さえておくのが肝要だ。
インターナショナルな話はあくまでナショナルなものの存在を前提に成立つにすぎない。
だから、国際性とは国家性にもとづく世界性のことだというべきであろう。
国家性と世界性のあいだで容易に折り合いがつくわけもなく、したがって日本の国家性に殉じてノーというべきか、日本のめざす世界性を重んじてイエスというべきか、答えは簡単ではない。


29、ケインズもいったように、長期の事柄が大事だとしても、「長期的には、人間はみな死んでいる」のであり、人間はたかだか短期の視野で目前の利益や幸福を追求してあくせくするしか能のない代物なのだろう。


30、現代民主主義を腐敗させる最大の要因は、マスコミが常軌を外れてコマーシャリズム、センセーショナリズムないしはスキャンダリズムの沼に沈没していく、という点にある。
そしてそのまぎれもない見本となっているのが現在の日本である。


31、なぜそうなってしまったかというと、すでに第一権力になりおおせているにもかかわらず、自分の使命は反権力の言説をまきちらすことにあるとマスコミが錯覚しているからである。
高い地位や大きな名声を得ているものにたいして時あらば火矢を放ち飛礫を投げようと身構えている。
マスコミの本性とはそうしたものである。


32、プライバシーという言葉に対応する日本語がないのは、日本人は人格というものの本質を見極めていないからではないだろうか。
「秘されるべき私事」があるということは人間がいかがわしさを払拭できないということである。


33、したがって、中道主義をいうだけでは、情勢が全体として右傾(もしくは左傾)するときに、その傾向に追随するのをよしとするのが中道主義だということになる。
公明党が良かれ悪しかれ平等主義の一点にのみ着眼するのであれば、人間性民主主義を理念とするのが筋だということになる。
人間性民主主義、この珍妙な言葉こそ公明党の看板にふさわしいものである。
そのままでは、公明党の独自性がいっこうにみえてこない。言葉遣いの次元でいうと、公明党、それは「戦後日本人党」といいかえられてなんの不思議もないような曖昧さのうちに漂流している政治集団なのである。
逆にいうと、そうした政党がキャスティングヴォートを握るのを許すほどに戦後日本は政治的に曖昧だということである。
それ以上に、公明党創価学会がいわゆる政教分離についてごまかしをやっているということが響いているに相違いない。

 

34、たぶん、清潔な人格の伊東正義氏や厳格なる気質の後藤田正晴氏あたりが、政治資金をめぐる積年の乱脈ぶりにたまりかねて、政治改革、政治改革とふれて回ったものと推察される。


35、しかし今度はそうはいかない。
先年の参議院選において社会党を大勝させたような票の分布に従えば、小選挙区制は野党にとってかならずしも不利ではない。
それどころか野党がふたたび大勝することも、少なくとも統計上の推測としては、十分に成り立つ。
したがって野党がわは、小選挙区制にたいし、それを自民党の権力的策謀として反発する根拠をおおよそ失ったわけである。


36、自民党が政党本位を存分にふりかざすことができるためには、選挙制度の変更と同時並行して、保守二党への企てが進行するのでなければならない。
つまり、たとえば自由党民主党というふうに自民党が分裂するならば、両党のあいだの競争、葛藤、争闘をつうじて政治が活性化される。
その活性化の動きのなかで、保守派の政治家諸氏もおのれの個人的力量を示す機会をみつけることができるであろう。


37、面倒ではあるが、最初にまず、私は自分自身のことを片付けておかなければならない。
30年前、私は反日共系の学生運動の指導者の端くれであった。
私たち当時の新左翼はもちろんアンポ反対の先頭に立っていた。
しかし正確にいうと、私たちの狙いはアンポ反対にあったのではなく、当時の岸内閣を打破することにあった。
つまり、自慢したくていうのではないが、私たちは1960年の安保改定の意味を旧左翼よりはるかに正しく認識していたのである。
なぜなら、その安保改定は日本の国力回復と国家としての自立を刻すものであったからだ。
旧左翼は、日本をますます米国に従属させる危険性のあるものとして、安保改定をとらえた。
この見当外れの認識にもとづいて旧左翼はアンポ反対を叫び回った。
私たちは日本の国家を帝国主義ととらえ、その帝国主義の復活強化のプログラムを破砕せよと叫んだわけだ。
私自身は、その後まもなく、帝国主義論の欠陥はもちろんのこととして、マルクス経済学の誤謬とマルクス主義思想の歪みとを理解するに至った。

 

38、日本人には軍事的な自己路線を歩むための思想的準備が欠けているのではないか。
それもそのはず、わが憲法の第9条には「戦争の放棄」と「戦力の不保持」と「交戦権の否認」が謳われているのである。
憲法の前文においても「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生活を保持しようと決意した」のが「日本国民」というものだと規定されている。
わかりやすくいうと、国家危急の際には平和愛好諸国に助けてもらいましょうといっているのがわれらの憲法である。
日本の軍事的自立をいうまえに、この憲法思想をどうにかしなければならぬ。

 

39、しかし日本では、あなたは平和主義者ですねといわれると、誇らしげに、そうなんですと答えるのが相場ときている。
平和を守るためには軍事力が必要であり、論理としては、大きな戦争を避けるために小さな戦争をしなければならぬことがあるという子供にでもわかるはずのことが日本ではわかられていない。


40、「やる気」はもちろん生徒本人に内在するものではあるが、それに直接かかわる教育は何かとなれば、徳育にほかならない。
プラトン風にいえば、正義、勇気、思慮、節度の四徳を養うのが徳育であり、それによって生徒の「やる気」が打ち固められる。


41、8月19日現在、アメリカはイラク軍のクウェート侵攻をめぐって日本に「五項目要求」をつきつけている。
サウジアラビア支援軍への財政援助、湾岸諸国への直接的貢献、周辺諸国への経済援助、在日米軍駐留費の軽減、次期防衛力整備計画における米国製兵器の購入増大の五項目がそれである。
「湾岸諸国への直接的貢献」を除くとすべてカネにかかわる要求である。
しかしヒトの面では日本は結局のところ大した「直接的貢献」はなしえないであろうと推測し、それならばできるだけ多額のカネを日本に吐き出させようというのがアメリカの狙いである。


42、どこでの相場かというと、もちろん、戦後日本の世論におけるものである。
「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して」(憲法前文)「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」(憲法第9条第1項)と構えた戦後日本にあっては「平和」という言葉はあたかもマジックワードのようにして日本人の思考力を、それのみならず想像力をも、麻痺させてきた次第である。
こんな下らぬ憲法を押し付けたのはアメリカだ、だからアメリカの「対日五項目要求」もその憲法を楯にして押し返せばよいのだ、という意見があるかもしれない。
しかし憲法を改正することができたのにそうしなかったのは日本人であるから、こんな言文は大人のものではありえない。


43、憲法前文に「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して」とある以上、わが主権国家は主権の自衛を「諸国民(実際上はアメリカ)の新設に委ねたのであり、アメリカの親切を信じるということを唯一の論拠にして、「戦争放棄、戦力不保持、交戦権否認」を第9条に明記したのだ。
いうまでもなくアメリカは「公正と信義」に満ちた国というわけではないし、ましてや日本の防衛を無条件で引き受けてくれるような親切心をもち合わせていない。
したがって現憲法の防衛条項は、ほかにもたくさんの理不尽があることについてはここでは言及しないものの、まったくの空語なのである。


44、イラククウェートには500人の日本人がいるという。
サウジアラビアを含め中近東全域で生命および生活の危機にさらされている日本人はおそらく千人を上回るだろう。
戦後日本の平和主義は「人間一人の命は地球よりも重い」と福田元首相にいわしめるほどに、人間の生命を第一義的に大事にしてきた。
しかしそれは偽善であり欺瞞であったのだ。
アラビアで危険にさらされている人間の命を、しかも同朋の命を、いかにすれば救出できるかということについて私たちはなにひとつ真剣に議論していない。
のみならず非戦闘員を人質にとるというイラクのやり方に一片の怒りも覚えていない、これが私たちの偽らざる姿なのだ。


45、9月上旬、共同通信社の行なった世論調査が各紙に発表された。
多国籍軍にたいし医療、運輸、通信といった非軍事的手段にかぎって支援すること、そして10億ドルの援助金を供出すること、これらを主たる内容とする「中東貢献策」をどう評価するかという世論調査である。
世論調査なんぞは何割かの誘導尋問を含むものであるから、真に受ける気はないものの、あまりに酷い結果ではある。
つまり、この「貢献策」をもって十分もしくは十二分だと答えたものが83%にのぼっているのである。


46、こんなものを世論といい、そんな世論にもとづくものをも民主主義とよぶのなら、そこから生まれる政治は愚衆政治に決まっている。


47、しかし問題は他国が攻撃を仕掛けてきた場合である。
そこでなおも平和主義をつらぬくには、第一に、攻撃を止めてくれと頼まなければならない。
しかし、止めてくれといわれて止めるような国はそもそも攻撃を仕掛けないであろうから、第二に、自分たちは平和主義者ですので応戦できません、応戦すれば戦争になってしまいます、で、私たちの代わりに応戦して下さいと第三国に頼まなければならない。
しかしそういう親切な国はまずいない。
アメリカは、かつて、そういう種類の親切をみせようとした。
しかし昨今、さすがお人好しのアメリカも、応戦したくてもできないような弱小国を助ける気力は残っているが、平和主義を楯にして応戦を避ける国の面倒はみたくないといっている。
そこで平和主義者に残されている最後の方法は、自分の子供が踏み殺されようが、自分の女が犯されようが、自分の財産を奪われようが、自分らの国家が解体されようが、自分の表現の自由がすべて剥奪されようが、はたまた自分が絞め殺されようが、絶対に攻撃に応戦しないことである。


48、サウジやトルコがイラクの石油パイプをすみやかに閉鎖できたのも、アメリカがすみやかに派兵したからである。
西欧諸国が足並みそろえて経済制裁に入ったのも、ソ連すらもがイラク批判を明言したのも、アメリカの積極的な軍事行動があったればこそだ、といって大過ないであろう。


49、日本人はなぜ最も重要で最も単純な大義名分を思い起こさないのであろうか。
それは、国際社会において主権国家と認められている国を、その国の公式の機関からの正当な要求もなしに武力で侵攻するものにたいしては、軍事的のものを含めて制裁を加える責務が国際社会に属する各国にあるということである。
これが国際社会のルールである。
そしてルールを守るというのが文明化した歴史の段階における最も立派な大義名分なのだ。


(僕も西部さんが指摘した憲法前文を変えろ、とブログに綴ってきました。
憲法9条に関してもそうですし、公明党政教分離違憲についてもブログに綴ってきました。

そして、自民党が二つに割れ、2大政党制にせよともブログに綴ってきた次第です。


しかしながら、西部さんの、この名著は、正に目から鱗、状態でした。
こんな名著に出会えて、本当に良かったです。
ここまで読んでくれた方々に感謝の意を)