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西部邁 『世人に言上したきことあり』を読んで。

<明日は幼馴染の親友たちと夜から横浜で飲み会です!>

 

あのね! もう~~ 西部節・炸裂と言った感じですね!!

『マスメディアを撃て』と同列、もしかしたら、こちらの著書の方が上かもしれません。

正に、目から鱗です。

(この本は平成7年に発行されました)

いつものように、印象に残った文章を羅列してゆきます。

 

1、ケインズの経済政策論はたしかに「大きな政府」による経済的非効率を招き寄せてしったのだが、次のことを見抜いただけでもケインズは偉大であったとしなければならない。
つまり、人々の未来にたいして抱く確信が崩れはじめるとき、市場機構は随処において硬直しひび割れるということである。


2、不確実性と道徳の危機は内的に絡み合っている。
状況が確実であるか不確実であるかということと無関係に道徳が守られたり不道徳が行使されたりするのではないのである。


3、私たちは、あのバブル経済の5年間に、人々の市場活動がいかに発散するものであるか、人々の未来への期待がいかに野放図かつ非合理に膨張するものであるか、つぶさに見聞きしたのではなかったのか。
アメリカにおいてとて、レーガノミックスという名の市場礼賛がその経済をバブルのなかに放り込んだのである。


4、理性の能力は未来を見通すにはあまりにも小さいと知ればこそ、人間は自由の冒険に乗り出すのであり、また冒険だけの自由に耐えきれるほどのヴァーチュを持ち合わせていないと察しればこそ、人間はモラルによっておのれを律しようとするのだ。


5、男が女よりも細川護熙なる人物を好む、こんなことがあっていいのだろうか。
蛙の面にションベンといったふうな細川氏の挙措は政治家に必須の作法であるかもしれない。
しかし、きれいごとの果てしなさ、朝令暮改の止めどなさ、優柔不断の情けなさ、冷酷無情の気持ち悪さ、というふうに数えていけば、理屈大好きの小生ではるが、オトコとして理屈ぬきに細川打倒と叫び出したくなる。


6、財界人が自由・平等・友愛の合唱隊に参加するのはカラスの勝手だとしても、彼らはいったいどんな資格で政府審議会や記者会見で発言しているのだろう。
彼らが経済方面の事柄にかぎって発言するのならば、何といってもその方面で登りつめた方々の言い分、小生も謙虚に耳傾けなければと思う。
しかし政治や文化の方面についてまで口巾を広くするのは、よほどに暇だというのなら致し方ないが、やはりでしゃばりの誇りを免れまい。
少なくとも、そうした経済以外の方面において何らかの知見を公に発表したことがあるというような実績がなければ、自分がよく思考したことも深く経験したこともない事柄について蝶々してはいけないのだ。


7、どだい、農業問題に端的にみられるように、アメリカの市場開放要求に粘り強く抵抗するのが西欧流の外交なのだ。
さらに仏国は、アメリカ映画の輸入割当を国内映画市場の10%に限定してみせた。
「これはわれらの文化の問題であり、米国の口出しすべきことではない」と一蹴してみせた仏国の自尊心あふれる強腰はまことに立派であった。
市場開放など経済の一面にすぎぬ、他の一面では市場閉鎖もまた必要なのだと西欧はわきまえている。


8、それゆえ習慣を過度にわたって破壊するようなイノヴェーション(革命、革新、改革、改新など)には警戒してえかからなければならない。
だが、世を上げてイノヴェーションの必要が叫ばれ、同時に官僚主導を排せの叫び声が世を席擐しているのである。


9、自社の連立はたしかに野合とよばれて致し方ない無理筋の結婚話ではある。
新党さきがけという立派な仲人がいたのだからそれを野合とよぶのは当たらないという意見もあるではあろう。
しかし、白バラ自民党と赤バラ社会党の積年にわたるバラ戦争の結着をうやむやにしたままでは、ご両家の婚儀に異議がさしはさまれて当然である。
人論のことを独語でジットリヒカイトというが、その原義は慣習ということである。
自社連立は政治の慣習に反するという意味で、まさしく不倫カップルである。


10、誰がどうみたって、その人の視力がよほどに弱っていないかぎり、細川政権の野合度が村山政権のそれを上回るようにみえる。
国会の議長席や大臣席に社会党員を並ばせたのは新生党である。
それに盛大な拍手を送ったのは、マスコミさん知識人さんテレビタレントさん、ついでに加えておけば財界人さん、あなた方なのですよ。


11、私の政治的本能は自社の野合に、根本的には、反発を感じる種類のものである。
しかしそれ以上に細川政権における新生党社民党との野合に反発するのが私の政治的本能である。


12、自分らが細川政権を鳴り物入りで迎え入れたことについて反省してもらわなくては困るのだ。
しかしマスコミ(およびそのあとに付き従っていく世論)に反省する力量が備わっているわけがない。


13、歴史の継承というだけでは何のことやらわからぬ鈍感な方々には、それは、憲法問題、宗教問題、教育問題、環境問題、都市問題、農村問題の全域にわたって日本の国民性または国民の日本人らしさを確認することだといっておこう。

14、政治において大事なのは結果責任である。


15、保守の政治家が革新の政治家と連立するのは、国家が危急存亡に陥ったような例外的な場合にかぎられるべきです。


16、村山首相(というより社会党委員長)が「自衛隊は合憲とみなす、中立政策も放棄する、”日の丸”と”君が代”を国家的象徴として承認する」と宣言した。
多くの日本人はこれを世紀の(正しくは半世紀)転換とよんで驚いたり呆れたりしている。
何というカマトトぶりであろう。


17、くどくど説明しないが、自衛隊違憲の代物である。
だが、違憲であれ何であれ、日本は国家として自衛隊を創設し維持し強化しなければならなかった。
話の筋からいえば憲法をあっさり変えればよいのだが、戦後日本人は、自衛隊という違憲の存在を認めつつ護憲を不可侵の玉条とするという二枚舌で国家を論じてきた。


18、これは私の持論の一つなのだが、自民党は看板に偽りありの党派であって、その正体は社会民主主義(または革新主義)の穏健派である。
ついでにいっておくと細川内閣も羽田内閣もそうした性格のものであった。


19、社民リベラルという思想的には倒錯せる代物が、なぜアメリカにおいて健在であるのか。
それは、一言でいって、アメリカにおける歴史(というよりもアメリカ人の歴史感覚)の浅さのためであろう。
自由とは人間の個性の発揮のことであるが、その個性が歴史という精神的土壌のなかに植え込まれていないなら、個性は純粋に個人的な欲望や才能の問題に還元されてしまう。
アメリカ人の大好きな言葉でいうと、個人のユニークネス(独自性)のみが自由の基盤となる。


20、同じく、共和党関係者を保守的と形容するのもアメリカ的な言葉づかいの乱れだといってよい。
保守の真髄は歴史の枠組みを保ち守ることにあるというのに、アメリカでは、「小さな政府」の下において市場的な契約や競争に精出すことが保守的とみなされるのだ。
市場機構における個人主義および合理主義が、えてして歴史の枠組みを破砕しがちだという歴史の教訓があるにもかかわらず、歴史の重みを知ることに慣れていないアメリカ人は、歴史破壊的傾向にも保守の名前を冠するのだ。


21、アメリカ的なるものに最もねばりづよく抵抗してきたのは西欧である。
そしてその抵抗の拠点は西欧における根強い歴史感覚にある。
いくたびも価値と制度の根幹にかかわるような社会革命を経験するうち、というよりそのたびごとに、西欧は、歴史を破壊することが愚行のなかの愚行、残虐のなかの残虐、軽率のなかの軽率であることを学んだのだ。
そうであればこそ、産業革命と民主革命を世界に先駆けて遂行し、近代の扉を開いたあの西欧において、今もなお、前近代的なものが、都市や田園の風景から始まって家庭や料理店における人々の立ち振る舞いに至るまで、さりげなく定着しているのである。


22、不義の子、それはほかでもない日本国憲法である。
占領軍が、日本の歴史のことなど皆目わきまえぬ米国人たちを動員して、たったの6日間でつくりあげた憲法、そんなものが義を誇りえないことは明らかだ。


23、1千万の販売部数を誇る天下の読売新聞が、まさにこの文化の日に、「憲法改正試案」を発表するという次第に相成っている。
渡辺恒雄社長のいつにかわらぬ勇猛精神の発揮に拍手を送りたい。


24、イギリスには成分憲法がない。
何とみごとな国柄であることか。
イギリスよりも連続しかつ安定した歴史を有している日本において、成分憲法を廃止せよ、不文憲法で十分ではないか、という意見がかくも少ないのは、いったいどうしたことか。
それはおそらく、第一に(たった一回の敗戦で腰を抜かして)自分の国の歴史に誇りを持てなくなったからであり、第二に、不文憲法の意味するところについて筋道を立てて、また感情表現をいきとどかせて、議論する自信が人々(の家庭、職場、マスコミ、議会)にないからである。


25、戦後という時代の風呂に漬かりつづけてきた日本国民が、その湯が自分らの精神の垢ですっかり汚れ切っているという状態にうんざりして気持ちはよくわかる。
しかしその穢い湯を流したとて、蛇口が同じならば、同じ湯が世紀末から新世紀初頭にかけての時代に注ぎ込まれるだけのことではないのか。


26、近代という現実の中心にはたしかに近代という観念が、つまり近代主義が居座っている。
しかし少しばかり眼を凝らしてみれば、そのモダニズムが、あたかも太刀持ちと露払いのように、いやいつなんどき近代主義に切りかかったり露をふりかけたりしないともかぎらぬ危険を同伴者として、控えているとわかる。
これら三者のあいだの闘争と和解の過程、それが近代という現実なのだ。


27、私は思う、自然環境の乏しい(ついでにいえば軍事力も外交力も貧しい)日本にとって、頼るべき資源があるとしたら、それは「組織づくりの能力」という歴史的遺産ではないのかと。
その能力を甚だしく傷つける改革は、というよりそれを損なうような形で改革を急進的に進めるのは、元も子もなくする所業にほかならない。


28、戦後の総決算とは、半世紀間に及んだ激しいアメリカナイゼーションあるいは近代「主義」化の収支をきちんと計算することではないのか。
そうしてみればアメリカとの適切な距離のとり方もおのずと判明してくるであろう。


29、どだい、一方で危機管理能力のあるリーダーの出現を望みながら、他方で、「すべての市場の自由競争に委ねよ」と叫び立てるのは度し難い矛盾ではないのか。

 

30、ある死が無駄であるかどうかは、その死の目的が何であったかに依存している。
たとえば、その目的が「国を守る」ということであり、そしてその苛烈な死のおかげで吾ら戦後世代に「国を守る」ことの意義が伝えられたのだとすると、その死はけっして無駄死ではありえない。
逆にいうと、吾らが先人たちの目的をいかに受けとめるか、あるいは受けとめないかに依存して、戦死の有効度あるいは無駄さ加減が左右されるのである。


31、道徳は、加害者の事情にも、多かれ少なかれ配置するものでなければならない。
日本の侵略についていえば、当時の(白人国家群の植民地主義なり帝国主義なりをはじめとする)国際情勢が日本をして侵略に向かわせたというような事情、さらには当時の日本国内における言論の未熟ぶりがその侵略を加速させたというような事情にも配慮してこその道徳である。


32、敗戦50年は、謝罪と反省の偽善のなかに、あるいは単なる過去へのノスタルジーのなかに沈まんとしている。


33、そのうち中国とインドが巨大な渦となって燃え上がるとなれば、それにつれて金銭のみならず人間までもがそれこそ、もう流となってアジアを隈なく駆け巡るのであろう。


34、フランスがムルロワ環礁に続いてファンガタウフィ環礁でも核実験を敢行した。
二回目のは前のやつの五倍で、百十キロロン級の凄い代物だという。
といっても小生のような素人にはどれくらいの凄さなのか見当もつかない。
何はともあれシラク大統領は、「核実験反対の国際世論は集団ヒステリーを起こしている」といってのけ、天上天下唯我独尊の構えで、あと五、六はたてつづけに核実験をやるつもりのようだ。
シラク大統領がその風土のなかでいかに育ってきたのか皆目わからないが、今度の臆するところ少なき振る舞いをみていれば、よほどの覚悟を据えて事にとりかかっているのであろうと推測される。


35、大江健三郎氏が、ヒステリックというよりもセンチメンタルにフランスの核実験に非を鳴らしたのにたいし、たとえば吉本隆明氏は「そういう誰もが同意せざるえないことを大声でいうべきではない。私ならば声低くしてそれをいう」というふうに批判している。
しかし小生にはそれもまたセンチメンタルな物言いにすぎないと聞こえる。
なぜといって、誰もが核実験には反対せざるをえない、というのは何の確証もない話しだからだ。


36、せっかく核軍縮の気運が高まっているのに、それに水を差すような振る舞いに及んだフランス(および中国)は「狂った悪魔」みたいなもんだ、とてもいうのであろうか。
そうはいかない。
シラク大統領は、「来年に予定されている包括的核実験禁止条約には参加する。その前に、アメリカとロシアに追いつくべく、つまりコンピューター・シミュレーションをもって実験に代行させるべく、実験データを集めるのだ」と釈明している。
そのシュミレーション・モデルのすべてをアメリカやロシアが世界に公表するのなら、あるいはフランスに教えてくれるのなら、フランスの実験は不要である。
しかし両国がそんな親切をフランスにほどこすわけがない。
また世界にそれを知らせるのは、核拡散を推進するのに等しいといわなければならない。


37、小生は核拡散を肯定しているのではない。
たとえば日本が核武装するのは、国際社会から受ける政治的・軍事的費用が桁外れのものになり、とても国益にはそわぬ、と小生は素人ながら見込んでいる。
現在の核クラブが核の威嚇力を占有しているのは歴史の不可逆な結末であって、それに不平を述べ立てても致し方あるまい。
核保有国に時折に脅かされながら、それでも何とか「小さくてもキラリとヒカル(通常兵器による)軍隊」をつくって、自尊の気持ちを失わずに国際社会のなかで生きていく、それが核を保有しない国の振る舞いとなるほかない。


38、フランスも中国も、国益の見地から、核の威嚇力を利用しようとしている。
つまるところ、国際社会における自国の発言力や影響力を確保したり強化したりするために核実験をやったわけだ。
核を保有しない周辺の国々がその威嚇力に脅えたり不快を感じたるするのは当然の成り行きである。
しかしあまりにも明瞭なのは、その反発もまた国益の見地に発してのことだということである。
国益がどうでもよいというのなら、その人はフランスや中国に移住してしまえば、不安なしに暮らせるという理屈である。


39、もしシラク氏なり江氏なりがそうした愚か者だというのなら、国際ルールの今後のありうべき姿を示してやって、彼らを啓発すればよい。
またそうする以外に日本の国益を守る道もありはしない。


40、つまり、日本人にあっては核アレルギーなるものすら本気のものではないということである。
そうであればこそアメリカの核の傘の下で半世紀間に及んで安穏としたまま、核にたいする口先だけでの批判を逞しくしてきたのであろう。