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西部邁 『リベラルマインド 歴史の知恵に学び、時代の危機に耐える思想』を読んで。

<他の著書とだぶっている文章が多いので、今回は短いです(羅列が)>


この著書は、平成5年に発行されたものです。


いつものように、印象に残った文章を羅列してゆきます。

 


1、あとで詳説するデモクラシーの定義をここで要約しておけば、集団的意志決定にたいして公衆が直接あるいは間接に多数参加し、そこにおける多数決で事を決する一個の方式、それがデモクラシーである。


2、「政界再編」は、昭和の末尾から平成の初頭にかけて立て続いたいくつもの政治スキャンダルによって触発された、受け身の動きであって、何らかの明確な政治思想によって率いられる能動の構えなど無きに等しい。


3、自民党の専一的支配がかつてなく動揺したあのとき、加えて野党第一党である社会党の政治的無能ぶりが完膚なく露呈されたあのときこそが、日本の政治思想にとってまたとない転換の機会であったのだ。


4、残るのはソーシャル・デモクラットの現実主義派(左から順に数えて社会党右派、社民連合、公明党民社党そして自民党左派)とリベラル・デモクラット(自民党右派)だけということになる。


5、もちろん、小党派が政界のキャスティング・ヴォートを握るための策略として野党と連携するのは一般に致し方ないことである。
とはいえ今の政治に問われているのは戦術ではなく戦略であり、政治の手段ではなく政治の目的である。


6、それを、リベラル・デモクラシーと付き合わせてみることが必要なのであるが、その肝心の「自民」が自民党のなかにすら存在しない、少なくともその存在を自民党の表面に観察することはできないといった始末である。


7、たとえば、すでに自衛隊の存在という事実によって憲法第9条を破っているにもかかわらず、マスコミ世論はなおも護憲に拘泥している。


8、かつてシュムペーターは、民主主義あるいは資本主義が成功を収めるにつれ、責任感や統率力を持ったエリート階級が消滅していき、そのいわば文化的失敗のせいで社会主義が台頭せざるえないのではないかと予測した。


9、こうした戦後の時代を政治的に統率してきたのは自民党であるが、その過程がすでに指摘したようにソーシャル・デモクラシーに甚だしく偏移していた以上、自民党は断じてリベラル・デモクラシー党ではありえない。
自民党には「名は体を表す」の格言よりも「看板に偽りあり」の形容がふさわしいのであり、それは日本の公衆にあって自由主義の思想が未熟きわまる状態にあることの直接的な反映だといってよい。


10、自民党が実は「社民党」であったということ、そしてその事実に公衆はおろか自民党自身が気づいていないということ、そこに戦後日本におけるいわゆる「自由の履き違え」の無残な帰結をみてとることができる。


11、効率にせよ参加にせよ、それを文明として押し出したのは西欧である。
しかし西欧には、それについての急進主義を差し控えようとするいわばプレモダンの姿勢があり、そのために産業的に非効率であることを承知の上で様々に慣習的なものが保持させられている。


12、西欧の斬新主義を単に変化における量的な小ささのことととらえてはならない。
それは第一に、人間の不完全という冷静な認識にもとづいている。
つまり知性としても徳性としても不完全さを免れえないものとしての人間は、みずからの創造しうる変化のなかにも不完全さをみてとらざるをえない。


13、この西欧におけるいわば歴史の二重性をみずに、その表面のみを鈍化したのが戦後日本ということになるであろう。


14、まず、煽情主義がマスコミの本質なのだとしても、そうしたマスコミによって世論がこうまで激しく煽動されるというのはやはり異常の事態である。


15、「ルールによる支配」が西欧にあって「人類最後の知恵」とみなされたのは故なしとしないのである。
しかもそのルール意識たるや、ルールは破られるものだ、ということをはっきりと意識するまでに至っている。


16、西欧社会はその内面的不安定性とは裏腹に外面的安定性に恵まれている。
日本のに数倍するといってよい経済不振や政治不信に長期にわたって見舞われているにもかかわらず、西欧はたぶん大方の日本人には真似のできないような落ち着きをもって暮らしている。
それは危機に臨んでなおも安定的な価値の支柱を持ち永らえているためだと思われる。


17、つまり「何のために」また「何によって」という本源的な自己への問い詰めの果てにルール形成という難題が待ち構えていることに怯えて、日本人は情緒的な騒ぎを集団的に催すのである。


18、硬直的集団のなかで原子的個人が生きるときに是非もなく頼りにしなければならない「認識」(もっとあっさりいえば自力で考える事)の重要性を知ることである。


19、日本にあって生命の尊さにこれほどまでに高い価値が付与されているのはなぜであろうか。
これほどまでに、という意味は、たとえば「他国に侵略されても、自国を防衛して死ぬくらいなら、それに屈服して白旗を揚げた方が得だ」という絶対平和主義が半世紀近くもこの国に籠り通っていることをさしている。


20、世論が気分の流通にすぎないものに変じていくについては、いうまでもなくマクルーハンたちのいった「ヴィデオシー」の氾濫が関係している。
ヴィデオシー、それは「映像感受能力」といったくらいの意味であるが、テレビを中心とする映像機器の発達は現代における大衆文化をヴィデオシーのがわに決定的に偏らせている。


21、要するに、戦後日本は国際社会のなかに自分をどう位置づけるかということを内発的に考えたこともなく、またその位置づけのためにも自分の根本規範(憲法)を内発的に検討することもないといった状態にあるわけだ。


22、軍隊のことにかぎっていうと、「専守防衛」と聞けば、何かしら真っ当な軍隊のあり方だと戦後日本人は考えてきた。
憲法の前文に「自国のことのみに専心して他国を無視してはならない」と謳われているにもかかわらず、自国の安全にのみかまけることの卑しさが専守防衛の態度のうちに含まれていることにほとんど誰も気づかなかったのである。


23、日本が西欧から学ぶべきはこうしたいわば「成熟のための精神的戦略」なのであって、その戦後の基本が近代主義にたいする信念と疑念のあいだのバランスに、そしてその実験的結果である(変化にかんする)漸進主義に、あることはもう明瞭である。


24、こうした混迷を切り開くには、不確実な未来(危険)に向けての指針を、ほとんど決断主義といってよいような断固たる態度で、提示することのできるような指導者がいなければならない。
しかしその決断は、きれい事の社会正義を理念として振りかざしたり、間に合わせの社会計画を政策として処方したりすることであってはならない。
民衆の価値観の根本に、ということは民衆のひそやかな常識の根底に、届くような理念を率直に語り、そしてその実現のための政策にあっては公衆が犠牲を払うこともまた要求されるのだということを大胆に認めるような指導者、必要なのはそういう人物である。