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舛添要一 『舛添要一の「日本を問う」』を読んで。

(まず、なぜ舛添氏が東京都知事を辞めざる得なかったのかは知りません。
ただし、その不祥事を擁護する気も毛頭ありません。
しかしながら、これは「学問」です。 そこは割り切っています。
本書では舛添氏の推察が大きくハズレている面もありますが、全体を通して政治学的に名著だと思います。
思想家の西部さんと同じことを言っている箇所もあります。
思想家と国際政治学者でも、重なる部分があるのは当然だと思います。
そして、そんな事は知っているという文章も羅列してゆきます。
僕が知っていても、このブログ読者が知らないかもしれないからです)

この本書は平成3年に書かれたものです。


1、日本人が人類初の原爆の犠牲者になったことは、日本人の間に理想主義的平和主義を根付かせた。
事情は、同じく戦争に敗れたドイツでも同様であったが、ドイツの場合、東西に分割され、両ドイツは東西冷戦の最前線に立たされることになった。
そのため、空想的な平和主義や中立主義は、厳しい現実の前に力を失っていった。


2、マスコミは世論形成に大きな力を発揮するが、大衆民主主義社会では、このように形成された世論を無視することは不可能である。


3、他の先進民主主義国と比べて、日本が特異なのは、防衛問題に対する態度が保守と革新を分ける基準になってきたことである。
日米安全保障条約自衛隊に賛成すれば保守、反対すれば革新とされてきた。


4、アメリカが各分野にわたって絶大な力を誇っていた時代には、「何もしない平和主義」というのも存在しえた。
アメリカが世界の警察官の役割も果たしたし、自由貿易を守るために自らの犠牲も甘受したし、国際金融秩序を維持するためにドルの力を十分に発動もしたからである。


5、海外で使用不能な軍隊しか持たない国(日本)に独自外交も何もあったものではない。


6、自民党議員の約4割が世襲議員だというのは、尋常ではない。


7、自民党長期政権に対しては、その防衛政策に反対することに代表されるように、「何でも反対」が社会党をはじめとする野党の基本的戦略となり、積極的に建設的な対案を出す努力を放棄してしまったようであった。
政権をとる意志がなく、また実行不可能な政策を提示する必要もなく、ただ反対のみを叫んでいればよいとなると、これほど楽なことはない。


8、それにしても、戦前と戦後で政治家の顔がまるで違っている。
迫力というもの、威厳というものがすっかり消えてしまったのである。
いまの政治家の顔に、戦前の政治家の顔に刻まれた厳しさは見いだせない。
これも「平和ぼけ」がもたらした副産物であるが、ここにも大衆民主主義の弱点がもろに表れている。


9、逆に、従来はアメリカがイスラエルを支援してきたために、少なくともたてまえ上は嫌っていたアメリカ人の人気が最高潮に達している。
祖国を解放し、自分たちの財産を回復させ、また家族との再会を可能にしてくれた、いわば恩人だからである。


10、第一は、核兵器および核関連施設である。
ソ連邦が解体すれば、ソ連全土に拡散している核兵器の管理に問題が生じてくる。
各共和国が独自に核兵器を管理し、それをもし内戦にでも使用することになれば、悲惨な結末となろう。


11、ロシア共和国の大統領選では、予想通り、急進改革派のエリツィンが当選した。
ロシア共和国は、ソ連全土の面積の4分の3を占める、まさにソ連の根幹である。


12、湾岸戦争は、今回は、日本がカネを出したものの、人的貢献を渋ったために、日本人は共に力を合わせて戦う「戦友」ではないというイメージが定着してしまった。


13、しかしながら、湾岸戦争を経た今日、アメリカの国防関係者も、「戦友」でなかった日本を見る目を変えようとしている。
確かに日本国憲法は、占領下で米軍が日本人に与えたものであるが、世界の情勢や日本の国際的地位に変化が生じた今日、憲法を改正することも必要であるという考えを彼らが共有しても不思議ではない。
しかも、第二次世界大戦後、日本と同じような境遇に置かれた西ドイツが、東ドイツと統一し、基本法を改正し、統一ドイツの新しい憲法を作ろうとしているときだけに、日本はドイツと比較されることが多くなっている。


14、しかしながら、多国籍軍に参加した国々から見れば、日本は、第一に戦争、つまり危険が去ってからやっとヒトを派遣する、そして第二に自分の経済的利益が直接に脅かされたときのみ、重い腰を上げる国だと映ったであろう。


15、第四は、マスコミのあり方である。
世界の情勢が大きく変わっているにもかかわらず、最も旧態依然たる発想法を維持しているのが日本のマスコミであろう。
マスコミは、今日の大衆社会では絶大な権力を誇示しており、政治家の生殺与奪の権利すら握っている。


16、日本国土が戦場になったときに、戦車さえ通れない。
まさに有事立法が整備されてないので、だめなのである。
今回、自衛隊法はあるけれども、これも国連軍との関係は何も書いてない。
そこで国連平和協力法を平成2年の秋に、外務省がつくろうとしたのである。
ただ、こういうものは、湾岸戦争のような事態が起こらなくても、国家としては基本的に持っておくべきものなのである。

 

17、日本人は、実は10年前のこのアフガン侵攻についても、やはり遠くのことだと思って何もしなかった。
もっと言うと、そういうことがあっても、社会主義に対して目が覚めなかった。
つまり思考停止をしていた。
実はこの10年前に思考停止状態を解除して、頭を働かせておかなければならなかったのであるが、その思考停止状態が今日までまだ続いている。
イラククウェートに侵攻しても、まだ続いている。
恐るべきことである。


18、戦争を阻止するためにこそ武力で対抗しなければならないのである。
チェンバレンが協定の紙を持って、故国におち立つと歓呼の声が上がって、みんなが街頭で大パレードをして迎えた。
これで平和が来た、と。
とんでもないことに、1年後には第二次世界大戦が起こっているのである。
だから平和のゼスチャーに対する大衆のそういう歓呼の声などというのは、全く何の意味も持たないのであって、その点はしっかりと政治指導者が認識すべきである。


19、しかし、東大にはそういう知識人がいまだに大学に残っている。
だれもやめさせることができないからである。
これがいかにひどい状況かということは、西部邁さんや我々が(大学を辞任するという形で)見せたとおりである。
ほんとは東大の先生たちは、湾岸戦争のようなことが起こったときに、知識人の代表なのだから明確に意思表示をして、状況を解説すべきである。


20、それと同時に、言葉の力もほんとうに落ちている。
ほんとうのことを言わなかったものだから、みんなが人の言う事を信じない。
だから結局、テレビなんかのほうがウケるようになってしまっている。

 

21、したがって、一人ひとりが自分の言葉の重みを認識して、言葉で物事を動かす、そのためにはほんとうに物を考えていく必要があるのである。
借り物の思考でもだめで、新しい枠組みの思考が必要である。
そのためにはやっぱり血のにじむような努力をすべきである。
そのときに最高の材料になるのが、歴史である。
過去の人間の営みから学ぶことは多い。
状況は変わっても人間はそれほど変わるものではないからである。


22、しかし、うまみを握っていることについては文句は言わない。
いかに日本人が悪いかだけを言う。
物は売り込む、失業は輸出する、土地は買い占める。
ご承知のようにソニーがコロンビア映画を買う、それから三菱地所ロックフェラーセンタービルを買うということで、あまり目立つものを買ってしまったものだから、反日感情が起こってきた。


23、さらに、なぜ日本人と競争したらヨーロッパ人やアメリカ人が負けるのか。
それは、アメリカ人やヨーロッパ人は先進国の人間らしい生活をしている。
道路もちゃんと整備されているし、公民館もどこにもあるし、公園も数多くあるし、非常に住みよい町をつくっている。
だからこそ先進国と言えるのだ。
それに対して、日本を見てみろと言って、統計の数字を持ってきて、下水道普及率何%、先進国の最低だ。
道路の舗装率何%、これも最低だ。
大都会の公園の面積もほとんどない。
これで諸君は先進国と言えるのか。
言えないだろう。
先進国としての整備すらせずに、金もうけばかりしている。
そういうエコノミックアニマルと普通の人間である先進国の民の我々が競争しても勝てるはずはないのだから、あなたたちも野蛮人から文明人になりなさい。
つまり、公共事業費をもっと使って、公園をつくったり全世帯を水洗便所したりして、それだけお金を使えば経済活動に使うお金が残らなくなるから、あなたたちの競争力も落ちますよ。
そうすると、同じ基盤で競争できますよ。
そういう議論なわけである。
だから、公共事業費をGNPの10%まで増やせと要求しているのである。


24、四月はじめに海部首相は訪米したが、その時の日米首脳会議の主たる議題が、日米経済摩擦、とりわけコメの自由化問題だけだったというのは困ったことである。
世界一、二位の経済大国の首脳が話し合うべきは、湾岸戦争後の世界をどのように運営していくべきかということである。
中東地域にどうすれば恒久的な平和をもたらすことができるのか、そしてまたゴルバチョフソ連にどう対応するのか、累積債務問題をどう解決するのかなど、議論すべき問題は山積していよう。


25、それに対して、ODAの額はこの10年間に26億ドルから90億ドルに増えている。
つまり、職員一人当たりのODA額が増加しているのであり、日本の約7億7千万という数字は、諸外国に比べて大きすぎる(アメリカが3億6千万円、西ドイツが2億5千万円、カナダが2億2千万円、イギリスが1億7千万円)。


26、日本の対外経済協力は、その歴史が浅いこともあって、またODA額が急増したこともあって、数多くの問題を生みつつある。
経済援助の趣旨が活かせず、相手国に十分に役に立っていないケースが生じている。
またODAが新たな汚職の温床と化しつつある、という指摘もあながち膨張ではない。


27、プレストウィッツは、FSXの共同開発によって、アメリカが膨大なカネをかけて開発したF16のハイテク技術が日本に流れてしまうことを危惧した。
しかし、日本の専門家によれば、FSXは日本独自で開発したほうがはるかに高性能なものができるという。
つまり、日米安保条約があるがゆえに、これまでも日本はアメリカに性能のさほどよくない戦闘機をおしつけられているというのである。


28、1992年にECの統合がある。
これは西ヨーロッパにとって非常に大きな変化だが、国際経済にとっても重大な意味を持つ。
EC12ヵ国が統合すると、GNPの規模でアメリカと同程度で、日本の2倍。
人口規模では日本の1.5倍、貿易量で数倍。
これだけの大規模な経済ユニットができあがり、国際経済に新たな一つの重心が誕生することになる。


29、最近アメリカで行われた世論調査でも「日本の経済的脅威とソ連の軍事的脅威とでは、どちらが重大か」という問いに対してアメリカ人の多くが、「日本の経済的脅威のほうが大きい」と答えているのである。


30、政界は再編成されるべきだ。
古いテーマを軸に結成されている既成政党はいったんすべて解体し、白紙の状態から新たに今日のテーマにそって、それぞれの考えごとに政党分けが行われるべきなのである。
土着ナショナリスト党と国際化インターナショナル党とに、政界は再編成されるべきなのだ。


31、世界の列強として発展を続け、対外膨張を図った帝国日本の末路は、しかし敗戦であった。
これが、近代史第二の国民的危機である。
日本人は、はじめて外国軍隊に占領される経験をするが、アメリカによる占領は、比較的寛大であり、しかも非軍事化、民主化が強力に推し進められていった。
農地改革、財閥解体基本的人権の確立などの大改革は、日本人自らの力ではなしえなかったであろうし、その意味でこれは、革命の名に値するものであった。
軍事力を奪いとられた日本人は、そのエネルギーを経済に注ぎ、みごとに経済復興を逐げて、1960年代には繁栄を謳歌する。


32、欧米に追い付け追い越せという時代はすでに終わっており、まさにモデルのない時代に自らの進路を切り開いていかねばならないという困難な時代に突入したのである。


33、幕末の開国にしろ、占領下の改革にしろ、いわば外圧がきっかけであり、自発的に日本人が取り組んだものではない。
つまり、外圧への対応ということが第一義的で、その意味では受動的、受信的である。
手あたり次第に外国の文物を輸入し、都合のよいように加工して役立てるのが、日本人の基本的外態度であった。
それは、古代には中国、近代には西欧という手本を見習いながら国づくりを行うという姿勢である。


34、また、どんなにコストがかかっても、日本社会を受信型から発信型に変えていかねばならない。
そして、国際社会の常識に日本の諸制度を適合させねばならない。


35、さらに、株価は湾岸戦争に伴って2万円を一時的に割るような形で暴落した。
日本の株価は最高値3万9千円を実現したその僅か9ヵ月後に50%の暴落が起こっている。
1920年代なら、恐らく大恐慌につながっただろう。


36、税金で高速料金を全部無料にしてもいいのではないか。
ドイツ、スイス、ベルギーでは、高速道路は全部無料だ。
日本もそうなれば、遠距離通勤する人も増えてくるだろう。


37、その国で一番優秀と言われる大学の学生を、その国の人間が99.9%まで占めているのは、日本の東京大学ぐらいである。
他国では、いろいろな人種が集まっている。
世界的に著名な大学であれば全世界から人がそこに集まる。


38、東大教養学部では、88年の春、中沢新一氏を助教授に採用することがいったん決定されながら、はなはだしいルール違反によってそれが取り消された。
そして、それに抗議して西部邁教授が辞表を提出した。
その経緯については、西部氏が『学者、この喜劇的なるもの』の中で詳細に報告しているが、氏が指摘したキャンパスの腐敗は一向に改善される気配はない。
私自身は、西部氏ら三教授が去ったあとも東大に残り、内部から少しでも改革することができないかと思案してみた。
そして制度いじりをする大前提として、教師たちの意識改革こそ不可欠だと考えたのである。
私は、自分の専門とする国際政治について『90年代の世界力学地図』という本を書きあげ、それを社会科学科のスタッフに配布して、同僚たちに刺激を与えようとした。
そして、私は1989年6月28日に東京大学教養学部に辞表を提出し、長いあいだ勤めてきた職場を去った。