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舛添要一 『今どこにある危機』を読んで。

舛添氏が東京都知事を不祥事により辞めざる得なかった事。


その不祥事を擁護する気は毛頭ありません。


しかし、これは「学問」です。 そこは割り切っています。


(この本は2004年に書かれたものです)

 

1、最大の論点は、やはり9条である、
第一項の「戦争の放棄」はそのままでよいとしても、軍事力を持たないという第二項は、もう現実に合わなくなっている。
やはり、きちんと改正すべきであろう。
(この件は、僕が昔からブログに書いてきた事です。「首相官邸・意見」にも投稿しています)


2、日本最古の”憲法”は、聖徳太子が604年(飛鳥時代)に作った「17条憲法」である。
本当に聖徳太子によるものかどうかは諸説あるが、「日本書紀」にも「憲法」という言葉が使われており、明治時代、国の基本法を表す用語を「憲法」とした語源もこれだとされている。


3、1615年、大坂夏の陣豊臣氏が滅亡した直後、徳川家康伏見城に諸大名を集め、崇伝に13カ条を読み上げたのが最初。
この読み上げは憲法の公布と同様の意味を持っていた。
同様に天皇、公家に対しては、禁中並公家諸法度、寺院に対しては寺院法度もあった。


4、明治憲法は全7章、76条からなり、1889年2月11日発布。
1890年11月29日に施行された。
伊藤博文井上毅らが、当時のヨーロッパでは君主権が強かったプロイセン(現ドイツ)の憲法を参考に起草した。
明治憲法の最大の特徴は「天皇主権」である。


5、指揮権である「統帥権」が天皇の大権事項とされていた上、内閣が行う一般の国務から独立すると明治憲法で規定されていたことが挙げられる。
このため、内閣は軍事問題に関与できなくなる一方で、天皇統帥権を輔弼する参謀総長らの権限が次第に強化され、軍部の暴走に対する歯止めがなくなり、泥沼の戦争路線を突き進むことになってしまった。


6、ポツダム宣言は、
①日本軍国主義の駆逐および軍国主義指導者の永久除去
②平和、安全、および正義の新秩序が建築されるまでの連合国のによる占領
③本州、北海道、九州、四国と諸小島への領土の制限
④日本軍の完全武装解除
戦争犯罪人の処罰と、日本国内における基本的人権の尊重
⑥軍需産業の禁止
⑦前記諸目的が達成され、日本国民による平和的政府が樹立された後の占領軍撤退
⑧日本軍の無条件降伏なり、戦争放棄基本的人権の尊重など、後の日本国憲法につながる内容だった。


7、マッカーサーは幣原首相に対し、「人権確保の5大改革」を命じる。
婦人解放、労働組合結成の奨励、教育の民主化、秘密法制の撤廃、経済の民主化の5つである。
これにしたがって、婦人参政権が承認され、農地改革、財閥解体などが行われた。


8、日本は1951年9月8日、サンフランシスコ講和条約の調印が行われ、ようやく独立国として認められた。
しかし、講和会議に参加した52ヵ国のうち、ソ連チェコスロバキアポーランドの3ヵ国が調印を拒否、中国はもともと会議に招請されていないという状況下で結ばれた講和条約は、いよいよ激しさを増してきた東西冷戦の影響を色濃く反映させたものであった。


9、これに対し米側は再軍備を要求。
吉田首相は反対するが、後の警察予備隊から自衛隊創設の流れは避けられなくなっていた。
アメリカの指導で戦争放棄憲法9条を作りながら、アメリカの都合で再軍備を余儀なくされるという矛盾がここに発生する。
サンフランシスコ講和条約が調印された9月8日、吉田首相はもうひとつの重要条約にも調印している。
最初の日米安全保障条約である。


10、1952年4月28日、講和条約日米安保条約が発効し、米軍の占領が終わり、日本は独立を回復した。
米軍の統治に従順だった日本にして占領は7年間に及んだ。


11、小泉純一郎首相も「実質的には自衛隊は軍隊であるが、それを言ってはならないというのは不自然だ」と述べている。


12、日本国憲法が、その骨格としている人権思想の祖国であるフランスでは、政治体制も憲法も何度も変わってきた。
国民のために憲法があるのであって、憲法のために国民があるわけではないのである。


13、1941年に第1次大戦が始まり、45年に第2次大戦終結するまでの約30年間で、世界は大きく変化した。
国際社会の”覇権”が、「世界の工場」「7つの海の支配者」イギリスから、アメリカに移ったのである。
16世紀以降、世界の覇権国は100年周期で交代してきた。
覇権国とは、軍事・経済・金融(通貨)・文化のあらゆる分野で世界をリードすると認められる存在である。
まず、ポルトガル&スペイン(16世紀)、オランダ(17世紀)、イギリス(18、19世紀)。
イギリスは例外的に200年間世界のトップを守ったが、その代わり2番手が、フランスからドイツに交代している。
20世紀から21世紀の覇権国がアメリカであることは疑う余地がないだろう。


14、現在の国連の出発点は、1941年8月、大西洋上でアメリカのルーズベルト大統領と、イギリスのチャーチル首相が発表した「大西洋憲章」で、戦後の安全保障のプランを取り決めたもの。
翌年1月1日、連合国26ヵ国の代表がワシントンでこの大西洋憲章を認める連合国宣言に調印。
終戦直後の1945年2月、米・英・ソの3ヵ国首脳によるヤルタ会談を経て、同年4月から6月にかけたサンフランシスコ会議で国連憲章が採択される。


15、また国連憲章にはいまだに第53条、第107条の「旧敵国条項」が存在する。
(この事も昔、ブログに書きました)


16、日本の国連加盟が遅れたのも、ソ連の拒否権行使が原因だった。


17、日本が国連に加盟したのは1956年12月18日。
国交を回復したソ連がようやく加盟賛成に回り、北アフリカのモロッコ、スーダンチュニジアの3ヵ国との同時加盟となった。

18、もうひとつ、日本が国連のために支出しているだけの金額に見合う地位を要求しても良いと主張したい。
世界第2位の経済大国、国連分担金も同じく2位の国が、安保理常任理事国でないという方がおかしいのである。
常任理事国になれないなら、お金は出さない」と言うくらいの強気を見せてもいいだろう。


19、歴史的にも民族的にもほぼ同一の地域とみなされていたイラククウェートの間に国境線を引いたのがイギリスである。


20、また、アフリカの民族紛争の場合は、植民地支配を行った旧宗主国の責任が大きい。
民族的なバランスを考えず勝手に引いた国境線にしたがって独立した国家に、国家としてのアイデンティティーを求める方が無理なのだ。
こうしたケースでは国連よりも、旧宗主国、ヨーロッパ諸国が責任をもって対応するのが筋である。
(この件も、昔、ブログに書きました)


21、その後、ヨーロッパ列強では、倒幕勢力の薩摩・長州側にイギリスがつき、幕府側にはフランスがつく。
戊辰戦争の一方では、英仏両国の日本での権益をめぐる主導権争いがあったともいえる。
結局、官軍となった薩長が勝ち、明治政府が樹立されるが、この時代に列強の植民地にならずに日本が生き残ることができたのは、当時の人の教養が高かったからではないかと思う。
最近の政治家より明治の人の方がはるかに優秀だった。


22、当時、世界の強国の一つとされていたロシアとなぜ戦えたかというと、日英同盟の存在があったからである。
七つの海を支配する世界一の国と結んだから勝てた。
当時の日本は貧乏で、戦費の調達もままならなかったが、日英同盟の後は、イギリスの信用で諸外国などからの”借金”が可能になったのだ。


23、2003年の総選挙で国会議員引退に追い込まれても、憲法改正に執念を燃やす中曽根氏は、当時から憲法を含めアメリカの庇護下にあった日本の戦後民主主義を見直そうと訴えてきた。
首相在任中も、国力に応じた防衛力を持つべきと主張し、防衛費のGNP1%枠突破へとつながる。


24、では、日米同盟がなくなったときにどうするか。
戦前の日本は、日英同盟が永遠に続くと思っていて失敗している。
だから、日米同盟も永遠に続くとは考えない方がいい。
アメリカがだめになったときのことを常に考えておく必要がある。
そのとき、ロシアか中国と同盟を結べるか。
EUは遠すぎるだろう。
こうして次の同盟相手を探してみると、いないのだ。
日米同盟に匹敵する抑止力を保つためには、独自で核武装しかないのである。
これらの中では、やはり日米同盟がいちばん良いということになる。