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西部邁 『私の憲法論―日本国憲法改正試案』を読んで。

これも素晴らしい名著ですね。

(この本は1991年に発刊されたものです)


1、昭和の末年から平成の初頭にかけて、日本の大衆民主主義は衆愚政治とよばれて致し方ないような事態をたてつづけに現出させた。
マスコミの情報解釈および情報伝達を中心にして編成される「世論の支配」、それがマスデモクラシーの基本性格であろうが、その世論がかつてないびん乱ぶりを示したのである。
リクルート事件天皇報道問題、消費税反対騒動そして中東湾岸戦争問題と数えただけでも、それらにまつわる世論が、量的な規模の大きさと上辺の仰々しさにかかわらず、いかに内容空疎なものに終始したか、改めて指摘するまでもない。
騒ぎが終わってしまうと、なぜあれほど興奮したのか、騒ぎがいったいどのような経緯を辿ったのか、世人にはそれらのほんの断片しか思い出せないといった仕儀なのだ。


2、だからこそ、一連の騒ぎの(今のところは)最後のものである湾岸戦争問題において、「平和憲法を守れ」という大合唱が突如として沸き上がったのである。
平和憲法」なんぞは、自衛隊という名の軍隊が立派に存在し、日米安保条約という名の軍事同盟が立派に締結されているところからみて明らかなように、とうの昔に蹂躙されている。


3、平和主義は国際問題についての奇麗事であり無責任である。
というのも、「戦争がない状態」としての平和を達成し維持するためには国家が軍備をもつ必要があり、また大きな戦争を避けるためには小さな戦争をあえてしなければならぬこともあるというのは常識の部類に属する事柄だからである。

 

4、つまり、戦争放棄、戦力不保持そして交戦権否認を内容とする憲法9条は、現実を何ほどか踏まえた上での理想主義ということからさらに進んで、現実を一切無視したかたちでの空想主義の方向において解釈され始めた。
空想を空想と知りつつ押し出すという前代未聞の世論の論拠として日本国憲法が利用されている。


5、人間にとって本来的に重要なのは生命をいかなる目標のために駆使するかということにかかわる目的価値なのだということ、日本国憲法も日本の戦後世論もこの人間観における良識を失ったところに組み立てられている。


6、戦前から不連続に飛躍しようという意図をもって作成された戦後憲法は、因襲を投げ捨てるだけでなく、目的性についての方向指示機ともいうべき伝統をも破壊したのではないか。


7、そうなった所以は、日本国憲法の狙いが日本のアメリカナイゼーションにあったという点にある。


8、戦後という時代の大きな「価値の空洞」が穿たれているとしても、それは憲法のせいではない。
空洞はアメリカの表面を真似ることそれ自体のうちに、また日本的集団主義に疑いをさしはさまないことそれ自身のうちに胚胎していたのである。
その国民の内的な空洞に気づかないかぎり、外的に与えられた憲法を修正したとて詮ない話であり、そもそも憲法改正が実現するわけもない。


9、日本が技術大国になりおおせるや、目標としてのアメリカナイゼーションは意味をなさなくなっている。


10、総じていえば、西欧は、近代化にたいし、表面における信仰と裏面における懐疑という二重の構えで対処しようとしたといえるであろう。
それゆ近代化の速度は、少なくともアメリカや日本とくらべると、斬新的なものにならざるをえなかった。
近代化を軽信するものの方がその速度において急進的となりうる。
しかしその急進的とは近代化のマイナス面にかんする無頓着のことなのである。


11、たとえば自衛隊という違憲の、少なくともそのおそれの大きい、存在を40年にわたって認めておきながら、憲法改正反対を叫ぶつづける、それが世論の大勢だということになっている。


12、日本に真に保守的たらんとする政党はないといった方が適当なのである。
それは致し方ないとしても、革新政党を名告る野党が次第に発言力と支持者を失い、いわゆる「給与党体制」が進行し、そこから政権交代の可能ないわゆる「保守二党体制」が生じる赴きである。
私もまたその方向を積極的に支援したいと考えている。


13、普遍的な、あるいは普遍性を装う、宗教やイデオロギーによって統御されるような時代は、少なくとも文明とよばれる生活様式を取り入れた国々においては、昔日のものとなった。
文明のおそらくは最後の知恵として「ルールによる支配」が行われるようになったのは、人間が徳的および知的に不完全を免れることができないと知ったからである。
人間たちは、放置されたままでいると、互いに傷つけ合い裏切り合い、悪用し合い騙し合うような始末になりかねない。
かならずそうなるというのではないが、物質的のであれ精神的のであれ、有限のパイの分配をめぐる争闘の可能性をつねにはらんでいるのが人間社会である。
しかし、そのような人間性についての半ばの絶望に立ちながらも、なおも他者との関係に半ばの希望をもってかかわっていくのが人間でもある。


14、ここでも日本が国際ルールの形式に貢献するに当たって、日本国憲法を抱えているということが障害となるであろう。
この憲法は、体系性と明晰性の背後に、欺瞞と偽善を隠しもっている。


15、国際社会は「平和と民主」あるいは「ヒューマニズムと進歩」といった類の甘い言葉で対処できるような甘い社会ではない。


16、日本に生じつつあるのは会話能力の減退という恐るべき事態なのではないだろうか。
会話なき夫婦、会話なき親子、会話なき友人、会話なき同僚のあいだを繋ぐのは、そのあいだにエーテルのように充満しているのは、活字であり映像であり音曲である。


17、だが真に蔑まれるべきは、憲法について戦後日本は珍種の人類といわれてもやむをえないような振る舞いをつづけているという点である。
世界広しといえども、自国の憲法を他国に作成してもらってそれっきり、というのは、少なくとも文明国とよばれるもののうちでは、日本だけだ。


18、ちなみに、憲法改正の回数が多い国を挙げてみると、スウェーデン37回、旧西ドイツ34回、スイス33回、ニュージーランドおよびオーストラリア29回といった調子である。
アメリカとイタリアも戦後5回の改正を行っている。
日本がどれほど異常の憲法感覚に浸っているかが窺われようというものだ。


18、まして憲法前文に「日本国民は…平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」という文言があるのであってみれば、絶対平和主義こそが第9条のいわんとするところだとみられても文句はいえない。
戦争一般を放棄したのなら、なぜ「国際紛争を解決する手段としては」という限定をつけたのか、というような疑問を抱いてくれるほど国民の理解力は厳密ではない。
結局、第9条の表記は戦争一般を放棄する絶対平和主義と侵略戦争だけを放棄する相対平和主義とのあいだで両様の解釈を許すものになっており、いずれに傾くかは情勢と世論の動向如何ということになってしまっている。


19、日本国憲法にあって、天皇にかんする第一章は国家の根本規範を過去という時間、歴史という連続そして伝統という英知に繋ぎとめる唯一の契機である。


20、同時に、やせ我慢を忘れた人間に特有の如何わしさがその変心にはつきまとっていた。
それが、たとえば、自分らの旧指導者たちが紋り首になるのに拍手したり、彼らの家族にまで礫を投げつけたり、国の内外のおびただしい戦争犠牲者を弔う労をすら厭うといった振る舞いとなった。

 

21、この前文は、末節の問題を最初に片付けておくと、この文章は、まず読点の打ち方がでたらめなせいもあって、構文の把みにくい悪文の見本といってよい。
その典型は第三段落であり、主節における冒頭の主語(われら)と末尾の述語(信ずる)があまりに離れすぎているためと読点が多過ぎるため、従節の主語や述語がどのような繋がりになっているのか、実にわかりづらい。
そして「日本国民」と「われら」の両方を混在させる必要は何もない。
最初に「われら日本国民」といっておいて、あとは「われら」で通せばよいのである。
また第二段階における第二文の「崇高な理念」と第三文の「政治道徳の法則」とが何をさすのか分明でない。


22、この前文は日本語として劣悪であり、こんな標札を国家の根本規範の玄関にぶら下げるのはそれこそ「国家の名誉」を損なうというものだ。


23.しかし日本国憲法ではこの迷妄をあえて犯す必要があったのだ。
なぜなら、第一段落の主旨は「主権が国民に在することを宣言」するところ。


24、改正することの困難な憲法硬性憲法というが、これでは硬性憲法を通り越して化石憲法になってしまう。


25、特定の国だけが、さらには特定の状況においてだけ、「平和を愛する諸国民」であるというのなら、その「公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しよう」というのは児戯に類している。


26、またここでいわれている「公正と信義」は、文意からすると、日本が戦争状態に直面しても、平和愛好勢力が日本の安全と生存を「守ってくれる」ということを含んでいる。
仮に平和愛好勢力というものがあり、また仮にそれに日本を守りたいという願望があったとしても、そうする力量が平和愛好勢力に備わっていないとき、日本はいったいどうするのか。
さらにいうと、平和愛好勢力が日本と同じく他国の公正と信義のみを信頼して振り舞うとすると、平和愛好勢力圏とは無防地帯のことだということになる。
その圏外に武装した勢力があるとき、圏内における「信頼」とはいったい何のことなのか。


27、もし自分が憲法起草者の役を当てがわれたらという夢想にあえて浸ってみると、以上の日本国憲法批判にもとづいて、私ならば次のように憲法前文を書き直したいと思う。
「前文・199×年、日本市民を代表するわが憲法制定会議は、被占領体制にあって占領軍の指導により規定された日本国憲法を根本的に改正し、日本国家および日本市民の活動にたいし新たな規範を示すため、ここに新日本国憲法を制定する。
日本国憲法国民主権主義に立脚する。
日本国民とは日本の伝統の中心にある人間および社会にかんする根本規範をこれまで担ってきた日本の人々およびこれからも担おうとする日本の人々のことであり、この人々にこそ主権が在する。
日本市民は、自分らの決定を下すに当たって、国民の主権の下に服さなければならない。
それゆえわが国政は、その正統性にかかわる権威を日本の伝統を担うものとしての国民に発し、その有効性にかかわる権力を市民の信託にもとづいてその代表者が行使し、それによってもたされる物質的および精神的な富を市民が享受する。
これが国民主権主義にもとづく市民統治の政治原理であって、新日本国憲法はその政治原理を保守するものである。
したがってわが憲法制定会議は、現在および将来の日本市民にたいし、日本国民の権威に従いつつ市民統治の権力を有効に発揮するよう要望する。
またわが憲法制定会議は国際社会に平和が到来するよう切望し、それゆえ、日本の対外的な権力は無制限ではありえず、他国の権力との調整が必要であるとみなす。
この国家権力性限主義にもとづく国際的調整は国際社会の平和にとってのみならず日本社会の繁栄にとって不可欠である。
したがって日本市民はその調整をより円滑にするため国際ルールの形成に貢献しなければならない。
わが憲法制定会議は対内的には国民主権主義と市民統治主義を、そして対外的には国家権力制限主義をそれぞれ政治の原理とし、以下、これらの原理を憲法条文のうちに敷行し、日本市民にその導守を要求するものである」

 

28、むろん、媒介者であるからには、天皇は聖と俗との両義性をもつ。
つまり、神聖である「かのように」みなされる側面と世俗の元首である「かのように」みなされる側面とが天皇にはある。
この両義性をきちんと仕分けしておかなければ天皇の地位が過剰に宗教化されたり過大に世俗化されたりという動揺が起こる。
したがって「象徴」のはたらきについては、憲法において少し詳しく規定しておくことが必要になると思われる。


29、天皇は歴史における国民的かつ文化的な「連続性」の象徴であるとともに、社会の現実における国家的かつ政治的な「統合性」の象徴でもあるということだ。


30、試案では次のように天皇を規定したい。
天皇。 天皇は日本国民の伝統の象徴であり、したがって日本市民の統合の象徴である。
天皇は日本国の文化的代表であり、したがってそれに相応した文化的儀式を執り行う。
天皇の地位は日本国民の歴史的総意にもとづくものであり、したがって日本市民がその地位とその権能について決定を下すに当たっては、日本の伝統からの制限を受ける。」

 

31、「皇位は、世襲のものであって、国会の議決した皇室典範の定めるところにより、これを継承する。」(日本国憲法第2条)
これを次のように変更する。
天皇は、皇室に直接的にかかわる公事については、皇位継承のことをはじめとして、すべての内閣の助言を受けつつ皇室の慣習に従ってそれを執り行う。」


32、この文句は副詞旬であるから「(権力を)保持しない」という言葉にかかっていく。
侵略戦争を放棄するのが「前項の目的」であり、その目的達成が第2項の趣旨だというのなら、「前項の目的を逸脱するような戦力は保持しない」、あるいは「前項の目的を達するため、侵略戦争を予定した戦力は保持しない」というふうに書けばよい。


33、その方向で日本国憲法を眺めれば次のように解釈するのが妥当であろう。
つまり日本は主権国家としてまず侵略戦争を放棄した。
次に、主権国家である以上、自国を自衛する権利があるのを承知した上で、戦力を保持せず交戦はしないと宣することによって、その権利をみずから放棄した。
つまり、日本に特有なのは「戦争の放棄」であるよりもこの「自衛権の放棄」なのである。


34、以上の検討にもとづき、試案は「戦争」について次のように考える。
「日本市民には日本国家の独立と安全を保つ義務が課せられる。
その義務を全うするため日本政府は国防軍を形成し保持しなければならない。
また国防軍は、自衛のための軍事行動を準備し実行するに当たり、集団的自衛や国際的警察を含めて国際協調に最大限の配慮をしなければならない。
国防軍の最高指揮権は内閣総理大臣に属する。」


35、国防の義務を市民に課していないような国は日本くらいのものだ。
これはまったく異常な事態である。


36、この項のいわんとしているのは、国防軍は日本という島国を防衛する(個別自衛)ための軍事行動だけでなく、他国との軍事同盟をつうじて当該地域を防衛する(集団的自衛)ための軍事行動や、国連のような国際組織をつうじて国際社会そのものを防衛する(国際的警察)ための軍事行動にも、参加するということである。


37、ここでは国防軍文民統制に服させるよう憲法で規定しておく必要があることを指摘するにとどめる。

 

38、以上の検討にもとづいて、試案では「価値の源泉」を次のように特定する。
「すべての市民は法の下における自由を、自己においてのみならず他人についても、最大限に尊重しなければならない。
人身の安全を求める自由、居住、移転および職業を選択する自由、財産を私有する自由そして信教、言論、出版、結社、集会、学習および教育の表現活動にかかわる自由という四種の自由は、基本的自由として、すべての市民に保証される。
また、国防に参加する責任、税金を納める責任、子供に教育を受けさせる責任そして法の秩序に従う四種の責任は、基本的責任として、すべての市民に課される。」


39、「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」日本国憲法第25条第1項 ↓
「試案・日本政府はすべての日本市民および長期に滞在する外国人にたいし健康的で文化的な生活にかんする最低水準を保証するように最大限の努力をしなければならない。」


40、「試案・皇室の費用については内閣がそれらを管轄し、その結果を国会に報告しなければならない。」


41、「この憲法の改正は、各議院の総職員の3分の2以上の賛成で、国会が、これを発議し、国民に提案してその承認を経なければならない。
この承認には、特別の国民投票又は国会の定める選挙の執行はれる投票において、その過半数の賛成が必要である」日本国憲法第96条第1項 ↓

「試案・この憲法の改正が許されるのは第4章から第9章までの部分にかぎられる。
この憲法の改正は、国会の3分の2以上の賛成で、内閣がこれを発議し、市民投票の過半数によって承認されなければならない。」

 

42、読者はこの試案条文をみておそらく驚かれるか、もしくは怒りを覚えられるであろう。
なぜなら、この案文は日本国憲法のものよりも「硬性」だからである。
つまり試案では、改正可能なのは第4章以降(「国会」、「内閣」、「裁判所」、「財政」、「地方自治」そして「改正」)だけだとされている。
第3章まで(「前文」、「天皇」、「国防」そして「基本的自由と基本的責任」)を試案憲法の根幹部分のみに限定するのはいわば「強硬性憲法」であり、これとくらべると日本国憲法の方がまだしも軟性なのである。
憲法の根幹」についても部分的な解釈変更をすすんで許容するという意味では、試案憲法は大いに軟性である。
重要なのは、その解釈変更が、一貫した思想と堅固な政策に裏づけられているかどうか、したがって世論の確実な支持をとりつけているかどうか、ということである。
なぜそうするかというと、試案憲法を根底で支えているのは「伝統の知恵」にたいする信頼であり、そして「伝統の知恵」が軟性でないわけがないからだ。
逆にいうと、「科学の理性」によってつくられた憲法内容は硬性であり、それゆえ改正手続きを軟性にするしかないということである。
いうまでもなく、柔軟な憲法内容であってもついに時代や状況に合わなくなるときがある。
試案では、その場合には、新たな「憲法制定会議」を開催し、いわば法的革命として、「憲法の根幹」を変更せざるをえないというふうにとらえている。


43、なお日本国憲法では、憲法改正の発議は「国会」がすることになっている。
これは、考え方として、誤っているのではないか。
憲法改正は、既存の根本規範を呈するという意味で、緊急事態とまではいわないが、準非常の状態である。
とくに改正手続きが硬性の場合にそうである。
新しい規範が市民に受け入れられるかどうかについて大きな不確実に直面せざるをえないという意味で、それは高度に政治的な行為である。
そうならば、内閣がそれを発議すべきだと私は思う。


44、昭和天皇は神聖な存在であり象徴的な存在であった。
そのこと自体、天皇の地位は憲法において規定されるものでありながらも、憲法の次元をなにほどか越え出ていることを意味する。
つまり憲法を越え出ることを憲法で規定されるという逆説的の存在、それが天皇だといえる。
日本国憲法第99条はこの逆説に少しも気づかず、今上天皇もそのことに気づかれずに、「憲法を守る」という「即位後朝見の儀」における「御言葉」になったものと思科される。


45、「日本国が締結した条約及び確立された国際法規は、これを誠実に導守することを必要とする。」日本国憲法第98条第2項 ↓

「試案・日本政府および日本市民は日本政府の締結した条約および国際社会において確立されている国際法規を守らなければならない。
条約および国際法規と日本の法秩序とのあいだに不一致が見出されたとき、それを調整するのは日本政府の責任である。
その調整に当たり、日本の憲法・法律を改正しないあいだは、条約および国際法規にたいしてよりも日本の法秩序にたいして多くの考慮を払わなければならない。
日本政府には、国際秩序を安定させるため、とくに国際社会における国際的シビル・ミニマムを達成するため、よき国際法規の形成に努力する責任がある。


46、国連憲章はその第7章「平和に対する脅威、平和の破壊及び侵略行為に関する行動」において、とくに第42条「軍事的強制措置」および第43条「兵力使用に関する特別協定」にあって、国連加盟国にはいわゆる制裁戦争に参加する責任があると規定している。
これは日本国憲法第9条に抵触する可能性が大である。


47、そして近時の「湾岸戦争」はまたしても日本のそういう精神・行動の類形を天下にさらしてしまったのである。
そうとわかれば、政府のいわば外交的統治における自由度を憲法で明文化しておく方が無難である。
いや、その自由を積極的に引き受けるのが政府の責任だと規定しておいた方がよい。


48、法的にみて「人類」が「国民」より優位に立つためには、人種、風土、歴史、言語、習俗などにおける差異が逐次消去されて、世界が均質の社会空間へと向かうときである。
だがそんな空間の創出は、不可能である前に、不必要であろう。
なぜなら、集団間の差異をめぐって連帯と敵対の入り混じった「遊び」さらには、「戦さ」をするのが人間というものだからだ。
また、完全に均質な社会空間などありえないのであってみれば、人々のあいだに残る微差を調停するルールがなければならない。
しかし、50億という厖大な数の人間のあいだの微差を調停するルールをつくるというのは人間の能力を越えている。


49、日本国憲法のように「条約及び確立された国際法規は、これを誠実に導守する」といってみても、どの程度の誠実なのか、その誠実は国内法を無視する程度のものであってよいのか、となるとまったく不明である。
それとくらべれば、「国内法により多くの考慮を払う」というふうに日本政府の心構えを規定しておく方がよいと思われる。


50、日本国憲法の廃止や改正のことが日本の政治の具体的日程にのぼる可能性は今のところ絶無といってよい。


51、叩き台をしつらえてみてつくづく思うのは戦後日本人はこれほどに欺瞞と偽善に満ちた日本国憲法の上によくもまあ長々と安住してこれたものだということである。
欺瞞と偽善をひそやかに呟くのは人間らしい所業ともいえよう。
しかし、それを公然と大声で唱えるのはやはり異常の振る舞いである。
しかも、これは私自身の経験からいってもおおよそ見当のつくことなのだが、日本人のうち、日本国憲法をきちんと読み通し、それに一貫した分析と判断を加えたことのあるものの割合はごく僅かであるに決まっている。
それにもかかわらず、過半の日本人が「憲法を守れ」と叫ぶ。
自分のよく知らぬこと、よく考えていないことについて口幅を大きくするのが大衆民主主義における世論というもののようだ。

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<僕の憲法論>

・まず9条第2項のね「武力を保持する」って事は、自衛隊違憲という事になる。

そして「交戦権を認めない」のだから、仮に他国から侵略された場合、”どうぞ、我々は丸腰です。 何十万人、何百万人の同胞を殺して下さい”となる。

しかし、憲法に明記されていなくても、世界中のあらゆる国家は個別的自衛権なるものを持っている。

なので、それで対抗するしかない。

ただし、現在の自衛隊法では「先に撃つ事を禁ずる」というものがある。

アレは駄目、コレも駄目、というのが現在の自衛隊法です。

僕は日本国憲法よりも先に自衛隊法を変えた方がいいと思います。


9条の第2項は、舛添氏が言ったように削ってしまえばいい。


そして日本国憲法で1番問題なのが96条です。

「この憲法の改正は、各議院の総議員の三分の二以上の賛成で、国会が、これを発議し、国民に提案してその承認を経なければならない。この承認には、特別の国民投票又は国会の定める選挙の際行はれる投票において、その過半数の賛成を必要とする。」です。

これね、たとえ衆参で3分の2以上の賛成を得ても、”憲法改正”には多くの国民が反対するであろうから、憲法改正は実質、出来ないんですよね。


憲法改正したら、また日本は軍国主義に走る”や”もう戦争は懲り懲り”という恐怖心を多くの国民が抱いている事は想像だにしない。

たった1度の敗戦で、いつまで、そのトラウマを抱えたままなんだよ!って僕は思います(広島、長崎県民を除いて)。

あのね、日本はきちんとシビリアン・コントロールできてるじゃないですか。

西部さんが、おっしゃるように日本人というのは世界一の珍種という事になる。


GHQが作った憲法だもん。

憲法改正ができないようになっている(これは当たり前ですよね)。

でも、日本政府が、きちんと説明すれば、国民の感情は変化するかもしれない。


自衛隊違憲としておくのは自衛隊員に申し訳ないと、僕は思いますけどねぇ~~


ただ敗戦のトラウマが物凄いんだな・・・。


憲法を改正できないなら、核保有しか道は残されていないじゃないですか。


永遠に続く同盟関係なんて無いんですよ。


日米同盟が終わった時、…これはもう核保持しか道は無いんです。


憲法というものは、向こう100年を見据えたものでなければならない、と僕は思っています。


そして国連なるものに何の期待も持たない方がいいです。


今でも、国連憲章には敵国条項があります。

第53条、第106条、第107条ですね。

いわゆる「日本、ドイツ、イタリアはファシズムで敵国だ」という条項です。

その他、ブルガリアハンガリールーマニアフィンランドも「敵国条項に示されています」。


これね、日本とドイツは国連分担金を支払う必要は無いです。


例えば、またイラク戦争のような事が起きた場合、国連軍が侵略した国を攻撃するか、多国籍軍がそれを担う場合もあります。


イラク戦争多国籍軍でしたね。


国連安保理常任理事国は拒否権を持っていますからね。


なかなか国連軍を作れないんです。


でもね、根本的に侵略戦争が起きた場合は助けに行った方がいいです。


でないと、日本が50年先、100年先に、他国から侵略された場合、どの国も助けに来てくれませんよ。


ただ、現在の自衛隊法で自衛隊を向かわせても、基本的に何もできません。


なので、また他国に自衛隊を守ってもらう事になります。


そんなんじゃ、行っても邪魔なだけなんです。


日本が出来る国際貢献はPKOとODAのみです。


僕は、憲法は100年先を見据えて作るものだと思っています。


U.K.やフランスのように普通の国になるか、それとも、西部さんがおっしゃったように世界一の珍種でいるかです。


U.K.やフランスは核保有国なので、普通の国とは、だいぶ違いますね汗


でも、日米同盟が終われば、日本の選択肢は核保有しかありません。


非武装中立などは空想語です。


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いやぁ~~ これで読みたい本は、全部、読んだぞぉ~~!!


あとは国際政治学者の三浦瑠麗さんの新刊、同じく国際政治学者の舛添さんの新刊を待つばかりです。