読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

思想家の故・吉本隆明 『幸福論』を読んで。

(この本は2001年に書かれました)


1、孤独感というか、わびしさについていえば、60歳のころよりも、76歳の現在はもっと切実に感じています。
だから当然、1年先のことなんか考えない考えたって無駄だ、と思っています。
いずれにせよ、あと残るのは死だけじゃないか、という感じ方が、いまの僕にはあります。
普通の老人は、たいていそういうふうに考えるのではないでしょうか。
あるとき、ふと夜中に目が覚めたら、もう死ぬことしか残っていない、いいことなんか何もないじゃないか、そんな気分になる、これは、たぶん確実で例外ないことだと思います。


2、老人っていうことは心身両面が慢性的なうつ病ということです。
つまり、いいことはもう何もないとか、もう衰えていくだけだとか、あとは死があるだけだ、とかそういうふうに思っているときは、もううつ病です。
老人特有のものですね。


3、それは、つらいとか苦しいとか、あるいは逆に今日は調子がいいとか、いいことがあったとかいう、禍福といいましょうか、幸・不幸といいましょうか、それを長い周期で考えないようにすることです。


4、その代わり、もし、抽象的に、あるいは論理的に、死とは何かとか、老人とは何かということを考える場合には、とことんまで考えるべきだと思います。


5、そういうちょっとした、いい気分でも、これが幸せなんだと思うのがいい。


6、逆に、実際的なことではなく抽象的なことについて考える時は、突き詰めてどんどん考えてみてもいい。
それは、大なり小なり思想ということになるでしょうね。
お坊さんや神父さん、いわゆる宗教家の人々などもそうした生死の恐怖から逃れようとして、考えて考えてその結果、その宗教でいうところの真理を突き詰めるわけです。


7、悩んだときのひとつの手助けとして、宗教とか思想とかいうものがある。


8、本当ならもっと若いうちに、死とは何かとか、死というのはこういうものだとか、人間にとってどういう意味があるんだとか、そういうことを考え詰めておけば、かなり気分は楽でいられるということがあります。


9、つまり胎内にいたときは羊水の中だから、魚と同じでエラ呼吸してたんだけど、出てきたら空気呼吸しなきゃいけない。
その環境の激変というのが心の傷、無意識の傷になる、というのはフロイトの言ってるとおりでしょう。


10、ヨーロッパの哲学者は若いときから死を突き詰めて考えるというけど、もともと日本には、そういう哲学的思考でものを考える土壌があまりないような気がします。


11、つまり、言葉でいうと、知恵と知識とは違うんだと考えたほうがいい。
知識というのはそんなに一生懸命やらなくてもいい。
知識、とくに学問的な知識とか、専門的、あるいは学者としてという意味合いの知識というのは、ほとんどどこへ行っても役に立たない。


12、せいぜい足し算、引き算、掛け算、割り算、このくらいは一生のうちに役に立つこともあるかなっていうくらいのものです。
あとはそれ以上のことはなんにも役に立たない。


13、現在、高校で教えている数学みたいなものは実用としてはまるで要らない。
理工系出身でその方面のことを散々やってきた僕も、それで生活していません。
理科もほとんど要らない。
ほとんどなんにも使うことがありません。


14、つまり、知識というのは、自分が本当に好きになった分野に打ち込んでみて、はじめて必要になるものです。
それ以外は要りません。
そうすると、学校の課目は無駄なことばっかりやってるじゃないか、ということにどうしてもなっちゃうと思うんです。


15、そのおかしさっていうのは主に知識に伴うおかしさで、いま言ったように、女子高で微分だ、積分だ、関数だと面倒な数学をやっている。
こんなものこそ一生のうちに使うことはないから無駄だ、やらないほうがいいじゃないかと思います。
かえって混乱させるだけでなんの役にも立たないから、こんな課目はないほうがいいんです。


16、発達してくる精神のある部分というのは、大脳が第一義的に支配する感覚の分野です。
目で見たもの、耳で聞いたもの、においを嗅いだものとか、味がこうだったという、そういうことは大脳が第一義的に司ります。


17、実際はパソコン、インターネット、マルチメディアがどうだということにあまり関心をもたない人が多いです。
文学、小説書きでそういうのに関心をもっているのは島田雅彦とか村上春樹とか村上龍、この人たちはまあまあ関心をもっていますけど、別に本気で使いこなしてるとういことはないようです。
(僕は島田雅彦の小説ではデビュー作だけ強く印象に残っています。
村上春樹はデビュー作から2冊までは好きでしが「ノルウェイの森」で嫌いになりました。
村上龍さんは、僕は大ファンでして「愛と幻想のファシズム」、「コインロッカー・ベイビーズ」、「限りなく透明に近いブルー」等々、名著ばかりでしたね。
やっと本を読めるようになったので<3年前から文庫を広げると眩暈がするようになった>この3年間で龍さんが書いた小説を今後、読みたいと思っています。)


18、男が女を好きになったときの感情の動きというのは、ギリシャ時代とそれほど変わっちゃいないだろう、ということです。


19、これは大脳の発達、つまり外の情報を感知する視覚や聴覚などの感覚器官の問題は第二義的であって、第一義的なのは、心の中、もっと言えば内臓の動きの違いなんです。


20、どちらが第一義か、第二義かというと、大脳ばかりが第一義だと思ったらそうじゃなくて、大脳の方は第二義的で、心の中の叫びとか、内臓がちょっと痛いぞ、というのが第一義だったという、両方あるんです。
一つじゃないんですよ。
この二つの織物から言葉は出来ています。
ユングなど無意識の心理学者というのは、えてして感情がいちばん強烈なエネルギーをもっているって言うんですが、そのとおりだと思います。
感情といってもいいし、情緒といってもいいでしょう。


21、いまの日本の教育は、大学教育まで文部省が牛耳っているけれども、文部省というのがあるのは後進国だけで、先進諸国には大学局というものぐらいしかないと聞いたことがあります。


22、そういう意味では、文学とは何か、男女の恋愛とは何か、という問題のいちばん近いところに、いわゆる「不倫」という問題はあるような気がします。


23、明治時代の20代にも及ばないのではないかな。
老齢化社会は、全般に年齢の割に幼稚な人間がふえる社会と定義したいくらいです。
夫婦の問題でも、どうしたらいいのか、全然わからないですね。
もしかすると、家庭内離婚とか、あるいは結婚内別居、とかのほうがいいのかなと思ったり、それは本当にわからない。


24、例えば、サルトルとボーボワールみたいに、お互いに違う仕事をして別にいて、経済的にはもちろん独立している。
死ぬときはどうするんだっていったら、1人で死ぬって決まってるんです。
それに比べれば、いまの日本のほうがまだ牧歌的なところがあって、もしかすると子供がかけつけてきて看病してくれるかもしれないし、孫が来るかもしれないということがありえます。
ところが、そういうのは絶対に期待することはできないようになっているのが本来でしょうね。
ヨーロッパでは老齢でいちばん重要に思うことは宗教だということになっています。
でも、サルトルなんかは宗教というわけにもいかないじゃないですか。
私は唯物論に近いんだと思ってる人なわけだから、宗教なんて言えたもんじゃないというふうになる。
だから、サルトルなどの哲学者、思想家といわれる人たちは、30代後半か、40代の半ばぐらいまでの最も働きざかりで活力に溢れているときに、死とは何か、ということを徹底的に考え詰めているんです。


25、2020年には3人に1人が老人のために働いているようなものなんだみたいなことになるらしいから、女の人はますます晩婚になる。
あるいはもう結婚という形式ではなくて、出生だけあるけれども、女性が単独で、男なんて要らない、子供さえいればいいというのも増えてくるでしょう。


26、なぜそうなったかという理由をしいてつけたいのなら、この急激な社会的な変化のときだから、一世代違うだけでも距離感がものすごく違っちゃってる、合わなくなってる。


27、子供の方はこんな大人たちの社会で生きていたくないと思うほうが当然で、正常です。

 

28、つまり、いまの親というのは、自分の、子育てとかそういうものに対するリスクみたいなのから逃げてしまっていて、それを社会の責任だ、みたいにしてしまう傾向があるんじゃないかということなんです。
それは何かといったら、要するに、お前ちゃんと育てなかったんだろうということです。
子供が悪いことをして、説得しに行ってくれと言われて、私は恐いから行かないと。
そういうことを言ってたら、育て方が悪かった、ロクに育てもしないくせに、ということを証明してるようなものだと思います。
僕だったら、そんな馬鹿なと思ったら自分が刺しに行きます。
だけど、我が子が殺されるような場面に遭遇して、自分が当事者の親だったとかいうことだったら、僕だったら、あいつやっちまえ、というふうにやりかねないと思います。
そのかわり、いったん司法に委ねたら裁判所の決めたことには文句は言わない。
でも、100%一生懸命育てて、これだけ大きくしたというだけの自覚があったら、刺しに行くくらい当然です。
自分の考え方は古いのかなとも思いますけど、気分としては、やっぱり自分の家族が殺されちゃったり、後遺症が残ったりして、何の関係もない奴からそうされちゃった、これは面白くない、どこかで待ち伏せして、逆に刺してやろう、とかいうふうな感じならば、とてもよくわかる。
自分ができなくても、少なくとも感じだけは、そのほうがいいんだ、というふうに思います。


29、それに、そういう親は結果はどうあれ、そうとうよく子供と向き合っていたに違いないと思います。
そうじゃなかったら、やっぱり逃げちゃいますよ。
暴力を振るわれたって、男親だったら、こっちは大人であるし、向こうは子供で、向こうは腕力はあるかもしれないけど、喧嘩になっちゃったとか、チャンバラになっちゃったとかいったら、立ち向かっていって、まかり間違えば自分の子供を殺しちゃうということもありうるわけです。
自分のほうが死んじゃうということもありうるわけです。
とにかくどこかで踏みとどまって、これ以上お前は許せないというところまできてそうするという親がいたら、かなり育てたことに対する愛情というのに自信がある人だと思います。


30、今度、僕が足腰立たないし、動けもしなくなったとき、子供はどうするかなっていうのは全然わかりません。
ただ、わかっていることは、要するに、子供をあてにしてはいけないぞ、ということなんです。


31、また、日本の結婚制度は女性の自立待ちだと思います。
そうなったら、いまとはかなり形が変わるはずです。
完全に別居結婚のようなスタイルになるのが普通だろうと思います。
ただ、そういうふうになると、子供を誰がどうするんだという問題は確実に起こるわけです。
そうすると、合同の託児所みたいなところですべて育てるっていうのはどうだというと、どうもそういうのだけでいい、というふうに思えないんです。
老人もそうなんです。
つまり、とりあえず介護保険をやって、もっと老齢化が進めば、政府が一切を賄って老人ホームをつくればいいじゃないかと言いますが、それでうまくいくのかというと、僕は悲観的にとらえています。


32、西欧のインテリ・カップルたちは、サルトルとボーボワールみたいに別々に住んで、お互い別なことをやって、経済的にも独立してという形が多いです。
ただ、死ぬときはマンションかアパートで一人ずつ死ぬわけです。
死ぬときぐら世話しろと言っても、それはお断りだ、ということになると思います。


33、この間ビルから飛び降りて死んでしまった『アンチ・エデイプス』の著者で哲学者のドゥルーズも優秀な人でしたが、やはりちゃんと考えていました。
どんなことを言ってるかと思ったら、非常に立派なことを言ってます。
つまり、死の恐怖感以外は、論理的にとことんまで解いているんです。
日本では、中世の宗教家でたまにそういう人がいますけど、まれにしかいない。
現存はしてないです。
いまの人達はみんな駄目です。
向こうの人は、現代の哲学者、文学者が壮年のときにとことんまでやってますからね。
死についてこれだけ解いちゃったら、言うことないよってくらいやってます。


34、老人問題というのは、病気でいえば心身症ですね。
心の問題が入らない老人問題ってないんです。
からだが少し不自由になったとかいうのもみんな心身問題です。


35、やはり、若いときにスポーツをやっていた人や、スポーツが嫌いじゃないから適当な程度に面白半分にやってたよという人と、そういうことはやったことはないという人では、身のこなし、身体の動かし方のセンスが違ってきますね。
だから、そういう身のこなしということから言うと、スポーツというか、余計に身体を動かすことを、遊び程度で結構ですから、若いときからやっておいたほうがいいですよ、ということは第一番に挙げます。


36、勉強ばかりしてたって精神は鍛えられますし、他になんだってあります。


37、極端にいえば危篤であるとか、重体であるとなったときに既にわからなくなっている。
だから死というのは自分のものではなく、近親のものだというのが、いまのところ一般的なんじゃないかと思います。


38、だから、僕に言わせれば、何か特別な、死を迎える心構えがあるとは考える必要はないんじゃないでしょうかということです。


39、つまり、それと関連するわけです。
自分の責任で生まれたわけじゃない。
少なくとも半分はそうだということは、どんな人でも確実なことです。
だけど、死とはなんぞやということを内面的にというか、内在的に言いたいなら、その自分の責任や意志を外してしまったら、それを考える基本がなくなってしまうということなんじゃないですか。
生まれてきたのも自分の責任だと思えてくることと、自分の身体の状態とが離れないくらい、くっついてしまった状態を、もし想定できるならば、あるいは実感できたならば、死もそれと同じだというふうに考えればいいんじゃないかと思います。


40、死の準備というのは、そういうことを言っているのではなくて、死の恐怖はどうしたら除けるかという意味で死の準備だというのなら、これまた自分の理解の仕方ですけど、死の恐怖というのはなくならないと思います。