思想家の佐伯啓思 『さらば、資本主義』を読んで。

佐伯啓思氏は、思想家の西部さんを師と仰いでいます。
この本は2015年に発刊されました)


1、2011年3月11日の原発事故から4年以上が経ちました。
そして、未だに原発政策は確定されません。
あれこれと議論はでてくるのですが、まったく決定不能に陥っているようです。
これは政治の問題ではありません。
我々が確たる判断を下すことが出来なくなっているという事でしょう。
判断を下すには一定の価値観が必要であり、将来の社会像を描かなければなりません。
しかしそれを描くことができず、価値観を共有できないのです。


2、確かに原発はひとたび事故となれば未曾有の事態を招来するあまりにリスクの高いエネルギーですが、同時にまた一気に脱原発に突き進むのにもリスクがあります。
経済の悪化だけではなく、将来のエネルギー自給と多様性からしても最低限の原子力技術まで放棄するわけにはいかないからです。
しかも、やめたとしても廃炉まで40年以上かかるのです。


3、電気のありがたみが分からないから、いくらでも値段を下げて、使い放題に使うという事になるのです。
もし電気が貴重で、我々の生活にとってかけがえのないものだとすれば、電気料金が少々高くついてもやむを得ないと言うべきです。


4、ところが、「成長」という価値は、ただGDPが大きくなるというだけでなく、「より高く」「より大きく」「より早く」「より便利に」「より安く」を目指すもので、こうして視覚的にも感覚的にも「成長」が実感できなければならなかったのです。
これだけの便利さと快適さを更に発展させるというなら、原発をなくす事は出来ないでしょう。


5、この「成長」へ向けた「無限衝動」は、人間の本性というものでは決してありません。
成長する事がまた我々の欲望を刺激して「無限衝動」を呼び覚ましてしまうのです。
そしてそれがまた成長を必要とする。
近代社会はこういう循環構造によって成り立っているのです。
脱原発を唱えるとは、「近代」が生み出したこの運動の逆転を意味すると言わねばなりません。


6、ギリシャ哲学にも幾つかの系統はありますが、近代の西洋が多大の影響を受けたのは、プラトンイデア説のように、あらゆる物事には、その奥に目には見えない抽象的な本質がある、という考え方でした。
それは目に見える現象ではないので、人間が抽象的な理性の力によって把握する他ない。
ここでプラトン哲学とキリスト教は合体し、人は世界の外に立ち、その理性によって普遍的真理を把握し、世界を作り変えることが出来る、という近代的な発想が生み出される。
また自然のうちにも法則があり、人は、その法則を知ることで自然をコントロール出来る、という事になる。
かくて自然科学が誕生し、科学を駆使した技術が発展し、それを使う主体としての人間が輪郭をもって立ち現れる。
これが西洋近代の合理主義と呼ばれるものでした。
もちろん、だから、自然代替エネルギーを人間は開発できる、という理屈も成り立つでしょう。


7、「原発」にせよ、「原爆」にせよ、きわめて高度に抽象化された物理学の理論と不可分のものなのです。
現代物理学は、たとえば、この「世界」を構成している究極的物質としての素粒子のレベルで理論を構成している。
そして、それは、我々の極小的な日常の物体を構成すると共に、我々を包んでいるこの太陽系や銀河や、はては宇宙の生成という極大の原理にまで関わっているわけで、こうなると、もはや、人間は自然を支配し管理するなどという言い方そのものが意味を失ってしまうでしょう。


8、古代人はすでにアルキメデスの点を地球の外に求める事で、地球を支えるもの、という観念を生み出した。
つまり、人間は、自己を相対化し、地球を相対化し、それを外から眺めようとしたのです。
ガリレイの望遠鏡など、まさにこの「地球外的」あるいは「宇宙的」な視点をもたらす大事件だったのです。


9、原発にしても、それを廃止しても核の脅威は何百年と残り続け、被爆すればそれを取り除く事は出来ません。
廃止しても排除できないのです。
これでは管理できるとは言えません。
我々は、放射線という「宇宙的物質」に服従する他ないのです。


10、近年はやりの生命科学もそういう根源的な危うさをもっているように思います。
ここでは、遺伝子とは「自然」なのか「人間主体」なのか、よく分からなくなります。
「主体」としての人間が「自然」に働きかけて、主体である人間の幸福を増大する、というあの分かり易い近代社会の合理性がもはや成り立たないのです。
ここまでくると、西洋社会が生み出した「近代」は、どうも我々をとてつもない世界まで連れてきたのではないでしょうか。
現代文明は、我々自身で制御できない技術やシステムを生み出し、我々がそこに縛り付けられているように思えます。


11、時々、新聞社から寄稿依頼やインタビュー依頼があります。
そしてこの数年で言えば、全国紙でこの種の依頼の一番多いのが朝日新聞なのです。
これには実は私自身もいささか妙な気がしていて、保守主義を自認する私にどうして左翼進歩派の代表紙がやってくるのか、とつい思ってしまいます。
対極にある産経新聞には以前から連載コラムなどを書いていますが、「保守」を自認する新聞ですから格別に不思議でもありません。
ついでに言えば、同じ「保守」をうたう読売新聞からの依頼はほとんどありません。


12、2014年の6月末に安倍政権が集団的自衛権についての往来の政府見解の見直しを決定した時の事です。
知り合いの朝日新聞の記者から、どう思うか、と電話で聞いてきました。
私はおおよそ次のような事を答えました。
「近代の主権国家では、主権者が国民の生命や財産を守る事が原則だ。
だから、君主国では君主が国民の生命や財産を守る義務がある。
つまり、国民皆兵が原則である。
現実には、様々な事情からそういうわけにはいかないとしても、これが近代の主権国家の原則である事を知っておかなければならない。
とすれば、アメリカとの同盟をいっそう強化するという集団的自衛権の容認は、現実には仕方ないとしても、原則的には問題がある。
しかしそれはそもそも防衛義務を掲げない平和憲法そのものが問題をもっているからだ。
これがあるために、戦後日本人は国の防衛ということをまともに考えてこなかったのではないか」
おおよそこんな事を話しました。

 

13、そして、その隣にはもうひとつのインタビューが出ていて、それは「制服向上委員会」なる「肩書」をもった15歳の女子高生のインタビューで、そもそも見出しが「男子に血を流させるな」です。
内容は「AKB48の話に熱中したり、お弁当のおかずがいつもより一品少なくて落ち込んだりする、そんな愛すべき男子を戦場に送り込んで、血を流す事はやめてもらいたい」という趣旨です。
つい吹き出してしまいました。
朝日新聞にもこんなユーモア感覚があったのか、と思ってしまいます。


14、今や朝日新聞は文字通り火の車になってしまいました。
「炎上」しかかっている有様です。
いうまでもなく「従軍慰安婦」についての誤報もしくは虚報問題です。
この問題そのものついてここで詳しく解説する必要はないでしょう。
教の従軍慰安婦をめぐる韓国からの執拗な対日批判の発端を作ったのが朝日新聞である事はよく知られていますが、そのもとになった吉田清治なる人物の証言(1982年に掲載)が実は偽証だったというのです。
これが偽証だとすれば「軍による慰安婦の強制連行」というこれまでの朝日新聞の主張は基本的に崩れてしまい、韓国からの批判もその根拠を失います。
このたび朝日新聞がそれを公式に認めた事になります。
虚報疑惑がでてから20年以上も経っているのです。
今更、取り消したところで取り返しのつかない大誤報で、朝日新聞の大失態以外の何ものでもありません。
従軍慰安婦問題はすでに韓国によって政治化され、両国関係に容易には修復できない亀裂を生み出してしまった事を考えれば、その責任たるや甚大なものです。

 

15、考えてみれば不思議な事でしょう。
被害者といえば、わざわざ外国まで行かなくとも、まずは広島・長崎における被爆者がいます。
これなど、アメリカといえど申し開きの出来ない国際法違反の恐るべき民間人が大量殺害で、我々は、この限りで「絶対的被害者」なのです。
しかし、朝日新聞が、広島、長崎でアメリカに対して痛烈な批判や謝罪要求を繰り返したという話は聞いた事もありません。
どうしたというのでしょう。
これほどの人権破壊はないというのに、です。
いや朝日新聞だけではありません。
保守系新聞や雑誌も、従軍慰安婦問題についてはあれほど朝日批判を行い、韓国を批判しますが、これも原爆に関して強固なアメリカ批判を行う事はほとんどありません。
せめて、アメリカ大統領が来日すれば、広島、長崎への訪問と謝罪ぐらいは要求してもよいでしょう。


16、戦後日本は天皇主権国家から民主主義国家になりました。
昨日まで天皇陛下万歳だったのが、一夜で国民万歳になったのです。
この一夜漬けの民主主義を可能としたのは、やはりまたアメリカ的歴史観で、戦争をもたらしたものは、天皇を担いだ「軍国的勢力」という支配者だ、という理解です。
民主主義は、この独断的で軍国的傾きをもつ支配層への抵抗の原理とみなされたのです。
そこから戦後日本に特有の民主主義観がでてきました。
民主主義とは権力者に抵抗する政治だという発想です。
ともかく権力をもった支配層というものがあって、国民は常にその犠牲にされかねない、という。
民主主義とは、権力から「国民」を守るものなのです。

 

17、アジア人に対して我々日本人は、日本人である、というだけで加害者なのですが、同時にまた、日本国民は、「国」の潜在的被害者でもあるのです。
本当に加害者なのは「国」なのです。


18、「戦後民主主義」は、国を動かすものは権力者であり、国民は支配される弱者だとみる。


19、特に、地方創生を成長戦略と言われると、つい、何をバカな、と言いたくもなるのです。
なぜなら、少なくともこの20年ほどで言えば、地方の衰退を招いた最大級の要因は「構造改革」という名の成長戦略だったからです。


20、この「街」には、それぞれの地方の個性がありました。
その土地でしかとれないものを売っている店があり、そのあたりでは評判の店があり、その場所の特産をだす食堂がありました。
明らかにここには「地方」があったのです。


21、さらに、規制緩和を中心とする構造改革は、人と資本の動きを流動化し、また土地取引規制や建築の規制を緩和し、土地の動きを流動化しました。
その結果、どうなったかというと、いうまでもなく東京一極集中です。
という事は、ほぼ自動的に地方を疲弊させます。


22、このような意識が我々には刷り込まれている。
だから、都会=先進文明で、そこには「何でもある」。
一方、地方=後進地帯で、ここには「何もない」という事になるのです。
多くのヨーロッパ諸国では、そうはなりません。
パリやロンドンやローマのような大都会はそれはそれでひとつの世界であるが、地方は、それぞれ、大都会とは全く異なった個性的な文化をもっている、という意識が強いのです。
むしろ、地方にこそ、イギリスらしさやフランスらしさ、イタリアらしさがある、という意識がある。
これはひとつには、ヨーロッパには中世以来の自治都市の伝統があるからであり、また、そもそも、一国のまとまりができるのは近代にはいってからで、それ以前は様々な領邦から成り立っていたからでしょう。


23、最初に、今日、地方の崩壊は目を覆うばかりだと言いました。
その直接の理由は90年代に始まった構造改革と市場競争主義にある、と言いました。
これは目に見える大きな変化です。
しかし、もう少し言えば、地方の崩壊は明治以来の近代化のなかでずっと継続して生じてきた事ではなかったでしょうか。
明治以降の近代化、そして戦後の経済成長を追求するなかで、地方性は益々失われていったのではなかったでしょうか。


24、そのことを歌った室生犀星の有名な詩を借りておきましょう。


ふるさとは遠きにありて思ふもの

そして悲しくうたふもの

よしや うらぶれて異土の乞食と

なるとても

帰るところにあるまじや

 

25、1988年から89年にかけて竹下登首相が「ふるさと創生」を唱え、各市町村に1億円をバラまいた事があります。
それがいったい何に使われたのか。
イカの巨大なモニュメント(函館市」、純金のこけし(青森・黒石市)、純金のカツオ(高知・中土佐町)、世界一巨大な狛犬(岐阜・琭浪市)、日本一長い滑り台(山梨・丹波山村)、自由の女神像(青森・おいらせ町)、さらには村営キャバレー(秋田・美郷町)。

 

26、安倍内閣の「地方創生」がどんな形をとるのかは全く分かりません。
しかし確かな事は「ふるさと」を創生するなどということは出来ないのです。
それはもう失われたものだからです。


27、21世紀に入ってすぐ2001年にアメリカで9・11テロが起きました。
一気に狼煙があがったわけで、その後、イスラム過激派とアメリカの対立は益々深刻化しました。
2003年のイラク戦争は結局、予想通り失敗に終わり、イラクは益々混乱の度合いを深める。
そこへ、エジプト、リビアなどの独裁政権の崩壊と民主化運動(アラブの春)が生じましたが、これも予想通り失敗に終わり、この混迷の中から「イスラム国」(IS)なる極端なイスラム国家の建設運動が起きてきました。
次に2008年のリーマン・ショックがありました。
ドルを多量に刷りまくって金融市場や不動産市場へ金を回し、そこでバブルを引き起こして景気を牽引するという「金融資本主義」の崩壊でした。
このやり方ではもたない事がはっきりしたのです。
にもかかわらず、それに代わる有効なやり方を先進国は見出す事が出来ません。
その次に生じたのは2010年のギリシャ財政危機であり、それに続くEU全体の不安定化でした。
実はEUがもともと矛盾を含んでいたのです。
通貨幣統合によって経済は統合したものの、政治は統合しません。
だから、財政や政策の意思決定は各国バラバラなのです。
その結果、経済の調子がよい国は政治もまあ安定するでしょう。
しかし、経済の調子が悪くなるとその国の政治は不安定になります。
ギリシャに続いて、ポルトガル、スペイン、イタリアと財政危機は広がり、フランスでもEU批判派が勢力を急伸している。
表面化はしていませんが、EUはいつ崩壊してもよい状態にあります。

 

28、とりわけ、中国の海外進出は顕著でかつ国際法もなにも平気で蹂躙するという傍若無人ぶりで、東・南シナ海のみならず、中東、アフリカへの進出も強めている。
しかも国内には格差問題や少数民族問題を抱え、更には今後、一人っ子政策の帰結であるいびつな人口構成が顕在化してくるでしょう。
共産党は政権を維持するために矛盾を抑え込もうとするでしょうが、いずれ矛盾は沸点を超えてしまう。


29、さて、今(2014年)から100年前に第一次世界大戦が生じました。
6月28日にオーストリアの皇太子がサラエボセルビア人青年に暗殺されるという事件を契機として始まった戦争は、当初は3、4ヶ月もすれば収まるという期待を裏切り、延々と4年半も続いたのです。
そして、戦争が終わってみれば世界は一変していました。
ヨーロッパは疲弊し、それに代わってアメリカとソ連が台頭してきます。
歴史を積み重ねてきたヨーロッパに代わって、歴史を破壊する実験的国家であるアメリカとソ連が一気に世界を動かすようになったのです。
そして200年にわたって世界の先頭にあったヨーロッパはもはや没落への道を転がり落ちるという絶望感にさいなまれるようになります。


30、ここにヨーロッパが生み出した近代は普遍化され、世界化されてゆきます。
普遍文明とみなされるのです。
そしていうまでもなく、この普遍文明を代表するのはアメリカという国でした。
20世紀になるとアメリカは急激に移民国家の様相を呈します。
ロシア革命を逃れてロシアや東欧から人が流れ込み、ナチズムを逃れてユダヤ人が流れ込み、職を求めてアジア人が流れ込む。
こうなると、アメリカこそは多様な民族が人種からなる「世界の縮図」となり、アメリカこそは「世界的」な普遍文明を代表する事になる。


31、かくて、実証主義、科学技術、市場経済、民主主義、自由な個人、基本的人権といった観念はグローバル・スタンダードとみなされてゆきました。


32、だから、今日、生み出されている様々な危機的な事態を乗り越える方法が見当たらないのです。
自由や民主主義や人権思想や市場経済グローバル化や技術革新によってでは問題は解決しないのです。
ひたすら新しい技術を開発して経済を成長させても、問題は何一つ解決しないのです。


33、ところがニーチェは、まずは、そんな価値を脱ぎ捨ててしまえ、と言った。
キリスト教近代主義の理想にとらわれていては駄目だ、と言う。
そんな幸福はちっぽけなものだし、人はそんな価値によって本当は幸福になれない、というわけです。
それどころか、キリスト教は人間を見苦しいまでに自虐的な存在にし、自由や平等や人種などを唱える近代社会は極めて偽善的で欺瞞的ないやらしい社会だ、と言った。
今日、アメリカがグローバルな正義として打ち出している自由や民主主義、平等や人権、公正な市場経済などというものは、ニーチェのような発想からすれば、何とも欺瞞に満ちたいんちきくさい正義だというのです。
だから、こんな価値観はまずは捨ててしまえ、というわけです。
確かに、ニーチェが述べた事はかなりの程度において現実になってしまったのです。


34、ざっとこんな具合です。
つまり、誰もが、広い意味で、何かの「専門家」になってしまっていて、特定の論点にしか関心を持てなくなってしまったのです。
あるものは市場競争という観点から世界をみ、あるものは技術革新と成長という観点から世界をみ、あるものは憲法9条から世界をみ、あるものは民主主義から世界をみ、あるものは人権や戦争責任から世界をみ、あるものは軍事力からのみ世界をみ、あるものはネットから世界をみ、あるものは世界秩序という観点からのみ世界を眺める、といった具合になっている。
それを足し合わせると、まさしくピカソ状態になってしまうのです。
しかし、それこそがニヒリズムの特質で、ニーチェも言うように、ニヒリズムとは、統一も、目的も、真理も失われた状態だからです。


35、成長主義者が言うように、これまた自由の拡大が無条件に善である、という理由もどこにもありません。
人権主義者が言うように、人権を確保する事が全ての人の幸福になるという理由もありません。
平和主義者が言うように、平和を唱えれば世界が平和になる、というものでもありません。

 

36、2014年12月の衆議院議員総選挙はいささか唐突な衆議院解散から始まりました。
野党は大義も争点もないと言っていましたが、野党が「争点がない」と言うのはいささか無責任な話で、争点を作り出せなかった責任は野党の側にあるのです。
そもそも野党が、解散はするなと言っているのですから奇妙な話です。
野党が解散を要求して国民の信を問えとどなりたて、与党が口実を使って権力にしがみつく、というのが「普通の構図」というものなのでしょうが、この場合はその逆でした。
野党が「国民の信を問う必要はない」と言っていたのです。
これでは野党は与党の政策を支持している事になってしまいます。
経済政策も集団的自衛権もエネルギー政策も野党は対案を出せないのです。


37、確かに、安倍政権になって経済のムードは大きく変わった。
これは明らかに安部首相の功績です。
「異次元の金融緩和」や「機動的な財政政策」は、民主党政権では決してありえなかった大胆な政策であり、脱デフレという明確な目標設定も適切なものでした。


38、だから、50カ国以上の歴訪という「地球儀を俯瞰する外交」と称する何かコロンブスの時代を思わせるような外交も、グローバルな経済戦略と結びついたものであって、確かに、この各国歴訪には安部首相の覚悟のようなものを感じさせました。
これは決して民主党や他の政治家では出来なかった事で、安部首相の功績と言わねばなりません。


39、構造改革にあけくれた約20年は、まさに日本経済に「グローバル競争力」をつける持続的な実験だったのです。
そしてどうなったか。
それがデフレの十数年であり、格差の拡大であり、停滞の20年だったのです。


40、第一にあげるべきは、人口減少、高齢化社会の到来です。
2008年をピークに日本の人口は減少に入っていきました。
そして90年代にはすでにこうした事は予測されていました。
人口減少・少子高齢化になると当然、市場は縮小します。
少なくとも将来の市場の拡大は望めない。
こういう予想・期待が支配的になります。
すると企業は投資をひかえるでしょう。
高齢化へ向かう人々は消費を減らして貯蓄するでしょう。
かくてデフレ圧力をもたらします。


41、問題は需要が不足しているのです。
将来の見通しがたたなければ消費は伸びず、企業の設備投資も増えません。
そもそも需要が伸びないところにもってきて供給を増やせば、益々デフレ・ギャップが開いてしまうのです。
問題は、供給側ではなく需要側にあるのです。


42、とすれば、日本は実によいポジションにいると言うべきではないでしょうか。
無理をしてまで貧欲に成長を追求する必要はないのです。
安定した社会を作り出してゆけばよいのです。
ただそれはかなり難しい事でもあるのです。
うまくやる為には「グローバル競争」などというよりはるかに困難な方向かもしれません。
何よりもまず、我々の頭の中を切り替えなければなりません。


43、誤解しないでいただきたいのですが、私は別に経済成長を目のかたきにしているのではありません。
何が何でも成長にストップを、などと言っているわけではありません。
そうではなく、無理をしてまでも成長路線をとる必要はない、と言っているのです。
つまり、経済成長より上の別の価値観を掲げるべきだと言っているのです。


44、いくつか考えられることはありますが、ここで特に具体策を論じる必要はありません。
今、言いたい事は思考の転換なのです。
価値の転換です。
「グローバル競争に勝たなければ成長できない」そして「成長しなければ幸せになれない」という思い込みから我々自身を解放する事です。
本当の事を言えば、この選挙の争点はまさにそこにあったはずなのです。
グローバル競争に勝って成長を追求するか、それとも人口減少や低成長を前提とした安定した社会への移行か、この選択だったはずなのです。


45、こうなると、福沢諭吉の論は、まさしく140年経ったこの21世紀のグローバリズムの時代とそれほど変わらないのではないでしょうか。
19世紀後半は植民地主義の時代、あるいは帝国主義の時代と呼ばれました。
福沢は、日本が世界へ国を開いたまさにその時代の様相を的確に捉えていた。
文明化は必ずしも世界を平和にするわけでも、人間の品性を高め、性格を穏やかにするわけでもありません。
人間交際は、一方で、精神の働きを活性化するけれども、それは利をめぐる競争や争いをももたらすのです。
だからグローバリズムとは、世界的規模での競争や戦争の時代を生み出してしまうのです。


46、しかし、逆にまた、「文明論之概略」から140年経った今日になってもまだ福沢の文明論が決して色褪せない点にこそ驚くべきではないでしょうか。
しかも、事態は益々混迷の度合いを深めています。


47、第一に、戦後70年経っても日本は本当の意味での独立国にはなっていません。
独立という観点からすれば、未だに半人前国家です。
ハード面で言えば、日本は公式的には軍隊をもっておらず、自国の防衛をアメリカに依拠しています。
またハート面で言えば、国民全般に独立の気風も報国心も行き渡っているとは思えません。
それどころか、アメリカの経済理論や政治理論を後世大事に受け入れ、日米は同じ価値観によって結ばれているという言説が世論の中心になっているのです。
これではとても独立国とは言えないでしょう。


48、確かに、日本の場合、そもそもの格差があまり大きくなく、しかも、それは英米ほどに拡大していない。
しかし、それでも不況の90年代、デフレの20年を含めて、この20~30年の間に富裕層は30%ほど所得を増やした事になります。
平等社会、日本としてはやはり格差は進展したのです。
正確には、金持ちがますます金持ちになったのです。


49、「21世紀の資本」において、私が最も印象的だったのは、実は、格差問題ではありません。
格差が拡大している事は十分に予想できた事でした。
そうではなく、本書は基本的に、資本主義はさして経済成長を生み出さない、という前提で書かれているのです。


50、そもそも、資本主義経済とは、それほど成長するものではないのです。
人口が増加しており、新しい技術が生み出され、しかも、もっと歴史的に言えば、戦争からの復興やキャッチ・アップという特異な事情のなかでのみ、急激に成長するものなのです。
ましてや、今後の人口減少社会にはいる先進国にあって「がんばれば成長できる」などと言う方が無理な話なのではないでしょうか。


51、しかし、新自由主義をとろうが社会民主主義をとろうが、いずれにせよ、それは経済的な富の増加と配分をめぐる綱引きなのです。
より本質的な問題は、この種の「経済的議論」から抜け出る事です。


52、しかし、今日、経済成長は難しくなってきている。
という事は、確かに、「資本主義は終わった」という事にもなるのです。
「資本主義の終焉」にもかかわらず、我々が、いつまでも「拡張願望」や「自由への欲求」にとらわれている限り、フラストレーションや苛立ちから抜け出る事は出来ません。
この問題を解決の方向へ向けるものがあるとすれば、それは「拡張願望」や「自由への欲求」という近代を突き動かしてきた価値観を見直すほかないでしょう。


53、そしてその40年後にピケティはまさにそういう事を書いている。
「私は経済学が社会科学の下位分野だと思っており、歴史学社会学、人類学、政治学と並ぶものと考えている。私は「経済科学」という表現が嫌いだ。
この表現はとんでもなく傲慢に聞こえる」


54、ピケティの議論はこうでした。
歴史的に見ると、資本からの利潤率は、ほぼ4~5%である。
しかし、経済成長率は、戦後1950年から80年までの30年間を除くと、利潤率を下回っている。
これが、この書物を一躍有名にした、例の、「rVg」という不等式でした(rは収益率、gは成長率)。


55、ピケティの示したところによると、新自由主義の「競争とイノベーションによる経済成長」という説は、まったくの嘘っぱちだ、という事になる。
「資本」は利益をあげているけれど、「資本主義社会」は、決して成長していない、という事なのです。
これは、それなりに「画期的」なのではないでしょうか。


56、資本主義とは何か。
それはまずは「資本」の無限増殖の運動です。
「資本」とは、「キャピタル」という言葉から分かるように、「元金」であり、また「首都」です。
キャピタルのもとになっている「キャペット」という言葉は「頭」です。
だから、「キャピタル」はまた「もっとも重要な」という意味もある。
「キャップ」はいうまでもなく頭にかぶる帽子であり、「キャプテン」は「長」です。
いずれにせよ、これから分かるように、資本主義(キャピタリズム)とは、「資本」=「頭」=「長」が先頭をきって新たな世界を開拓し、「資本」を増殖する運動のなのです。
「資本」つまり「頭金」が自己増殖する。
「頭金」は、市場の中にあって、ただ需要と供給を調整するために人手から人手へと渡るものではありません。
そうではなく、新領域を開拓し、そこに利潤機会を見出し、そのことによってまた次の「頭金」を作り出す。
だから、資本主義は、常に「フロンティア」を求める。

 

57、グローバリズムは、いずれ、あらゆる地域を同質化してゆくのです。
急激に文明的な落差は縮められ、やがて画一的な巨大なグローバル文明へと編成されてゆくでしょう。
もちろん、それには時間がかかります。


58、そこで注目されるのは、ITから派生した、様々な情報機器です。
今日、スマホは、あらゆる情報源を一手に引き受ける事になる。
こうなれば、もはやテレビも電話も、そしてパソコンさえもいらなくなる。
情報による制御は、自動運転する自動車、という究極の「自動車」を作りかねない。
更に、情報技術の急激な発展は、生命科学や遺伝子学の展開を生み出し、医療や医薬品の分野の革新を生み出そうとしています。
これらが、今日のフロンティアになってしまったのです。
何とも奇妙な事ではないでしょうか。

 

59、しかも、グーグルで検索サーヴィスを購入しても、利用者はまったく料金を払いません。
ツイッターでつぶやいても同じ事です。
1ドルのバナナを買えば、GDPは1ドル増えるのですが、何回グーグルの検索を利用しても、別にGDPが増えるわけではないのです。
これが、資本主義の行き着いた先なのではないでしょうか。
言い換えれば、資本主義は、いくらイノベーションを起こし、「資本」を増殖させても、もはや十分な成長を生み出すことは難しいのです。
とすれば、今日、我々が本当に考えるべきは、成長戦略ではなく、いかに脱成長主義社会へと移行するか、ではないのでしょうか。


60、人の幸福というものを、仮に、物的な側面と精神的な側面に区別できるとすれば、物的な側面への過度の傾斜が、精神的な側面の破損をもたらすのではないか、という事です。
物的な側面と精神的な側面の間の均衡が崩れつつある。
にもかかわらず、その事を我々は直視できません。
なぜなら、物的な側面は、GDPや成長率によって測定され、数値化できるのですが、人間の心理や社会的つながりは、まったく測定もできず、数値化も出来ないからです。


61、こうしたことは、脳科学的にもある程度、実証されているようで、アルコール依存と同様、ある種のネット依存症は、意思決定や自己統御機能を崩してしまうように脳の構造的変化をもたらすでしょう。
前頭葉機能の低下と、かわって衝動的な感情を作動させる側頭葉の活性化をもたらす。
精神分析の用語で言えば、自己を統御する「超自我」が弱体化して、本能的で衝動的な「イド」が支配的になってゆくのでしょう。
これは、1人の人間についての話ですが、社会全体がこの方向に動いているとすればどうか。
恐るべきことでしょう。

 

62、かくて、衝動を抑えられず、イドによって突き動かされる「消費者」は、限界を知らないで欲望を膨らませる事になるでしょう。
彼は益々「がまん」できない人間になってゆく。
「待つ」という倫理の基盤を失ってゆくのです。
もしも、今日の資本主義のフロンティアがこのような、人々の内面、つまり「衝動」へ働きかけるものだとすれば、本当に、それは「人間破壊」という他ないのではないでしょうか。

 


<思想家の西部邁さん、哲学者の柄谷行人さん、思想家の佐伯啓思さん、国際政治学者の舛添要一さん、国際政治学者の三浦瑠麗さんは、東大の先輩にあたります。

その後、西部さんは東大教授に。 柄谷行人さんはイェール大学の客員教授に。 佐伯さんは京大大学院教授に。 舛添さんは東大助教授に。 三浦さんは現在、東京大学政策ビジョン研究センター講師です。

西部さんの講義、聞きたかったです…。>