思想家の西部邁 『戦争論―絶対平和主義批判』を読んで。

(この本は1991年に書かれたものです。
また、読み始めて気付いたのですが、僕はこの本を過去に読んでいます。
本棚を見渡しても無いという事は捨てちゃったんですね。
ですが、今回は心に響いたので、印象に残った文章を羅列します。名著です)

 

1、捕虜になったときの振る舞い方についての軍人教育がなくとも、拷問を受けたり激しい尋問に連日遭ったとうのならばともかく、自分から進んで自分の仲間をアメリカ軍の攻撃にさらすような情報を提供するというようなことはしない。
それが人間がまともであるための最低条件ではなかろうか。
すべてとはいわないが大方の日本人のなかに伏在している「自分さえよければ」という卑俗なエゴイズム、自分がアメリカの覚えめでたく助けられればそれでよしというごく直接的なエゴイズム、そういうものの現れではないかと私は感じた。


2、民間人とて同じである。
たとえば占領軍の総司令部に寄せられた日本人からの投書がいまアメリカの国務省の一室に保管されているのだが、それは30万通の多きにのぼるという。
そのほとんどは、「占領軍の皆さま、戦時中に悪いことをしたあの日本人をぜひ逮捕してください」という類の密告である。
これが何十通とか何百通にとどまっているのであれば、この世には変な人間がいるものだですむのであるが、30万通ともなると、これは日本の国民性についての資料なのではないかと言わざるを得ない。


3、私が指摘したいのは、そういう傾向に対し、いわば臭いものにフタをするといった調子で、たとえば「平和と民主」という綺麗事を並べながら、戦後という時代にベールをかけるようなやり方にはそろそろ終止符が打たれるべきだということにすぎない。


4、自分たちの国家のために死んだ人々に対して、それなりの弔いの儀式を挙げてなすのでなければ、国家の連続性つまり歴史の観念が保持されえない。


5、敗戦にもとづく自己不安の増大のなかで戦勝国に右へならえするという敗戦国にありがちなことが日本にも起こったのである。
それが「病理」であるのは、アメリカナイゼーションが自動症めいたかたちで、かつ過剰な規模で、進行したからである。
というのも、この場合のアメリカナイゼーションとはインダスとリアリズムつまり産業主義とデモクラティズムつまり民主主義との二本の柱から成り立つ価値体系としてのアメリカニズムに吸収されることだからである。
産業制はいつも集団のシステムとして、しかも開放されたシステムとして動く。
産業の発展のためには、日本流の伸縮的な集団主義がうまく機能するのである。


6、アメリカ型の文化は、状況によってコンフォーミズムつまり画一主義に走りがりである。
たとえばアメリカという国家が危機的な状況に陥ったとき、その個人主義者の集まりであるはずのアメリカ人たちが、「アメリカン・フリーダム」や「パックス・アメリカーナ」を叫びながら、一挙にコンフォーミズムへと向かう。


7、ヨーロッパは、そして少々だがアメリカも、産業化と平等化を掲げはしたが、しかし陰では、それにブレーキをかけようともしてきた。


8、しかし私のみるところ、80年代に入るあたりから、日本の経済大国ぶりが明らかになるにつれ、このまま近代化路線・アメリカ化路線をひた走っていて果たしていいものかどうかという不安が、日本人の心奥にひそかに芽生えてきた。
というのも、アメリカ化とはマネタリズムとテクノロジズムにおける成長とその成果の平等の分配ということにはかならないのだが、その結果、日本人は目標喪失・目的喪失・価値喪失という自己不安に苛まれはじめたのである。


9、真善美の絶対的基準はない。
それを求めることも不毛である、と構えた結果なにが出てきたかというと、欲望主義である。
真善美の絶対的基準に照らし合わせて自分の意見とか行動を律するのではなくて、自分の内部から生じてくる欲望を解放しつづけるという生き方である。


10、その一つは、流行といってもいいし世論といってもいいが、世間で人々がやりはじめているものに右へならえするという俗流集団のやり方である。


11、ところが、湾岸戦争に際して、世論は50年代の理想主義に逆行していく。
これは精神病理学でいうところのリグレッションつまり「退行の病理」である。
湾岸戦争をめぐって平和主義の声が随所で聞かれたが、それは本心から叫ばれた声ではなかった。
ともかく、湾岸戦争をめぐる平和主義は「退行の病理」と「合理化の病理」の複合としての日本の文化的病理だといわざるを得ない。


12、また反左翼あるいは非右翼のがわにも平和主義者がいなかったわけではないのだが、彼等もまた現実にかんする判断を持っていた。
つまり、アメリカは必ず日本を守ってくれる、したがって日本は軍備を持つ必要はないという判断である。
アメリカに依存していれば、どうにか戦争に直接かかわらずに過ごせる、というわけだ。
これは、少なくとも単純論理では、簡単に成り立つ構えである。
つまり他国に攻められようとも日本は武力的には抵抗しない。
もっと広くいえば、日本の隣国なり友好国が理不尽なかたちで侵略されようと、日本はそれを助けようとしない。
ひたすらなる念願として絶対平和の姿勢を日本人各位が唱え、そしてそれを他国の人々に訴えることだけをしようという次第である。


13、わかりやすくいうと、ヒューマニズムという名の「性善説」を信じ込まなければならないということである。


14、40年の長きにわたって存在している自衛隊および日米安保条約という軍事同盟、その二つは巨大なる憲法違反であり、絶対平和主義者への巨大なる挑戦である。
だが、平和憲法の革命性やら急進性を主張している彼等ポストモダニストたちが、自衛隊を解体せよ、日米軍事同盟を破棄せよ、という言挙げをしたとも運動を展開したとも私は聞いていない。
彼等がいま、湾岸戦争をめぐって、自衛隊海外派遣に反対するというようなかたちで、平和主義の根源的革命性を唱えたとしても、彼等のこれまでの振る舞いからして、とても本気のものとも思われない、そして今後も、自衛隊解体や日米安保条約破棄の運動の先頭に彼等が立つとはどうしても考えられないのである。


15、「日本には危機管理の準備が足りない」とよく言われるし、ある評論家の表現でいうと「戦時文法がない」のが日本である。
それはまさにその通りであって、平和憲法の存続を許しているような国家に危機管理意識がみなぎっているわけはないのである。
戦後、アメリカの庇護の下に安定した平和と繁栄を享受してきた日本人の生活意識のなかに危機意識が育つわけもない。
私が問題としたいのは、国際的な危機に対していかに対応するかという構えは、人々の日常生活のなかにこそ根を下ろしていなければならないという事である。


16、膨張を恐れずにいえば、欧米では、危機意識や危機管理能力が日々の家族生活や職場生活のなかで微妙に訓練され少しずつ蓄えられていく。
そういう日常生活のおかげで、国家的な危機にもかなり敏速に対応できる。
世論が国家的危機の問題性を敏感に感じとって速やかにまとまり、それを受けて政府の対策も速やかに組み立てられる。
少なくともそういう素地が欧米文化にはある。


17、絶対平和主義を唱えている人自身がヒューマニズム性善説も信じていない。
それどころか平和憲法なるものを全面的に擁護するための言説にも運動にもコミットしていない。
彼等が突如として唱えはじめた絶対平和の理念なるものは、やはり、状況に対する怯えにすぎない。


18、よく言われているように、湾岸戦争は世界の戦争史の上で初めて、国連という国際機関の決議にもとづいて行なわれた戦争である。
国連そのものが第二次大戦の最大の勝利国であるアメリカのイニシアティブあるいはエゴイズムとのかかわりでできた機関であり続けているのであるから、戦争を国連決議にもとづかせたのもアメリカの戦争の口実にすぎないという面がないわけではない。
もしアメリカの国家エゴイズムが決定的だったというのなら、アメリカはバグダッドまで侵攻してイラクフセイン大統領を殺すこともできたであろう。
だが、あの戦争の大義名分は国連決議だったのであり、それゆえクウェートを解放した直後に戦争をやめるほかなかった。


19、さて問題は、どうして禁止するのか、という素朴な一点に絞られる。
人間には、ヒューマニストたちが褒めあげるような性善なる麗しい性格もあると同時に、その逆に性悪としかいいようのない如何わしい性格もある。
これについては、人類史は一向に改善をみせていない。


20、文明というものの定義については色んな仕方があり、たとえばシュペングラーのように、文明と文化とは違うという見方もある。


21、もっと言えば、日本人の容貎が非文明のそれに近づいているのが私の気がかりである。
特にいわゆるマスデモクラシーの進展とそこにおけるマスコミの巨大な成長の結果として、「ルールによる支配」ではなく「感情による支配」が日本に広がりつつある。


22、だが、湾岸戦争に対する日本の反応は、ルールの意義やフォースの意味を度外視して、感情論に埋没する体のものであった。
それが最終的には絶対平和のお念仏へと吸い込まれていったのである。
非文明人の陣営から支持を与えられることがあっても、文明人の陣営からは、いったいお前たちは文明というものをどう考えているのか、文明に参与したくないのなら、はっきりそう言ってもらいたいと詰問されても、抗弁のしようがない。


23、アメリカ経由にせよヨーロッパ経由にせよ、近代日本もまた自由思想のありがたみを理解したし、自由を享受してもきた。
しかし自由には秩序がなければならないという単純な原理が日本ではしばしば忘れられるのだ。


24、こうした無頓着なまま第9条を人類の理想とするのは単なる夢想である。
第二に、これの方が感情論としては重要なのだが、「自分が攻められて武力をとるぐらいなら自滅の道を選ぶ」という平和主義者の構えがどこまで本気のものか、という事である。
日本人1億2千万が、自滅を覚悟で戦争放棄をするほど強靭な精神を持った国民であるとは到底考えられないし、これからもそういう国民になりうるとも予想できない。


25、第三に、一切の戦争を放棄するという事は、とりもなおさず、自国の自衛権を放棄するということである。
つまり、国家の主権を守る権利はあらゆる国々に備わっているということを一旦は認めた上で、その自衛権をあえて放棄するというのが平和主義者の戦争放棄である。


26、言葉はコミュニケーションの手段であるとともにディスコミュニケーションの手段でもありうる。


27、ネーションとは、それを根源において規定すれば、人々が共通の文化に支えられ、更にいっそう確かな共通の文化をつくる方向において協力できるはずだという共同のイメージの事である。
つまりネーションの本質は、共同幻想なのである。
しかし異なったネーションの間には相互理解だけではなく相互誤解が、相互依存だけではなく相互反発がある。
したがってネーションの自衛を考えるとき、戦争の可能性をいつも念頭におかざるを得ないのである。
そして特殊な状況における現実性として、戦争は人類に不可避なものだと考えておいた方がよい。
最低限、仮設としてでも構わないが、ネーションの不可欠性と戦争の不可避性について考慮しておくべきなのである。


28、国家はスタチュートとローの両面に関わりはするが、どちらかというと、後者を大事とする。
少なくとも自由主義の立場をとる国家にあってはそうである。


29、人間の言語能力ひいては記号化能力の本質が「差異化」の能力にあるという事であった。
つまり差異化された記号や差異化された意味を果てしなく生み出す能力が人間の根源に備わっているというわけである。


30、こんな理屈をわざわざ動員するまでもなく、歴史を冷静に眺めれば、各国民国家がボーダレスになる、つまり国境を無くして融合し合うなどということは、とてもあり得ない事だと分かる。
確かに経済の側面においては、貨幣・商品・技術あるいは人間が国境を頻繁に越えて移動している。
ボーダレス・エコノミーはこれからも進捗するに違いないのだが、しかしながら文化的および政治的にいうのならば、ボーダレス・エージは同時にボーダフル・エージでもあるのだ。


31、今度の湾岸戦争に即してみても、アメリカの正義やアラブの大義がいわれたが、正義といい大義といい、各国の国益に対する名分に過ぎないではないかといわれれば、確かにその節が濃厚である。
湾岸戦争をめぐっても、ナショナリスティックに物事を理解するという方が分かり易いようにみえる。


32、これも繰り返しになるが、ルール破りに対する制裁条項を持ってこそのルールであるから、国際社会においても国際ルールが破られたときは、それに対する制裁というものを科さざるを得ない。
湾岸戦争は、そういう意味でも、ルールというものの紛れもない単純な性格を全世界に知らせたのであった。


33、トラディションつまり伝統とは、少なくともその本質は、人間の理性・感性に対する知恵ある遣い方の事である。
人間は理性と感性がなければ人間として生きていけない。
もちろん念の為に申し添えれば、トラディションには誤謬も堕落も残酷も含まれている。
しかし人類の歴史が暴動だ、戦争だ、革命だ、というふうに色々な浮沈を経ながらも、何はともあれ連続性をもって現在までつながってきている以上、その連続性を可能にしてくれる知恵が人類の歴史の奥底にあるはずだと考えるしかない。


34、そして、これが重要なのだが、トラディショナルな知恵の中心にはルールがある。
厳格なルールのみならず、弱いルールとしてのマナーやエチケットもそこの蓄えられている。
トラディションの本質は人間の表現活動におけるバランスを可能にするような表現のルール・マナー・エチケットなのである。


35、前世紀末、ニーチェは近代人における「価値判断能力の著しい衰退」の事を指摘した。
それから1世紀経って、もっと深刻なかたちで、紛れもなく不道徳の言辞が日本の言論界を支配している。
しかもあろうことか、そういう自分らの不道徳をカモフラージュする為に、平和憲法を守れ、という一聞したところでは麗しげな合唱が歌われた始末である。


36、湾岸戦争をめぐって、少なくとも萌芽としては、国際社会が国際ルールに照らして律せられる方向へと進んだ。
私の価値判断から言えば、それは文明の成熟であり進歩である。
その進歩が今後も単線的に進捗するとは思われない。


37、日本人としては残念な事だが、西欧が文明における先達者だという事を確認した方がいいのではないか。
確かに西欧の理性一元論や技術一元論が弊害を多々もたらし、しかもそれにキリスト教的なエゴセントリズムが付け加わって、非西欧世界に対する恐るべき残虐が数世紀にわたって行われたのは事実である。
しかしそれを通じて、自己の一元的な傾きの誤りを自覚したのは西欧であるし、自己のエゴセントリズムからくる残虐性を自覚したのも西欧である。
西欧が文明の先達だというのは、自己の不完全性というものを知ってかえって、自己以外のものに対して自己を開かなければ自己自身が成り立たないであろうという事に明確に気づき、それを哲学・思想・文学にまで深めようと努力したからである。
そして、そうした努力の中枢にルール意識が育ったのだと私は思う。
その点にあえてこだわって言えば、日本を含めて非西欧というのは、文明の基準からいえば、やはり大人ではないのである。
己の持っている不完全性を自覚できない、己の感情や理屈に明確な体系的疑念を突きつける事が出来ない、それが日本人というものなのだ。
文明圏に所属するという途を選んでおきながら、日本人は文明人ではない。
せいぜいのところ、文明の未熟児といったところにすぎない。


38、ガンジー主義で立国しようというのでは、日本人は人類の珍種だと言われても仕方がない。
しかもその珍種の憲法すら自分でつくったものではない。
自国の憲法を自国民でつくらなかったのも日本人が珍種であることの証拠と言えようが、更に、ただの一カ条も憲法を改正した事が無いというのももう一つの証拠である。
憲法というものは、どの国でもそうだが、戦争や革命のあとの大混乱期において、間に合わせの形でつくられる。
したがって、混乱が鎮まれば、憲法の足らざるところを補ったり、余ったものを削ったりするのが、常識的にいって全く当然の処置である。
それゆえに、たとえばドイツは36回、アメリカも15回というかたちで憲法を改正している。
半世紀近くにわたって、アメリカにつくってもらった憲法を、ただの一度も変えたことがないというのは世界でたった一つ、日本だけである。

 

39、他方、日本で絶対平和を言っている人々は、ガンジー主義を家庭生活や職業生活において、実践しているであろうか。
わざわざ論ずるまでもなく、嫉妬に動かされ、権威を渇望している連中が口先だけでガンジー主義を唱えているにすぎない。


40、いずれにせよ、アングロサクソン近現代史の世界史の覇権者であるから、それに接近しようという打算からではなく、理想と現実の間のバランスとしての漸進主義という点で、彼我の共通性を認識しておく必要がある。
とはいえ、世紀末から次生起へかけて、日本とアングロサクソンとくにアメリカとの対立が深刻化すると予想される。
端的に言えば、貿易摩擦である。


41、文明は、国家のレベルであれ国際社会のレベルであれ、リベラル・デモクラシーへと進むほかない。


42、湾岸戦争は、「国際ルール」というものの必要性を浮上させた戦争だったのであるが、日本はそれへのコミットメントをサボタージュした。
国際ルールというものの今後の展開について、日本は発言権を自分から放棄した、少なくとも大幅に縮小させた。
これを挽回するには、戦後の観念枠組みのトータルな批判をつうじる、再出発が必要となるのであろう。


43、さて、それでは自由・平等・博愛に代わっていかなる価値のトリアーデつまり三幅対が指導理念となるべきであろうか。
私はそれを「自由・公正・規則」というふうに言い直すべきだと思う。


44、湾岸戦争は、国家エゴイズムのぶつかり合いではあったが、自由とは何であるか、公正とは何であるか、規則とは何であるかという事をみせつけもした。


45、平和のただなかにおいて平和主義を声高に唱えるのは、という事は平和をもって第一義の価値とみなすのは、虚妄である。
平和とはつまるところ「生き延びることに苦労を感じないような状態」の事に他ならないのだが、人間にとって、少なくとも畸型・幼型ならざる人間にとっては、「生きることそれ自体」はけっして第一義の、至極至上の、価値には成り得ないものである。

 

46、自国の平和を維持するためにはまずもって「個別的自衛権」の発想に立って自衛軍を持たなければならない。
次に、自国の平和が他国の平和とも連動しているとなれば、また自国の平和維持のために他国の協力が必要となれば、「集団的自衛権」の発想に立って同盟軍をつくらなければならない。
最後に、国際社会全体における平和の維持がいずれ自国の平和にも関係してくるとわかれば、「国際的安全保障」の発想に立って国際軍に協力しなければならない。
自衛軍・同盟軍・国際軍それぞれの規模と内容について態勢を整えておくのが国家が一人前であることの最低条件だといってよい。


47、結局のところ平和主義は、それ自身、筋道の定かならぬ屁理屈と視野の狭い感情論に立脚しているせいで、「軍事」にかかわる真っ当な論議をすべて排除しようとする。


48、日本は平和国家である。
それゆえクウェート事変に関する日本の貢献・協力は「非軍事的手段」に限られるべきである、こんな世論がマスコミ方面を中心にして流布されている。
これは嗤うほか手のない言葉遣いだといってよい。


49、日本は平和国家である、その根本は平和憲法の前文における有名な文言つまり「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」という文章によって打ち固められている、この平和主義の旗を絶対に降ろすべきではないと世論はいう。


50、頼すべき相手も見定めずに、何ものかの「公正と信義」に信頼を託して「われらの安全と生存を保持」するというのが平和国家というものであるらしい。
日本は平和憲法をいただく平和国家である。
それゆえ平和憲法で禁止されている自衛隊員の海外派遣も認めるべきでないと世論はいう。
野党はもちろんのこととして、マスコミの大半もそのように言い、あろうことか与党の首脳すらもがそれに口裏を合わせる。
実は私も「国連平和協力法案」は憲法違反だと考えている。
憲法前文で平和主義を宣言し、その第9条で「戦力不保持」と「交戦権の否認」をやれば、自衛隊の海外派遣・派兵が合憲だというのはゴマカシの論法によってのみかろうじて主張しうる事にすぎない。
途は二つしかない。
第一は憲法を改正することであり、第二は平和憲法に徹して軍事的な無防備国家となることである。
私自身は憲法改正を主張するものであり、無防備国家を選ぶのは日本が国家として滅びの過程に入ることに他ならぬと固く信じている。


51、私の頷けないのは、事ここに至っても、平和憲法が日本国家に対する手枷足枷となっているという真実を、政治の舞台において、誰1人として明言しないという惨状についてである。
なぜ次のように言うことがかくも憚られるのか。
憲法の平和主義は次第に日本国家にとっての障害となりつつある。
しかし、今まで政治の次元において憲法改正論議をきちんとやってこなかったせいもあって、憲法改正を直ちに政治日程にのぼせるのは時期尚早と言わざる得ない。
したがって、自衛隊日米安保条約が国会および世論によって認められてきたという憲法解釈の実績に立って、その延長に国連平和協力法を構想する。
そしてこの際、集団的自衛権自衛隊の海外派遣・派兵を否定してきた35年前の政府見解は、現在の世界状態にそぐわぬものであるため、無効とみなす。
いずれにせよ、長期的問題として重要なのは、この国連平和協力法を一つに契機にして憲法論議を推し進めることである。
しかしこの種の発言をなす勇気をもった政治家はいなかった。


52、新しくは「子供たちを戦場に送るな」という社会党の宣伝が結構の人気を博し、古くは「人質1人の人命は地球よりも重い」という福田赳夫首相の言辞が易々と通用したのは、われら日本人にあって生命尊重の価値が至上の高みに置かれているからである。
少なくともこの点において、故三島由紀夫はまったく正しかった。
彼は「生命尊重以上の価値の所在」を忘れた戦後日本人を批判すべく、自己の生命をすすんで断ってみせたのである。


53、生命を最高価値とするやり方は、まず個人の生き方として、理念的にも実際的にも、間違いである。
人間は他の動植物の生命を大量に殺戮する。
そうである以上、人間の生命が大切であるのは、「生命それ自体」としてでなく、あくまで「人間的な生命」という観点に立ってのことである。


54、クウェート事変に関する一連の議論のうちで最も滑稽であったのは、「イラクに対する経済制裁は認めるが、イラクへの軍事圧力は認め難い」というものである。
これは、フォース(強制力)なしに機能しうるルール、という荒唐無稽の発想である。


55、欧米人の誉め言葉を献するのはいくぶん業腹ではあるが、彼等の方が徳が高いというしかあるまい。
ヴィルトゥつまり徳とは男らしさの事であり力強さの事だからである。
つまりルールの実行にはフォースがつきものである事を彼らは知っており、われらは知らないのだ。


56、それによって日本人の感情が鋭敏になっているのならともかく、事態は逆なのだ。
サダム・フセインの人質作戦は、日本人の同胞の生命が危殆に瀕するという意味で、準戦争行為に当たるという事すらきちんと感受されていない。
クウェートの現状にみられるいわゆる「不正義の平和」が、実は、強姦や略奪をたっぷり含んだ惨状であろうという事を想像する力量は日本人にない。


57、それに代わって、マスコミの人口言語による疑似世間が登場する。
マスコミは、マス(大量)を当て込むために、マス(大衆)のものでしかあり得ない。
ここで大衆というのは欧米流の意味つまり否定的な意味においてであって、凡庸・低俗・愚劣であるのが大衆的という事なのだ。


58、つまり私たちはもう私たちではないのである。
大衆社会にあって最も公なるものに、つまりマスコミに、すっかり魂を抜きとられ、私であることをやめて生ける屍となってしまった存在、それが私たちである。

 

59、世論は「経済制裁に徹すべきであった」と言うのみで、それが軍事圧力なしに成就しうるものであるか否かについては一言もないのである。


60、日本人の大半が中東問題を当事者として受け止めはしなかった事、やったことはといえば、ほぼ間違いなくアメリカに威圧されてカネを供出し、あとはただ「平和憲法を守れ」と合唱しただけだということ。


61、国際紛争は「諸国民の公正と信義」が国際社会で貫かれていない事の歴然たる現れである事を認めようとしないのは、他国の国際紛争に無関心であるからだとしか言いようがないのである。


62、自衛隊員を丸腰で戦地に派遣しようという「国連平和協力法案」もでたらめ至極であるが、それを憲法違反だと批判するのはもっとでたらめである。
というのも、自衛隊の存在そのものが憲法違反であるからだ。


63、国際社会における有事にまったく対応できないのが平和憲法だとしたら、憲法改正のことが論議されてしかるべきであるのに、聞こえるのは憲法擁護の声ばかりである。


64、つまり、この島国が他国の攻撃にさらされた時にだけ戦争をやる、それが日本人の関わる唯一の戦争だというのだ。
日米軍事同盟も、少なくとも日本側の理解としては、この専守防衛の目的においてのみ機能すべきものとされてきた。
専守防衛とは、たとえば、自分の友好国が第三国の侵略を受けても見殺しにせよ、と構える事である。
世界にいかなる不正義が行われようとも、武力面においては我関せずとして黙認せよ、それが専守防衛である。
これ以外の自衛観を日本はもつことが出来なかった。
自分さえよければそれでよい、日本流とはそういう事なのだ。


65、国連憲章の第7章で規定されている国際警察活動への協力を、金銭面を別とすると、日本は拒否している。


66、日本人はコスモポリタンとは程遠い。
むしろ排外主義者の集まりと言われて仕方ないような生き方をしている。
そして日本人の一番好きな外国はアメリカである。
むしろアメリカナイズされる事が日本人の喜びだと言った方がよいくらいのものである。


67、クウェート事変が思想的刺激である最大の点は、日本人が国際社会についていかなるルール意識をもって対処するかが赤裸に試されるという事なのであった。
そして案の定、その事変に対応できるようなルール意識を日本人は持ち合わせていないと判明したのである。


68、国際警察の仕事が国際ルールの守護である以上、国際ルールを否定するという事に他ならない。
もちろん、それを否定する思想も覚悟も日本人にはありはしないのだが、自分の感情論が国際ルールの否認に繋がるという事まで考えが及ばないのである。
日本人の精神年齢を12歳だとみたマッカーサーの言はやはり正しかったのかと概嘆したくなる道理ではないか。


69、世界に大いなる地殻変動が起こっているのはなぜであるか。
その答えは単純である。
今世紀を通じて覇権を競合してきた米ソの2大強国が衰微、もしくは崩壊の兆しを露わにしているからである。


70、難問はむしろペレストロイカの方にある。
なぜと言ってペレストロイカは不可能事への挑戦に他ならないからである。
つまり社会主義の「建て直し」は社会主義の「打ち壊し」を必要とするという矛盾のなかに社会主義圏は放り込まれている。
そして社会主義の「打ち壊し」は、もしそれが自滅でないとしたら、自由主義の「植え込み」によって可能となる。
だが自由主義、少なくとも国際的な通用力をもった自由主義の「植え込み」について若干でも楽観的な見通しをもてるのは、せいぜい東独・チェコポーランドくらいのものだ。
その他は、自由主義のための歴史的土壌があまりにも貧弱なのである。


71、それもそのはず、自由主義は人間の本性に根差す個人生活であり社会制度なのだ。
人間は自己についての意識つまり自意識をもたずにはいない。
それをもった途端、人間は自意識の展開としての自由を欲求する。


72、イラク問題が真に大問題であるのは、湾岸戦争が勃発したとすると、世界の大不況という導火線を通じて、それがユーラシアの火薬庫に引火するからなのである。
たとえ引火しなくとも、統一ドイツはソ連東欧の混乱に深く巻き込まれずにはいないのである。
ドイツもしくは独ソ同盟は、混乱をかかえつつ、中央ヨーロッパに蟠踞するという傾向に入るであろう。
フランスをはじめとするラテン諸国は、それを恐れるが故に、独ソへの協力を拒絶するような事はできまいが、自分らの独自の方向を模索するであろう。
その模索のなかには、当然、イギリスへの接近という対応策が含まれているという事になるであろう。
そしてイギリスはアメリカとの紐帯を強めようとするであろう。
アメリカは、イギリスとのアングロサクソン同盟を堅固なものにしつつ、しかし世界のヘゲモニーをしっかり掌中にすべく、ヨーロッパに介入するであろう。


73、いよいよ湾岸戦争が勃発した。
勃発すべくして勃発したのである。
この戦争に奇妙なところは何一つない。
イラククウェート侵略を許容するほど現在の国際ルールは緩くなかったというだけの事だ。


74、第三に、国際社会のほとんど全てがアメリカに、強弱の差こそあれ、味方したという事は、それだけイラクの行動が常軌を逸していたという事である。


75、そして日本の危機管理能力の不足はもはや世界に知れ渡ってしまった。
日本の今後に予想される漂流状態のことを想うと、いつまでも「お家の事情」で足の引っ張り合いをしている場合ではない、と私が言ったとて効果はないものの、しつこく言っておく他ないのである。


76、平和憲法がそんなにも大事なら、自衛隊日米安保条約憲法違反だという事について、なぜ人々は口を閉ざしているのか。
それらの憲法違反は、自衛隊輸送機をサウジやヨルダンに送るのと比べたら、比較にならぬ巨大な憲法違反である。
憲法を改正しないのだとすると、憲法のゴマカシ解釈をする他に途は無い。
それが日本の「お家の事情」の真相なのだ。
平和憲法を守れという人々は、湾岸戦争におけるすさまじい国家対立の現実を眼の当たりにしてもなお、自衛隊解散と日米軍事同盟の破棄を言いつのる事が出来るのか。
是非言いつのるべきだ。
そうしてみれば、自分らの言っている事の空しさにいずれ気づくであろうからである。


77、その根本の理由は、日本がいわばアイデンティティ・エンプティの状態にある、という事だと私は思う。
日本に固有の価値を日本のアイデンティティと呼ぶならば、そうしたアイデンティティは、特に敗戦後45年間において、無化されたのではないだろうか。


78、こうした観念と呼ぶにはあまりにも精練を欠いた未熟な言葉の群れが立派に現実社会の重要部分を構成するようになった最初の国家は確かにアメリカであり、次いでソ連であったといってよいであろう。
それら合衆国あるいは連邦国が、雑多な人種・宗教・習慣をまとめ上げるのに当たって理想主義を必要とし、理想主義にとって未熟な標語が不可避であった経緯は理解できる。


79、日本のやった事はと言えば、連合軍の存在を実質として承認しつつ名目として否認するとうい児戯にも等しい振る舞いである。
つまり「日本の供出する90億ドルは非軍事目的に費消さるべし」というのは、名目としては、連合軍の軍事行動に反対するという意志表示である。
もちろん大人たる連合軍は、日本人の見え透いた子供の偽善などには意を介さず、それを好き勝手に遣うであろう。


80、今回の湾岸戦争の最も注目すべき点は、国連決議に基づいて戦争が行われたという事である。
もちろん国連は唯一最高の国際機構ではない。
そんな事は、スイスのように国連に加盟していない国家があることや、国連憲章第53条が日本を含めたかつての枢軸国を「敵国」と認定している事をみれば明らかだ。
とはいえ、国連が現在の世界で最も広範な「国際ルール」をつくりうる主体である事は疑うべくも無い。


81、もちろん「国際ルール」の禁止条項は、国内法と比べて、微弱なものにとどまるのであろう。
それを、制裁条項を伴うという意味で厳格に規定しうるのは、侵略戦争の禁止やある種の環境破壊についてだけなのかもしれない。
しかし希望的観測を交えて言えば、軍縮や最貧国への援助についても明確な「国際ルール」をつくることが不可能とは思われない。


82、犬を莫迦にして言うのではないが、湾岸戦争に対する日本人の平均反応は、健全な人間のそれではないという意味で、やはり犬的と呼ぶのが適当であろう。
しかもその反応は、「弱い犬ほどよく吠える」といった体の種類に属していた。
ほんの一例を挙げれば、「自衛隊の派遣」やら「90億ドルの支援金」やらに反対して「平和憲法を守れ」の声が随所で頻繁に発せられたのがそれである。


83、一部の思想家とか作家とかを自称する人々の間に広まった言説である。
つまり、平和憲法は日本人がそれを世界に先駆けて実行し、世界にそれを普及させるのに十分に値する「革命的性格」を持っていると言うのである。
なるほど、その革命性は疑いようがない。
「絶対に戦力はもたない」、「絶対に武力は発動しない」という絶対平和主義は、つまるところ、「傷つけられても、奪われても、殺されても、絶対に武力による抵抗はしない」という意味での「ガンジー主義」である。
自分であれ家族であれ、友人であれ同胞であれ、友好国の人間であれ敵対国の人間であれ、ともかくいかなる人間のものであっても、彼等の生命・財産に危害が及ぶのにたいし武力で逆らってはならぬ、それがガンジー主義である。


84、また「ルール破り」には制裁が科され、制裁を効果あらしめるためには(武力を含めた)物理的な力が必要である事を日本人は分かろうとしない。
いや、分かっていながら分からない振りをする、それが日本の流儀なのだ。


85、湾岸戦争に限られた事ではないが、日本人が好むのは「力なき言論」としての感情論である。
感情論において多数を占めること、それが日本のデモクラシーだと言って少しも言い過ぎでは無い。


86、「自分さえよければ」という私情の支配は今に始まった事ではない。
半世紀前を振り返っても、太平洋およびシベリアの方面における捕虜や抑留者たちによる、おびただしい数の密告、そしてGHQへの民間人の30万通にのぼるといわれている密告の投書、というふうに数え上げる事が出来る。
それら臭いものにたいする蓋として「平和と民主」のポーズを採用した、それが戦後という時代のいやらしさである。


<この本を読んで、つくづく日本人が嫌いになった。
だが、その僕も大衆の一人である。
憲法改正については昔からブログに書いてきたし、「首相官邸・意見」に投稿してきた。
国連憲章敵国条項の事も。
だが…例えば、隣国と全面戦争になった際、人質にとられ爪を剥がされるようなリンチにあった時、僕は密告しないでいられるだろうか?とも思う。
僕も、まぎれもなく日本人なのである・・・。>