思想家の佐伯啓思 『日本の宿命』を読んで。

(この本は2013年に発行されました。

佐伯啓思氏は思想家の西部さんを師と仰いでいます)


1、しかも、90年代医らの改革論は、グローバル化のなかで日本をもう一度再生させる、というものでした。
そのために採用されたのは、成果主義能力主義や財政健全化や自由競争などからなるいわゆる「新自由主義」政策でした。
そして橋下改革もきわめて新自由主義的傾向の強いものです。


2、そこへもってきて、今日の社会のもうひとつの特徴であるマスメディアによる「人気主義」や「面白主義」という、これまたいかにもニヒリズム的な世相がある。
往来の規範やモデルや価値が見失われば、一時しのぎの「人気」が暫定的に価値を決める。
どれだけ売れたのか、どれだけ票が取れたのか、どれだけ視られたのか、これはいずれにせよ「人気」です。
この「人気」が価値を生むという時代なのです。
するとどうしてもパフォーマンスが決定的な意味をもってくる。
「野蛮」さと「面白さ」が今日の価値基準になりつつあるといってよい。
こうなると橋下現象とはまさしく現代日本の象徴というほかないでしょう。


3、その前に述べておきたいことは、「民主主義者」は橋下発言を簡単には批判できない、ということです。
独裁は民主主義と対立するものではありません。
独裁は民主主義のなかからでてくるのです。
しかしそれでも、地方にせよ、国政にせよ、議会を抑えなければなりません。
すべて議会政治のルールに従うほかない。
その意味ではいかに独裁的といえども議会政治の形式的ルールに従う以外にないのです。
にもかかわらず、事実上独裁に近いほどの権力を手にできるとすれば、それはどういう状況か。
それは自らの背後に絶対的な「民意」があると主張できる時なのです。


4、それどころか、、民主政治のもとでは、「民意」はだいたいにおいて正しくない、というのが最初の政治哲学者であったプラトンの政治論だった。


5、さらに不適当なことをいえば、そもそも多数決が正しいという確かな根拠ははどこにもありません。
「民意」がフィクションだとすれば、多数決が「民意」を示している理由もないのです。
多数決による議決とは、多数派が正しいという前提があれば成り立ちますが、本当はそんなことは確かではありません。
それどころかたいていの場合、正しい見解は少数派に在することが多いでしょう。


6、しかし、「非常事態」の規定がないから独裁の心配がない、などというとすればとんでもありません。
これは実は日本国憲法の大きな欠陥なのです。
きたるべき大災害やあるいは他国からの突然の攻撃などという本当の「非常事態=危機」において「例外状況」が規定されていないのは実は大きな問題でもあるのです。
政府が機能不全に陥ったり、瞬時の決断を要するときに、一種の独裁的な権力が必要とされるのです。
それがないのは、そもそも戦争などの非常事態を戦後日本の平和主義はまったく想定していなかったからにほかなりません。
非常事態の「独裁」をどうするかは実はまともに考えるべき問題なのです。


7、「政治とは、不確定で何が起きるかしれない将来に向けて、集団の利益や価値を実現するという決断と説得の行為である」と。
そして、この三つの能力をもった政治家をわれわれ国民は見抜かねばなりません。


8、われわれは政治家のなかに隠されている能力と品格を見る必要があるのです。
そのことをわれわれ自身が試されているのです。
簡単にいえば、国民は、政策や面白さで政治家を選ぶのではなく、その「人物」で選ばなければならない、ということなのです。


9、しかし、今日でも日本の侵略戦争を断罪する人は、たいていあの戦争が不戦条約違反である、といいます。
そこでかなり譲って大東亜戦争を不戦条約という国際法の違反であるとしましょう。
しかし、もしもそれが国際法違反であるというなら、そもそも東京裁判も国際的慣例に違反する疑いが濃厚です。
適切な法廷かどうかも疑問です。
アメリカの占領政策もいかなる国際法的な根拠があるのでしょうか。
さらにアメリカの原爆投下は、明らかに国際法違反です。


10、そして、いうまでもなく、「世界征服の意図」をもった共同謀議などというものは日本の場合、まったくありませんでした。
それはナチスとは大きく異なるところでした。
アメリカは日本を買いかぶりすぎたのか、必要以上に脅威をもったのか、あるいは意図的なのか、ともかくも、ナチスを基準に日本を裁こうとしたわけです。


11、丸山寘男をはじめとする多くの人が、日本の軍国主義は「無責任の体系」であったといい、日本の指導者たちは無責任だったという。
しかし「無責任」といえば、アメリカの正義を借りてきて、自分は「文明」の側にたって「野蛮」な日本人を「無責任」となじる人達も十分に「無責任」なのではないでしょうか。
むしろ、そのささやかな「優越願望」を、アメリカの威や外圧を口実にして満たそうという方がもっとたちの悪い「無責任構造」というべきではないでしょうか。
そして、戦後日本を支配してきたのは、この種のたちの悪い「無責任構造」なのです。
戦後の日本の「主体」とは、つねにこういう構造のもとで成立したのです。
憲法にせよ、安保にせよ、構造改革にせよ、日本は「主体」的にやっているようにみえる。
自意識としてはそうかもしれません。
しかし、構造としては、その背後に「アメリカ」が控えています。


12、誰もがいまこの時代をたいへんに殺伐とした時代だと思っている。
先にも述べたように、グローバル競争の中で日本経済は大停滞から抜け出すことができず、仕事も不安定で、将来への見通しももたない。
民主党も含めて既存政党の政治は何も成果をあげない。
学校教育は崩壊寸前であり、家庭生活はどこもかしこもうまくゆかず、家庭内での殺傷事件も次々とおきる。
このような殺伐たる時代なのです。
このなかでは人々は、ただこれまでのルールや慣習や道徳を守って折り目正しく生きていくことはできない。


13、しかもさらにプラトンは、それだけでなく、この衆愚政治のなかから、民衆の代表としての僭主つまり独裁者が現れるだろうとさえいったのでした。
民主政治が独裁をうむ、というのです。


14、しかもシュミットはそれが必要だと考えた。
なぜなら、何か本当に重要な決断をしなければならないような「危機の時代」には、悠長に議会で決まりもしないことを討議したり、調整にやたら時間をかけている閑はない。
これは「例外状態」であって、この「例外状態」では国民の意志を付託された独裁が必要とされる、というのです。


15、2011年11月11日に当時の野田首相がTPP交渉へ向けた参加を表明しました。
まだ参加が確定したわけでなく、交渉次第では不参加もありうると首相は述べていますが、実際には「国益」に反するという理由で交渉打ち切りという事態は考えにくい。
なぜなら、そうなれば、ますます「日本は閉鎖的で特異な国である」というレッテルをはられることになります。
そうなった時に、果たしてそれを跳ね返すだけの度量と説得力が首相にあるのでしょうか。


16、丸山寘男は、戦国から安土時代へかけてが「第一の開国」、明治維新が「第二の開国」、そして終戦後が「第三の開国」だといいました。
また松本健一氏は、明治維新が「第一の開国」、終戦後が「第二の開国」、そして1990年代のグローバリズムを「第三の開国」と呼んでいます。
両者を足し合わせれば、すでに日本は4回開国しており、今回は5回目の「開国」なのです。
「開国」の大安売りで、「開国」、「続開国」、「続々開国」…と、いったいどこまで開けばよいのでしょう。


17、このような理解が妥当かどうか、それはまた別に論じましょう。
ただ、ここで注意しておきたいのは、「開国論者」がほとんど無意識のうちにもっているある種の自己満足的な優越感についてなのです。
そして、それこそ私には近代日本の抱えこんだ宿痾であり、ひいては今日の日本の「無脊椎化」の原因のようにも思うのです。


18、これだけを書き出すと別におかしなことではないかもしれません。
しかし、私はこのようないい方そのものにある種の胡散臭さを感じてしまうのです。
どうしてか。
それはここにみえる構図が次のようなものだからです。
開国論者はこういっている。
「世界」=「先進的」=「普遍的」であり、「日本」=「後進的」=「特殊的」である。
その上で、「開国論者」である「私」は「普遍」の側にたち、そして「閉国論者」である大方の「日本人」は「特殊」だ、といっているのです。
ここで独特の自己特権化がおきています。
「世界」を知っている「私」という主語がこの背後にしっかりと据えられているのです。
つまり、自分自身を普遍の側において、その普遍ゆえにこそ、特殊な立場にある日本人に対してモノをいう権利がある、と考えている。


19、たとえば、アメリカやフランスやドイツで、「世界の潮流は…である。
我が国は特異で遅れている」などという議論が大勢を占めるでしょうか。
中国やロシアまでくると、「おかしいのは世界の方だ」とでもいうのではないでしょうか。
だからもしも「世界標準」というのなら、「我が国は異質で遅れている」などとは決していわないのが「世界標準」なのではないでしゅうか。


20、では彼らが本当に西洋を理解していたかというと全くそんなことはありません。
たとえば、彼らは、西洋社会は、民主主義が根付き、個人の自由や人権が保障され、合理的精神が行き渡ったいわゆる市民社会であるとことあるごとに強調しました。
しかし、現実は大きく違います。
アメリカには今でも根深い差別意識があり、ヨーロッパには強烈なエリート主義や穏然たる階級意識があります。
古代ローマギリシャへの敬意は未だに強く(だから、あの「だらしない」ギリシャをわざわざEUに入れたのです)、中世的なものはいくらでも残っています。
アメリカは合理的どころか一部では未だに進化論を拒否する宗教大国でもあります。
どうしてこういうことになったのでしょう。
それは、彼らは、彼らにとって都合のよい「西洋」を切り取ってきて、それを大きく広げて見せて、ほら西洋は近代市民社会だぞ、日本も西洋並みに近代化しなければだめだ、といったからです。
これは、彼らの欺瞞というより、むしろ、近代日本が生み出した構造なのです。
「外に開くこと」は普遍的で先進的であり、「内に閉ざすこと」は特異で後進的だ、というあの近代日本のフォビアが生み出したものでした。
つまり、ひとたび「西洋は進んでいる」という観念が一般に受け入れられると、後は、「西洋では」をもちだせば、日本の部族社会を管理することができるのです。
「西洋」が絶対的な権威になってゆくのです。
そして、「西洋」に近いと見なされる知識人が大衆を指導や啓蒙できるというわけです。
西洋の権威を借りることで、敵対者に「封建的」とか「日本主義」とか「遅れている」などとレッテルを張ることができる。
そして、実は、これこそが丸山が批判した「抑圧移譲の原理」というものだったのではないでしょうか。
しかもここにはもう少し手の込んだ事情があります。
それは彼らは、彼らに都合のよい西洋の思想や学問を取り入れて、それを「科学」といい、自らを「専門家」と称したことです。
「西洋の学問」=「科学」=「専門的」=「先進的」であり、これに対して、「日本的思考」=「非科学」=「大衆的」=「後進的」とみなした。
その上で、自らの身を前者の「科学」「専門家」「先進的」の方においたのでした。
これは、「世界」=「先進的」=「普遍的」であり、対して「日本」=「後進的」=「特殊的」というあの図式と同じものです。
この両者を重ね合わせれば、西洋の知識を身に付けた知識人は、あたかも日本の外にたって日本を眺めつつ
、その特異性を批判する、という特権的立場を手に入れることができたのでした。
端的にいえば、近代以降の日本の学問の主流が西洋から輸入学問だったということです。
それでも戦前は、哲学など、デカショ(デカルト、カント、ショーペンハウアー)などといいながらも、それをいかに「日本化」するか、あるいは「日本的なもの」といかに対峙させるか、という意識があったのですが、戦後になると、それもほぼなくなってしまう。

 

21、しかし、現実は大きく違います。
アメリカには今でも根深い差別意識があり、ヨーロッパには強烈なエリート主義や穏然たる階級意識があります。
古代ローマギリシャへの敬意は未だに強く(だから、あの「だらしない」ギリシャをわざわざEUに入れたのです)、中世的なものはいくらでも残っています。
アメリカは合理的どころか一部では未だに進化論を拒否する宗教大国でもあります。
どうしてこういうことになったのでしょう。
それは、彼らは、彼らにとって都合のよい「西洋」を切り取ってきて、それを大きく広げて見せて、ほら西洋は近代市民社会だぞ、日本も西洋並に近代化しなければだめだ、といったからです。


22、これは、彼らの欺瞞というより、むしろ、近代日本が生み出した構造なのです。
「外に開くこと」は普遍的で先進的であり、「内に閉ざすこと」は特異で後進的だ、というあの近代日本のフォビアが生み出したものでした。


23、つまり、ひとたび「西洋は進んでいる」という観念が一般に受け入れられると、後は、「西洋では」をもちだせば、日本の部族社会を管理することができるのです。
「西洋」が絶対的な権威になってゆくのです。
そして、「西洋」に近いと見なされる知識人が大衆を指導や啓蒙できるというわけです。
西洋の権威を借りることで、敵対者に「封建的」とか「日本主義者」とか「遅れている」などとレッテルを張ることができる。
そして、実は、これこそが丸山が批判した「抑圧移譲の原理」というものだったのではないでしょうか。


24、それは、彼らは、彼らに都合のよい西洋の思想や学問を取り入れて、それを「科学」といい、自らを「専門家」と称したことです。
「西洋の学問」=「科学」=「専門的」=「先進的」であり、これに対して、「日本的思考」=「非科学」=「大衆的」=「後進的」とみなした。
その上で、自らの身を前者の「科学」「専門家」「先進的」の方においたのでした。
これは、「世界」=「先進的」=「普遍的」であり、対して「日本」=「後進的」=「特殊的」というあの図式と同じものです。
この両者を重ね合わせれば、西洋の知識を身に付けた知識人は、あたかも日本の外にたって日本を眺めつつ、その特異性を批判する、という特権的立場を手に入れることができたのでした。


25、端的にいえば、近代以降の学問の主流が西洋から輸入学問だったということです。
それでも戦前は、哲学など、デカンショデカルト、カント、ショーペンハウアー)などといいながらも、それをいかに「日本化」するか、あるいは「日本的なもの」といかに対峙させるか、という意識があったのですが、戦後になると、それもほぼなくなってしまう。

 

26、だから「世界」とは常にひとつの単なるイメージであり、もっといえば、「日本」なるものを、特殊な国として定義するためにもちだされたフィクションでもあるのです。
しかし、だからこそ、「開国の論理」はなかなか強力であり、しかも延々と続いてしまうことになる。
「世界」が無内容であって、その時々でイメージするものが変化してゆくからこそ、いつまでたっても「世界に乗り遅れる日本」というこの構図は生き延びるのです。


27、ところで、「開国」とは何でしょうか。
先ほどから、「開国」とは、「世界の潮流に乗ること」であり、「世界という普遍性に向き合うこと」だといってきました。
いや、近代以降、日本ではそう考えられてきたのです。
しかし、本当はそうではないでしょう。
世界は実は多様です。
「開国」とは異質なものに出会い、世界は多様であることを知ることなのではないでしょうか。
「開国」とは、何よりまず、異質な文化、社会、宗教などに出会うことです。
そして、己の独自性を改めて知ることなのです。
特異性ではありません。
独自性です。
自国の、自文化の独自性を認識することなのです。
しかしわれわれは「普遍的な世界」や「グローバル・スタンダード」といった時に、決してイスラムやインドやアフリカなどを思い浮かべません。
「普遍的」や「標準的」ということで、常に西洋先進国を思い浮かべるのです。
いやもっと端的にいってしまいましょう。
少なくとも戦後、われわれが「世界」といった時に「世界」とは何かというと、実は「アメリカ」なのです。
「世界標準」とはアメリカの示したルールなのです。
「普遍的な世界」とはアメリカのことなのです。
「世界に乗り遅れる」というのは、実は「アメリカに見捨てられる」ということなのでした。

 

28、たとえば、2011年12月1日付の産経新聞竹中平蔵氏が論考をよせて次のように述べています。
自由貿易が国民全体に大きな利益をもたらすことは、アダム・スミスの『国富論』以来、世界が経験してきた共有の理解だ。
日本自身これまで、自由貿易で最も大きな利益を得てきた。
だからTPP不参加など論外だ、といいます。
これは、竹中氏に限らず、「開国派」の典型的な論理なのです。
「世界では自由貿易グローバル・スタンダードになっている。
日本だけがこのスタンダードに追いついていない。
日本も世界に国を開かなければならない」という。
私は、このたった2、3行のセンテンスに対してたちどころに四つの疑問を感じてしまいます。
第一に、アダム・スミスはそれほど単純に自由貿易を擁護したわけではありません。
彼は、金融グローバリズムというべき当時の重商主義を批判したのですが、それは、自由主義にすれば安全で確実な国内に投資がなされ、国内の産業が活性化すると考えたからです。
第二に、自由貿易が世界を利する、という命題は今日では簡単に成り立ちません。
金融グローバリズムができあがって、ヘッジファンドの資本が世界各国へ影響をあたえる今日では、自由貿易が世界全体の利益になるという命題は成り立ちません。
第三に、自由貿易の教義が世界中で受け入れられている、などということはありません。
中国やロシアやインド、アラブ産油国など、世界経済に大きな影響を与える国をみてもとてもそうはいえないでしょう。
アメリカでさえ、他国の経済構造に口を突っ込んできたり、時には保護主義にはしったり、決して自由貿易をやっているわけではありません。
それにそもそもTPPとは一種のブロック経済なのです。
第四に、TPP参加が無条件に日本の利益になるかのようにいわれますが、これもとんでもない暴論と思われます。
なぜなら、TPPとはこれから経済連携のルールを決めるのです。
ルールがまだ決まっていないのに、どうして経済的利益を計測できるのでしょうか。
それは日本の政治的な交渉力によるのです。

 

29、すぐにひとつのことに気づきます。
第一の開国も第二の開国も第三もすべて「アメリカの圧力」によるものだということです。
別に自発的に開国したわけではない。
あくまで外圧、とりわけアメリカの圧力によるものだった。
少なくともそれが背後にあった。
こうなると開国論は未だにあの「黒船ショック」を引きずっているのではないか、といいたくもなってくるでしょう。
精神分析学者の岸田秀氏は、近代日本の歴史には、「黒船ショック」というトラウマがあり、未だにその後遺症から回復していない、と述べましたが、それもあながち間違っているわけではない。


30、じっさい、日本は東洋において初めて近代化した。
19世紀における東洋唯一の近代国家になった。
そのことは格別な意味をもっていました。
なぜなら、近代化とはそもそも西洋においてでしかありえなかったからです。
この格別な意味を生みだしたものが、さしあたってはあの「たった四はいで夜も眠れず」という黒船ショックだった。
つまり、アメリカとは、当時の日本人にとっては、あの巨大で真っ黒でとてつもない巨砲を備えた要塞のように堅固な軍事国家だったということです。
アメリカとは何よりも「力」の象徴たったのです。


31、ここで林房雄は、日本の近代史とは「東亜百年戦争」の歴史だ、というのです。
大東亜戦争は1941年の真珠湾攻撃にはじまったわけではない。
おおよそ100年前から始まっていた、という。
もっとも林は、特に黒船ショックを強調しているわけではなく、彼にとっての100年戦争とは、実際にはその数年前から始まっていた。
ペリーの黒船来航の前にすでに、1778年にロシア船が蝦夷にやってきて通商を求め、92年にもロシアは幕府に通商を求めて拒否されています。
97年にはイギリス船も蝦夷にやってきており、こうしたことが頻発したために幕府は1825年に「異国船打払令」を出すのです。
さらに1831年にはイギリス船が東蝦夷に現れ、37年にはオランダ国王が開国を進言する。
さらに46年にはアメリカのピッドルが浦賀で通商を要求し、52年にはロシア船が下田に来航する。
つまり、北からはロシアが、東からはアメリカが、南西からはイギリス、フランス、オランダが飢えた猛獣のように日本をうかがう、というのが当時の情勢だったのです。
大事なことは、これらの動きを幕府はただボーッと静観していたわけでもなく、それなりの危機感を持った人がいたということです。
しかもその危機感は、ただ消極的な意味での日本の防衛というだけではなく、もっと積極的な意味での防衛を意図したものでした。
たとえば、吉田松陰は、この当時の世界は、アジアやアフリカが西洋列強の植民地になりつつあることを的確に知っていました。
そしてロシアが南下し、英仏などが中国をねらう世界情勢のなかでは、日本は積極的に蝦夷を開拓し、カムチャッカをねらい、琉球や朝鮮を窺い、さらには満州やインドまで視野にいれるべきことを論じているのです。
列強による植民地化を防ぐためには、日本は満州から中国、台湾からさらにはインドまで出撃するつもりがなければならない、というのです。
もちろん吉田松陰は山鹿流の兵学者ですから、軍事力による日本への脅威とこれに対抗するための軍事的な力へと関心が向かったということかもしれません。
そして林によると、積極的に海外へ進出しようというこの「東亜経略論」は、松陰だけではなく、いい方は違えども、佐藤信淵橋本左内藤田東湖らの知識人から、高杉晋作中岡慎太郎などのいわゆる幕末の志士たちにまで共通するものだったという。
そのなかでも、水戸の徳川斉昭、越前の松平慶永、薩摩の島津斉彬らは明確にこの「東亜経略論」をもっていた、というのです。
これだけの背景があって、1863年の「薩英戦争」と翌年の「馬関戦争」がでてきます。
吉田松陰の教えを受けた長州藩士がフランス船やオランダ船を砲撃し、これに対してアメリカのワイオミング号が長州を砲撃する。
こうして米英仏蘭からなる4国連合艦隊と長州の戦い(馬関戦争)にいたるのです。
だから「東亜百年戦争」の実際の戦闘はここに始まった、と林はいう。
ここで日本はじっさいに圧倒的な西洋の「力」を知ることになります。
ペリーの黒船来襲はもちろんとてつもない脅威を日本に与えました。
しかし林が強調するのは、それに対して日本人が対抗しようとしたことなのです。

 

32、さて、もちろん、薩摩も長州もこの経験によって列強の圧倒的な軍事力を思い知ることになり、軍事的抵抗を放棄します。
それが明治新政府の開国政策につながってゆく。
しかし忘れてはならないことは、繰り返しますがこの「開国」の前提には「蝦夷」があったということなのです。
「開国」は、ただ4隻の黒船に震え上がって「まいりました」といったのではなく、もともとは「蝦夷のための開国」だったのです。
そして「蝦夷」もただの夷狄へのフォビアというだけではありません。
列強によるアジアの植民地化という当時の世界状況を知った上でのことだったのです。

 

 

33、明治政府には三つの基本的な政策の柱があったとしばしばいわれます。
富国強兵、殖産興業、公議輿論の三つです。
このうち富国強兵、公議輿論はすでに幕末期から唱えられていました。
やがて明治になり、富国強兵は「富国」と「強兵」へと分離してゆきます。
経済的な富を生み出すという「富国」と軍事力を増強するという「強兵」は財政的に矛盾しあう面がでてくるからです。
また公議輿論の方も、明治政府が成立するとやがて「議会設立」への動きと「憲法制定」への動きにわかれてゆきます。


34、大きな転機になるのは、1873年の征韓論であり、74年の台湾出兵、75年の江華島事件でした。
いわゆる「蝦夷派」もすでに文字通りの「蝦夷」などという目標はもはや掲げていません。
しかし、蝦夷の精神をくみ明治政府に不満をもつ旧士族たちはアジアへの外征という「アジア雄飛」を唱えていた。
それがひとつの頂点を迎えるのが西郷隆盛板垣退助の征韓論であり、大隈重信らの台湾出兵だった。
これらの出兵は決して偶発的なものでも恣意的なものでもなく、そもそも五箇条の御誓文と同時に出された「御辰翰」には、国威を海外にはることは新政府の目的である、と書かれていたのです。


35、しかしそれでも、その後の「文明開化万歳」的な近代化に比べれば、この「開国」を支えた蝦夷の気分、もしくは「維新の精神」を忘れてはならないという思いは残るのです。
「開国」をただ「文明化」と理解するだけではとても日本の近代というものを理解することはできないのです。
それは「第一の開国」だけのことではなく、現代にまで続いてくる問題なのです。
「開国」を理解することは決して容易ではないことを知らねばなりません。


36、黒船来襲を頂点として幕末には西洋列強諸国が日本を脅かします。
そして当初の日本の反応は主として「蝦夷」でした。
薩長を中心とする蝦夷派が江戸幕府を倒して明治政府を打ちたてる。
ところが、その蝦夷派によってつくられた明治政府は、諸外国との間の不平等な条約を尊重するだけではなく、積極的に諸外国の進んだ制度や精神を取り入れるという開国派に変わったのでした。


37、だから英米との大東亜戦争は、この観点からすれば、幕末の黒船来襲、あるいは1825年の異国船打払令あたりからすでに始まっていた、ということになるのです。


38、列強たろうと意志することは、遅まきながらであれ、植民地争奪戦に参入することであり、列強の位置を維持しようとすれば、他の列強との戦いに備えてそれなりの資源や経済力を確保しなければならないのです。
軍部の独走や、日英同盟の破棄や、松岡洋右国際連盟脱退や、あるいは近衛文麿の「英米本位の平和主義を排す」や、ハル・ノートの無視といったことは確かにありました。
だけどそれもこうした道筋のもとで生じたことでした。


39、しかし私にとって驚きなのは、むしろ、事態が、まさに「宿命」であるかのごとく動いてしまった、ということなのです。
日本の近代化=文明化のロジック通りにことが運んだのです。
そして、この「日本近代化ロジック」とは、根本的に矛盾を孕んだものだった。
その矛盾が結局は「大東亜戦争」まで行き着いてしまったということです。
さて、そのロジックをもっともよく理解していたのは福沢諭吉だと思います。


40、「一身独立、一国独立」は福沢の終生のキーワードでした。
「日本人は日本国をもって我本国と思い、その本国の土地は他人の土地に非ず我国人の土地なれば、本国のためを思うこと我家を思うが如し、国のためには財を失うのみならず、一命も擲ちて惜しむに足らず。
これ即ち報国の大義なり。」


41、福沢は繰り返し、文明化の目的は日本を西洋化することなどではなく、あくまで日本の独立を保つ点にこそある、という。
「国の独立は目的なり。
国民の文明はこの目的に達するの術なり」というわけです。
これは福沢の文明論の決定的ポイントで、「文明論之概略」という書物は、まさしくこの「一国独立」のために書かれたものでした。


42、文明の進展とは、「人の精神発達」だと福沢はいう。
精神発達とは、人々が自由に議論し、合理的にものを考え、相互の交流を盛んにし、精神の働きを活発にすることです。
そしてそこから科学や技術が生まれ、その結果として高度な産業や軍事力がうみだされる。
つまり「富」と「力」です。
この富と力をもって西洋はアジアを支配しようとしている。
となれば日本の独立は、早急に西洋並の文明化をはかり、「富」と「力」を手にするという一点にかかっている、というのです。


43、すでに福沢は次のようなことを述べていました。
そこでわれわれは発奮してわれわれの基礎を固めることが大事で、彼らによって侮られないようにしなければならない。
じっさい、経済人も法学者も政府も発奮してその努力は外国人にも大きな印象を与えている。
しかしひとつ決定的に欠如していることがある。
それは我が国全体の気風として軍事をあまりに等閑に付している点だ。
古来、我が国は尚武の国と自称しながらも、現実にはその反対になっているではないか。
文明の文に酔って武を忘れているではないか。
こういうのです。


44、この近代日本の矛盾が抜き差しならないまでに亀裂を膨らませてしまったところに大東亜戦争が帰結したのでした。
林房雄の『大東亜戦争肯定論』は、それを「東亜百年戦争」と表現したのでした。
ロシアが北方からやってき、アメリカが黒船で来航した時に、すでに日本と西洋列強の「戦争」は始まっていた、ということです。


45、「アメリカ」は、その意思を無理やり日本に押し付けたわけではありません。
憲法にせよ、実はサンフランシスコ条約締結後に日本がそれを改正しようとすればできた。
戦後民主主義なるものも、日本の特に進歩的知識人たちが率先して唱えたものです。
にもかかわらず、その背後にはやはり「アメリカ」があった。
日米安保体制があり、軍事上のアメリカ依存があり、アメリカの圧倒的な経済力が日本を支え、民主主義や自由主義はあくまでアメリカが手本だった。


46、この戦後の繁栄が、あの戦争における多大な犠牲の上に築かれているからです。
300万超ともいわれる戦争の死者たちの屍の上に成り立っているからです。
そして、「公式的」にいえば、その戦死者たちに対して、戦後のわれわれは、侵略戦争の加担者という汚名を与えたからです。
端的にいえば、戦死者たちの壮大な犠牲の上にわれわれは自由を謳歌し、富を築きあげ、なにひとつ不自由ない生活をしながら、その彼らに一種の犯罪者の汚名を着せたのです
これでは、「彼ら」の道徳的な誤りを非難しているわれわれの方が、不道徳なのではないでしょうか。


47、1970年には大阪万博が開かれました。
この頃には、日本人は、たらふく食べ、昭和元禄を遊泳し、世界最速の鉄道に乗り、レジャーやらスポーツやらと、自由と快適さをどの国よりも満喫していました。
それはそれでひとつの成功物語だったのでしょう。
しかし、そこにあの「疾しさ」があれば、昭和元禄のかつてない平和と繁栄のなかに、えもいわれぬ精神の堕落と文明の虚栄をも透視できたはずでした。
三島由紀夫は、「戦後」という時間のいかがわしさをもっとも先鋭に意識した作家でした。
彼は「戦後」の繁栄に隠された出生の罪科をよく知っていました。
その罪科をどこかで意識しない平和と繁栄は虚飾以外の何ものでもなかったのです。


48、樋谷秀昭は『昭和精神史 戦後編』のなかで、三島由紀夫の死をもって昭和は終わる、と書いています。
三島由紀夫といふ個人の死は、敗戦後25年間の日本人の意識の捩れを一瞬の白光の中に曝け出した」という。
三島にとっては、戦後とは、戦前に大義とされたものをすべてひっくり返して平然とし、自らすすんで敵国アメリカに平伏し、戦死者たちへの背信を8月15日革命などといって合理化し、天皇を週刊誌のネタにして恥じない精神の蔓延以外の何ものでもなかったのです。
そこに何らかの疾しさも後ろめたさも感じなくなり、それどころか、その「戦後」をこそ理想社会へのとっかかりであるかにみなす精神こそ不道徳きわまりないものだった。
「三島の死で昭和は終わった」という樋谷の表現は、もはや三島の後に三島のような人物は現れないということでした。
「文」と「武」を一致させる形で「戦後」の欺瞞と身を以て決別しようとする人物はもはや現れないだろうということです。


49、しかし、このポスト・モダン消費ブームも、そして80年代後半の日本経済の「一人勝ち」も実は単なるバブルであったことが判明してしまう。
80年代の繁栄は実際には虚栄だったことがやがて明らかになる。
バブルがはじけてみれば、何のことはない。
日本経済の底力などさしたるものではなかったというわけです。