思想家の西部邁 『マスコミ亡国論 日本はなぜ“卑しい国”になったのか』を読んで。

(この本は1990年に発行されました)


1、まず、なぜ昭和から平成への転換期においてこうした騒ぎが起こったのかを考えなければならない。
ヨーロッパにおいてはECの統合やソ連・東欧の「ペレストロイカ」をはじめとする未曾有の社会変革が進んでいる。
そして天安門事件ベトナム難民と数えていけばユーラシア大陸がまさに燃え上がっているとわかる。
そしてアメリカは、貿易と財政における「双子の赤字」に端的に示されているように、世界へのヘゲモニーを喪失するほどに、国力を衰微させつつある。
つまり世界の至るところで地盤変動がはじまっているのだ。


2、戦後日本は、45年をへて、精神的には暗礁に乗り上げている。
思想的・イデオロギー的に戦後の観念体系を再検討しなければならない時期に至っている。
だが、昭和天皇崩御という時代の節目にあって、人々は戦後にたいする再検討という課題に朝鮮するのではなく、逆に過去へ退行して戦後的観念のうちに自閉しよう、そうすることによって過去を再検討するという課題を忘れよう、という集団心理に陥った。
フロイド心理学でいうところのリグレッションである。


3、敗戦のあと、進歩主義や平和主義やらを伴いつつ前進しきった民主主義的な観念は、もともと、アメリカで理想的な民主主義を実現しようとした1930年代のいわゆるニューディーラーたちが、自国で果たせなかった夢を日本に持ち込んだものであった。
そして、ニューディーラーたちが占領業務のなかでその場しのぎに語った夢の最たるもの、それが日本国憲法である。
この憲法に代表されるニューディーラーたちの理想主義の前に拝跪するところから、戦後の民主主義ははじまったのである。


4、そしていうまでもなく、平和主義、進歩主義あるいはヒューマニズムとよばれているものの一切を疑うことなしに受容しているのが現代日本である。


5、人間には、言語的さらには記号的に多様な変化を果てしなく生み出す能力がある。
この能力に期待をかけ、次々と新しい差異、変化、もじり、揺らぎを作り出そう、これがポストモダンの姿勢である。
いずれにしても、人間に内在する欲望、衝動を全的に肯定するという点では、彼らはエゴセントリックつまり自己中心的である。
そして、それが人間中心という意味でのヒューマニズムと合致する。
ポストモダニストたちが、高尚めかした思想論議から離れて、世俗の現象にまで言及するとき、にわかに戦後民主主義と区別のつかない言葉遣いに走るのはそのためである。
のみならず、ポストモダンのビジネス体制ともよく適合するのである。


6、こうした利口で聡明な国民がかくも惨めな世論状況をさらしてしまっているのはなぜなのか。
それこそが問題である。
世界史の壮大で深刻なドラマが展開されようとしているまさにそのとき、なぜ日本だけが世界史の進行から落ちこぼれて退行現象を露呈し、つまらぬマスコミ世論の騒ぎに明け暮れしたのか、その最大の理由は次のようなことであろうと私は思う。
日本人も西欧人そしてアメリカ人がかつて経験した「近代のパラドックス」にはまったのであり、そしてこのパラドックスはまさに戦後日本の達成「豊かさと等しさ」の価値をめぐるものであった。
人間にとって豊かさや価値であるのは人間が貧しいあいだにかぎられる。
豊かさが日常平板な現実となりおおせてしまうと、その豊かさがかえって退屈や苛立ちの種になってしまう。
これが「豊かさの逆説」である。
これらはギリシャの昔から発見されていたパラドックスである。
ヨーロッパ人たちはおそらく19世紀の後半にはそのことに気づきはじめていた。
イギリスにかぎらずヨーロッパでは、近代が頂上に達すると同時に、その近代にブレーキをかけようとした。
自動車で比喩すれば、アクセルとブレーキの両方を備えた上で近代の運転に取り組んだということである。
どうしてブレーキをかけざるをえなかったかというと、件のパラドックスに気づいたからである。
産業の生み出す豊かさ、あるいは民主主義の生み出す平等、これをのべつまくなしにひたすら追いつづけていると、最初は幸福に思われたものがついに不幸の因となる。
この逆説に気づき、それゆえ産業化の進展や民主化の進展のみを追い求めるのはよそうということになっていった。
このように近代にたいしてブレーキをかける作業が蓄積された結果として、ヨーロッパ特有の落ち着きや静寂がもたらされたのではないだろうか。
ヨーロッパが今もなお「歴史」を観念においてのみならず生活の上でも大事にするのは、歴史のなかに「近代」を相対化しようとしてのことである。
アメリカは歴史の乏しい国であるから、そういうブレーキ作業がかならずしもうまくいかなかった。
しかし、やはりヨーロッパ的精神の余波のせいもあって、アメリカも「近代の逆説」に無関心ではおれなかった。
また、その種の関心を払わずにはおれないほどに、アメリカの近代化が急激に進捗しもしたのである。


7、あっさりいえば、日本人は豊かさのなかで退屈し、平等のなかで苛立ちはじめたのである。
そして退屈しのぎと苛立ちまぎれの集団心理に駆られて、マスコミの仕掛ける馬鹿騒ぎに付き合ってしまったのだ。


8、次は順番でいくとリクルート事件であるが、その前に天皇報道のことを取り上げてみたい。
それは日本人がみずからのアイデンティティやみずからの国家規範をいかにとらえているかを示すという意味で、やはり決定的に重要な問題であった。
昭和天皇崩御が間近くなったとき、各紙誌で様々な報道がなされた。
私がまず苦笑させられたのは、マスコミは昭和天皇の血圧・脈拍・吐血・下血にかんする医学的情報を連日報道した上で、1ヵ月ほどたつと今度は、これは過剰報道ではないかという批判キャンペーンをはじめたということである。
マッチポンプとはまさにこのことか、と思わずにはおれない顛末ではあった。
このマッチポンプは、天皇問題にかんし、日本人が今に至る自信を有していないということの反映である。
過剰であったのはもしくは歪曲させられていたのは、報道の質である。
天皇の病気報道についていうと、あのように血圧・脈拍・吐血・下血などの数値を逐一報道することにいったいどんなメリットがあったのか。


9、とするのなら、病気報道は次のようなもので十分であったのだ。
天皇は御重体であられる」、「小康を保っておられる」というふうに報道していれば、それでよかったのである。
毎朝毎晩こまかな数字を発表することには何の意味もない。
しかしそれ以上に強調したいのは、天皇は私人ではなく公人だということ、つまり国民にとって象徴的な存在だということである。
そのことはわれらの憲法に規定されている。
しかもほとんどのマスコミ人士は憲法擁護派に属する。


10、しかし病気報道の件はまだ序の口である。
もっとも論じられるべきは昭和天皇の戦争責任についてである。
日本共産党が火をつけ、そして一部の大マスコミが投稿というかたちで偽装しつつ、昭和天皇の戦争責任を思い起こせというキャンペーンを続けた。
私が第一にうなずけないのは、なぜその責任論が天皇崩御を目前にしてなされなければならないのかという点である。
天皇の戦争責任について戦後すぐの5年間くらいは論じられた。
しかしそれから40年、私たちは昭和天皇の戦争責任についてはほとんど論じることなく過ごしてきた。
天皇の戦争責任が日本国民にとってあるいはマスコミ人士にとって本当に重大な関心事であったのならば、なぜ40年間それに論及しないままできたのか、という疑問がわいてくる。


11、少し内容にわたってみると、戦争の責任論についてはいろいろな側面があるが、天皇には実質的責任はなかったのだというのが支配的な意見だといえよう。
政治家や軍人が戦争を引き起こし推進したのだ。
天皇はそれを追認するしかない立場にあったのだ。
天皇御本人は内心では軍国主義に反対ですらあった、というのが主流の意見になっている。
天皇には実質的責任はなかったのであるが、しかし、ともかく陸海軍を総帥する大元師の立場にあられた以上、形式的責任はあった、というのである。
これは進歩派のみならず保守派の論客たちにも共通する意見である。
そして私はこの意見に反対なのだ。
私の判断はむしろ逆で、昭和天皇には少々の実質的責任があったかもしれないが、形式的責任はないというものである。


12、あの戦争は大日本帝国つまり明治憲法のなかで行われた。
そして明治憲法の第3条には「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」と明記されている。
念を押しておけば、その憲法天皇ではなく国民が制定したのである。
当時は普通選挙はまだ行われていないから国民といっても範囲が限定されはするが、いずれにしても、天皇のがわからではなく、国民みずから「天皇は神聖不可侵である」と決め、それを国家の根本規範にすえたわけだ。
確認されなければならないのは、神聖不可侵な存在の責任を追及するなど絶対にできはしないということである。
神聖不可侵条項は、天皇は一切の責任を免れるということであり、それゆえそれは天皇にかんする免責条項である。
しかそそれを国民が決めたのである。
したがって、天皇の戦争責任論というのは、憲法解釈としては成り立ちようがないのだといえる。


13、だが、エモーションよりもルールを大事とするところに規範が成り立つのだ。
憲法という根本的ルールの上で神聖不可侵としたからには、天皇にかんする不平不満を公然とはいわないというのもまたルールになるのである。
まして敗戦処理に当たって、日本人は天皇の戦争責任を不問に付した。
そうすることによって、戦前と戦後のあいだに連続性を保とうとした。
おまけに、復讐裁判としての東京裁判までもが天皇に責任なしとしたとき、日本人はそれに反対しなかったのである。


14、ところが世紀末の日本人は、マスコミを先頭にして、長崎市長を含めて、公然たる天皇批判を展開した。
これは日本人がルールというものをわきまえていないことの表れである。


15、後に述べるが、リクルート事件も同じで、自分たちは苦労して安月給をもらっているのに、なぜあの権力者たちにだけが未公開株を買って大儲けをするのだ、というふうな感情論な論調となる。
感情論に依拠して他者に、とりわけ地位の高いものに攻撃を仕掛けるという点では、天皇報道もリクルート事件も同じである。
ルール、マナーおよびエチケットを言葉の次元できちんとおさえる力量において日本人が著しく欠けている、それをみせつけたのがリクルート報道であり天皇報道であったのだ。


16、こうしたヒューマニズムの見地から、残酷な事態に引きずり込んだことの実質的責任を天皇その他の指導者に求めるのならば、単純な論理として、日本を宣戦布告に引きずり込んだアメリカの責任はどうなるのか。
あるいはアジアの人々は怒るであろうが、日本の傲慢で攻撃的な軍人たちにやすやすと侵略を許すような脆弱ぶりをなぜアジアの国々は示したのか、というようなことまでもが責任論に入ってきてしまう。
もとろん、そういう指導者しかもてなかった日本国民にも責任があるということになる。
つまり、戦争という残虐にかんする責任を批判するヒューマニズムはそういう残虐に日本を誘ったアメリカの強さやアジアの弱さや日本人のだらしなさもまた批判せざるをえないはずなのである。
あの東京裁判は勝った国が敗けた国にたいして行う最後の復讐の儀式なのであった。
そしてこういう復讐の儀式は古今東西延々とつづいている。


17、いずれにしても、昭和天皇崩御をめぐって論じられるべきであったのは、文化とは何か、象徴とは何か、国家とは何か、軍隊とは何か、戦争とは何か、あるいは責任とは何かという問題であった。
それらの論題を一切出したまま、マスコミは単なる感情論に明け暮れした。


18、また、新天皇が即位されるや、マスコミこぞって「開かれた皇室を、国民に親しまれる天皇を」という大キャンペーンに着手した。
これまたルール違反のキャンペーンである。
国家および国民の象徴であるかぎり、世俗をいかほどに超えた存在でなければならず、そうだとすれば世俗の次元にたいしては何ほどか閉じられてこその象徴なのだということである。
この憲法解釈の基本ルールをどうして認めようとしないのか。
世俗の次元に開いたまま、世俗の次元に親しまれたままというのは世俗にまみれることにほかならず、そんな存在では象徴たりえないではないか。
超越ということの意味を理解できず、それゆえ象徴ということの意味を理解できないのは子供の所業といわざるをえない。
現実判断としても、リクルートの阿保騒ぎや消費税反対の馬鹿騒ぎにわき立っているような国民に開かれたり親しまれたりする天皇とは、いったい何のための存在なのか。


19、さて、リクルート事件である。
これは今なおリクルート裁判というかたちで続いている事件なので、いささか詳しく批評してみよう。
この事件が起こったのは88年の6月末だが、翌月から、幾分の直観力も交えて、私はこの事件を次のようにとらえた。
「このリクルート事件は取るに足らないちっぽけな事件である。
しかし日本のマスコミはかならずそれを大きなスキャンダルに仕立て上げるであろう。
そしていかに退屈をまぎらすか、いかに苛立ちをしのぐかという集団心理にはまっている日本人は、マスコミの誘導するこのスキャンダルにたぶんやすやすと追随していくであろう。
われわれが注意すべきはリクルート事件そのものではなく、リクルート事件をめぐる騒ぎなのである」と。


20、前年、マスコミ世論は騒ぎたかったから騒いだ、しかし騒ぎはもう終わった、リクルート事件について騒ぐのには飽きた、それゆえ何倍もの献金が判明したとしても騒ぎを繰り返す気はない、ということである。
このように、リクルート事件が単なる騒ぎにすぎなかったことをマスコミ世論それ自身が実証しているのである。

 

21、さて、リクルート事件をマスコミの馬鹿騒ぎとどうしてもいわざるえないのは、マスコミそして国民が「疑獄だ、巨悪だ」と騒ぐべく問題は、国民に大きな実害が及ぶような事件の場合だと考えられるからである。
要するに、疑獄とか巨悪とかいった言葉が正当性をもつのは、その賄賂をめぐって国民に実害が及び、またはその可能性が大きい場合にかぎられるということに尽きる。
ところが今回の事件についてみると、その恐れはほとんどゼロに近い、それならそこに賄賂があったとしても、法にもとづいて粛々と裁けば、それで十分なのである。
それを報道するのはかまわないが、せいぜい1週間か2週間にとどめるべきであろう。
春夏秋冬、膨大な紙とインクと電力を使うような報道には値しないということである。


22、リクルート事件にかんして、関係者は「けじめ」をつけよということがよくいわれたが、けじめのないのはマスコミ世論がわである。
なぜなら、けじめとは「物事の仕分け」ということであり、法治社会においてまず重視されるべき仕分けの基準はルールにほかならないからである。
この事件のもたらした最大の害悪は、マスコミによるルールの侵犯が国民的スケールで承認されてしまったという点である。


23、自由主義というのは、戦後の日本人がいいつのってきたような、性善説にもとづいて成り立つものでは決してない。
人間はなべて性善なるものであり、この性善ぶりを自由に発揮させると実に素晴らしい社会ができるといったようなおとぎ話が自由主義なのではない。
人間というものは半ばいかがわしいものである。
蔵に物をおいてボロ儲けを追求する商人のような性格を大方の人間がもっている。
しかしそれをがんじがらめに取り締まることはよそうではないか、大まかなルールを決めて、そのルールの範囲に収まるような他人のいかがわしさについては互いに認め合おうではないか。
もちろんそのいかがわしさを褒めたたえる必要はないが、お互いいかがわしいのであってみれば、互いに皮肉の眼差しを向けるくらいでとどめておこうではないか。
人間のいかがわしさも、因果がめぐりめぐって、自分にメリットとして返ってくることもある。
つまり自由はこうした大人の寛容さによって支えられているのである。
トレランスつまり「寛容と忍耐」の必要をイギリス人は発見した。
自由には、自己の性悪ぶりをある程度は認めようとする寛容の精神がなければならない。
日本人は今もなおこのことを理解していないらしい。
のみならず、自分のことを棚に上げて、他人のいかがわしさを徹底的に暴露し、集団リンチにさらすということをやりつづけたのである。


24、日本人は法の精神を理解できてないようだ。
法の本質はそれが「禁止の体系」であるという点にある。
なぜ禁止が必要になるかというと、人間には禁止されてしかるべきことをなすような性悪があるからだ。
つまり性悪説を何ほどか承認するのでなければ、法の精神とはいえないわけである。


25、私が指摘したいのはマスコミ世論によって私たちの頭が汚染されたという事実についてである。


26、日本人が大人にふさわしい頭をもちたいと欲するのならば、マスコミと検察の野合、癒着、連携にたいしてこそ抗議の声を発するべきであった。
ところが日本人はよほどに退屈し苛立っていたらしく、逆に検察に白馬にまたがる正義の騎士であるよう期待し、マスコミには鞭をかざした刑史であるよう、要求したのである。
少なくともこの1年余の現象としてみれば、日本人の品性もずいぶんと卑しい水準に転げ落ちたようだ。


27、日本人はそのことをなぜ正確に記憶しないのであろうか。
なぜ、こうしたマスコミのいかがわしき来歴を想起しないのであろうか。
こういういわば文化的健忘症にかかっているのに、高度情報社会の到来だななど宣伝するわけにはいかない。
なぜなら、単なる情報ではなく、価値や意味を含んだ情報が重要なのだからである。
意味・価値を含まない情報、それは単なる記号にすぎない。
そして情報がどういう意味なり価値なりをもっているかを知るためには、過去におけるそれらの蓄積に照らして判断するしかない。


28、現代社会は「記号による支配」つまり「セミオクラシー」の時代に入ったかのような観を呈している。
このことは、日本にかぎらず欧米社会でもいわれている。
意味や価値がどんどん流出して、意味・価値を僅かにしか担わない記号だけが私たちの精神に突き刺さっている。
たしかにセミオクラシーの時代が到来しつつある、といえなくもないだろう。
しかし、私たちにセミオクラシーに身を委ねるという覚悟があるわけでもないのである。


29、偽装民主主義が私たちの精神に覆いかぶさっている。
また、民主主義そのものの本質の一部として、「擬態」があるというふうにいってもよい。
民衆が主権をもちうるほどに優秀な存在だとみなすことは、いってみれば、人間が神の擬態をやっていることにほかならない。
デモクラシーの発足と同時にプラトンたちが衆愚政治への転落を心配したのはそのためである。
トックビルが「多数者の専制」としてのデモクラシーによる個性の圧殺を憂えたのもそのためである。
この民主主義に内在する擬態という要素が戦後日本においてどうしてこうまで無視されるに至ったかについてはいくつもの理由あるが、率直にいって、教育の効果を第一に挙げるべきである。
いわゆる日教組教育といわれる民主教育を文字通り信じ、型通りに受け入れている日本人はかならずしも多いとはいえない。
多くの日本人が民主教育のなかで吐かれる平和、平等、福祉といった類の美辞麗句にたいして空々しさを感じている。
しかし、小、中、高、大学、合わせて16年という長期にわたってその種の空文句を頭に詰め込まれ、それに応じて試験が行われ、試験の成績に応じてそれぞれの人生が可能性が定まるという民主主義的な言語システムに日本人は慣れ親しんでしまった。
それゆえ、擬態民主主義に沿っているかぎり人生を無駄に過ごすことができ、ときとして褒賞すら与えられるといういわば精神的パプロフ反射運動が身についてしまったのではないか。
新聞記者こそこうした反射運動の達人である。
彼らはなんらか激しい感情をもって権力者のいかがわしさを批判しているのではない。
ただ、民主主義的な言語体系にもとづいて権力者のいかがわしさを批判しておけば、それだけで、記事としては無難であるのみならず販売部数も伸長していくということをわきまえているのだ。

 

30、大小様々なテクニックを交えながら、マスコミが狙っているのは次のことであろう。
世論を一定段階まで煽動したあとで、その効果を追認するために世論調査の結果を発表し、それを契機にして、いっそう煽動を強めていくということである。
これにテレビの効果まで含めると、事態はまさに惨状である。


31、誘導もしくはねつ造された世論を背景にしてマスコミ世論を作り上げるというやり方をさらに強化するのは、日本のマスコミにおける「匿名」の方式である。
つまり、新聞記事には記者の署名がないという事である。
しかしそれ以上に重要なもう一つの効果は、匿名にすることによって、その文章があたかも「天声人語」であるかのように見せかけることができるということである。
つまり匿名はマスコミの無責任の表れであると同時にマスコミの傲慢の条件でもあるのである。


32、日本のマスコミがモノトーン、モノカラーに塗り上げられるのはどうしてなのか、という疑問が外人から寄せられることがあるが、それは、記者クラブにおける情報の相互交換そして情報の相互規制のおかげなのだと思われる。
国民は、マスコミが自分の代わりにものを考えてくれている、ものを表現してくれている、と受け取っている。
しかしより厳密にいうと、国民は自分たちに何らかの考えがあって、その代弁をマスコミがしてくれている、とみなしているのではない。
自分たちのおおよそ無であって、その無の器にマスコミが感情や思想や理論を注入してくれることを待ち望んでいるのであろう。
これはあきらかに衆愚の姿である。

 

33、多くの国民は二者択一の短絡した文体の方がわかりやすいとみなす。
「感情・思考の節約」の見地から、マスコミの文体を好むのである。
文明の成熟とは、二者択一を選ばずに信と疑のあいだの平衡さらには総合をめざして、文体を研磨することであろう。
こういう努力を避けようとすることがピュエリリズムつまり「文明の小児病」にほかならない。


34、偽装民主主義を商売の種とするダーティーなやり方を端的に示すのは、消費税実施の直前に行われた新聞代金の値上げである。
消費税実施に先んじて値上げすることにより、自分たちの値上げは消費税とは無関係であるという立場をまず獲得したわけだ。
そのあとでマスコミは一斉に反消費税キャンペーンに入ったのである。
国民はそのごまかしを薄々は知ってはいた。
しかし、当然ながら新聞にもテレビにもそのごまかしを非難する声が一度も発表されないとなると、国民はそのごまかしを遅かれ早かれ忘れてしまう。

 

36、最近では、前述した西表島サンゴ礁における1人のカメラマンの振る舞いもこうした特ダネ志向の産物に違いない。
ついでまでに、これらの双方とも朝日新聞紙上でなされた捏造である。
より罪が重いのは、半ば無意識の捏造である。
つまり偽装民主主義の観念枠組のなかでいわば自動性めいた偏見のはたらきに従ってなされる偽造である。
たとえば、すでに言及した事例ではあるが、いわゆる教科書問題がその典型である。
これは記者クラブにおける一新聞記者の誤報からはじまった。
つまり、日本の中国への「侵略」と書いてあったこれまでの教科書の記述が「進出」と書き改められたとある記者が記者クラブに伝え、それが大報道となってしまったわけだ。
ところが、よく調べてみると、侵略を進出と書き改めたという事実は一切存在しなかった。
これが故意の捏造であるとまでは私は思わない。
ただ、偽装民主主義の観念枠が確立されてしまっているために、実際に取材し検証する努力をしないままに、侵略を進出と書き改めたというのは確かであろうとする思い込みがマスコミ全体に広がり、そしてそれをわざわざ中国政府に知らせにいく連中まで現れるという結果になったのであろう。
ともかくそれが誤報であることがわかるや、産経新聞はただちに取消記事を載せたものの、他紙については、少なくとも読者に伝わるようなかたちでの取消や謝罪は行われていないのである。


37、私の知るかぎり、いわゆる南京大虐殺事件についてもそうである。
たとえば煙幕の写真が毒ガスの写真であると報道されたこともある。
これも故意の捏造による報道ではないのであって、平和主義や反軍国主義の観念枠にとらわれているために、当時の毒ガスはこの写真におけるように空中に舞い昇るものではなく地表を這うものであるという単純な事実をすら調べてみる必要が認識されなかったのであろう。
彼らはおのれの観念の枠組にたいして、批判や懐疑を向けることはしないのだ。


38、ほとんどすべての大新聞社が、とくに田中角栄氏が首相であった時期を中心にして、巨大な国有地の払い下げを受けている。
その総額は、現在の時価に換算してどれくらいになるのか、ともかく気の遠くなるような巨額であることは間違いない。
リクルート事件をめぐって政治家や経営者の「濡れ手で粟」に大批判が加えられたわけであるが、リクルートが合法、不法をとりまぜてばらまいた金品の総額は、せいぜいが2、30億円であろう。
しかし、新聞社が国有地の払い下げで得た利益とくらべれば、そんなものははした金にすぎない。
よくこれで他者の「濡れ手で粟」批判ができるものだと呆れるしかない。


39、マスコミのふしだらさはほとんど惨状といってよい姿をさらしている。
そのすべてについて言及する余裕はないので、比較的大きな話題として、消費税反対の騒ぎを取り上げてみよう。
私は、中曽根内閣のときの売上税を含め、新たな間接税の創設によるいわゆる「直間比率の是正」にたいして反対するものたちを心底から軽蔑してきた。
なぜ日本人はよく知らないことについて、よく考えていないことについて発言をたくましくするのだろうか。
たしかに大声で言挙げをする必要が日本人にはあるだろう。
国際社会のなかで、日本人は自分の感情や思考を明確に述べない、自分の理念や目標を明確に語らないとして気味悪がられている。
自分の思うところを臆することなく表現することそれ自体は、日本人にとって、今後ますます重要な課題になるであろう。
だが、消費税反対騒ぎでみられた言動は、知らないことについて知っているかのように、考えたことのないことについて考えたかのようにいいつのるという意味での偽の言挙げなのであった。
売上税以来、税制議論は偽の言挙げのなかに放り込まれたまま3年が経過しているのである。


40、しかし、ひとたび言挙げをするのなら、まして公の場でそれをするのなら、自分の用いる言葉の意味くらいは知っておいてもらいたい、知らないなら考えてもらいたい。
消費税に反対するからには、ましてその反対を公言するからには、直接税や間接税という言葉の意味するところを理解しておくのは、言論にとっての最低の義務である。
そういう義務を放棄し、自分流の勝手な判断で言葉を遣うのは自由というよりも放縦である。
税制議論が2年も続いているのに、マスコミにはその手の下等な言葉遣いが氾濫している。
それもそのはず、消費税反対を叫んで当選した社会党のいわゆる「マドンナ候補」が、記者会見で直間比率のことを聞かれ、「直間比率って何のこと、私がモノを知らないからって、私のことを馬鹿にして」と抗議する御時勢なのである。
現行の消費税が完璧なものだとはいわないが、基本ラインとして、それがおおよそ首肯しうるものだということは、まともな大人ならば10分間あれば、了解できることだ。
まして日本社会はビジネス社会、金勘定の社会だといわれている。
金銭の収支に慣れ親しんでいるものならば、消費税の正当性を認めざるをえないであろう。
その理由といえば、第一に、個人所得税がサラリーマンにたいし決定的な不公平を40年間も与えつづけてきたことはも歴然としている。
サラリーマンだけが所得を10割捕捉され、他の職種の人々は5割、3割、そして1割といった具合になっている。
つまり他の職種の人々は大幅な脱税を公認されているわけだ。
それゆえ税収全体に占める個人所得税の割合を減らすことによってこの不公平を減少させようと考えるのはまったく正当である。
第二に、個人所得税は基準的であり、この累進性が大なる可能性で悪平等につながる。
少なくともこのことがそろそろ真剣に論じられなければならない時期にきている。
簡単にいうと、、一生懸命働いてたくさん稼いでも、ごっそり税金で取られるのでは、勤労意欲が起こらないということである。
これは欧米諸国ではすでに広く起こっている現象である。
戦後、日本人は個人主義だの平等主義だのというアメリカ仕込みの言葉を好んで使用しているが、個人主義の意味を少しまじめに考えると、原理的には累進所得税個人主義にむしろ反するものだということに気づかざるをえない。
個人間の平等をそのまま受け入れるとすると、人頭税つまり1人当たり定額の税金が個人主義にはピッタリなのである。
逆にいうと、累進税がどういう思想に由来するかというと、全体主義からきたものだということである。
つまりどういう国家を作るのかという課題が先行させるとすると、金持ちからたくさん取った方が国家を作り易いということになる。
この支払い能力によって税を決定せよという考え方を財政理論では能力説とよぶが、それは個人を国家に奉仕すべきものとしてとらえるという思想なのである。
たくさん稼いだものは国家にたくさん税を拠出すべきであるというのは全体主義もしくは国家主義である。
少なくともこうした思想を多分に含むのが累進税なのだ。
だからこそ、それはプロイセンという官僚国家を支える税思想となったのである。


41、つまり社会は深層構造としては平等であるが、しかし表層構造としては不平等なのである。
平等と不平等のあいだの構造的バランスによって社会全体の安定性がもたらされる。
深層と表層の構造的境界がどこにあるのかを、ということは平等と不平等のあいだ平衡の支点がどこにあるのかを判断するのは大変に難しい。
このことは認めざるをえない。しかし戦後の風潮にあっては、その境目がどんどん上昇してきて、社会全体が基礎構造になる、つまり平等で覆われるかのような勢いである。
「機会の平等」からさらにすすんで「結果の平等」を素晴らしいとする方向で、福祉社会が肥大化している。
そうした過剰福祉の弊害が欧米ですでに顕著である。
そして日本でもそれがそろそろ目立ちつつあるといってよいであろう。


42、次に法人所得税の問題である。
日本の法人企業は、地方税や法人所得税をあわせて、60%に近い税負担を蒙ってきた。
これは、少なくとも名目でみて、世界で1番高い負担率だといわれている。
現在の日本経済は活況を呈しているので、企業のがわからの税金にたいする抵抗はまだ深刻なものになっていない。
しかし、税制改革というのは長期的な視野にかかわる問題であり、90年代はおろか次の世紀をも見通すものでなければならない。
シャウプ税制にしても40年も続いたのである。
つまり、法人の税負担を高いままにしておくと、いずれ日本が経済的困難に見舞われたとき、こんな税負担の高い国に企業をおいておくよりは税負担の低い国に移動させたほうがいいということになる。
つまり資本流出の動きである。
すでに経済摩擦や労働費用のことを考慮して海外への資本流出がすすんでいる。
これに税負担の要因が絡まれば、日本の産業を空洞化させるような資本流出が生じかねないのである。
したがって、法人所得税の減税についてもそれをそろそろ真剣な議論の対象としなければならない時期にさしかかっているといってよい。
といった判断に立って、法人税率を引き下げたわけである。


43、で、物品にもサービスにもかけよう、そしてさきほど言ったように税率を一律にしようということになる。
そしてこれこそ消費税にほかならないのである。
現行の消費税が完璧なものだとはいわないが、基本ラインとしては、認めざるをえない税制改革なのである。
ところが、マスコミにあっては、私と世界にとってはコモンセンスと思われる判断が通用しない。
最初から直間比率の修正は天下の悪政だと思わせるような論調で、野党の主張と手をたずさえつつ、売上税・消費税にたいする反対キャンペーンが展開されたのである。
直間比率の何たるかを知らないようないわゆるオバタリアンたちの消費税反対集会があると、それを結構大きな記事として載せる。
しかし税制に詳しいものが新聞記者を相手にきちんと筋を立てて消費税の話をし、しかもその記者の個人的な見解としてはそれに同意したとしても、それはなかなか記事にはならない。
それどころか、記者諸氏は消費税反対集会がどこかで行われてはいないかといううの目たかの目で探しまくり、消費税反対の感情論を収録するのに躍起のようであった。


44、何人かの外国人と会う機会があったとき、「日本では、コンサンプション・タックスで大騒ぎだそうだが、税率は何パーセントなのか」と聞かれた。
私はニヤリと笑って「3パーセント」だと答えた。
私の予想どおり、彼らは膝をたたいて笑う。
「何でそんな低率のことで大騒ぎになるのか」と。
そこで私も「日本人の摩訶不思議な気持ちは私なんぞにはわかりません」といって笑ったのである。


45、ほとんどの文明諸国がたいがい10%を超える税率の消費税でやっているのだから、外国人が消費税を認めなければむしろ変である。
まして、私の知るかぎり、消費税がそれら外国人に深甚なダメージを与えたという事実などありはしないとなればなおさらである。
ところが日本人の姿勢は、土井たか子氏のセリフに端的に表されているように「消費税は世界に類例をみない悪税である」と叫ぶのである。
世界に類例をみない悪税とは、これまでの日本の税制のことだというのに。
また土井氏は消費税について「だめなものはだめ」というみごとに無論理の感情論で対抗した。
そしてこれが日本では案外に受けるのである。
これもやはりマスコミの影響が小さくないのではあるが、まず最初に「だめ」というムードがかき立てられ、そして「だめ」という大前提から「だめ」という結論を導く。
これでは幼児の論理である。
大人が「幼児の論理」を用いて、それで通用するというのは、もし馬鹿でないのだとしたら、日本人はよほどに退屈と苛立ちに苦しんでいるのであろう。
マスコミ世論の消費税論議はそういうていたらくに沈んでいるのだ。


46、ここまで説明してやっても、人々は第二義的不平をあれこれつぶやく。
たとえば「なんといっても政府の説明が足りない、自民党の説得が足りない」という。
私はこの不平を9割がた認めない。
なぜなら、直間比率の見直しという問題は、田中首相の時代から政策課題にのぼりはじめたものだからである。
そして大平首相のときには「一般消費税」というかたちで政策提案され、そしてそれが「天下の悪税」といったような悪宣伝に巻き込まれ、ついに大平氏は政治的苦境のなかで逝ったのであった。
それから10年、直間比率の見直しは重要な政策課題でありつづけた。
その間、マスコミや野党がその課題について少しは勉強していたら、売上税や消費税にたいして、こうまで悪罵を投げつけることはできなかったであろう。


47、中曽根氏や竹下氏は、通じたものには至極当然の認識を、国民に知らせたのだ。
これらの政治家の決断をたたえよとまではいわないが、10年以上にわたり直間比率の是正という理のある方針にたいし理不尽な攻撃を仕掛けてきたマスコミの責任が不問に付されてよいわけがない。


48、政府与党があらかじめ説明をすれば、新聞やテレビがすすんでそれを報道し、解説を加え、国民もそれを熟読したり傾聴したりするというふうにはならない。
国民はそれほど勉強家ではないのである。
その証拠に、売上税・消費税が3年間も論議されているというのに、それが所得税の減税と組合せになっているということすら知らない国民がたくさんいる始末である。


49、そのこと以上に問題なのは、どうして便乗しては悪いのかということである。
これは市場経済の原則にかかわることである。
商店主があらゆる機会に便乗して値を上げようとするのは市場の経済原則として当然である。
そしてその原則によれば、価格の上げすぎだと思われるような商品は消費者に買ってもらえないのである。
で、商店主も値を下げるということになる。
つまり需要と供給のバランスで値が決まるというのが市場経済なのである。
消費者が消費選択において賢明であれば、便乗値上げという概念そのものが根拠薄弱ということになるわけである。


50、公定価格による統制経済の大失敗は戦中の日本をみてもあきらかであるし、現在の社会主義国をみればますますあきらかである。
そのことを少しでも理解するなら、便乗値上げ反対などという、これまた民主主義的感情を煽り易い言葉をあまり頻発してはいけないのである。


51、それゆえ、一部の女性たちが自賛する台所感覚についても、そしてそれを持ち上げるマスコミの報道感覚にたいしても、私は全面的に批判的である。
彼女らはむしろ台所感覚が不足しているのではないか。
まともに家庭の仕事をしている女性ならば、所得税減税で夫の月給がいくら上がったか、あるいは物品税減税で自動車が何10万円下がったか、などといった側面にも総合的に配慮が行き届くはずだ。
それがよき台所感覚というものである。


52、子供を持ち出すことによって、ヒューマニズムの感情に浸り、それが民主主義的感情に連動するというありきたりの心理過程ではある。
菓子を毎日買い与えるのもどうかと思うが、それを問わないとしても、せいぜい1日百円の菓子で3円の税、1ヵ月90円である。
女性が選挙運動に参加して一向に構わないが、なぜそんな些細なことが宣伝カーの上から叫ばなければいけないのか。
もう少し切実味のある台所感覚を表現してもらいたいものだといわずにおれない。


53、単にムードとしての民主主義をくすぐるだけが彼女、および彼女らを支援する人々の関心事なのだとすると、過ぐる参議院選に大量立候補した「マドンナ」とはマッド・オンナのことだとひやかされても仕様がないだろう。


54、私は10年も前から大衆論をやっており、したがって、本心からずれたことを熱狂的に叫び、その集団的叫びの赴くところ集団リンチが現出するのが大衆社会の傾きなのだと考えてきた。
そしてこの傾向こそが民主主義をマスデモクラシーへと堕落させるだろうともいってきた。
大衆社会にあってなおかつ政治家であろう、経営者であろう、言論人であろうとするものは、マスデモクラシーの典型現象ともいうべきマスコミ世論に脅えてはならないし、それから逃げ隠れしてもいけないのである。
堂々と理非曲直を正しつつ闘ってこその指導者である。
しかし私は、政治家は半ば免罪だと思う。
彼らはなんといっても国民から票をもらわなければいけない立場におり、そのためにマスコミ世論と切れることが難しいのである。
中曽根氏が「大型間接税はいたしません」と公約せざるえなかったのもそのためである。


55、もっとも責任が重いのはやはり知識人、言論人だというべきであろう。
彼らは票をもらうわけでもなく、品物を売るわけでもなく、ただ言葉を用いるだけの種族である。
なぜ言葉によってマスコミ世論と闘わないのか。
一例として私は経済学者のことを挙げてみたい。
私の知るかぎり経済学者の大半が消費税に賛成である。
少なくとも消費税の正当性を基本的に認めている。
その証拠に、消費税は悪税であるということいった経済学者の書物も論文もまずないといってよい。
ところが経済学者たちは、マスコミ世論が消費税反対に傾くと一斉に消費税の論戦から逃げたのである。
同じことは、衆愚政治と化しつつある政治の現状にたいする政治学者たちの迎合もしくは沈黙についてもいえることだ。
マスコミ世論にたいして闘う最後の拠点ともいうべき知識人が総崩れになっており、それゆえマスデモクラシーは今や完成の域に達したという観を呈している。


56、ところで、プライバシーの権利という概念はおおよそ二つの内容をもつ。
一つは個人が独りになりたいときに独りにならせてもらえる権利、もう一つは自分にかかわる情報は自分の処理に委ねられるべきであるという意味での自己情報管理の権利である。
もちろん、これらの権利には公共性を著しく阻害しないかぎりにおいて、という限定が付されるのであろう。
いずれにせよマスコミはこれら二種類の権利を徹底的に破壊したのであった。
また近年におけるマスコミ世論の趨勢としては、政治家にかぎらず有名人全般のプライバシー権を侵害するのが最大のセールスポイントになっているとすらいえる。
日本人はどうやらプライバシー権というものの意味を理解していないようにみえる。


57、プライバシー権は、人間の性悪を認めつつ、しかしそれを社会に迷惑でないかぎり互いに隠蔽するという節度の下でのみ、主体の観念もその自由の観念も成り立つのである。
これが文明のフィクションというものなのだ。
このフィクションの意義を日本人はまだよく理解できていないようなのである。
ここにもまた、戦後長きにわたって続いてきたヒューマニズムの思想、つまり人間はいずれかならず性善なる存在へと上昇しうるものだとみなす思想、要するに人間礼賛の思想が影を落としている。
人間礼賛にもとづきつつ人間蔑視をやる、それがプライバシーの侵犯である。


58、日本国民の多くも「濡れ手で粟」を欲し、自分の性衝動の放埓なる解放を求めている。
そういう自分らのいかがわしい姿を棚に上げて、権力者にたいする集団リンチを楽しんでいる。
人間のもつ数あるいかがわしさのうちで集団リンチがもっとも卑しいものだといってよいであろうが、わが国民はマスコミに誘導されつつこの種の卑劣に走って恥じないでいる。
その結果、集団リンチの犠牲者なることに耐えるのが権力者の最大の仕事といった有り様になってしまった。

 

59、大マスコミが1年以上にわたって反自民党キャンペーンを張りつづけたのである。
大新聞においては2千万人の読者、大テレビにおいては5千万人の視聴者がワンパターンの自民党批判に春夏秋冬にわたってさらされたのだ。
これが野党の利するところとなって自民党は大敗した、とみるのが明け透けの真実というものである。
このマスコミ報道の過程で、自分たちの報道が反自民勢力にいかに利用されるかということに気を配ったマスコミ人士はまことに少ない。
逆に、民主主義社会に蓄積されている反権力的な感情に媚びることによって、自分たちの新聞の売れ行き、あるいはテレビの視聴率を高めることが彼らの最大の関心事なのであった。


60、しかしデモクラシーを民主主義と訳すと、価値的に素晴らしいものだという判断があらかじめつけ加わってしまう。
つまり民主の「主」ということの意味が問題なのだ。
これは主権ということを意味する。
民衆に主権がある、あるいはあるべきであるという価値判断である。
サブリン・パワーつまり主権とは、子供達の教科書にもゴシックで黒々と説明されているように、「なにものにも制限されることのない最高権力」ということである。
民衆が無制限の権力をもつ、またもつべきであるというのが民主主義という言葉のはらむ思想なのである。
健常者ならば、自分のいかがわしさ、知的かつ道徳的な不完全さを自覚せざるをえない。
そのような不完全な自己に無制限の権力を与えよと要求することそれ自体が正気を失う第一歩なのだ。
少なくとも論理として、不完全なものに無制限の権力を与えよというのは無理なのだとすぐわかる。
つまり、民主主義の思想のなかには、民衆がたとえ現在は欠陥多き存在であるとしても、試行錯誤をしながらいずれ知性としても徳性としても完全な存在に接近するであろうというおそるべき進歩主義、別名、おそるべきヒューマニズムの傲慢が含まれているのである。
これは日本人の思想のせいというよりも、18世紀半ばにヨーロッパ啓蒙思想が作り出した悪しきヒューマニズムが極東の地に流れ着いた結果だといった方がよいのかもしれない。
つまり、当時の啓蒙主義者たちは、人間はパーフェクティビリティーをもつと宣言した。
そこから人間性への異常なる礼讃そして人間の権利の異常なる高まりがはじまった。


61、だが、とりわけ戦後の日本において、過去のおおよそすべてが誤謬の推積物であるとみなされるようになった。
そして過去から切り離される度合いが大きければ大きいほど、あるいは伝統を破壊する速度が速ければ速いほど、人間も社会も進歩に向かっているとみなすような軽薄な進歩主義の思想に染まったのである。
そのために、日本人の多くは、自分らの不完全さを制限してくれるものがルール・マナーであるということを、そしてその奥底には「伝統の知恵」があるのだということを忘れてしまった。
いってみれば、進歩主義のせいで「過去の喪失」がすすんだのである。


62、ところが、現在のマスコミ世論はまさに「討論の絶滅」という方向をすすんでいる。
マスコミ世論の劣悪ぶりは今にはじまったことではないが、「討論の絶滅」を顕著に示している点で、現在のそれは戦前・戦中のものに比肩しうるといってうよい。
この1年間におけるマスコミ世論の馬鹿騒ぎの経緯にあって、正論や異論が入り乱れた真剣な討論が闘わされた痕跡はみじんもない。
むしろ徹底して討論を排除していくというワンパターンのマスコミ世論が世を覆ったのであった。


63、前にも述べたように、トレランスとは他人の意見にたいする寛容であると同時に、自分の意見が間違っているかもしれないという苦痛を耐えることでもある。
その意味での忍耐である。
しかしマスコミ世論には、自分たちの報道や解説が間違っているかもしれないと構えるような忍耐の姿勢は少しもみられない。
むしろ自分たちの意見が国民の世論であり、それに逆らうものは排除する、という討論絶滅の方向での言葉遣いが顕著なのである。
こうした状況を振り返ってみて、確認できることは、マスコミ世論の言葉遣いにあっては、価値の序列、意味の序列が次第に消滅しているらしいということである。
わかりやすい例でいうと、平成元年の参院選におけるいわゆる「4点セット」がそうである。
消費税、リクルート問題、農業自由化そして政治家の不倫という4つの論争点のあいだでことの軽量が一向にあきらかにされていなかった。
どだいが、リクルート問題という下らぬスキャンダル、そしてそれ以上に下らぬ政治家の女性問題を、消費税という国家の大本にかかわる問題や農業自由化という国際関係の基本にかかわる問題と並置するのが異常なのだ。


64、人間が自分の意見や行動のうちに正しさの基準を見い出せないのだとしたら、自分を超え出たところに正しさの基準があるのではないだろうか。
その基準を理解し摂取するのが自分の務めではないだろうか、と考えるところから宗教も道徳も発生したのである。
しかし近代社会は、とりわけ戦後日本は、あくまで自己のうちにそうした基準が内蔵されていると考えた。


65、近代の創始期にあっては、世論というものは大いに疑われていた。
ホップスは世論をさして「不条理の塊り」とよんでいるし、民主主義の父といわれているルソーですらそれを「情念の塊り」とよんでいる。
またバークにせよトックビルにせよ、世論の支配のなかに繊細の欠如、自由精神の欠如、聡明さの欠如を少なくともその可能性を読みとっていた。
しかし、世論にたいする懐疑は、日本においては言論の表舞台では表明されず、右翼も左翼も中道も自分こそが世論の代弁者なりといってきたのである。
世論と闘う覚悟をもった世論だけが民主主義の拠るべき世論なのだという当然のことが忘れられている。


66、ところが無知蒙味にもとづく世論が消費税論議を制覇したということになる、学者や知識人は世論に屈して自分らの思考や判断を停止させてしまう。
こんなことでよき民主主義がもたされるとはとうてい考えられない。
また、政治家のがわも世論にたいして安易に取り組んできた。


67、残念ながらこの点も戦後日本においては確認されていない。
戦後において、保守は現状維持のことだと誤解されてきたからである。
伝統擁護としての保守と現状維持としての保守がどうして食い違うかというと、それは戦後の現状の基本ラインが伝統破壊に邁進するという点ににあったからである。
つまり言葉遣いの倒錯が起こってしまった。
伝統破壊の戦後の現状を保守するのが保守であり、伝統破壊の戦後の現実に不平を述べるのが革新であり進歩である、という倒錯が起こったのである。

 

68、「イデオロギーの終焉」はたしかな事実である。
イデオロギーとはアイディアのロジックである。
観念の論理であり観念の体系、それがイデオロギーであるが、わが民主主義人士たちにはそうしたものとしてのイデオロギーを語る力はありはしない。


69、世人はこういう事態にすっかり慣れきって、ブーオロジーがいくら高揚しても、さして奇異の感を抱かなくなっているのだが、しかし冷静に眺めれば、これはまさしく文明の小児病である。
これほどまでに言葉の意味を蔑ろにしつづけるなら、そのうち、言葉で駄目なら暴力で、といったふうに「テロル時代」が近づいてくるのであろう。
ブーオロジーがブーオロジーとしての自覚をすら欠くようになると、立派に社会的狂気だといってよいのではないだろうか。


70、なによりも、私たちの言葉が習慣の体系なのである。
しかもその体系たるや硬直したもの、平板なものでは断じてない。
人間存在はいつも矛盾に引き裂かれている。
たとえば愛と憎しみに引き裂かれている、社会制度もまた葛藤に引き裂かれている。
たとえば連帯と敵対に引き裂かれている。
この人間および社会のかかえる矛盾や葛藤、さらには二律背反や逆説のただなかにおいて、かろうじて平衡をとろうとする精神の営み、その知恵の蓄積が習慣というものの本質なのである。
習慣のすべてが平衡の知恵からなっているわけではないが、習慣の中枢部にはその種の知恵が秘められている。
そうみるのでなければ、人間は自分の生存や社会の存在にたいして意味を与えることすらできなくなる。
したがって、習慣を破壊することに進歩を見い出すものとしての進歩主義的な言動はまさしく狂気の沙汰なのだといわれても仕様がない。
西欧人は進歩主義を唱えはしたのだが、しかし同時に、それを疑いもしたのである。
進歩主義を信仰しつつそれを懐疑するという緊張に富んだ精神の作業を西欧は持続させてきた。


71、たとえば、一つの言葉遣いを例にとると、欧米社会でパシフィストというと、なにほどか軽蔑の意味が込められている。
というのも、平和を唱えていれば平和が達成されるわけではないということを欧米人はよく知っているからだ。
平和を維持するために軍事が必要であるとか、大きな戦争を避けるためにはときとして小さな戦争もしくは戦争まがいの公道も要請されるということを彼らは知っている。


72、自己に非平衡性が内在していると知ればこそ、そこでかろうじて平衡を保つことが重要な課題となる。
豊かな平衡感覚に裏づけされた言葉と態度が要請されるわけだ。
そして「伝統の知恵」とは緊張に耐える力、分裂に耐える力、平衡を維持する力としての言葉遣いや振る舞い方を教えるものである。
マスコミ世論が犯している最大の悪は言葉遣いにおける平衡感覚を喪失する方向に日本人を誘導している点にある。
一言でいえば、ピュエリリズムつまり文化的小児病の伝染媒体、それが現在のマスコミなのだ。
この調子で社会的狂気が放任され社会的正気が抑圧されるという事態が継続するならば、正気というものがそもそも何であったかを人々が本格的に忘却してしまうのかもしれない。


73、人類は植物および動物という他の生命体を貪りつづけてきた。
挙句、飽食の病理すらが取り沙汰されている有様だ。
もし「生命それ自体」が尊重するに値するものだとしたら、あるいは一部の法学者が主張するように生存権というものが数ある権利のうちの最高峰に位置するもだとしたら、人間以外の生命、生存を破壊し尽くさんばかりの勢いにある文明それ自体にたいしても、「生命尊重」や「生存権」の見地から、批判が差し向けられるべきだ。
他の生命を食欲に破壊しているのがわれわれの文明だとわかれば「生命尊重」をいう場合にすら、羞恥の感情に襲われて当たり前であろう。
またそのようなものとしての文明から引き返すことの困難を思えば、慚愧の念を抱くほかないのである。
人間の生命にたいする称賛が、それにたいするかつてない大量殺戮に並行して、つづけられているのはそうしたわけなのだ。
人間の精神が大いなる逆説のうちにあるということを知るのが大人たることの第一歩であろう。


74、通常には、この種の思想を宣したのはフランスの「人権宣言」であったといわれている。
また平成の元年においても、フランス革命からちょうど200年というので、「人権宣言」を謳歌する向きも少なくなかった。
しかし「人権宣言」においてすら、その第6条に、人間は能力による差別を受けざるをえない、ということが明記されているのだ。
つまり戦後日本の平等思想は「人権宣言」をすら超え出るものであったということである。


75、近代は「身分」という差別を徹底し、そこに「自由」を構想した。
しかし近代といえども、能力差による差別を廃止することはできない。
そんなことをすれば、自由の底が抜けるからである。
逆にいうと、能力差による差別すらをも廃止せんとする平等主義は自由の抹殺である。
そして平等主義に激しく傾いた戦後日本人は自由という言葉は覚えはしたのだが、自由の真意をいまだ理解してはいないようだ。
放縦放埒という意味での自由ばかりが増大している。
つまり「秩序からの自由」というやつである。


76、能力に差異があるなら、機会においても差異がある、この残酷な事実を認めるところからしか社会は成立しない。
ところが、ヒューマニズムの思想にあっては、平等主義がまず「機会の平等」として認められ、次に福祉社会の進展と相まって「結果の平等」としての平等主義ががんじがらめに確立されてしまった。
とくに日本において、その平等主義が世界に抜きん出た水準で達成されてしまったのである。


77、しかしここで確認したいのは、投票をめぐる制度論よりも思想論である。
戦後、日本においては平等思想に励まされつつ権利の観念が拡大の一途を辿ってきた。
だがそろそろ義務の観念を個人生活や社会関係のなかで構築する必要があるのではないか。
もし、真偽、善悪そして美醜を区別する基準がどこかにあるのだとすると、その基準を探すのが人々の道徳的義務となるであろうし、その結果おおよそ正当と思われる基準が暫定的なものにせよみつかったとすれば、またそれについての社会的合意がおおよそ成立したとすると、その基準に従うという義務を果たすのが、人間が「良く生きる」ための第1条件なのである。


78、なぜなら民主主義とは「世論にもとづく政治」のことだからである。
それはマスコミ自身が要求しているところでもある。
そうならば、世論を動かす勢力があるとすれば、その勢力こそが民主主義社会における第1権力もしくは基礎権力であるということになる。
そしてここ数年のマスコミ世論の騒ぎを眺めただけでも、マスコミが世論形成に絶大な影響力を行使していることは否定すべくもない。
日本におけるマスコミの大規模性と画一性のことに注目すると、このことはほとんど自明である。
欧米社会のクォリティペーパーつまり上等の新聞の販売部数は50万部前後だといわれている。
また紙面における討論も日本と比べて格段に活発だともいわれている。
他方日本では、大新聞の合計販売部数は3千万部に近く、紙上討論などはサシミのツマといったような画一的な編集ぶりである。
テレビにしても民放はすべて新聞社の系列に属している。
テレビで視聴率1%というのは100万人がみているということである。
少し評判をとるニュース番組は10%の視聴率を誇っている。
結局、大新聞とテレビを合わせて1億2千万の国民がすべてマスコミの世論操作に身を委ねているわけだ。


79、それゆえ、適当にマスコミに迎合しておけば、適当にマスコミに謝罪しておけば、適当にマスコミをごまかしておけば、いずれマスコミの秩序破壊行動も沙汰やみになるであろうとたかをくくってきたのである。
しかしマスコミは権力の中枢部に、自他ともにそれと知らぬ間に、のぼっていたのである。
マスデモクラシーつまり大衆民主主義はいよいよもって完成の域に近づいている。
プラトンアリストテレスも、バーグもトクビルも、もしこの世に生まれ返ったとしたなら、デモクラシーの腐敗にたいする自分たちの心配がこの島国に未曾有の大きさと深さで現実のものになっているのをみて、たぶん腰を抜かすに違いない。