榎本秋 『カラー版徹底図解 古事記・日本書紀―神々とともに歩んだ日本創世記』を読んで。

1、「古事記」と「日本書紀」はともに7世紀、天武天皇の命令によって編纂された歴史書だ。
まず、「古事記」はそれ以前に存在していた歴史書を母体に、これを暗記していた稗田阿礼の語りを太安万侶が記録し、まとめなおしたもの。
内容としては天地の誕生から神々の物語、そして第33代推古天皇までの歴史であり、神話的な描写に多くが費やされている。
一方の「日本書紀」は川嶋皇子ら6人の皇族と中臣連ら6人の官僚によって編纂が始められ、数多くの人が関わったとされる。
最大の特徴は、日本の正史として相応しい内容を目指して作られているらしい事だ。


2、つまり、「記紀」というのは神話と歴史、その狭間に存在する物語であり記録なのである。
ここまでの物語が神々が現れ、その一部が地上に降り、そして更に高天原からやってきた正当な支配者(=天皇の先祖)が地上に降り立った事を示しているのに対して、ここからの物語はそうした神話に裏打ちされた高貴な血筋を引く者たちが実際に地上を支配していく、より歴史的な物語に移り変わった事を意味している、と考えられている。


3、我々が住む日本の国土は、一組の夫婦神が生みだしたものだといわれている。
この夫婦神の夫である男神が、「記紀」で最も有名な神であり、天空神でもあるイザナギだ。
イザナギは妻のイザナミと共に、国土だけでなく数え切れないほどの神を生みだした。
イザナミとのあいだにできた子供だけで20を超えるうえ、イザナミの死後、イザナギ単独で生んだ神も40近くを数えるほど。
のちに日本神話の主神となるアマテラス(天照大御神)も、イザナギが単独で生んだ神だ。
このようにイザナギは、日本神話の創造神として大きな役割を果たしたのである。
国を生んだという役割から、イザナギは日本神話で最初に生まれた神だと勘違いされる事が多いが、彼はあくまで14番目に生まれた神にすぎない。
しかし、それまでの13人の神は目立った活躍が記録されていないため、妻と共に多くの神を生んだイザナギの存在感は、「記紀」のなかでも際立っている。


4、イザナギの妹であり妻でもあるイザナミは、夫と共に様々な神を生んだ「創造の神」として知られている。
彼女が生んだ最も有名なものは「大八島」と呼ばれる島々、つまり日本列島だ。
その他にも彼女は、金属、土、水、などの自然物を象徴する神々を生みだすなどし、日本の基礎を築きあげたのである。


5、アマテラス(天照大御神)はイザナギが死者の世界「黄泉」から帰り、その穢れを洗い流したときに生まれた三柱神の長女。
太陽を司る、日本神話の最高峰とされている。


6、オオクニヌシは、漢字で「大国主」と書く。
これは「日本国を統治する偉大な神」という意味の尊称で、本名はオオナムチという。
オオクニヌシイザナミイザナギが生みだした日本列島を豊かな土地に変え、様々な災厄から守り続けた。
またオオクニヌシは、海神スサノオの流れをくむ日本土着の神「国津神」のリーダーでもある。
彼には180とも181ともいわれる人数の子供がおり、その中には現在でも深く信仰される重要な神が多数含まれている。
その後、記紀の重要な物語「国譲り」で、オオクニヌシ高天原から降りてきた天津神に日本の支配権を明け渡す。
彼は日本を護る対価として、天津神に大きな宮殿を建てさせた。
これが日本で最も有名な神社のひとつ「出雲大社」である。
父親として、リーダーとして、日本の基礎を築いた偉大な神。
それがオオクニヌシなのである。


7、記紀の「国譲り」の物語において、葦原中国天津神の子孫が統治する事になった。
このとき、神々の住む高天原から地上へ遣わされた神がニギニだ。
ニニギは現在の九州に降り立つと、地元の神の娘と結婚した。
彼らの子孫のひとりが、初代天皇神武天皇」だ。
つまりニニギは、天皇家の直接の先祖なのである。
ニニギは天津神のリーダーである太陽神、アマテラスの孫にあたる。
彼は太陽の神、稲穂の神であり、この特性はひ孫である神武天皇にも受け継がれている。


8、「記紀」の記述によれば、天皇制には2700年あまりの歴史があり、現在の天皇陛下は125代目にあたる。
世界的に類を見ないほど長い歴史を誇る天皇家創始者が、この初代天皇神武天皇」だ。
彼は、日本を支配するために高天原から降りてきた神「ニニギ」のひ孫にあたり、アマテラスたちの天津神の直系の子孫だ。
つまり神武天皇は、オオクニヌシの国譲りによって日本を統治する権利を得た、正統統治者なのである。
彼は親族と共に九州地方を出発すると、近畿地方の豪族を打ち倒し、初代天皇として即位した。
天皇家の歴史にとって最重要人物である神武天皇だが、「記紀」などの史料には、神武天皇の生没年や、神武天皇が実在した事を示す証拠がまったく存在しない。
そのため最近の学説では、神武天皇は創作された架空の人物だと考えられている。


9、ヤマトタケルという名前は、彼が討ち取った豪族にもらった名前で、本名はオウスという。
記紀」にはずばぬけた武勇を誇る人物が何人も登場するが、そのなかで最も有名で、最もドラマチックな人生を送ったのは、このヤマトタケルだけといっていいだろう。
第12第景行天皇の第二皇子として生まれたヤマトタケルは、父の命令で、天皇家に敵対する豪族を次々と討ち取った。
ところが景行天皇は手柄をあげたヤマトタケルを称えるどころか、次の任務を与えて都から追い払った。
景行天皇は彼の武勇を利用しつつも、その強さとカリスマ性を恐れていたのだ。
父に疎まれたヤマトタケルは、遠征中の負傷から病気にかかり、亡くなった。
歴史に残る大活躍をしながら、ヤマトタケルは結局、天皇にはなれなかった。
だが、彼の息子タラシナカツヒコが、仲哀天皇として天皇家の14代目に名を連ねている。


10、神功皇后は、夫である仲哀天皇の死後、皇后の身でありながら政治と軍事を取りしきり、69年間、日本の指導者であり続けた女性。
天皇家の歴史のなかで、彼女ほど積極的に国家運営に関わった「皇后」はひとりもいない。
第9第開化天皇と、新羅の王子、アメノヒホコの血を引く神功皇后には、巫女のように神の声を聞く能力があった。
仲哀天皇が、神のお告げを無視したせいで亡くなると、神功皇后はすぐに神の声にしたがい、政治と軍事を掌握。
その後、朝鮮出兵、反乱軍討伐という大事業を次々となし遂げた。
驚くべきことに「日本書紀」には、神功皇后卑弥呼が同一人物であるかのような記述がある。
これが本当であるかは分からないが、巫女として国のトップに立つなど、2人には共通点が多い事も事実である。


11、第21第雄略天皇は、125代続く天皇家の中でも有数の残虐性で知られる天皇だ。
第20代安康天皇が暗殺されると、雄略天皇は犯人を抹殺すると称して、皇位継承権者を皆殺しにし、自分が天皇に即位している。
性格にさえ目をつぶれば有能な政治家ではあった。
朝廷の古い制度を整理し、発展させたのは称賛に値する。
また、彼は天皇の支配力がおよぶ地域を大きく広げ、勢力範囲を朝廷のあった奈良から遠く離れた関東地方にまで拡大した。


12、「古事記」の物語は、この宇宙がまだ混沌とした状態だった頃から始まる。
この頃の大地は、水の上に浮かぶ油のような、ハッキリとした形を持たない存在だったという。
そんななかに現れたのが「別天津神」と呼ばれる5柱の神々だった。
天のなかでも1番高い場所・高天原にアメノミナカヌシ・タカミムスビカミムスビが、続いて地上からウマシアシカビヒコジとアメノトコタチが現れたのだが、彼らはすぐに消えて姿を見せなかった。
その後も神々は次々と現れた。
まずクニノトコタチを始めとする二柱の神が現れたが、やはりすぐ消えて姿を見せない。
彼らを含めてここまでに登場した神々はすべてパートナーを持たない単独の神だったが、その後には男女コンビで5組の神々が登場する。
この神々は姿を消す事がなく、特に最後に現れたイザナギイザナミは大きな役割を果たす事になる。


13、神々のうち、大地を固める使命を与えられたのが、イザナギイザナミだった。
2人は天沼矛を持って空に浮かぶ天の浮橋に立ち、矛を伸ばして海をかき混ぜた。
この矛を海から引き抜くと、その先からは塩の雫が滴り落ち、積もり固まって島となる。
これがオノコロ島だ。
2人は早速この島に降り立ち、天御柱と、大きな神殿・八尋殿を立て、島々を生む事にした。
この試みは最初うまくいかなかったが、他の神々の助言で解決し、大八島の名で呼ばれる8つの大きな島と、それ以外の6つの島が生み出された。
大地を固め、島々を生んだイザナギイザナミは、続いて家や住宅、自然に関係する17柱の神々を生んだ。
しかも、生まれた神々のなかには自らが夫婦となって新たな神を生むものもいた。
河の神は水にまつわる八柱の神を、山と野の神々も山野に関わる八柱の神々を、それぞれ生みだしていったのである。
しかし、イザナミは火の神ヒノカグツチを生んだときに、陰部に火傷を負う。
同時に六柱の神が生まれたが、彼女はその火傷がもとになって亡くなってしまうのだった。


14、このページで紹介するのは、「記紀」に描かれている時代----現在は古墳時代と呼ばれている時代に使われていたと思われる武器の数々である。
これより前の時代、縄文時代弥生時代などにおいては石や銅が主な材料だったこれらの武器たちは、古墳時代になって鉄で作られるようになり、兵士たちが使ったり古墳に埋蔵されるようになった。
その他の文化と同じように、武器製造の知識や技術のうち少なくない部分が中国などの外国から輸入されており、その様式にも大陸との共通点が多数見られる。


15、どうにか黄泉国から地上へと戻ったイザナギは、死者の国に行った事による穢れを落とすために、水で自らの体を洗い清める儀式をする事にした。
これまでのイザナギの行動と同じように、儀式においても様々な神々が誕生している。
まず、河に入る前に彼が身につけていた杖や衣服などを投げ捨てると、そこから十二柱の神々が生まれた。
更に、イザナギが河の中に入って体を洗うたびに神々が合計、十四柱生まれ、特に最後に顔を洗ったときに最も尊い三柱の神々が生まれたのだ。
左目を洗った時に現れたアマテラス、右目を洗った時に現れたツクヨミ、鼻を洗った時に現れたスサノオ
この三柱の神々は「三貴子」と呼ばれた。
イザナギは自分が最後に生んだ彼らが世にも尊い存在である事を大いに喜び、以後、自分の仕事を三貴子に任せる事にした。
すなわち、高天原をアマテラスに、夜之食国(夜の世界のこと)をツクヨミに、海原をソサノオに任せたのだ(「日本書紀」ではツクヨミが海、スサノオが「天の下なる国」を治める事になっている)。


16、兄たちから逃れてオオナムチがやってきたのは、スサノオのいる根の国だった。
ここは黄泉国と混同して語られる事のある場所だが、このときオオナムチが訪ねたのは黄泉国とは別の場所であったようだ。
そこを訪れたオオナムチは、スサノオの住まいの前でその娘のスセリヒメと出会い、互いに一目惚れしてしまう。
スサノオはやってきたオオナムチに様々な試練を課す。
しかし、蛇や百足・蜂のいる岩屋に入れられた際にはスセリヒメが手助けし、野原で火に囲まれた際には鼠に助けられ、オオナムチは無事だった。
そして、「スサノオの頭の上にいる虱(実は百足)をとる」という試練をくぐりぬけたあと、スサノオを眠らせる事に成功したオオナムチは、スセリヒメに加えて太刀や弓なども抱え、根の国から走り去る。
ここに至ってようやくスサノオはオオナムチの事を認め、娘を連れて去るその後ろ姿に「お前の持っている太刀と弓矢で従おうとしない八十神を追い払え」と励ましの言葉をかけ、更にオオクニヌシ(大国王)という名前を与えた。
そして、オオクニヌシはこの言葉のとおりに地上の支配者となり、国造りを始める。


17、オオクニヌシの国造りには、海の外からやって来た二柱の神の力が関わっていた。
まず最初にやって来たのは、小舟に乗って蛾の衣を着た小人の神だった。
オオクニヌシはこの神に名前を尋ねるが、神は答えない。
そこで何でも知っている案山子のクエビコに聞いたところ、「カミムスビの子のスクナビコナでしょう」という答えが返ってきた。
その後、スクナビコナカミムスビの指示を受けてオオクニヌシと兄弟になり、力を合わせて国造りに働いたとされている。
しかし、スクナビコナはあるとき突然、海の彼方へ去ってしまったので、オオクニヌシは途方に暮れた。
ところが、すぐにもうひとり神がやって来る。
海を輝かせながらやって来たこの神は、「私を東の山の頂に祀るならば、国造りを手伝おう。
そうでなければ国造りが完成する事はないだろう」と申し出てきた。
オオクニヌシはこれを快諸して大和の地の御諸山、現在は三輪山と呼ばれている山にこの神を祀り、協力して国造りを再開した。
この神は「古事記」には名が書かれていないが、オオモノヌシ(大物主)の事とされている。


18、葦原中国----地上を豊かにしたオオクニヌシだったが、これに対して高天原のアマテラスが地上の支配権を主張する。
自らの子のアメノオシホミミ天の浮橋から見た地上がひどく騒がしかったので、一度、高天原に戻ってアマテラスに報告した。
そこで、アマテラスは智恵の神オモイカネを始めとする神々と相談し、使者としてアメノホヒ神が派遣される事になった。
ところが、彼はオオクニヌシに懐柔されてしまい、こびへつらうばかりだった。
アメノホヒが戻らないので、新たな神が派遣される事になった。
それがアメノワカヒコである。
ところが、彼はオオクニヌシの娘のシタデルヒメを妻にして、あわよくば地上を自分の物にしようと企んでいた。
戻ってこなアメノワカヒコを催促する為に雉のナキメが派遣されたが、アメノワカヒコによって射殺されてしまう。
しかしその後、反逆が判明し、高天原の神タカミムスビアメノワカヒコを、ナキメを射抜いた矢で亡き者にしてしまう。


19、アメノホヒアメノワカヒコと、立て続けに使者選びに失敗してしまった高天原の神々は、次にタケミカヅチとアメノトリフネの二柱の神を地上に派遣する事にした。
出雲国の稲狭の浜に降り立った彼らは、波に剣の柄を突き立てて切っ先の上にあぐらをかくと、オオクニヌシに対して国譲り----葦原中国の支配権を譲り渡すように要求した。
これを受けてオオクニヌシは、「私はすでに隠居の身なので、私の子のコトシロヌシに聞いてください」と答えた。
そこで空を飛ぶ船の神であるアメノトリフネがコトシロヌシを連れて来ると、彼は「仰せのとおりにします」とあっさり答え、そのまま姿を消してしまった。
そこに現れたのがオオクニヌシのもうひとりの子供、タケミナカタだった。
力自慢の彼は国譲りに賛同せず、力比べを挑んでくるのだが、これはタケミカヅチの圧勝に終わる。
タケミカヅチタケミナカタの手を握りつぶして投げ飛ばし、相手が逃げ出すとどこまでも追いかけ、ついには降参させてしまった。
こうして、国譲りは成立したのである。


20、アメノワカヒコはアマツクニタマの息子。
葦原中国平定の為に高天原から遣わされた。
だがオオクニヌシの娘と恋に落ちて使命を忘れたうえに、高天原の使いを殺すという過ちを犯して、結局、死んでしまう。
後世、彼は悲恋と反逆の神として民間で高い人気を得て、美男子として描かれていた。


21、タケミナカタ天津神葦原中国を譲るように迫ったとき、最後まで抵抗した水神。
このとき彼は天津神諏訪湖まで追い詰められ、「諏訪から出ない」と誓って降参した。
諏訪地方の伝説では、よそから来たタケミナカタが土着の神に勝ち、諏訪の守り神になったと伝わっている。


22、タケミカヅチオオクニヌシの治める葦原中国に行き、国を自分たちに譲るように迫った神。
雷を神格化した存在で、古来から軍神、武神として信仰されていた。
茨城県にある鹿島神宮の祭神で、大和朝廷が東北に遠征する際、ここを拠点とした為、タケミカヅチ大和朝廷の守護神となった。
現在では軍神の他、開運や長寿、交通安全など、色々なものを司る神とみられている。


23、コトシロヌシオオクニヌシの息子で、民衆に神の言葉である「神託」を告げる神。
天津神が国を譲るように迫ってきたときも、オオクニヌシに信頼されていた。
コトシロヌシは、天津神に国を譲るべきと答え、その後、別世界に隠れてしまった。
日本書紀」では神武天皇の親神とされ、天皇家と結びつきが強い神だが、「古事記」にはそういった記述はない。


24、コトシロヌシタケミナカタがそれぞれ降参すると、オオクニヌシも改めて国譲りに同意したが、条件として彼は巨大な宮殿を要求する。
これが出雲大社の起源である。
こうしてようやく高天原の神が地上を治める事になったが、実際に地上へ降りる事になったのは当初予定されていたアメノオシホミミではなく、子のニニギだった。
そのニニギが地上に降りようとするとき、天の道の分かれているところで世界を照らしている者がいた。
これはサルタヒコという神で、彼は案内人を申し出た。
こうして、ニニギが地上に降りる準備は整った。
アマテラスは彼にアメノウズメやオモイカネ、タヂカラオなどの、主に天岩戸のときに活躍した神々などをつき従わせ、更に勾玉・鏡・剣の三種の神器を与えて地上に送った。
特に鏡については「私の魂であると思って祀るように」と命じるのだった。
こうしてニニギは高天原から地上の筑紫国日向・高千穂峰に降り立ち始めたのである。
ニニギはアマテラスの孫にあたる為、この出来事を「天孫降臨」と呼ぶ。


25、アメノオシホミミはアマテラスの珠をスサノオが、かみ砕いた事で誕生した男神
アメノオシホミミには同じように生まれた兄弟が4人いるが、その中で彼の子孫だけが天皇家の祖先となった。
古事記では彼は5兄弟の長男だが、日本書紀では次男だとされており細部に違いがある。

 

26、サルタヒコは国津神でありながら、天津神のニニギが高天原から地上に降りてきたときに出迎え、地上への案内を行った神。
サルタヒコは神田(神社が所有する田)の守護神であり、現在では村の中心や道端などに祀られている道祖神、いわゆる地蔵としてその姿を見る事ができる。


27、コノハナサクヤヒメは、ニニギの妻となった絶世の美女。
一晩交わっただけで彼の子供を身ごもったため、ニニギは彼女の不義を疑ったが、彼女は燃えさかる家の中で子供を生む事で、自らの潔白を証明した。
このエピソードからコノハナサクヤヒメは、安産と火消しの神として祀られている。
また、富士山の頂上から桜の花びらを蒔き、国中に桜の木を広めた伝説がある事から、桜の神ともされている。


28、イワナガヒメイザナギイザナミの息子であるオオヤマツミの双子の娘。
妹はニニギの妻コノハナサクヤヒメ。
イワナガヒメは容姿が妹より劣っていたので、ニニギに追い返された。
イワナガヒメは生命の永久性を司っていたので「古事記」はこれが人間が短命になった理由だとするが、「日本書紀」には、ニニギの子を妊娠した妹コノハナサクヤヒメをイワナガヒメが呪った事が短命の理由だと書かれている。


29、ワタツミはイザナギイザナミから生まれた8番目の神。
名前の「ワタ」が海を表すとおり、ワタツミは、大海原を始めとした全ての水を司る神である。
ホオリとホデリが争ったときには、娘をホオリの嫁にやり、手助けした。
一説では、ワタツミは子供の姿をしているとも言われている。


30、トヨタマヒメは山辛彦ことホオリの妻。
ホオリがトヨタマヒメの父である海神ワタツミに会いに来たときに出会い、結婚した。
トヨタマヒメは非常に美しい女性だったが、その本来の姿はワニだった。
彼女はホオリに正体を見られた事を恥じ、生んだばかりの子供を置いて逃げ帰ってしまった。


31、ホデリはニニギとコノハナサクヤヒメのあいだに生まれた神。
「海辛彦」という別名があり、こちらのほうが我々には馴染み深い。
弟であるホオリと争ったが敗れてしまい、ホオリに永遠の服従を誓った。
元々は海の支配者だったが、ホオリにその座を譲ってからは、昼と夜の守護神となっている。
また、大和朝廷に最後まで抵抗した隼人、阿多君(南九州の住民)の祖先であるともされている。


32、ホオリはニニギの息子でホデリの弟。
主に、穀物の神として信仰されている。
おとぎ話で有名な「山辛彦」は、このホオリの事である。
ホデリの釣り針を、ホオリがなくしてしまったといういさかいが原因で、ホオリとホデリは争う事になったが、ホオリは海の神であるワタツミの力を借りて、ホデリに勝利する。
元々、山の支配者だったホオリは、これ以降、山と海の両方の支配者となった。


33、武器に続いて、このページでは古墳時代に使われていたと思われる防具----兜や鎧、盾などを紹介する。
これより前の時代、弥生時代などでは同じような形の鎧が植物や獣皮などで作られていたが、この頃になるとそのほとんどが鉄製となり、さび止めを兼ねた黒い漆が塗られていた。
こうした防具が古墳に大量に埋蔵されていたり、防具をまとった埴輪がやはり古墳から数多く発見されている事から、ある種のユニフォーム的な存在であったのではないかと考えられている。


34、ホオリの子・ウガヤフキアエズには4人の子がいた。
あるとき、末弟のカムヤマトイワレヒコオが、長兄のイツセと「天下を治める為にはもっと東の地に行くべきではないだろうか??」と相談し、兄弟は早速、旅立つ事になった。
日向国高千穂を発した一行は、まず富国へ、続いて筑紫国に辿り着き、ここで1年滞在。
更に進んだ安岐国で7年、吉備国で8年を過ごしたのである。
ここまでは時間がかかりながらも、順調な旅だった。
しかし白肩の津に辿り着いたあたりから、一行の旅は苦難と戦いの連続となる。
まず登美のナガスネヒコが兵を率いて攻めてきて、この時にイツセが矢に当たって重症を負ってしまったのである。
イツセは「私たちは太陽の神の御子なのに、東(太陽の方向)に敵を見て戦ったからよくなかったのだ」と言い、南に向かって進んで迂回し、自分たちが東の位置をとろうとした。
ところが、ようやく紀国に辿り着いたところで、イツセは怪我が悪化して死んでしまった。
以後、兄に代わってイワレヒコが一行を導く事になる。


35、熊野に辿り着いたイワレヒコたちを、新たな苦難が襲う。
大きな熊が現れてすぐに消えると、一行はバタバタと倒れてしまったのである。
この熊は熊野の荒ぶる神で、毒気で彼らを害したのだ。
しかし、そこにタカクラジという男がやってきて剣をイワレヒコに渡すと、その力で一行は目覚める事ができた。
この剣は高天原のアマテラスとタカミムスビが、一行を助ける為にタケミカヅチに命じて地上に降ろさせたものだった。
また、タカミムスビは更にヤタガラスを派遣し、道案内をさせている。
荒ぶる神の妨害の次は、その他の豪族たちがイワレヒコを襲う。
宇陀のエウカシは従うと見せて、仕掛けが用意してある自分の屋敷に誘い込み、一行を殺してしまおうと画策した。
しかし、その弟のオトウカシがイワレヒコに全てを明かしてしまった為、エウカシは自分の仕掛けによって死んでしまう事になった。
更に、忍坂ではヤソタケルと呼ばれる原住民、土雲たちが一行を待ちかまえていた。
そこでイワレヒコは宴を催し、彼らが油断したところを部下に斬り殺させた。


36、イワレヒコ一行の戦いは続く。
イツセを殺したナガスネヒコの軍勢を倒し、続いてエシキ・オトシキの兄弟とも戦う。
そんなとき、一行の前にニギハヤヒという神が現れた。
この神はイワレヒコの先祖であるニニギが地上に降り立った際、それを追いかけてやってきた者で、ナガスネヒコの妹を妻にしていた。
彼は天からやってきた証拠として宝物を差し出し、以後はイワレヒコに仕えるようになった。
こうして敵対する者たちを皆討ち果たしたイワレヒコは、天下を治めた。
初代・神武天皇の誕生である。
神武天皇には元々、日向にいた頃に妻子がいたのだが、東征を終えたところで彼は天皇にふさわしい正式な后を探し始めていた。
そんな時、オオクメという者が「三輪山の神・オオモノヌシが人間の女性に生ませたヒメタタライスケヨリヒメはどうでしょうか」と持ち掛ける。
その後、天皇は野遊びをしていた彼女とバッタリと出会い、歌を交わしてその気持ちを伝えた。
これに応えてヒメタタライスケヨリヒメは神武天皇の皇后となり、3人の御子を生む事となったのである。


37、ナガスネヒコ神武天皇日向国から大和国へ向かった際、神武天皇に抵抗した大和地方の豪族。
神武天皇の兄、イツセを弓で殺害するなどの武勲をあげている。
天皇に敗れたあとの消息には諸説がある。
天皇の部下に殺されたというものや、青森県まで落ち延びたいという説などがある。


38、ヒメタタライスケヨリヒメは神武天皇が東征を果たしたのち、現地の豪族たちと融和をはかる必要性から皇后に選ばれた。
地元豪族の娘。
本来の名前はホトタタライスキヒメ。
父オオモノヌシが矢に変身して、母セヤダタラヒメの「ホト(女性器)」を突いた事が誕生のきっかけになった為、この名がついた。


39、エウカシはのちに神武天皇となる。
カムヤマトイワレヒコオが九州から近畿に東征した時、もともと大和国にいた豪族。
彼は自分の軍勢が神武天皇に敵わないと知ると、弟と共に投降した。
エウカシは降伏する事で神武天皇を油断させ、罠にかけて殺そうとしたのだ。
だが弟のオトウカシが神武天皇に罠の存在を報告した為に、エウカシは自分が作った罠に放り込まれて死んだ。


40、イツセはウガヤフキアエズとタマヨリヒメの息子で、4兄弟の長男にあたる。
末の弟のイワレヒコは、のちの神武天皇
弟の神武天皇らと共に東征に参加したが、浪速国で敵の豪族から矢傷を受け、それが元になって紀国で死去した。
古事記」では絶命の時に、賊に殺される無念を叫んだ事から、イツセが絶命した場所にあった水門は雄叫びの水門「雄水門」とも呼ばれている。


41、神武天皇の死後、彼が東征前から娶っていた妻から生まれた御子・タギシミミは、義母のイスケヨリヒメを自らの妻に迎えた。
更に彼は彼女が生んだ自分の異母弟たち、ヒコヤイ、カムヤイミミ、カムヌナカワミミの3人を殺し、自分こそが天皇となってやろう、と画策する。
この事に気づいたイスケヨリヒメは、なんとかして自分の子供達にタギシミミの策謀を伝えなくてはいけないと考えた。
そこで彼女は歌を詠み、その内容に託す事にしたのである。
母親の歌を聞いた3人の御子たちは、タギシミミの企みを知って大変驚いた。
そこで末弟のカムヌナカワミミに「タギシミミを殺してしまいなさい」と持ち掛ける。
彼もそれに賛同して武器を取り、タギシミミの屋敷におしかけた。
ところが、肝心の時になって手が震えてしまい、なかなか殺す事ができなかった。
ここで割って入ったのがカムヌナカワミミだった。
彼は兄の手から剣を取ると、そのままタギシミミを斬り殺してしまったのである。
その後、カムヤイミミは弟に天皇の位を譲り、第2代綏靖天皇が誕生するのだった。


42、内乱に勝利したカムヌナカワミミが綏靖天皇となったのち暫くの歴史について、「古事記」と「日本書紀」は多くの事を語っていない。
第2代綏靖天皇から、安寧天皇懿徳天皇孝昭天皇孝安天皇孝霊天皇孝元天皇、そして第9代開化天皇までの8人の天皇について、「記紀」が語るのはその天皇がどこに宮殿を造り、誰を后として迎え、どんな御子が生まれ、何歳まで生きて、どこの陵墓があるかといった、系譜的な情報だけなのだ。
その為、この8人の天皇の時代を「欠史八代」と呼ぶのである。
この「欠史八代」の8人の天皇については、「後世で創作された人物であり、実在していないのではないか」とする説が有力である。
この説によると、もともと初代天皇崇神天皇(実在の人物とされる)だったのが、天皇家の歴史をより深いものとするために、またのちに出来た「神武東征」の神話との辻褄を合わせる為にこの8人が創作されたのだ、という。
理由としては不自然に長寿の天皇がいる事や、当時一般的ではなかった父子相続ばかりが行われている事などが挙げられる。


43、土蜘蛛、隼人、熊襲、そして蝦夷、「記紀」にはおどろおどろしい名前を与えられた人々が登場し、天皇にゆかりの者たちに倒される話が頻出する。
これは、大和朝廷服従しない先住民たちを討伐していった歴史を表しているのだという。


44、第10代崇神天皇の時代、国内に疫病が蔓延してしまう事があった。
困った天皇が神床に入ったところ、数日のうちにその原因が判明した。
天皇の夢の中にオオモノヌシが現れ、「この疫病は私が流行らせたものだ。
オオタタネコというものに私を祀らせれば鎮まるだろう」と告げたのだ。
そこで崇神天皇は人に命じてオオタタネコを探させ、彼にオオモノヌシを祀らせた。
すると神のお告げどおりに疫病は治まり、国に平和が戻ったのである。
オオタタネコはオオモノヌシの子孫なのだが、その経緯について、「古事記」は次のように語っている。
オオタタネコの先祖に、イクタマヨリビメという美しい娘がいた。
あるとき、この娘のところに立派な男性が毎夜通ってくるようになり、彼女は身ごもった。
これを知った両親は男性の素性を知ろうと、娘に「糸巻の麻糸をつけた針を相手の服の裾に刺しなさい」と教えた。
彼女がそのとおりにした結果、糸が三輪山の神社にのびていたので、男性がこの山の神のオオモノヌシである事が分かったという。


45、疫病を鎮める事に成功した崇神天皇は、続いて各地に軍を派遣し、従わない者たちを倒して勢力を拡大しようとした。
そこで天皇は叔父のオオヒコに北陸道を、オオヒコの子のタケヌナカワワケに東海道をそれぞれ進ませ、またヒコイマスという者に丹波国を平定させた。
そんな中、オオヒコは不思議な歌を詠う女性に出会う。
その内容が気になった彼が一度戻って報告すると、天皇は「叔父のタケハニヤスが反乱を企んでいるという意味だろう」と解釈したのである。
天皇の命を受けたオオヒコは、兵を率いて山代国にいるタケハニヤスを攻めた。
両軍は河を挟んでにらみ合ったが、タケハニヤスがオオヒコ軍の将が放った矢で射殺されたので、オオヒコの勝ちとなった。
反乱を鎮圧すると、オオヒコは再び北陸道を進んで各地を平定する。
やがて彼は東海道を進んでいたタケヌナカワワケと合流した。
ここから、その場所は会津と呼ばれるようになった。
そうして各地が平定されると、人々は大変豊かになり、朝廷に貢物を納めるようになった。
これが微税の起源なのだという。


46、サホヒメが生んだ垂仁天皇の御子はホムチワケという名前を与えられてすくすくと成長したが、なぜか口が利けなかった。
その為、天皇は彼を愛しつつひとかたならぬ心配をしていた。
ところがある時、大白鳥が空を飛ぶのを見た御子が何かを言いたそうに口を動かす、という事があった。
これを見た天皇オオタカという男に、その白鳥を捕まえるように命じた。
彼は各地を追いかけ、見事に白鳥を捕らえたのだが、期待とは裏腹に御子が口を利く事はなく、天皇は失望する事しきりだった。
そんな時、垂仁天皇は夢の中で「私の宮を天皇の宮殿のように大きく立派に修理すれば、御子は口が利けるようになるだろう」という神のお告げを聞く。
占いによってこの神が出雲のオオクニヌシであり、ホムチワケが口を利けないのは彼の祟りのせいである事、更にこのお告げが正しい事が判明すると、天皇は早速、御子を出雲へ向かわせ、参拝させた。
するとホムチワケはその帰り道の中で、これまでの事が嘘のように言葉が喋れるようになった。
こうして、オオクニヌシの怒りがようやく収まった事が分かったのである。


47、あるとき、美しい姉妹がいると聞いた景行天皇は御子オオウスを派遣し、その娘たちを連れ帰るよう命じる。
ところが、2人の娘を気に入ったオオウスは、彼女たちを自分の妻にしてしまう。
ただ、さすがに気まずかったのか、彼は父親との食事の席に出なくなった。
この事を気にした天皇は、オオウスの弟のオウスに「よく教え諭してきなさい」と命じる。
ところがオオウスが姿を見せる事はなく、疑問に思った天皇が問いただしたところ、オウスは「体を引きちぎって殺した」と答えるのだった。
息子の暴力的な性質に恐れを感じた景行天皇は、九州を支配していたクマソタケル兄弟の征伐を命じて、厄介払いをしようとする。
オウスがクマソタケルの館に辿り着くと、宴会の準備が行われていた。
そこでオウスは伯母のヤマトヒメにもらった女物の服で女装し、宴会の中に紛れ込んだ。
まんまと兄弟に近づいたオウスは、兄タケルの襟首を掴むと短剣で胸を刺し、驚いて逃げ出した弟タケルも追いかけて刺す。
この勇猛さに感嘆した弟タケルは、死ぬ前に「ヤマトタケル」の名を与えるのだった。


48、ヤマトタケルは、帰還の道中でも朝廷に逆らう者たちを平定しつつ、出雲国を通りがかった。
ここにはイズモタケルという男がいたのだが、彼を討伐するのにヤマトタケルはまたしても知略を使った。
まずイズモタケルと仲良くなったのち、彼を川での水浴びに誘ったのである。
そして水浴びのあと、互いの太刀の交換と、太刀合わせ、決闘を挑んだ。
ところが太刀を交換する時、ヤマトタケルは木で出来た偽物を相手に渡した。
結果、まともな武器を持たないイズモタケルは、一刀のもとに斬り殺されてしまう。
こうして西日本を平定して帰還したヤマトタケルに、天皇のかけた言葉は冷たかった。
すぐに東国の征伐に出発せよ、と言うのだ。
西伐の際には喜んで出発したヤマトタケルもこれには落ち込んでしまい、内心を打ち明けられたヤマトヒメは、彼にクサナギの剣と、助言を書いた紙を入れた袋を渡す。
東伐の中で、ヤマトタケルは様々な苦難に直面するが、多くの人の助けを借りて切り抜ける。
野原で火に囲まれてしまった時は、ヤマトヒメの贈り物のおかげで九死に一生を得、荒れる海に船が沈みそうになった時は、妻が犠牲になりヤマトタケルを救ったのである。


49、西国に続いて東国も平定し、尾張国まで戻ってきたヤマトタケルは、以前結婚の約束をしていたミヤズヒメを妻に迎えた。
その後、彼は伊服岐の山に住むという神を退治するべく山に登る事にする。
ところが、これまでの成功で慢心していたのか、彼はクサナギの剣を妻のもとに置いたまま出発してしまう。
神を求めて山を登る中、タケルは白い猪と出会った。
これを神の使いと思った彼は、あと回しにしようと先に進むが、実はこの猪こそが目的の神だった。
侮られた神は憤って雹の雨を降らし、タケルを打ち捉えたのである。
激しく傷ついたヤマトタケルは、杖をつきながら、よろよろと山を下り、故郷に向かって歩きだした。
やっとの事で伊勢国に辿り着いた彼は、そこで故郷を思う歌を含む四首の歌を詠ったところで力尽き、ついに息絶えてしまった。
その後、知らせを受けた彼の后や息子たちがやって来て葬儀を行い、墓の前で泣いた。
するとタケルの魂は約12メートルの大白鳥になって飛び立ったのである。


50、ヤマトヒメは第11代垂仁天皇の四女。
天照大神を祀る場所を求めて日本各地を巡り、伊勢の地に伊勢神神宮を建立した。
ヤマトタケルの淑母にあたり、伊勢を訪れたヤマトタケル三種の神器のひとつ、クサナギの剣を与えている。
なお、ヤマトヒメは卑弥呼と同一人物だという説もある。

 

51、イズモタケルは出雲国(現在の島根県)を束ねていた豪族。
イズモタケルとは「出雲国の強い男」という意味で、本来は固有名詞ではなかったと思われている。
クマソタケルの兄弟を討伐したヤマトタケル出雲国で出会ったが、ヤマトタケルは彼を策略にはめて討ちとっている。


52、オオウスは第12代景行天皇の息子で、ヤマトタケルの双子の兄にあたる。
父の側室候補を横取りするなど素行の悪い人物。
古事記」では、更に天皇との会食を無断欠席。
真意を聞く為に遣わされた弟ヤマトタケルの暴走で、手足をもぎ取られてしまった。
だが「日本書紀」にはこの記述はなく、蝦夷征伐を命令されるのを恐れて逃亡したという。


53、クマソタケルは九州南部の地方、熊襲の指導者。
熊襲はかつて天皇家に従っていたが離反した為、討伐の為にオウス皇子が派遣された。
女装したオウスに油断したクマソタケルは、彼に刺殺された。
オウスの強さに感服したクマソタケルは、死の間際に「ヤマトタケル」という名前を献上している。
なお、クマソタケルはひとりだという説と兄弟だという説がある。


54、景行天皇に続いてその子の成務天皇が即位したが、男児が生まれなかったので、次の天皇ヤマトタケルの子の仲哀天皇になった。
そんなあるとき、彼の妻の神功皇后を依り代に、「西にある金銀財宝に満ちた国を与えよう」という神のお告げが下る。
しかし、仲哀天皇が「西を眺めても波ばかりで国らしいものは見えない」と疑った為に、憤った神は仲哀天皇を亡きものにしてしまう。
その後、この神は再びお告げを下し、自分たちの正体と、皇后が身ごもっている子が次の天皇になること、更に西の国への行き方を教えた。
神のお告げを信じた神功皇后は、言われたとおりに軍勢を集め、儀式の準備を整えたうえで西に向かって船出した。
すると海の中の魚とうい魚が集まって船を持ち上げ、更に追い風が吹いて船団を進ませた。
この勢いに乗って軍勢は「西のほうにある国」こと新羅に上陸した。
これには新羅の王も恐れおののいてしまい、天皇へ従属を誓う。
以後、新羅には馬飼いの役目が、また同じ朝鮮の国の百済には海を渡る事を司る屯倉の役目が与えられたのである。


55、応神天皇として即位したホムタワケは、自らの3人の御子のうち、末子のウジノワキイラツコに皇位を譲りたいと考えた。
そこで、長男のオオヤマモリと次男のオオサザキを呼び、「年上の子と年下の子、どちらが愛したいと思うか」と問いかけた。
このとき、オオヤマモリは「年上の子」と答えたが、父の内心を察していたオオサザキは「年下の子」と答えた。
これを喜んだ天皇は、長男には山や海を治めさせ、次男には天皇の相談役をさせ、三男を自分の後継者にしよう、と定めたのである。
だが、これに納得できないオオヤマモリは天皇の死後に反乱を起こし、自らが天下を握ろうと考えた。
一方、この事を知ったウジノワキイラツコは一計を案じ、兄を迎え撃つ。
彼はまず影武者を用意すると、自分は船頭になりすまして川で待った。
そこに兄がやってくると何食わぬ顔で船に乗せ、川の中ほどで船から落とした。
オオヤマモリは慌てて岸まで泳ごうとするが、そこに弟の軍勢がやって来たので川からあがれず、溺れ死んでしまった。
その後、オオサザキがウジノワキイラツコに地位を譲られ、仁徳天皇として即位する。


56、仁徳天皇として即位したオオサザキは、「日本書紀」が「聖帝」という名を与えるほどに慈悲深く、人々のために政治を行ったとされる。
彼は堤防や治水池、運河、港などを造り、新田の開拓にも熱心で、更に穀物などを貯蔵する屯倉なども作った。
こうした土木・治水工事については特に「日本書紀」に詳しく、その場所や様子などが記されている。
こうした事業は日本で初めての大規模な土木事業だったとされるが、それを支えたのは「秦人」と呼ばれる海外から来た技術者たちだった。
そんな仁徳天皇の慈悲深さを表すエピソードがある。
あるとき、自分の宮殿から外を見た天皇は炊事の煙が全く立っていない事に気付いた。
食事の為に火をおこす事も出来ないくらい、人々は貧しかったのだ。
これに驚いた天皇は、3年間に渡ってそれまで熱心にやっていた工事を中断し、税を取る事もやめた。
そして、その間は倹約の為に宮殿の屋根の修理さえしなかったのである。
その甲斐あって、それぞれの家から炊事の煙が立ち、これに安心した天皇はまた工事を行い、人々を更に豊かにしていったのだという。


57、仁徳天皇は世界3大陵墓のひとつ、仁徳天皇陵で知られる第16代天皇
本名はオオザキノミコト。
記紀」では名君として描かれ、不作の年に税を免除したり、大規模な治水工事をした記録が残っている。
しかし一方で、仁徳天皇は皇后イワノヒメに頭があがらない恐妻家でもあったとの説も。


58、ヤハブサワケは応神天皇の子で、仁徳天皇の異母弟。
兄の命を受けてメドリに兄の心を伝えに行くが、実はメドリが愛していたのは彼自身だった事から、自ら結ばれてしまう。
その後、2人が詠んだ歌から兄に謀反の疑いを持たれ、亡きものにされてしまう。


59、メドリは応神天皇の娘。
仁徳天皇に求婚されるが、仲介人だったハヤブサワケと恋仲になった。
一説では、メドリは仁徳天皇の夫人であるイワノヒメを恐れた為に、ハヤブサワケと結婚したのだという。
その後、仁徳天皇を非難したとして、ハヤブサワケともども朝廷の刺客に殺されてしまった。
メドリは死んだあと、身につけていた装飾品を奪われたという。


60、イワノヒメは当時の大豪族である葛城氏の娘。
皇族ではない家柄で皇后となった最初の人物とされている。
履中・反正・允恭天皇と3人の天皇を生み、大后と呼ばれた。
また彼女は、非常に嫉妬深い性格で、イソノヒメの嫉妬によって個室の女性が宮中に入れなかった、という物語が残っているほどである。
これは当時の葛城氏が非常に権力が強く、仁徳天皇も頭があがらなかった事と関係している。


61、第17代履中天皇は即位直後から波乱に巻き込まれた天皇だった。
即位を祝う宴で天皇が眠り込んでしまった際に、弟のスミノエノナカツが宮殿に火を放ち、天皇を亡きものにしようとしたのである。
このときに天皇を救ったのは、家臣のアチノアタイだった。
彼は寝ている天皇を馬に乗せ、燃えさかる難波の宮殿を脱出して大和国へ向かう。
目覚めた天皇に彼が事情を説明し、2人は逃避行を続ける。
途中、追っ手の追跡をかわしながら、彼らはどうにか大和国まで逃げ切る事が出来たのだ。
履中天皇が身を置いたのは、大和国石上神宮だった。
タケミカヅチの神剣を祀るこの神社は王朝の武器庫でもあり、まずは武器を確保しようとしたのだろう。
どうにか落ち着いた天皇のもとに、弟のミズハワケがやって来る。
しかし同じ弟のスミノエノナカツに命を狙われたばかりの天皇は、敵か味方かを疑って会おうとせず、取次の者を代わりに立ててその旨を伝えた。
これに対してミズハワケが自分は味方であると主張したので、天皇は「スミノエノナカツを亡きものにしてきたのならば会おう」と伝える。


62、反乱を起こした兄を倒して自らの潔白を証明すべく、ミズハワケは難波に向かった。
ここで彼が目をつけたのが、スミノエノナカツの側近で隼人のソバカリだった。
日本書紀」ではサシヒレという名前になっているが、彼についてのエピソードはほぼ同じなので同一人物と思われる。
ミズハワケはこのソバカリに「私に協力するなら、天皇になったあかつきにはお前を大臣にしてやろう」と持ちかけた。
これに乗ったソバカリは、言われるがままに主を厠で刺し殺してしまう。
こうして兄を倒し、石上神宮に向かったミズハワケだったが、その途中で「ソバカリの行いは人の道に背くものだ」と考えた。
しかし、恩賞を約束したのも事実なので、褒美を与えたうえで殺す必要がある、そう決めた彼は、再び策を練る。
ミズハワケは天皇のもとに赴く前に宴会を開き、そこでソバカリを大臣にしてやった。
しかし、喜んだ彼が顔を隠すほどの酒杯で酒を飲んだ瞬間、剣を抜いて彼の首を切り落としてしまった。
こうして反乱を鎮圧したミズハワケは、のちに兄から皇位を譲られて反正天皇になる。


63、反正天皇がこの世を去ると、その弟の允恭天皇が即位する事になる。
しかし、その皇位継承はすんなりとはいかなかった。
妨害があったのではなく、大病を患っていた彼は「自分に天皇の務めが果たせるとはとても思えない」と固辞していたのだ。
しかし、結局は周囲のすすめに押される形で即位する事になる。
ところが、この病はひょんなことから治る事になる。
即位の祝いに新羅からやって来たコンハチンカンキムという男が薬に詳しく、彼の薬で天皇は全快したのである。
允恭天皇の行いとしては、氏姓制度の改革が「古事記」で語られている。
この制度の乱れが国家の運営に支障をきたすと考えた彼は、人々を一か所に集めた上で盟神深湯という方法を使い、氏姓を正しくなおしたという。
この盟神深湯というのは「その人物が正しい事を行っているか」、「その人物は正か邪か」を判断する時に使われる呪いの一種で、熱湯に手を突っ込ませ、火傷をしたならばそのものは嘘をついている、しなかったならそのものは正しい、と判断するものだ。


64、履中天皇仁徳天皇の長男で第17代天皇
当時は、天皇の末子が次の天皇になるのが普通だったが、仁徳天皇は長男の履中天皇を後継者として選んだ。
これ以降、天皇の長男が後継者となるのが一般的になった。
仁徳天皇の死後、即位を目論む弟に襲われたが、難を逃れ、逆に弟を倒している。


65、ソバカリは九州南部の民族・隼人出身の将軍。
第16代仁徳天皇の第二皇子、スミノエノナカツに仕えていたが、皇子が天皇に反乱を起こした為、第三皇子ミズハワケの指示で主人を殺す。
ところが当事者であるミズハワケに裏切り者扱いされ、ソバカリは宴会の席で殺されてしまった。


66、スミノエノナカツは第16代仁徳天皇の第二皇子で、母はイワノヒメ
彼の実兄である皇太子イザホワケの使者として、葛城氏の女性クロヒメに求婚を伝える役目を受けるが、スミノエノナカツは自分こそが皇太子であるようなふりをしてクロヒメをだまし、一夜を過ごす。
これが露見したスミノエノナカツは反乱を起こすが、実弟ミズハワケの策略にはまり死んでしまった。


67、反正天皇は本名はミズハワケ。
履中天皇の弟で、彼の死後に第18代天皇に即位した。
反正天皇の時代には争いなどの記述がない事から、平和な時代だったと推測され、その分、外交に力を注いだと考えられる。
中国の書物宋書」には「倭王珍」という人名があり、これは反正天皇の事だと考えられている。
古事記」によれば反正天皇の身長は約3メートルもあったという。


68、允恭天皇の死後、皇位につく予定だったのは、生前に後継者として指名されていた御子・キナシノカルだった。
ところが、彼が実妹のカルノオオイラツメと道ならぬ愛を育んでしまい、更に彼が詠んだ歌によってこの事実が世間に知られてしまった事で、継承はあやうくなる。
人々が彼の弟アナホを支持するようになったのである。
この事を恐れたキナシノカルは、大臣オオマエオマエノスクネのところに逃げ込み、戦う準備を始めてしまうのだった。
この兄の動きに対して、アナホも軍勢を整え、大臣の家をとり囲んだ。
このままでは兄弟同士での内乱が始まるところだったが、そこに家の主であるオオマエオマエノスクネが進み出て、「兄に武器を向けるのはおやめ下さい。
代わりに私が兄君を捕らえましょう」と言い、実際に差し出してしまう。
こうして、この一件は内乱にまでは発展せず、キナシノカルは伊予国の温泉に流罪となった。
この事をひどく悲しんだカルノオオイラツメは伊予国まで彼を訪ね、再会した2人は心中して果てるのだった。


69、キナシノカルに代わって皇位継承者となったアナホは、安康天皇として即位した。
しかし、彼が弟のオオハツセに妻を世話してやろうと考えた事から、新たな悲劇の幕が開く事になる。
天皇が目をつけたのは。叔父のオオクサカの妹、ワカクサカだった。
そこで家臣のネノオミを派遣してその旨を伝えさせると、オオクサカは大変に喜び、4度も頭を下げながらその申し出を承諾した。
そして、金で飾った冠などの財宝を献上品としてネノオミに持たせ、帰したのである。
ところが、これらの宝があまりに美しかった事が間違いの始まりだった。
誘惑に負けたネノオミはこれを自分の物にしてしまったのである。
しかも、その事を隠すために、天皇には「オオクサカは縁談を断りました。
それだけではなく、太刀の柄に手をかけて大変お怒りになりました」と報告したのだ。
もちろんこれは大嘘だったのだが、安康天皇はすっかり信じてしまった。
そして、すぐさまオオクサカを亡きものにし、彼の妻であるナガタノオオイラツメを自分の皇后にしてしまったのである。


70、オオクサカが死んでから暫く経ったある日の事だ。
安康天皇が自分の皇后にしていたナガタノオオイラツメに、「オオクサカとお前の子であるマヨワが、私が彼の父を殺した事を知ったら、いつか復讐に来るのではないか」と悩みを打ち明けた事があった。
ところが、これを聞いている者がいた。
当のマヨウ、当時7歳である。
真実を知ったマヨワはすぐに復讐を決意、眠り込んでいる天皇の首を太刀で斬り落とす。
そして、有力豪族ツブラノオオミを頼って、彼の館に逃げ込むのだった。
これを知ったオオハツセはまず兄であるクロヒコとシロヒコに2人にそれぞれ相談するが、両名とも無関心でおざなりな返事しかしない。
慎った彼は2人を殺し、自ら軍勢を率いてツブラノオオミの館を取り囲む。
実はオオハツセはツブラノオオミの娘と結婚の約束をしていたので、それを理由に相手を説得しようとした。
しかし、ツブラノオオミは「娘は差し上げますが、御子様は差し出せません」と答えて戦い続けた。
結局、ツブラノオオミは敗れ、マヨワと心中してしまったのである。


71、安康天皇は第20代天皇
允恭天皇次男で、本名はアナホ。
近親相姦の禁忌を犯した兄キナシノカルの代わりに即位したが、彼の在位はわずか3年で終わる。
安康天皇は、仁徳天皇の息子オオクサカを殺し、その妻と結婚したが、オオクサカの子供に仇として暗殺されてしまったのだ。


72、ツブラノオオミは名前と役職名の混合で、本名は葛城円。
安康天皇が暗殺された際、マヨワをかくまった為、オオハツセ(のちの雄略天皇)に攻められ、滅んだ。
古事記」では最後までマヨワを守ろうとしたが、「日本書紀」にはオオハツセに降伏しようとして殺された、とある。


73、マヨワは第16代仁徳天皇の孫にあたる。
第20代安康天皇を暗殺した「眉輪王の変」を起こした。
父であるオオクサカは、マヨワが生まれてすぐ無実の罪で安康天皇に殺され、母ナガタノオオイラツメは安康天皇の皇后にされた。
マヨワは7歳の時にその事実を知り、熟睡中の安康天皇を殺害して恨みを晴らした。
その後マヨワは重臣ツブラノオオミのもとにかくまわれるが、結局死んでしまう。


74、ネノオミは「眉輪王の変」の原因を作った人物。
第20代安康天皇は、オオクサカの娘、ワカクサカに求婚するためネノオミを使者にした。
オオクサカは快諸し、その証明として「押奇珠鬘」をネノオミに託した。
ところが押本珠鬘が欲しくなったネノオミは、これを横領したうえ天皇に偽の報告をし、オオクサカを殺させてしまう。
この企みは14年後に露見し、ネノオミは雄略天皇に殺された。


75、キナシノカルの自殺、安康天皇の暗殺、クロヒコ・シロヒコの死、相次ぐ悲劇によって、允恭天皇直系の男子はオオハツセただひとりとなった。
しかし、皇族の血を引く有力者は他にもいた。
履中天皇の子、イチノヘオシハがそうなのだが、オオハツセはある日イチノヘオシハを狩りに誘い、馬で先を行く彼を弓で射って殺してしまう。
こうして、オオハツセと皇位継承権を争う者は誰もいなくなったのである。
その後、彼は「オオハツセワカタケル」と名を変えたのち、雄略天皇として即位する。
だが、その即位の影で、もうひとつの物語が始まっていた。
イチノヘオシハの御子オケとヲケ兄弟はこの頃まだ幼かったが、このままでは自分たちも殺されるのではないかと逃げ出したのである。
途中、持っていた食料を老人に奪われるというアクシデントがありながらも2人は針間国に辿り着く。
ここで彼らはシジムという者の家に住み、馬飼いや牛飼いに身をやつすことにしたのだった。

 

76、雄略天皇の死後はその御子の清寧天皇が即位したが、子を残さず亡くなった為、暫くはイチノヘオシハの妹・イイドヨが天下を治めていた。
一方その頃、針間国の長官ヲダテが現地の有力者であるシジムの宴会に招かれた。
このとき、人々が次々と舞ったのだが、火焚き役の兄弟にも出番がきた。
2人は譲り合った末に兄が舞い、次に弟が舞ったのだが、ここで驚くべき事が起きた。
彼は舞いながら「自分はイチノヘオシハの子だ」と詠ったのである。
そう、この2人はかつて雄略天皇から逃げたオケとヲケだったのだ。
この発見に驚いたヲダテはすぐに都に知らせた。
これには叔母のイイドヨも喜び、この2人のどちらかが天皇として即位する事になった。
ここでも2人は譲り合うのだが、結局は「歌を詠ったのがきっかけだった」という兄の主張で、ヲケが顕宗天皇として即位する。
この際、天皇は父の墓を造り、その死のきっかけを作った者たちを墓守にし、兄弟の逃避行の際に食料を奪った老人を斬り殺させる。
更に雄略天皇の御陵も壊そうとするが、これは兄が「天皇の墓を壊せば非難を受ける」と反対したので、墓の近くを少し堀っただけにおさめた。


77、顕宗天皇の死後は、兄のオケが仁賢天皇として即位した。
彼から武烈天皇継体天皇安閑天皇宣化天皇崇峻天皇、そして第33代推古天皇にいたる10人について、「古事記」は「欠史八代」と同じように系譜しか語らない。
そして、推古天皇を最後に「古事記」は筆を置く。
この理由については、「古事記」編纂において、「古代」は顕宗天皇以前、「現代」は推古天皇の次の舒明天皇以降とされていたので、その中間の時代、つまり「近代」はこういう書き方になったのだ、という。
一方、海外へのアピールの為の正史として編纂された「日本書紀」は、欠史十代の天皇たちについてもしっかり記述している。
その中でも特に注目するべきは、いわゆる「聖徳太子」らが登場する一連の逸話だろう。
朝鮮半島を経由した仏教の伝来によって萌芽した新しい文化を受け入れた蘇我氏と、受け入れなかった物部氏の有力豪族同士の激突や、それに勝利した蘇我氏勢力拡大、そして蘇我氏の血族が様々な改革によって中央集権体制を作りあげていった様子が描かれている。


78、すでに述べたように「古事記」の記述は「欠史十代」で終わりを告げるが、「日本書紀」の記述はその後も続く。
舒明天皇から持統天皇にいたるその間の歴史は、この国が律令制度を確立させた、激動の時代だった。
まず注目すべきは、政治の実権を掌握していた蘇我氏が、中大兄皇子中臣鎌足を始めとする人々のクーデターによって倒された「大化の改新」である。
これによって政権を奪取した中大兄皇子は中央集権化を更に進めていくが、一方で朝鮮半島に出兵して大敗した「白村江の戦い」などもあった。
中大兄皇子天智天皇として即位し、そして死去したあとに「壬申の乱」が巻き起こる。
これは弟の大海人皇子と、子の大友皇子のあいだで起きたもので、古代日本最大の戦いとされている。
この戦いに勝利した大海人皇子天武天皇となり、兄の跡を継いで国家としての形を作りあげていく。
古事記」、「日本書紀」の編纂を命令したのも彼である。
その後、彼が病死したあとは、妻である持統天皇が継ぎ、更に彼女が孫の軽皇子に地位を譲ったところで、「日本書紀」もその幕を閉じるのである。


79、「古事記」、「日本書紀」、いわゆる記紀神話と同じくらい人気のある古代日本のトピックとして、邪馬台国卑弥呼がいる。
古代日本については全く覚えていないけれど、「ヒミコ」という人名だけはなんとなく覚えている、そんな人も結構多いのではないだろうか。
そこでこのコラムでは、古代日本を代表するひとりの女性、「卑弥呼」について簡単に触れてみたい。
彼女の名は中国の「魏志倭人伝」などに登場する。
それによると彼女は「倭」の女王で邪馬台国を治め、「鬼道で衆を惑わ」し、夫を持たない代わりに弟が手助けをしていた、という。
彼女は魏の皇帝に貢物を送って「親魏倭王」の称号と多数の鏡を受け取ったとされる。
彼女がいったい何者なのかについては現在でも諸説があってよく分かっておらず、なによりも彼女が治めたとされる邪馬台国の場所すらハッキリ分かっていない。
そうしたミステリアスな部分もまた彼女の人気の秘密なのだろう。
そんな卑弥呼について本書で触れたのは、「記紀」に登場する女性のうち何人かが「じつは彼女こそが卑弥呼なのではないか」とされるためだ。
以下に何人か紹介しよう。

(1)神功皇后説。
朝鮮を征服したという彼女こそが卑弥呼とする説。
日本書紀」が「魏志倭人伝」の中の卑弥呼に関する記事が引用しているのが理由。
ただし、時代が合わない為、信憑性は薄いともされる。


(2)ヤマトヒメ説。
垂仁天皇の皇女で、ヤマトタケルの活躍を支援した事で知られるヤマトヒメこそが卑弥呼とする説。
彼女が神を祀る巫女だった事からきている。


(3)倭述述日百襲姫。
甥の崇神天皇に協力し、神々のお告げを伝えた彼女こそが卑弥呼とする説。
崇神天皇との関係性などが理由。


(4)アマテラス<天照大御神>。
卑弥呼高天原の主アマテラスは名前や境遇などの部分に共通する事が多い事からきている説。