思想家の西部邁 『無念の戦後史』を読んで。

(この本は2005年に発行されました)


1、ともかくこの戦争については、この60年間、主として我が国で、膨大な事実検証と執拗な価値評価が行われてきました。
それにもかかわらず、言論および世論における翼の左右のあいだで、あの戦争への否定論と肯定論が真っ向からぶつかり合ったままです。
一体、どうしてなのでしょうか。
それは、たぶん、議論の尽くされていない重要な論点がいくつかあるからなのです。
そのうちの最たるものは、日本の始めた大東亜戦争が(アジアおよびアメリカへの)「侵略」であったかどうか、ということです。
これは繰り返し議論されてきた論点でるあるにもかかわらず、まだ議論に決着がつけられているわけではないのです。
その定義に立てば、アメリカにたいする真珠湾攻撃はもちろんのこととして、日華事変にせよ仏印侵攻にせよ、侵略に傾いていたことは否むべくもありません。
遅くみても(大正4年の)「対支21カ条要求」あたりで、つまり第一次世界大戦で欧米列強が中国から手を引いたのに乗じて日本の権益を伸張させようとした企てにおいて、日本の対支侵攻の姿勢はすでに世界に知られていることであったのです。
しかし、アジアへの侵略はいわゆる欧米諸列強が先鞭をつけるところでありました。
それが当時の情勢なのでした。
だから、日本のなしたあの戦争を、「道徳」の次元で、侵略として非難する資格が欧米諸列強にあろうはずはありません。
日本の侵略を受けたアジア諸国にはそうした道徳的な資格はあろうかと思われます。


2、それ以上に問題なのは、「予防的な先制攻撃は自衛に含まれる」というごく正当な論点を国際社会が最近に至るまで見過ごしにしてきたという点です。
当該の先制攻撃を行わなければ自国の自衛態勢が甚だしく損なわれる場合があります。
往時の朝鮮や中国がそうであったように、隣国が諸列強に易々と屈すれば自国の安全が危殆に瀕するという場合があります。
そうなのだと国際社会を納得させることができるなら、プリヴェンションとしてのプリエムプションが許される。
少なくともその可能性が高い、とみるべきではないでしょうか。
そのことに一顧だにしていないという意味でも、パリ不戦条約は不完全な代物だったのです。
日本が侵略を行わなかったと強弁するのは道徳的に間違いです。
また法律的にも国際社会で通用し難い見方です。
しかし同時に、その侵略にかんして道徳的にひたすらなる謝罪に終始するのも、それを法律的に戦争犯罪と見立てるのも、不穏当の謗りを免れえません。

 

3、戦後日本人の集団心理はあまりにも異様です。
イギリスがビルマを、フランスがヴェトナムやラオスを、オランダがインドネシアを、そしてアメリカがフィリピンをそれぞれ植民地もしくは準植民地的な統治領と為していた、という当時の情勢に真剣な配慮を及ぼしてはこなかったのです。
20世紀の前半、世界史はまだ帝国主義の段階にあったと認めるほかありません。
帝国主義とは、相手国の意志を強権で押しのけて、更には圧し潰して、その国を支配しようとすることだといえましょう。
日本は、おおまかにいえば、そうした白人帝国主義に伍して、みずからを世界の支配者グループの一角に据えようと図ったのです。
当時、大概の先進諸国家はそのような舵取りでみずからの延命と発展を画策していたのでした。


4、あっさりいえば、欧米への劣等感がアジアの近代を彩っているのです。
白人諸帝国からの支配は今も甘受するが、黄人たる日本帝国に支配されたという記憶には我慢できない、そういう心理がアジアに広くいきわたっているようです。


5、その少数者たちの努力の軌跡、それが歴史の連続性を支えるものとしての伝統の精神にほかなりません。
そして伝統こそが文明の成熟を可能にする国民精神の酵母なのです。
アジアには、ありあまる慣習はあったが、伝統は乏しかったといえるのではないでしょうか。
つまり、慣習のうちに秘蔵されている伝統を自覚的に定着させようとする意図的な努力が少なかったということです。
だから、ひとたび慣習が(戦争のような外圧で)破壊されたら、欧米文明への果てしなき迎合が始まったということなのではないでしょうか。


6、しかし戦争を開始したことそれ自体についての責任は、少なくとも議会政治の体制が存在し、そこに世論の影響が曲がりなりにも及んでいたからには、国民全般にもあるとしなければなりません。
ほんの一例を示せば、「鬼畜米英を撃て」と指導者が叫んだとき、「米英の国民から直接的に搾取されたり抑圧されたりした体験がないので、米英人が鬼畜であるとは断言できない」と陰に陽に構えてみせることのできないような国民には、指導者の戦争開始の責任について云々する資格はないということです。
責任を指導者に押し付けて自分らの責任を回避するというこの戦後日本人の通弊は、「戦争犠牲者になりかわって指導者の責任を問う」という姿勢になるとき、不道徳のにおいを濃厚に漂わせます。
そこには、それこそ「撃ちてし止まん」の覚悟で犠牲となることをあえて引き受けた者たちへの、彼等の思想や意気や覚悟への、軽んじがはっきりとみてとれます。
一言でいえば、自分が死なずにすんだことに安堵し、死んだ者たち(の精神)への心配りを忘れてしまったということです。
ここから戦後日本に明瞭な「生命至上主義」が成長してきます。


7、それはその通りなのですが、劣等感に苛まれているという割には、戦後日本人の生き方は我が物顔でありすぎる、戦後日本の「等しさと豊かさ」にかんし自己満悦に浸りすぎている、とみえないでしょうか。
私の言いたいのは、戦後日本人の自己懐疑なき生き方の出発点に何かしら卑しいものがあるということについてです。
おのれの行為の動機を検討するのに不可欠な道徳論や責任論は、「悪辣な戦犯としての旧指導者」と「哀れな犠牲者としての戦死者」にあずけられました。
あとは自分の生命のできるだけの延長と生体反応としての快楽の可能なかぎりの拡大とに励んできた、それが我々戦後日本人の偽らざる姿ではないでしょうか。


8、ほかの言い方をすると、日本は「解放後のアジアが進むべき(欧米とは異なった)独自の方向」を示すのに失敗したということです。


9、自由のための秩序は各国の国柄によって異なります。
つまり「歴史の流れ」に基づいて形成され来たった「慣習の体系」と、そのなかに内包されているはずの、「伝統の精神」、それらが各国の秩序の土台となるのです。
同じく、民主のための世論にも、各国の慣習制度および伝統精神としての国柄に応じて、差異が生じるのです。
言い換えれば、日本がアジアに積極的に広めなければならなかったのは、各国のナショナリティを互いに尊重し合うという態度です。
その意味での、ナショナリズムに基づくコオペラティヴィズムがアジアに必要だったのです。
それは近代「主義」とは別物なのだということを忘れてはなりません。


10、大東亜・太平洋戦争の結果として日本が精神的に敗北したのは、日本の主張すべきことを忘れたからではないでしょうか。
アメリカ流の純粋近代主義に、敗戦という物理的な大外傷に腰を抜かして、擦り寄ったからです。
つまり、精神的な対米敗北は、戦争で生き残った者たちとその後裔たちがこの60年間に進んで抱き寄せた、日本国民の精神病理だといわなければなりません。


11、二つに、これは日本にあっては、敗戦の直後から始まった国民意識への方向づけなのですが、第二次世界大戦における枢軸国対連合軍の対立が独裁対民主の対立ととらえられました。
そして独裁は悪であり民主は善であるという呆れるほどに単純な観念の構図をすみやかに流通し出したのです。
デモクラシーのただなかから、イタリアのムッソリーニやドイツのヒットラーソ連スターリンや中国の毛沢東といった独裁者が登場したのです。
古代ローマカエサル以来、独裁制はおおよそそのようにして成立するものなのです。
そうした歴史を振り返ればすぐ見当がつくように、(国民投票などにみられる)拍手喝采によって独裁者が選ばれるとみておかなければなりません。
それにもかかわらず、民主主義への批判精神が乏しいままのこの戦後では、アメリカという民主主義の善玉が軍国日本における独裁主義の悪玉を滅ぼした、という話がしつらえられたわけです。
この「アメリカ軍は解放軍なり」というにわか仕立ての神話に従うかぎり、原爆も焼夷弾も文字通りに善い「玉」とみなされるほかありませんでした。
民主主義礼賛こそがアメリカの蛮行を正当化したのだ、という脈略をしっかりと押さえておかなくてはなりません。
これは、ソ連軍の(日ソ不可侵条約の一方的な破棄に基づく)満州国侵略についても、それに続く60万の日本人のソ連抑留についてもいえることです。
いずれにせよ、ソ連の侵略と(戦争終結後の)強制連行と強制労働に、大方の戦後日本人は眼もくれませんでした。
これも連合軍は枢軸国よりも義において勝る、といういわれなき固定観念のなせる業であったのです。


12、原爆投下も大空襲もアメリカによる国家テロであった、と断言する兼直と勇気を持たなくてはならないのです。


13、GHQ(ジェネラル・ヘッドクォーター)による占領統治は、一言で代表させれば、戦後日本の「民主化」ということです。
それが大成功に終わったのはなぜか。
おそらく、日本の民主化はすでに相当の水準に達していたからなのです。
アメリカのやったことは、軍人や地主の政治権力を大幅に削いだことを別とすれば、日本の歴史に不連続な切断や飛躍をもたらすようなものではなかった、ということなのでしょう。


14、ただ、何らかの「理念」に基づいて社会にたいして大がかりな「設計」をほどこすのが望ましい、という実験主義あるいは設計主義が、戦後日本人のイズムあるいはドクトリンとして確立されてしまった、それは疑いえません。
GHQ方式は近代主義的な社会変革の見本例にほかなりません。
この精神のパラダイムだけは、武士道の残影のあった明治維新期よりもはるかに鮮明に、日本帝国陸海軍の消失した被占領期に樹立されてしまった、といえるのではないでしょうか。


15、GHQは戦後日本人に思想改造を、もっとはっきり言うとアメリカを模範して生きるようにと、要求しました。
吉田茂はその要求に従いますとGHQに申し出たのです。
同じ敗戦国ドイツにあっては、憲法や教育法を占領軍から宛がわれたわけではありません。
日本がこれらを宛がい扶持として受け取ったのは、アメリカ型の文明が優等で日本型のは劣等である、と認めたのも同然でありました。


16、米英の両国をアングロサクソンと一括りにするのは大間違いです。
イギリスは近代主義を宣明した国ではありますが、それへの懐疑を宣言もしたのです。
イギリスが近代主義への信念と疑念のあいだで平衡をとろうとしてきたのにたいし、アメリカにあるのは近代主義への(過剰な信念としての)軽信だけである、といってさして言い過ぎではありません。
近代主義にたいするアメリカ的軽信、それを最も露骨に表現したのが極東軍事裁判東京裁判)です。
そこでは、「平和にたいする罪」とか「人道にたいする罪」といったような概念が、驚くべきことにエクスポストに設定されました。
あるいは、古今東西に普遍的だといってよいかもしれません。
敗戦国の指導者を血祭りに上げるにはそうした偽装が必要なのです。
しかしそれが、良かれ悪しかれ、報復のための比較的に下等な道徳芝居なのだということを押さえておかなkればなりません。


17、しかし日本軍はそんなことはしなかったのです。
いわゆる南京大虐殺なる説がどれほど多くの虚偽と誇張の上に立っているかは、もう明らかになっています。


18、世間で「東京裁判史観」と言われているのは何か。
日本帝国はアジア諸国への加害者でしかなかったと自虐する、ということだとされています。
さらに一歩を進めるべきでしょう。
東京裁判を司法裁判と受け取り、そこでA級戦犯と断罪された(東条英機以下の)旧指導者を日本人が法律的および道徳的な意味での第一級の犯罪者とみなしたこと、それがアメリカ崇拝の愚昧なのです。
要するに、A級戦犯はむろんのこととして、碌な証拠もなしに「捕虜虐待」や「非戦闘員殺戮」の咎で処刑されたBC級戦犯も、文字通りに「犠牲」なのでした。


19、日本国憲法の草案はGHQ(アメリカ)が作り、その占領統治の圧力の中で昭和22年に施行されました。
その意味で、現憲法は欽定ではないし、民定でもありません。
要するに、それは「米定」の憲法なのです。
ただし、対日平和条約が昭和27年に発効した以後も、日本の国民も、政府も現憲法の廃止なり改正なりに具体的に着手することはなかったのです。
したがって、この米定憲法は日本国家がすすんで承認したものだ、その意味で「押し付け憲法」ではなく「押し戴き憲法」なのだ、というべきでしょう。
これまで為されてきた憲法論議の最大というよりも唯一の論点は、現憲法の第9条第2項についてでした。
つまり「戦力不保持」と「交戦権否認」の規定が非現実的だという疑問や批判が、この半世紀余、休みなく発表されてきたということです。
しかしその第1項んじおける規定は「侵略戦争禁止」ということに尽きます。
そして件の第2項の冒頭には「前項の目的を達するため」という限定がついております。
それゆえ、普通の言語感覚で理解すれば、「侵略をしないでおくために戦力は持たない、交戦は為さない」というのがその第2項の趣旨だということになります。
これは、日本人は「自衛と侵略を区別できない阿呆な国民である」、もしくは「自衛の名目で侵略を行いかねない野蛮な国民である」とみなしているということなのです。
こんな自尊心に欠けた憲法を放置しておいたということだけでも、戦後日本人の自立心がいかに低いかがよくわかるというものです。
前文第2項は「平和主義」を謳ったもので、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持」するとなっています。
かつて反左翼陣営は、護憲派をからかって、「他国民を信頼していれば平和が守られる」と考えるのは笑止千万といっておりました。
ところが、この憲法の文言は親米派の信条を述べ立てたものでもあるのです。
なぜなら、そこでの「平和を愛する諸国民」とは、米定憲法である以上は当然のことですが、「アメリカ」(およびその有効諸国)のこととしか考えられないからです。
要するに、「アメリカを信じていれば日本国は安泰に存続できる」という依存心さらには属国根性が第2項の意味するところというわけです。
しかし世界で最も安定的かつ長期的な持続を誇ってきた日本の歴史のことを考えれば、この米定憲法が我が国にふさわしくないことは明らかといえましょう。


20、管見では、第一に、天皇「制」は、国民の歴史意識における「聖と俗」の境界を指示するものです。
つまり天皇はその境界線上に存在する「最高位の神主」であり、いわゆるプリースト・キングなのです。
第二に、聖の(国民意識の)領域からみれば天皇は神格を持つと仮構され、俗の領域からみれば人格を有すると確認されます。
第三に、天皇の司る国家儀式が神道で装われるのは、神道が日本国家にあって「最も長く持続した」宗教意識である、という理由によるものです。
第四に、天皇制の最重要の文化的役割は、日本国家の(自然時間ではなくて)歴史時間を、天皇という国民を代表する人物の生涯によって刻する、という点にあります。
それが年号・元号でありますが、元号があることによって日本国家のヒストリー(歴史)が国民共有のストーリー(物語)となることが容易になるわけです。
したがって皇位継承にあって大事なのは、天皇の血統であるよりむしろ、皇室の(家系としての)連続性だということになります。
ここからいわゆる女帝の出現も認められるとしなければなりません。
第九に、天皇の地位を支えるものとしての「主権の在する国民」とは、今現在において生存している現在世代の日本国民のことだけではなく、過去世代と未来世代をも含む総国民のことを解さなければなりません。
そう考えることによってはじめて、「主権」は歴史上のすべての国民が共有するはずの伝統精神にこそ託される、という真っ当な解釈につながっていきます。


21、戦後の60年間、こうした天皇理解がいささかも普及させられませんでした。
それどころか、天皇と皇室は大衆社会の「人気」にさらされてきました。
その結果、大衆社会に必然の現象であるスキャンダリズム天皇・皇室が飲み込まれつつあります。
この勢いに抗すること能わずとみるほかないのは確かです。
しかしこの大衆社会は、晩かれ早かれ、自己崩壊の危機をみずから招来します。
そのとき、天皇制が日本文化のいわば岩盤めいた基底であることが剥き出しにされる、と見当をつけておかなければなりません。


22、ヒューマニズムとは、この場合、「人間の理性はパーフェクションに向けて不断の進歩を遂げている」とみなす人間観のことです。
そうみなしておけば、たしかに、多数派民衆の意見が進歩しており少数派のそれは退歩している、それが歴史の趨勢である、と考えることができます。
で、戦後60年間、「民主主義とヒューマニズム」に二色からなる進歩主義が、政治均翼の左右を問わずに、喧伝されてきたわけです。
絶対かつ崇高な精神のパワーが多少とも宿るのは、長き歴史の試練のなかで鍛え上げられた国民の伝統精神のなかにだ、と考えるのが良識というものではないでしょうか。
そのことが確認されていたら、民主主義は、もっと正確には(人民のではなく)「国民の」主権主義は、なかなかに健全な政治道徳だということになりましょう。
しかし、敗戦以降の我が国に生じたのは、自国の歴史への徹底した自信喪失のなかでの人民民主主義への屈服ということなのでした。


23、そうであればこそ、社会主義においてスターリン的抑圧や毛沢東的野蛮が曇りなく明らかになっても、戦後日本では左翼が健在でおれるのです。
つまり社会主義派左翼の少なくとも理念的な姿勢はアメリカ製の日本国憲法やアメリカ流の教育基本法にしっかりと寄り添っているといってよいでしょう。
そのことに着目しますと、戦後60年間のマジック・ワードは「民主主義」であったといってよいでしょう。
その言葉は、時代が進むにつれ意味の濃度を薄めてきてはいます。
しかし、民主主義というステレオタイプが戦後日本人の言葉づかいを締め上げる拘束衣のようなものになっていることは疑いようがありません。


24、冷戦構造についていえば、米ソのいずれに与するかというクソリアリズムというしかない二者択一を迫られすぎたために、戦後日本人は、軍事における戦略・戦術のことをはるかに超えて、国家意識の深部においてまで、独立自尊の気構えを失っていったのです。


25、対日講和条約と同時に締結された日米安全保障条約が、昭和27年の4月、発効しました。
片面講和でも致し方ないから一刻も早くアメリカの占領統治を脱すべき、という吉田茂内閣の判断は、それ自体としては、まったく正しかったのです。
しかしその内閣に、ということは敗戦から5年ないし7年経ったころの平均的な日本人に、独立自尊への強い気構えがあったのか、まったくもって疑問です。
そうした構えがもしあったのなら、次の二点が焦眉の論争となったはずではありませんか。
一つに、米軍基地を日本から撤退させるにはどういう条件が必要かということです。
たとえばソ連にたいするアメリカの優位が確立されたあかつきには基地の縮小・廃止にとりかかるのが、独立国として当然の手筈でしょう。
そのことを安保条約に盛り込むのが困難だとしても、日米外交においてそのことについての「公文」を交換しておくといったようなことは可能であったに違いありません。
二つに、自主防衛の路線を打ち出すべきではなかったかということです。
昭和25年に警察予備隊が創設され、昭和27年にそれが保安隊に改組され、そして昭和29年に自衛隊が発足しはしました。
しかし、それらはすべて米軍の補助機関としての疑似軍隊だったのであって、独立国日本の自主防衛という方向で設立されたわけではありません。
日本国憲法第9条がそうした作業にとって障害になっていたことは確かです。


26、単独防衛は全体としての自主防衛体制の、中心部に据えられるものです。
たしかに、「最悪の場合」のことを考えると、自国だけででも侵略を仕掛けてくる敵国に甚大な被害を与える準備をしておかなければなりません。
だが、単独防衛の外側には集団自衛(のための不可侵条約や安保条約や軍事協定)の制度があります。
更にその外側には(国連のような)国際機関による国際警察の機構があります。
それらの制度・機構に「自主性に基づき協調性にも配慮して」加わっていく、それが自主防衛体制ということです。
自主防衛の放棄は平和主義の迷妄と互いに貼り合わせになっているというべきでしょう。


27、それらの恩恵にあずかっていればこそ、おのれらの国家が存続しえているのです。
それなのに、軍事を論じる段になると、一足飛びに、恐怖心にかられて「絶対権力への全権委譲」を言いだすのはなぜでしょう。
「平和、平和と叫んでいれば平和がやってくる」と思っているウルトラ理想主義を裏返したもの、つまり「アメリカの核兵器にすがっていれば平和が保たれる」とみなすウルトラ現実主義のせいなのではないでしょうか。


28、昭和30年の秋、右派と左派に分かれていた社会党が「統一」され、それに続いて、自由党民主党(のいわゆる保守系)が「合同」しました。
また、日本の経済復興のことをさして「もはや戦後ではない」と言われだしたのもその年です、
たしかに、敗戦の大混乱は、10年をかけて、やっと収拾されたのでした。


29、保守的であることの神髄は、これは近代保守思想の祖たるエドマンド・バークの言ったことですが、「リフォーム・トゥ・コンサーヴ」にあります。
「保守するための改革」とは、「伝統の精神を保守する」ための「現状の改革」ならば、真正の保守はそれを承認し推進するのに吝かではない、ということにほかなりません。


30、昭和30年代前半の5年間は55年体制なるものの始発期に当たるわけですが、それはまだ準備段階にあったというのが適切でしょう。
世界にあっては、ソ連でのスターリン批判やハンガリーで反ソ暴動が起こって、社会主義派左翼の正義が揺らぎはじめていました。
アメリカが、中近東におけるイギリスやヴェトナムにおけるフランスの存在を押し退けて、世界への覇権を強めつつもありました。
しかし、ソ連ICBMの実験や人工衛星スプートニクの打ち上げに成功するのみならず、東欧の衛星諸国の締め付けを強化して、「冷戦」は深刻味を増しつつあったのです。
国内でも、鳩山一郎内閣のあとに登場した岸信介内閣は、日米安保の改定に着手して、また憲法改正の必要をも主張することによって、対米追随から脱却しようと努めていました。

 

31、我が国においては、そうした大衆論についての検討すら行われませんでした。
それどころか、戦後ヒューマニズムが無反省に延長されていましたので、マスとは単なる「大量」現象のことだと短略化させられました。
社会党新左翼の先導する示威運動なので)民衆が公的な政治舞台の前面に出てくることがマス化現象なのだ、と肯定的に評価されることすら多かったのです。
たとえば、当時、(イタリア共産党によって先鞭をつけられていた)「構造改革」というものがありました。
それは、その意味でのマス化に支えられた社会主義派左翼が既存の体制の内部に入り込んで、そこで社会構造を改革するための政策を立案し実行することなのでした。
それは、マルクス派の社会階級論的な人間観を「技術の時代」もしくは「脱政治イデオロギーの時代」に変質させる試みであったといえましょう。
こうした社会主義派左翼の企てもあって、我が国では、マスつまり「大衆」ということの意味がまったく理解されないままでした。
その結果、マス(大衆)という言葉を肯定的な意味合いで用いるという悪習が定着してしまいました。


32、昭和35年(1960年)6月19日に批准の成立した日米安保条約改定をめぐる反対「闘争」なるものは、冷静にみれば、「騒ぎ」としかいいようのないものでした。
なぜといって、その改定の内容は、それまでの安保条約が「駐日米軍に日本側がいかに便宣を供与するか」を規定していた「片務的」なものであったのに対し、米軍にも「日本を守る義務がある」ことを明記した「双務的」なものであったからです。
日米安保条約を「廃棄」せよというのなら、その闘争にも理があったということになりましょう。
しかし「改定」に反対というのでは、日本はこれまで通りにアメリカに服属せよと言っているに等しい事になります。
新左翼の「ブント」(同盟)という一派にあった理屈づけ、つまり「この改定は日本帝国主義が復活することの確認であり、したがってその改定を阻止すれば日本帝国主義に傷をつけることができる」というのは、強引すぎる論法ではありますが、一応は社会主義革命なるものの見地からすれば筋道が通っていました。
しかし日本国家にとってそれを改悪と呼ぶのでは、馬鹿騒ぎといわれて致し方ありません。
また、実際に、その騒ぎを主謀した青年たちの多くは(私を含めて)、「改定文をきちんと読んだことはなかった」という実情だったのですから、何をかいわんや、ではありました。
この騒ぎの結果は重大でした。
というのも、岸首相が退陣したあとの池田勇人内閣は、等閑視することにしたからです。
いわゆる「所得倍増」が政策体系の中心におかれたのです。
どんな政治勢力も、この国民の暮らしを楽にするという路線には反対し難いという雰囲気になっていったのです。
60年安保騒ぎは、それまでの戦後第1期の15年間に累積されていた戦後日本人の不平不満の解き放ちと理解しておくのが最も的確かと思われます。
知識人らの吐き散らかすグリーヴァンスは、エドマンド・バークフランス革命の一大原因として挙げていもしますが、なかなかに強力な効果を発揮するのです。
その不平不満は、「闘争」の最先端にいたいわゆる「過激派」にいわせれば、戦後的な「ヒューマニズムに偽善」と「進歩主義の欺瞞」に対する反抗という事であったでしょう。
戦後的な「平和主義の偽善」に対しては革命主義の暴力を、そして「民主主義の欺瞞」には自由主義の活動を、それぞれ対置したのだ、と彼らは言う事でしょう。


33、質的には巨大な無が量的には巨大な数に変じるからには、「大衆」に迎合する以外にないということを、この安保闘争を機に、戦後民主主義は学んだ、ということかもしれません。
だから、60年安保闘争は、モボクラシー(暴民政治)やオクロクラシー(衆愚政治)への、つまりあえて新語で言うと「マスクラシー」(大衆の主権主義)への引き返し困難な巨大な一歩を印した、ということもできます。


34、1960年代の日本における大衆政治は、それを世界のなかにおいてみれば、「幸せな陽だまり」と見えたに違いありません。
というのも、その10年間の中頃から、アメリカのヴェトナム侵略が深刻化していきました。
それはアメリカ国内に大きな分裂をもたらすほどの深さに達していました。
中国では文化大革命毛沢東派によって引き起こされ、その国を混乱と停滞に導いていきました。
その以前の1963年には、中ソ対立も激化し、アメリカでは(その前年の”キューバ危機”と呼ばれた米ソの対決のあと)ケネディ暗殺も起こっていました。
しかし世界がこのように激震に見舞われるなかで、我が国はアメリカの「核の傘」の下で安穏とし、高度経済成長を満喫しつつ、東京オリンピックで沸き立ったりしていたのです。
また戦後日本人について言えば、アメリカの「核の傘」の元に入った事それ自体が国家の「独立と自尊」を捨てて、日本人民の「安全と生存」を第一義とするということだったのです。


35、人々を首相官邸や国会議事堂へと駆り立てたのは、旧左翼が触れてまわった「独裁か民主か」という合言葉でした。
つまり、安保改定の内容はひとまず脇におくとして、というよりそれについては真っ当な批判を浴びせられないので、強行採決という決定の仕方が民主主義を踏みにじっていると人々は批難したのです。
いうまでもなく、針小樺太の振る舞いではありました。
「多数者」による「参加と決定」、それがデモクラシーの方法です。
「少数者」が「参加と決定」を拒み続けるなら、強行採決は避けて通れぬ道なのです。
それを「独裁」と難じるのは、まことにルール違反の言動というしかありません。
なぜ、そんなたわいのない合言葉に、社会主義派の左翼人士のみならず一般国民までもが乗せられていったのでしょうか。
答えは簡単で、「内容がよく分からぬものの、重大な代物であるらしいアメリカとの条約が多数決の強行で決まってしまった」事への漠たる不安、それがその巨大な反対運動の火花を、一瞬、激しく燃え立たせたのです。
そうした人々の不安が(一瞬とはいえ)憤怒にまで高まったのはなぜでしょうか。
いくつかの原因が考えられますが、それらの全てが日本の「戦後」を今も(たとえばアメリカの「湾岸戦争」や「イラク侵略」などに際して)なおとらえているニーチェのいった「三つのM」に基づいているのです。
つまり「一瞬(モーメント)だけ燃え盛る「気分(ムード)」の「運動(ムーヴメント)」に深く関係しているのです。


36、1950年代のアメリカ経済に「大量消費時代の到来」をみたのは、ウォルト・ロストウでした。
戦後日本は、それから10年遅れて、高度経済成長を通じて大量消費を享受し始めたのです。
1930年代にマス(大衆)化して全体主義へとなだれ込んでいった民衆には、経済的困窮のなかで政治的不安に苛立つ、という心理がありました。
しかし第二次世界大戦後に出現した大衆は、逆に、経済的安堵のなかで政治的退屈に耽る、といった種類のものです。
オルテガが言ったようにヒューマン・クラス(人間階級)として、つまりその精神の質において、大衆をとらえるほかありません。
その質が何であるかをヤスパースに習って言えば「技術およびそのシステムに適応するのを常とする精神の形」ということになるでしょう。
つまり、「大量消費社会」としての「高度大衆社会」が成立したわけです。


37、昭和35年以降、大量消費の経済と「世論の支配」(ジョン・スチュアート・ミル)の大衆政治が戦後日本にもたらされました。
そういう社会にあっては、大衆を指導するかのようにみえる者は実は大衆に追随する者である、という逆説が成立するのです。
昭和30年代から40年代にかけては、「三種の神器」という言葉にみられるように、大量消費はまだ緒についたばかりでありました。
「3C」つまり、カー・クーラー・カラーテレビが何の新味もない消費財となるのは次の第3期に戦後日本が入ってからのことであります。
しかしこの第2期においてすでに、大量消費時代に特有の「ヘドニズム(快楽主義)のパラドックス」が作用し始めていたことも認めるほかないのです。
このように物質的・社会的な改善過程と精神的・文化的な改悪過程とが交差する地点、それが昭和40年あたりであったということです。
大量消費にも大衆政治にも、日本を一等国に引き上げようとする戦中派の義務感覚があったことは認めなければなりません。
しかし第一級の国家であることの証は、おのれの文明が「危機」にさらされていることを(国民)の代表者が知悉していることに、あるいはおのれの文明が平衡感覚を失っているのではないかとの懐疑をそれら代表者が手放さないことにあるのです。


38、人間の精神は、ストレスを引き受けるようにできていると言いたくなるくらいのものです。
ストレスからの解放があり得ないとしたら、論じるべきはストレスの種類についてです。
一言で言えば、(消費や投票の「行為」へ向けての欲望を)「権利」として立てることからくるストレスと、(そうした行為の「仕方」をねぐる規範を)「義務」として受けることからくるストレスの比較という事です。
しかしデモクラティズムあるいはマスクラシーの時代では、欲望とは利への望みだとされており、その結果、理に叶うことによるストレスの解消が果たし難いのです。


39、知識(あるいは情報)そのものが、自己への懐疑を持たぬ為に自己の危機を察知できない、という閉回路のなかに彷徨い込んだという言うべきでしょうか。
ともかく、明るく騒がしかったあの戦後第2期において、人々は善良かつ勤勉であったのです。
しかし、いたずらに前傾姿勢で疾走するうち、担うべき大事なものを背から振い落としてしまったのです。
その大事なものとは、危機において平衡を持すための精神の政治術、断片化された情報を一つの総合的な解釈へとまとめ上げていくための経験知、つまり伝統精神によって培われた巧みな言葉づかいの事です。


40、日本がもし本土決戦を実行したら、という問いに対して、このような素晴らしい経済発展はあり得なかった、と応じる者が多い。
だが、1人当たりGNPが今の半分でも、国民が独立の気概と自尊の気持ちをその決戦のなかで保持できたなら、もっとまともな国家になっていたのではないか、と私は子供の頃から考えていた。
(これと同じことを、小説家の村上龍さんが書いています)


41、1960年代の後半、「団塊の世代」と呼ばれる青年たちが社会の前面に登場してきました。
世界全体についても、第二次世界大戦に直接的にかかわった先進諸国において、同じような現象がみられたのです。
つまり、「団塊」ということの最初の意味は、戦争が終わったあとの3、4年間の、ベビーブーム期に誕生した多数の人々をさすわけです。
人々が多数群れ集えば、競い合いが激しくなり、そこで互いにエミュレイトしているうち、自己主張の強い人間が比較的に出来上がるという事になります。
自己主張が激しすぎて自分の行為に責任をとらぬ、という風潮が高まってくることも否めません。
しかし「団塊」とは「団子のような塊」を成しているという事です。
つまり、ベビーブーマーたちには、一方で互いを異化させるよう競い合うという傾向がみられはするものの、他方で互いを同化させるという傾向もあるのです。
多様性と一様性の混在、それがベビーブーマーの特徴という事になるでしょうか。
いや、混在というのは曖昧すぎる言い方です。
思考や行動の「枠組における画一」と「内容における散逸」、それが彼らの集団の大まかな特徴という事になります。
もっとくだけた表現をすれば、勝手なことをやり合うという了解の下に常に群れている人々、と言ってよいかもしれません。
こうした彼らの振る舞い方を際立たせたのは、「反体制」におけるエクストリーミズムにおいてでした。
日本においては「全共闘」や「左翼過激派」に率いられて、ゲバ棒をかざして、国家警察の機動隊と衝突して「外ゲバ」を演じたり、党派相互でせめぎ合って「内ゲバ」を繰り返す、そういう振る舞いに及んだ者がベビーブーマーの学生たちのうちに少なからずいたのです。
(西)ドイツにあってはもっと矯激であって、秘密組織が爆弾や拳銃を手にするという事態になっていました。
フランスでは、労働組合員や一般市民などをも巻き込んで、ほんの短期間とはいえ、「パリ革命」と称されたような大規模な社会混乱が広がりました。
アメリカでは、ヒッピーイズムや反レーシズムとも深く関わりながら、銃が癌細胞のように社会を蚕食している国柄ですので、時として武闘を交えつつ、ベビーブーマーたちの反乱が続きました。
そして中国では、紅衛兵という毛沢東個人崇拝に酔う若年者を引き連れつつ、「造反有理」の掛け声の下に、「実権派」の共産党官僚たちへの攻撃が、一説では2千万名の死者を出すという大規模形で進んでいました。
それが文化大革命の騒乱だったのです。


38、まず、価値というものに、「理想的価値と現実的価値」に二次元のあることが気づかれていません。
価値は現実の変化を方向づけるための目標だ、つまり理想次元にある主観的なものだ、としか考えられていないのです。
しかし、人間および社会の現実は、すでに、人々が過去から現在へと継承させてきた客観的な価値によって支えられているはずです。
その客観的価値を事実判断として受け入れるかぎり、どんな理想的価値であれ、現実遊離の価値判断に基づいて語られるわけにはいかなくなります。
もちろん、その現実的価値が状況のなかで具体的に何を意味するかについて考察するのは主観のはたらきです。
その「考察」という主観において理想という主観的要素が作用はします。
しかし考察のための前提・枠組・方向は自由自在に選べるというものではありません。
説得力のある前提・枠組・方向はやはり現実的価値によって示されるのです。


39、自由の過剰は「放縦」に流れ、平等の過剰は「画一」に嵌まり、博愛の過剰は「偽善」に堕ちます。
ベビーブーマーより上の世代は、理想を現実に根付かせずに膨らませるという「過剰」な行為がどれほど危ないかを的確に教示しませんでした。
そのせいもあってベビーブーマーたちは「放縦・画一・偽善」という過剰の精神状態のなかで狂舞したのです。
それが60年代後半の「反体制」の騒乱という事だったのです。


40、アメリカのことを煽りたくてこんな事を言っているのでもありません。
というのも、その平衡棒とは国民の歴史感覚のことだからです。
歴史なきところに壮大な実験として樹立されたアメリカ国家にあって、そういう平衡棒を手にする習慣がそもそも弱いのです。
過剰な理想意識も過剰な現実感覚も、いわばアメリカ人の引き受けざるを得ない悲劇ということなのでしょう。


41、歴史の英知、慣習の教えあるいは伝統の精神、それが「正しさ」の最良の拠り所だとなっていれば、多数者が「誤り」に落ち込んでいる可能性についても配慮されます。
そのぶんだけ、言論を良識に基づかせようとの努力が人々のあいだで高まると期待されます。
その期待に応えるべく、感情表現と論理展開における「言葉づかい」にいささかならず繊細な配慮が加えられるでしょう。
アメリカの現実は、そしてアメリカ化を迎え入れている(たとえば)日本をはじめとするアジア諸国のそれも、その逆に向かっています。
その好例が、「歴史の終焉」(フランシス・フクヤマ)という前世紀末の世界にかんする認識でした。
リベラル・デモクラシーが唯一の価値だとしたら、価値の葛藤あるいは「神々の争い」という(歴史の動因たる)矛盾が無くなったのだから、これで歴史は終わるという理屈です。
これが現実的価値への無関心でなくて何でありましょう。
自由・平等・博愛(という理念)は規制・格差・競合(という現実)によってバランスさせられなければなりません。


42、現実感覚において一時的な、そしてそれら両者への表現活動において抽象的な態度は、ベビーブーマーの世代にきわめて顕著なのです。
彼らの態度は、その後、ますます多くの後継者によって引き継がれております。
しかし、ベビーブーマーたちが自分らの人生の(あるいは家族運営や企業運営の)挫折という形でとうに実証してくれているように、このウルトラモダニズムの高波は、波頭がいずれ砕け散るのに似て、かならずや崩れ落ちていくのです。
なぜそうなるか。
国家の歴史が彼らの軽はずみな理想意識と安直な現実感覚に復讐するからです。
たとえば反戦の理想も対米追随の現実もともに破産するほかありません。
まさしく、あの摩天楼の崩落を思わせる光景だと言えましょう。


43、昭和45年、小説家の三島由紀夫が割腹し果てました。
「命以上の価値はないのか」、それが彼の自衛隊員に対する、そして戦後日本に対する、抗議のメッセージでした。
「生き延びることそれ自体」を最高の価値とみなしてしまったら、「安全と生存」のためにほかのどんな価値を投げ捨ててかまわないという事になります。
それこそが現代の人類を襲っているニヒリズム虚無主義)の、つまり命を賭して守るべき価値などはありはしないと構える態度の、根本原因なのです。


44、資本「主義」とは、マルクスの言った通りに、資本利潤と資本蓄積の最大追求というフェティシズムの事なのだ、と得心した。


45、戦後日本は、昭和45年に「大阪万博」を催しました。
そうすることによって、高度経済成長の成果を踏まえつつ、技術立国として大きく羽ばたこうとしました。
またその2年後には「沖縄返還」を成し遂げる事によって独立国家としての体裁を整えるのに成功したかにみえました。
しかし、技術的にいくら成功しても、技術そのものはナショナリティを持ちません。
それゆえ技術立国を自称するような国家には「独立自尊」の気風がなかなか定着しないのです。
その証拠に、アメリカ軍の基地は、沖縄を中心にして横須賀、佐世保、横田、座間、岩国、三沢と、その駐留の如何はアメリカ側の意向に委ねられたままでした。
基地はアメリカへの永久貸与といった様相をはっきりとみせつけはじめました。
日本が自主独立する可能性は、アメリカがヴェトナム戦争の泥沼にはまりきり、国内にも未曾有の混乱を抱えていた(1070年代前半の)当時、大いに高まっていたとみるべきでしょう。
しかし日本の国民とその政府にはその構えが無かったのです。


46、加えてOPECが昭和48年に原油価格を2倍に引き上げる挙に出たとき、それは「オイル・ショック」と呼ばれ、日本人はただ周章狼狽するだけで、トイレットペーパーの買いだめに走るというような有様でした。
その前年の冬に、リチャード・ニクソンアメリカ大統領が中国を電撃訪問した折も、日本は、自分の頭上を超えていくその米中外交の展開にあわてふためきました。
つまり、米中両国の未来に対する日本の戦略はいかにあるべきかという考察の下に、外交を展開するという事ではなかったのです。


47、その間、昭和50年には、サイゴン政府が降伏して、ヴェトナム戦争はアメリカの敗北という事になりました。
翌年、中国では、毛沢東主席の死とその傘下の「4人組」逮捕となって、文化大革命も終息しました。
日本の1970年代(昭和40年代の後半と50年代の前半)にあったのは、続出する政治スキャンダルとそれに伴う諸党派の選挙合戦の激化だけだったと言ってさしつかえありません。
例えば、昭和51年に「新自由クラブ」が結成されて自民党が分裂状態に入り、その年末の総選挙は自民党の辛勝という事態になりました。
その間に決められためぼしい政策と言えば、三木武夫首相の時代に「防衛費はGNPの1パーセント以内」という愚かしい決定がなされた事くらいではないでしょうか。


48、しかし、どうして真正の指導者が出てこなかったのか、となると問題はもっと複雑かつ深刻です。
それは「政治はその国の民度を反映する」との言い伝えどおりに、戦後日本人が、公衆ではなく大衆であったことの結果なのです。
大衆の意見は(マスメディアの流行に乗る)「世論」であって、(歴史の良識を現在の状況に活かそうとする)「輿論」ではありません。
世論に基づいて選出される大衆の(代表者ならざる)代理人は、説得力なき決断に赴くのはまだよいほうで、決断すらできずに、状況に流されるのが落ちです。
その10年間、そうした自由民主主義の戦後的な堕落の模様が次々と状況の流れの水面に浮上してきました。
しかしそういう危機が日本のリベラル・デモクラシーを吞み込んでいる事に気づいた者は、あまりにも少なかったのです。
そしてそれこそが本格的な危機の訪れを告げていたのです。


49、技術革新のことのみを取り上げるのは平衡を失っているかもしれません。
その頃の日本人は世界中で「ワーカホーリック」と言われておりました。
「うさぎ小屋」のような小さな住居でみすぼらしく暮らすワーカホーリック、それが日本人像という事だったのです。
技術革新に対するものを含めた旺盛な勤労意欲と堅実な勤労態度、オイル・ショックを乗り超えさせたのはこの国民的な資質であった、と言わなければなりません。
そして昭和55年ともなれば、日本は「経済大国」である、という統計的事実と国民的自負とがはっきりと示され始めたのです。
更にその5年後、つまり戦後第3期が終わる頃ともなれば、1人当たりの国民所得において、日本はついにアメリカを追い越す事になったのでした。
「ジャパン・アズ・ナンバー・ワン」(エズラ・ヴォーゲル)という書物も出版されて、評判をよびました。


50、問われるべき事が2点あります。
その第一は、強い勤労意欲と良い勤労態度をもたらした原因は何かという事です。
儒教の影響といわれている指揮命令への従順とか、欧米型の文明を模範とする進歩への「キャッチ・アップ」精神とか、色々な原因を指摘する事ができるでしょう。
それらをまとめて「日本的経営」と呼ぶならば、当時、確かに、「日本的経営」こそが(資源も少なく軍事力も乏しい)我が国を経済大国に押し上げてくれたのです。
その認識が日本人自身にあってもにわかに高まったのでした。
いずれにせよ、日本の歴史的な産物である日本的集団運営法が日本の高度経済成長および高質技術発展を支えたのです。
この歴史的な勝れ物が持っている性質を「終身雇用、年功序列賃金そして企業内組合」の3点セットで表すのが普通です。


51、ここから、経済大国・日本について問われるべき第二点が出てきます。
組織において「人間」が「長期」にわたって雇用されるという事は、それらの組織構成員のあいだで、ヴァリュウが共有され、カスタムが普及されパワーが承認されるという事なのです。
つまり、価値という媒体を通じてコミュニティが、慣習という媒体を通じてソサイアティが、そして権力という媒体を通じてポリティが、経済の基底に横たわるという事になります。
経済は、表面では貨幣という媒体をめぐるエコノミーとみえるでしょう。
しかし根底では、文化、社会、政治のすべてに関わるコムプレックスなのです。
その事が、「世界に経済的にのみ適応する」という戦後日本的なやり方にあっては、理解されていませんでした。
しかし、戦後の日本国家が経済的適応に専念するという偏向を犯していたものですから、国際比較としては、日本人が「エコノミック・アニマル」に見えた事は疑いがないようです。
金銭・物質・技術の面にのみ活動的であるというのでは、人間として、失格と言われても致し方ありません。
その意味では、経済大国・日本という成功の場にエコノミック・オンリーの奇妙な人々が群れはじめた、それが目立ってきたのが昭和50年代であったと言ってよいでしょう。


52、組織の長期的な「安定と活力」を確保せんとする日本的経営なるものは、私の現実と書物の両面にわたる見聞に基づけば、世界にある程度まで共通する組織運営法だと思われた。
で、「4つのC」という事を、昭和55年頃に考えていた。
competition(競争)、cooperation(協調)、compulsion(強制)、そしてcognizance(認識)という4Cが組み合わされて組織が動く。
4C構造は世界に普遍的である。
日本において個別的なのは、その組み合わせ方を企業という経済組織において有効であるように傾斜させた、つまり「協調」にウエイトをおいた、という事にすぎないのではないか。
それは「競争」を旨とする政治組織、「強制」を不可欠とする社会組織、そして「認識」の上に成り立つ文化組織を弱いものにしていると言う事でもある。


53、1976年、南北ヴェトナムが正式に統一され、インドシナ半島におけるアメリカの影が決定的に薄くなりました。
それにつれ、コオペラティヴィズムで国際社会に対応しようと主張するジミー・カター政権も誕生しました。
鄧小平に率いられる事になった中国も、「近代化」への着手を謳い、そのからみで日本との融和を図ろうとしていました。
1979年ともなれば、イランで(パーレビ国王の)親米政権がホメイニらイスラム聖職者政権によって倒され、その年の暮れにはイラン米大使館人質事件も発生しました。
また、それに踝を接するようにして、ソ連社会主義傀儡政権を守るべくアフガニスタンに侵攻し、ソ連帝国は瓦解へ向けての第一歩を印す事になりました。
かいつまんで言えば、冷戦が「終わりの始まり」をすでに迎えていたという事です。
ここに至っても我が国は、「独立自尊」の気構えで「自主防衛」の路線をめざす、という戦略の必要について一考もするところが無かったのです。


54、ソヴィエティズムの社会主義もアメリカニズムの個人主義もともに限界にぶつかっているという事の持つ思想的な意味合いについて、日本の「戦後」に思想的な決算を迫るという脈略で考え論じるといった態度などは、どこにもみられませんでした。
日本的経営のおかげで日本が経済大国になりつつある、と感じ入るという自己満悦がこの第3期を彩どっていたのです。
それが時代の気分といったようなものでしたので、米中および日中の国交回復による中国の国際社会への復帰(というより登場)が世界政治に与える影響の事も、第4次中東戦争が世界軍事に及ぼす効果の事も、200カイリ漁業専菅協定がやがて日本の領土問題にどう関わってくるかという事も、イラン・イラク戦争がアメリカのいかなる世界戦略の目論見を表しているかという事も、アフリカの飢餓状態が世界経済および世界政治の甚だしい歪みの反映である事も、日本人にとっては、単に傍観していればよいだけの、流れゆくニュースの細々にすぎなかったのです。
さらに、当時の西欧諸国は軒並みに失業率が10%といった状態で、「ウェルフェア」はワークフェアに取って代わられるべきだ、という議論が起こってしまいました。
日本の場合は、物質的幸福を至上としてしまったら、幸福の絶頂においてただ退屈がやってくる、また社会的平等を究極とみなした挙句に、社会的微差に苛立つ事になる、といったような大衆社会の(「パンとサーカス」の)病理について、論じられる事はありませんでした。
物品の持つ精神的な意味と階級の持つ文化的な意味とにこだわる西欧にあってすら、大衆社会の歯車は人々を退屈と焦燥に追いやってきたのです。
そうした西欧文明に近いものを「戦前」の日本は持っていました。
他方、「戦前」への徹底した嫌悪、それが戦後日本人イデオロギーなのでした。
そうならば、大衆社会は戦後日本においてこそ高度に発達する条件が備わっていると言うべきではないでしょうか。


55、その経済的成功は自分らのモティヴェーションを金銭的なものに限定し、自分らのインタレスを技術的なものに封じた事の結果にすぎませんでした。
その事への自省心は日本人にあっていささかも湧く事が無かったのです。
これまでの欧米へのインフェリオリティ・コムプレックスがシューペリオリティ・コムプレックスへと逆転しただけの事です。
そんな優越感は、やがて、ちょっとしたきっかけで劣等感へ再逆転する代物にすぎぬ、という予感すらが抱かれてはいないのでした。
アメリカはいざ知らず西欧には、「自らの文明に本格的に懐疑を差し向けたのは、ひとり西欧だけである」という誇りの感情があります。
それがグリーク・ダウト(ギリシャ的懐疑)の精神を継承したものだと言えましょう。
この自己懐疑が伝統的精神や階級的格差といった前近代的なものを保守せんとする態度を西欧人たちにもたらしたのです。
したがって西欧における近代という時代は、近代主義に対する疑念と信念のあいだの葛藤に耐えなければなりませんでした。
その葛藤に対するトレランスが西欧的なモーラル(道徳)とモラール(士気)を生みだした、更にはマナーとエチケットを産出した、とみる事ができます。
西欧のモダンエイジが、その中央にモダニズムを抱え持っていた事は確かです。
しかし右翼にはプレモダニズムが配置され、またこの左翼には、想像力に賭けて未来へ飛翔しようとするポストモダニズムが頭をもたげてもいました。
それら三種の主義のあいだの葛藤が近代西欧の活動源であり、そしてその葛藤において平衡を保とうとする努力が西欧的なコモンセンスやボンサンスをもたらしたのです。
両翼を欠いた胴体だけの純粋のモダニズムは、まるでロケットのように天空へと放たれ、次に真っ二つに割れてヨーロッパの西方と東方に、つまりアメリカとロシアに落下し、個人主義のアメリカニズムと社会主義のソヴィエティズムが出現しました。
それら冷戦構造の両雄である米ソの2国は、西欧の産み落とした(二卵性双生児とも言うべき)鬼っ子たちなのでした。


56、私は、自分の(執筆や講演にかんする)商談は要点を確認するだけですます事にしている。
というより、その要点にどんな意味合いを持たせようかとなると、相手の経験と状況を包括的な会話において洞察しなければならないのである。
これはほとんど秘密に属するのだが、私の精神は西欧派に属するのだと思う。
計算表や青写真を出して延々と説明したりするのは私の得手ではない。
しかしそんなふうに生きてきてもう66歳という事なのだから、私の流儀が日本で完全に排除されているという事ではないのであろう。


57、「大衆」に思いを寄せると自称しているある評論家がいて、彼は私に繰り返し罵声をあびせてきた。
私が「大衆」を莫迦にしているというのである。
私の言う大衆とは大衆社会論における「マス」の事で、その学問分野の常套的な理解として「マス」とは「死んでも治らない莫迦」の事をさす。
私の大衆批判はもう四半世紀を超えているが、その間一貫して、私の言う大衆はコモンマン(庶民)の事ではなく、スペシャリスト(専門人)の事である。
狭い分野の事を知るだけで満悦しきり、その分野が経験の全体的な配置のなかで、また状況の全体的な流動のなかで、どんな意味を持つかを解釈しようとはしない人々、その典型が専門人なのだ。
そうなのだと四半世紀に及んで説明し続けているのに私が庶民を蔑視しているとの批判がやまない。
言葉の虚しさには実に計り知れないものがある。


58、「社会(民主主義)派」が社会主義からほぼ決定的に離反した事は確認しておかなければなりません。
なぜなら、社会主義に顕著な民主集中制つまり「組織の階層構造を登った果てに、意志決定が(独裁者を含む)少数の最高位者へと集中されていく方式」が捨てられたからです。
共産党のなかに民主集中制が残っているのかもしれませんが、それとて往時のような個人崇拝からは縁遠いものです。
公明党民主集中制については、強固な宗教団体をバックにする政党の事ですから、良かれ悪しかれ、不可避の事とみなすほかありません。
公明党について指摘さるべきは、むしろ、宗教色が濃厚な政党であるにもかかわらず、宗教観と政策提案のかかわりがあまり明示されない事、そして政策提案も著しく一貫性を欠くといったところでしょう。
ともかく、民主集中制からの離脱は、市民主義者としての社会派が人権主義(とそれに発する平等主義)をふりかざす事の当然の帰結と言えます。


59、現代の大衆は情報から遠ざかっている人々の事ではないのです。
逆に情報界に蟠踞して、刺激力と流通力のある情報だけを生産し消費している、それが現代における(市民という名の)大衆にほかなりません。
しかもこの大衆の代理人たるや、ありあまる「教育と所得」を持って、リテラシーとヴィデオシーの世界を牛耳っているときております。
これを「テレマス」つまり「テレビに生息するマス」の勝利と呼ばずして何と呼ぶのか、見当もつきません。


60、ポストモダンの言い分に「微分的思考を排して積分的思考を」というのがありましたが、噴飯物であったとしか言いようがありません。
これは、「未来への変化」を大事として「過去からの継承」を踏みにじれ、との謂です。
しかし、誰しも認めざるを得ないのは、過去の変化分の累積としての積分がいわば曲線を構成し、その曲線に対して引かれた接線の傾きがその微分となるのです。
要するに、微分積分は、あるいは差異と同一はコインの両面にすぎません。
変化を選択すると簡単にいいますが、変化の可能性はそれこそ多様なのです。
では、その可能性のなかからどれを選びとるかとなると、選択の「基準」がなければなりません。
むろん、その基準についてとて多様なものが考えられはしましょう。
しかしどの基準が勝れていてどの基準が劣っているか、それを判別するより深い基準があるとしなければ、人間は選択不能に陥ってしまうのです。

 

61、この第3期の後半、「戦後の総決算」などはほとんどまったく行われなかったと言わなければなりません。
近代主義は、それを支える知識界の専門主義の事も含めて、何一つ乗り超えられなかったのです。
実際に起きたのは、「戦後」にあって混淆されていた「個人主義的なもの」と「社会主義的なもの」とが分離され、そして前者が拡張され後者が圧縮された、という事態でした。
あまりにも明らかなのは、「戦後」の特色とされている「平和と民主」も「進歩と人権」も、個人主義と何ら抵触しないという事です。
「個人は合理を自由に発達させる」というアメリカニズムの単線に戦後日本が進路を定めた、それが昭和50年代の後半という事だったのではないでしょうか。
個人主義派左翼の頭目ロナルド・レーガン大統領と社会主義派左翼の首魁レオニード・ブレジネフ書記長の鍔迫り合いは続いていました。
しかし、勝勢が前者に傾いている事は明白でした。
そうした世界の大勢がこの列島に反映されて、両者を足して二で割った市民主義なるイデオロギーの珍種が出来上がったという事でしょう。
それが「平和と民主」および「進歩と人権」の戦後イデオロギーを盛る新たな政治的容器となったのです。


62、今からちょうど30年前、つまり昭和50年に第一次産業のウエイトは、従業員数でみて、13.4%に落ちています。
昭和40年には36.5%、昭和35年には43.0%だったのです。
これは、いかに急速に都市化が進んだかという事を示しています。
都市化は、おそらく、シヴィライゼーション(文明)に必然の現象なのでしょう。
ただしその場合のシヴィル(市民的)とは、語源的な意味合いを、つまり「公民として公序良俗に従っていること」を、かならずしも保っていないようです。
むしろ、公序良俗の何たるかは自分たちの意見で決めるのだと構えている、そういう傾きを強く有しているのが近代における市民です。
図らずも、日本語で言うところの、国民でも公民でもないものとしての「市民」が、近代都市の住民像に、洋の東西を問わず、最も相応しいというわけです。
つまり、日本文明もまた都市化の方向にまぎれもなく入り込んだ、という事がこの上なく明らかになった、それが昭和50年前後という事だったのです。
こんな事は常識に属しましょうが、我が国に常識として定着しなかったのは、シュペングラーの次のような都市観です。
「文明とは、人間という高度の種によって可能とされるところの、最も外面的な、また最も人工的な状態の事である。
文明とは終結である。
文明は成ることに続く成ってしまったものであり、生に続く死であり、発達に続く擬固である。
豊かな形式をもって大地に生死を託する民族に代わって、新しい流浪民、新しい寄生物である大都市住民が生じ、そして農民を心から嫌う無宗教的で、理知的で、不生産的な、またまったく伝統のない実際的な人間が、大群をなして生じ、無形式のままふらつくようになる」
シュペングラーの(人間の歴史を有機体の生死の過程になぞられる)見方を批判する事は容易でしょう。
しかし、都市についてのフィジオノミーとして言えば、彼が20世紀初頭にみた西欧の諸都市の姿が、それから100年後、幾重にも拡大されて私たちの眼前にグロテスクに横たわっている事を認めざるを得ないのではないでしょうか。
ふたたび確認しますと、彼のこのようなインテリ観に文句をつけるのは簡単です。
しかしそうはいうものの、都市に住まう現代知識人についての観相学としてはこれに勝るものはない、という印象を持たずにおれません。
そうだと断定しなくとも、シュペングラーのように都市や知識人を観察していた者がいたのだという事がこの戦後第3期あたりからほぼ完全に忘れ去られた、その意味で無思想の時代が始まった、と言ってよいかと思われます。


63、ついでに言い添えておくと、こうした事実主義への反動として、昭和50年代の後半、ポストモダンと称する(奇矯な形の)理念主義的な思想表現が出現したのでしょう。
事実主義が、とくにビジネス・エコノミスト群にあって、「実学」として正当化されていた事は注目に値します。
実用の役に立つ知識、それがこの第3期における(文化なき)文明の自己表現であったという事です。
このあたりから、ハウ・トゥ物やカタログ物やチャート式といった表現様式が日本の諸都市に散布され出したわけです。
しかし彼らの「実学」は、福沢諭吉が言ったような実学の本来的な趣旨から大きく外れていました。


64、無思想の時代への扉を開いたこの第3期はまさに完成の領域に入った時代でした。
そしてその都市にあっては、自分は無思想の人間だと公言し合うのが都市的な交際である、という社会契約が「市民」たちのあいだで暗黙のうちに取り交わされているのです。
都市に集まってくる民衆は「都市住民」として「市民」を名乗りはじめました。
しかしその市民はパブリックではなくマス(大衆)であったのです。
自分たちの世論を歴史的良識としての輿論に照らして自己省察できるのが公衆であり、自分たちの世論に大権があると言い張るのが大衆です。
近代の都市は慣習を壊すことに重きをおいているのですし、アーバン・エリアに入ってくるのはルーラル・エリア(田園部)からの故郷逃亡者なのですから、近代の都市住民はドゥウェラー(道に迷って留まる人)でしかありません。
そんなところで公衆が育つのは奇跡に近いと言わなければなりません。
ドゥウェラーとしてのマスがそれこそマス(大量)の規模で登場しはじめたという事にかんし、またその事が経済大国における大量消費や大量浪費と深くかかわっている事にかんし、戦後日本はあまりにも無関心でした。
都市化が大衆化とほぼ等しい事に留意した知識人もほとんどいませんでした。
しかし、都市住民の心理をそれこそ事実において仔細みみれば、自分がインハビタントになれない事に、そしてパブリックになれない事に、ひそかにせよ不満や不安を抱いているのです。
したがって、都市が巨大に発展していけばいくほど、文明の高みに立っているという絶頂観と表裏一体をなして、その高みがいつ崩落しても不思議ではないという憂愁感が彼らの心髄をとらえるのです。
その光景がこの第3期の終わり頃にはすでに仄見えていたように思われます。


65、しかし世界化という普遍理念を「抽象的」に語る事はできましょうが、それを「具体的」に語った途端、諸国民間の(歴史感覚や道徳意識や言語慣習における)差異が顕在します。
そうであればこそ、異文化理解には異文化誤解が付き物だと言われてきたのです。
一体、日本人は、国際的である事が具体的に要請されてきた戦後第3期のあと、世界化としての国際化をどうして具体的に語りえたのでしょうか。
答えは簡単で、多くの戦後日本人にとっての世界とはアメリカの事であり、そしてアメリカはまさに具体的に目前に存在していたのです。
政治的覇権国としてのアメリカ、製品・資本の輸出先としてのアメリカ、観光旅行先としてのアメリカ、流行や情報の発生源としてのアメリカというふうに、「アメリカという世界」は日本人にとって具体的な存在でした。
したがって世界化(=国際化)という抽象的理念は日本人にとって具体的現実とも成り得たわけです。
とはいうものの、そこでアメリカ文明に対する批評眼が鍛えられたというのでもないのです。
「アメリカでは・・・」と言うのが、それまでと同様に、価値尺度として通用し続けていた事は否めません。
それもそのはず、アメリカの「核の傘」の下に日本はいつづけていたのですし、新首相のアメリカ詣では相変わらず続けられていました。
大衆文化の中心をなす映画も音楽もアメリカから流れてきていました。
こうした事情もあって、異なったネーション(国民)のインター(間)における理解と誤解、連帯と敵対、調和と逸脱、統一と分裂、協調と葛藤といった両面性をかならずや随伴する、それが国際化というものだという事が深くは認識されなかったのです。
それを認識すべき絶好の機会であった戦後第3期を、日本の人々は、経済大国の貿易黒字統計が上昇を続けるのをみて満悦しているうち、うかうかと過ごしてしまいました。
それは、第3期の興隆を中心で担った戦中派の責任と言えましょう。
敗戦当時に青年であって生き残った者たちの対米劣等感はかくも深きものであったというべきでしょうか。
彼らが第3期においてアメリカに対して暫しのあいだ抱いた優越感とて、その劣等感の裏返しにすぎなかったのだと思われてなりません。
アメリカ型の文明に適応するばかりであり続けるのは日本文化にとって命取りとなる、という危機感はこの世代にはついには無縁のものなのでした。


66、世界化がアメリカ化であり、アメリカ化が国際化であるという単線的な思考を、戦後日本人はとうとう克服できませんでした。
その事については、当時の(産業をはじめとする)社会において際立ちはじめていた「情報化」という事が関係しているようです。
もちろん、情報は人間の歴史とともに古いものです。
情報時代というのは、それまで物質としっかりと結び合わされていた情報が物質から剥離させられて、情報が、独立した財として、社会の中枢に場所を占めたという事にすぎません。
財として社会に流通するという事は、その財が「型に嵌められる」という事でもあります。
そしてまさにインフォメーションとは、フォーム(型)のイン(中)に収まる事なのです。
定型化された情報を技術とよぶのでしょうから、情報とはテクニカル・ナレッジの事だといって構わないでしょう。
技術知が最も大切になったというのが時代認識であったとしたら、アメリカ化としての世界化の意識が、国際化の美名の下で、広まり深まるのは避け難い事です。
なぜといって、技術知こそは国境を超えた普遍的なものであるに相違いないからです。
日本語でいう「情報」には技術知に対立する情報、もしくは別次元にある情報も含まれているのでしょう。
それが(マイケル・オークショットの言った)プラクティカル・ナレッジです。
丁寧に言えば、情報の下部構造に実際知があり、その上部構造に技術知がある、という事かと思われます。
そして、この二重構造がどうにか安定しているとき、その国家は安定を享受する事ができるのです。


67、テクノロジーという英語はテクネーというギリシャ語からきたものです。
テクネーには「生活上の技能」といった実際知が含まれていたのです。
そこから科学のロジックによって抽出してきたのがテクノロジーです。
歴史の知恵が乏しいところでは「テクノロジーがテクネーから遊離する」のです。
それがアメリカの文明型だと言ってさしつかえありません。
それに巻き込まれ切るか、それからの距離をとるべく努めるか、その岐路に立ったのが第3期でした。
しかし、そうした岐路にいることすら自覚できずにいたのですから、やはり、その国際化はまともなものではなかった、技術の次元を滑走していただけの事ですから異国との交流が世界化と映らざる得なかったのだ、といって大過ないでしょう。


68、1980年代前半の世界で目立ったのは、アメリカのレーガン政権、イギリスのサッチャー政権そして日本の中曽根政権が新保守主義なる政治路線でおおよそ共同歩調をとったという事実です。
これを「ニューコン」と略称する事にしますが、ニューコンの概略は、「対内的」には自由競争を促しつつ「小さな政府」を目指し、「対外的」には軍事力を強化しつつ「冷戦での勝利」を目指す、という事でした。
アメリカとイギリスにはニューコンを採用せざる得ない必然がかなりあったと思われます。
まずアメリカは、経済における生産性の低下(および貿易赤字の拡大)、財政赤字の累積に悩んでおりました。
その結果がスタグフレーションという事でした。
そこで、減税によって企業の利潤獲得動機を強め、社会福祉の削除で財政難に対応すると同時に個人の競争意欲を高める、という方向が支持されたのです。
また米ソ冷戦の模様は、最終局面を迎えておりました。
ソ連はアフガン侵攻で失態を演じ深傷を蒙っていただけでなく、生産性の低下と軍事費の圧力によって経済が破綻の様相を示しはじめました。
またポーランドで(レフ・ワレサの率いる自主管理労組)「連帯」が登場するというような形で社会主義体制に亀裂が走るという経緯のなかで、ソ連はいわば迷走状態に入っていたのです。
そうしたソ連を追いつめる事によってヴェトナム戦争で傷ついた国家の威信を取り戻す、それがレーガン政権の狙いだったのです。
イギリスはもっと深刻な状況にありました。
長きに及んだ労働党政権下の戦後史のなかで、政府にあっても企業においても組織が官僚主義化し、またその「大きな政府」は財政難によって機能不全を起こしていたのです。
つまりイギリスでは、社会主義はむろんの事として労働党社民主義を国民の心理から払拭する必要に迫られていたわけです。
それは、自由主義を守りうる強い国家を政治的に演出するという必要も伴うわけで、そうした流れのなかでサッチャー政権は、1982年、「フォークランド紛争」で果敢な軍事行動を展開してみせたわけです。


69、アメリカにあっては、建国精神の一つの柱が個人主義であったわけですから、この「個人の自由」を最高の価値とするのがアメリカ人の歴史観だ、だからそれは慣習を重んじる以上は保守主義に属する、という奇っ怪な政治思想が出てくるのも無理からぬところがあります。
いや、歴史と年代記とは別物なのですから、たとえ建国から数えて200年余の時間を経ていても、慣習のなかに伝統という名の歴史の英知を発見する努力を軽視し続けたからには、その時間的経過を歴史と呼ぶわけにはいかない、とみるのが妥当でしょう。
つまり「個人の自由」による伝統破壊の年代記を誇る、それを保守と呼ぶという思想的倒錯がアメリカでは罷り通っていたのです。
厄介なのはイギリスでした。
イギリスは、エドマンド・バーグという存在をみれば明らかなように、近代保守思想の発祥の地です。
そしてその場合の保守とは、人間の理性が不完全を免れ得ないからには、歴史のプレスクリプションを英知とみなす事です。
つまり有機的に成長するものとしての社会には斬新的な改革を加えるにとどめておく、という姿勢の事なのです。
一般に、リフォーム・トゥ・コンサーヴ、つまり「歴史の英知」を保守する為に「現状の悪弊」を改革せよ、それが保守思想の元来の在り方だと言う事です。
当時の日本は経済的成功を謳歌しておりました。
つまり、米英両国のように経済的必要として自由主義を唱導しなくてもよい、という余裕が昭和50年代後半の日本にあったのです。
それのみならず、アメリカを模型としてそれに倣う、という劣等感まじりの戦後進歩主義から脱却できる契機が、少なくともそれを国民意識にのぼらせうる機会が、その5年間には沢山あったのです。
しかし政治家も役人も知識人も、その機会をみすみす逃しました。
それは、国防の基本をアメリカに握られている、アメリカに委ねている、という事の表れと言えなくもないでしょう。
しかし、日米安保体制の堅持は幾たびも強調されたものの、それをイークォル・パートナーシップに基づくアライアンスに移行させる動きは全く微々たるものでした。
つまり往来の「負け犬の属国意識」という言うべき国民感情は中曽根政権下にあっても改善される事は無かったのです。

 

70、新保守主義は、レーガンサッチャー、中曽根のトロイカの個人的な思惑を脇においていうと、ナショナリティなきステーティズムを国際社会にみせつけたのでした。
それは、国内においては自由主義を重視していたので国家主義の汚名を免れる事ができているようにみえました。
しかしその国内的自由にあってすら、自由が放埓に流れるのを阻止する為に、制定法を次々と繰り出す事によって「強い政府」を演出しようとしたのです。
したがって、このトロイカは国内社会に対してもステーティストであったと言えるでしょう。
保守は、一体、何を保守すべきなのでしょうか。
歴史破壊のソ連型文明が保守の攻撃対象とされたのは当然の事ですが、歴史不在のアメリカ型文明とて保守の批判対象とされなくてはならないはずです。
それなのに、中曽根政権がニューコンをかざしたあたりから「親米保守」という奇妙な政治的立場が、あろうことか反左翼と自称されつつ、この国で確立されたのです。
あえて言えば、繁栄に酔っているうち、「国民」である事を日本人に保証してくれていた歴史感覚を喪失してしまった、あるいはその喪失うの下準備に日本人民こぞって精出していた、それが戦後第3期であったという事です。


71、新保守主義者たちは、大いにしばしば、国家主義者と認定されました。
中曽根首相がレーガン大統領に向かって「日本を不沈空母にする」と発言した事に対し、日本の(市民主義派の)メディアがいっせいに襲いかかったのも、そうした見方に立っての事だったのでしょう。
しかし、この時期、「国家」という日本語それ自体が空無化し始めていました。
そもそも日本語で「国」というのは極めて両義的な言葉なのです。
「国に責任がある」というような物言いにあっては「政府」の事を指していますし、「日本という国は美意識を重んじる」というような場合には、「国民」の事を意味します。
ただし、標準的には、「国家」は「国の家」つまり「国民の家制」と解釈すべきでしょう。
そして、もちろん、この場合の家制とは統治機構の事、つまり政府の事です、
そうならば、英語で言うと、国民にはネーションの語が、そして政府にはステートの語が、それぞれ対応するはずです。
だから、「国家はネーション・ステートと訳されるべきだ」という事になるはずです。


72、新保守主義にはステーティズムに特有の権力的な調子が漂っていた事は確かです。
逆に言うと、それにナショナリズムが濃厚であったとは思われません。
そんな事よりも、中曽根首相らの戦後理解が曖昧であった事を指摘しておくべきでしょう。
彼らは、中曽根氏が首相に就任早々の昭和58年1月、一方で「戦後史の転換」を政策主題としながら、他方で「日米は運命共同体」と構えました。
戦後史の基本線が、というよりその基本線を病的なものにした原因が日米運命共同体論にある事を、この首相およびそのブレーンは見抜いていなかったのです。
アメリカの「核の傘」の下にいるという状態の下で日米運命共同体を構想してしまったら、日本のナショナリズムが腰砕けになることは眼にみえています。
国家の指導者が保守主義を掲げているにもかかわらずナショナリズムを、もう一度確認しておきますと国民主義を、軽んじたのです。
それには、ナショナリズムという言葉が多義的に用いられてきたという経緯が関わっているように思われます。
国際関係論にあって、先進国(あるいは強大国)のナショナリズムには非難が集中します。
しかし後進国(あるいは弱小国)のナショナリズムは称賛されてきたのです。
これは、大国のナショナリズムを小国に「押しつける」のは政治的な悪行だが、その大国の推しつけに抗して小国が自国のナショナリズムを「守り通す」のは政治的な善行だ、という事でしょう。


73、新保守主義にそうした感受性が豊かにあったとは思われません。
例えばレーガン大統領のSDI(戦略的防衛構想)は科学主義、技術主義、武断主義そして空想主義にあまりにも偏したものでした。
それに中曽根首相はあまりにもあっさりと「理解の表明」をしてしまいました。
ソ連への圧力を強化した事を咎めているのではなく、その強化の仕方が児戯に類していたと言いたいのです。
そんなものを保守主義と呼んではならなかったのです。
そうみるのが国民の(時間的には)歴史感覚からくる、(空間的には)社会通念からくる、コモン(共通)な言葉づかいにおけるセンス(感覚)なのだと思われます。


74、1985年9月、ニューヨークのプラザホテルに日米英独仏の蔵相・中央銀行総裁が集まり「プラザ合意」なるものが出来上がり、そこで日本は「日本の内需拡大」という(主としてアメリカの)要求を飲んだのです。
社会主義経済でしたら、政府が資本管理を行いますので、当初の貿易黒字に相当する部分で例えば海外資源を新たに購入し、それで公共財を国内に供給する、という事も出来るでしょう。
しかし資本主義経済と民主主義政治にあっては、まず国債発行とその遣い方を議会で決議しなければなりません。
プラザ合意への解答が緊急を要していたからには、翌年の4月に「前川レポート」という形で、国内市場への流動性(貨幣)供給を大幅に緩和するという方向に政策の舵がとられたのもやむを得ない仕儀であったのかもしれません。
とはいうものの、土地・建物の他には需要増大を見込める市場財はほとんどない、という冷静な認識が当時の為政者にもエコノミストにも経済人にも、ありはしなかったのです。
その結果、あまりにも当然の事ですが、「不動産バブル」が発生しました。
そして、不動産の価格が下がるという事などは起こり得ないという日本社会に共通のイルージョンの下に、不動産を担保とする国内資金の放漫な貸し出しが更に進められるという事になりました。
それにつれ株価も、一般商品の価格も、うなぎのぼりに高騰するという文字通りの「バブル」現象が日本経済を覆ったのです。
バブルつまり経済の「泡立ち」現象とは、商品の価格が上がるであろうという「期待」が市場取引を活発にし、それで実際に商品の価格が上昇する事に基づいて、価格上昇への期待がいっそう強まる、という「期待の自己増殖」の過程の事だと言えましょう。
しかしアメリカの強い要求には逆らえないという属国意識が戦後日本人に強くあります。
それに加えて、アメリカ仕込みの市場競争万能論がエコノミストたちのあいだで定着し始めていました。
その結果、昭和の末尾から平成の冒頭にかけての、おおよそ5年にわたって日本経済のバブルが続きました。
不動産であれ動産であれ資産の購入を急がない者は馬鹿だ、という経済評論をエコノミスト連が盛大に繰り広げました。
そんな馬鹿騒ぎまでもが演じられたのです。
もうすでに20年近くも前の出来事になってしまいましたが、このバブル期における(平均的な)日本人の経済心理はまさに熱に浮かされていました。
今は1億円の土地が当時は10億円で売買されていた、という調子だったのです。

 

75、昭和62年における(中曽根政権下の)「売上税」廃案と翌年における(竹下登政権下の)「消費税」騒動という事でした。
そうした間接税を中心とする税制は、福祉国家の継続の為には税源を薄く広くとらなければならないという事由から、世界の先進諸国が例外なしに採用しているところです。
しかも税率が北欧では20%、西欧では15%、アメリカや韓国では7、8%といった高さなのです。
ところがたった3%の日本の消費税が「世界に類例をみない天下の悪税」と指弾され、マスメディアもその線で騒ぎ立てたのでした。
おまけに、竹下首相がリクルート事件で退陣したあとの宇野宗佑首相は、口にするのも憚れるようなセックス・スキャンダルで2ヵ月足らずで辞任しました。
大衆社会状況も極まれり、といった惨状が平成元年に生じたのです。
これらを総称して戦後日本全体のバブル化と呼んでさしつかえないでしょう。
バブル現象に殉死するようにして、昭和天皇をはじめとして大戦中派の人々が社会の前面から姿を消していきました。
それはまさしく大戦後派として生まれたり育ったりした者たちが各界の指導的立場に就いていくのを、祝うか呪うかは解釈次第ですが、記念する出来事であったのだと思われます。


76、それ以上に深刻であったのは、バブル崩壊過程が自民党政治の瓦解過程でもあったという事です。
そればかりか、与党批判は政府批判に、とくに政府の中軸をなつ大蔵省批判に、拡大しておりました。
つまり政策の決定主体が大いなる動揺に見舞われたのです。
したがって、バブル崩壊に敏速果敢に対応できなくて当然であったと言う他ありません。
それに追い打ちをかけるようにして、平成7年には、「阪神淡路大震災」という自然現象、「地下鉄サリン散布事件」という社会現象、そして「1ドル80円弱の円高最高値」(による輸出不振)という経済現象などが出来しました。
それは、まさに、バブルにまだ悪酔いしている日本人に天罰が下ったのか、といった趣の時代風景でした。


77、平成の初頭の政治において忘れられないのは、(平成5年に)「55年体制の崩壊」が生じた事です。
たしかに、自由民主党という与党と日本社会党という野党とが選挙と議会において対峙するという構図は、日本新党や新政党や新党さきがけなどの出現で崩れ去りました。
それ以後、細川政権や羽田政権が短命で終わったのに続いて村山(自民・社会・さきがけ)内閣が誕生し、それ以外の諸野党は新進党に合流し、更にその新進党は(社会党を解体させつつ)民主党自由党に分かれていきました。
そして平成8年には橋本内閣が生まれ、それがやがて(公明党と連立しつつ)小渕内閣森内閣そして小泉内閣へと引き継がれて現在に至っているわけです。
要するに、政変がめまぐるしく立て続いたという事です。
その間に政治資金規正や小選挙区制導入が行われた事は指摘するまでもありません。
この過程から、日本の政治思想にとって、何か意義ある変化を汲みとれるでしょうか。
はっきり言って絶無なのです。
唯一はっきりしているのは、「自由」の意味も「民主」の意味もこれまで以上に曖昧模糊となったという事です。
あとは、ただ、(主として小選挙区における、選挙戦に絡む)人脈の離合集散が果てしもなく継起するという事だけなのです。
自由主義には二つの流れがあります。
一つは、伝統の流れに棹差そうとする保守的自由であり、もう一つは変化の流れのを生起させようとする革新的自由です。
与野党を問わず、平成の政治に顕著なのは保守的自由の消滅と革新的自由の跋扈という事です。
このようにして「保守と革新」という対立が無くなってしまいました。


78、「55年体制の崩壊」、それは「政治の死」だったのです。
少なくとも、政治とは「価値観に基づいて未来への予測と決断について議論すること」だとすれば、政治はアブレゲールたちが投票所と議事堂を占拠して以来、存在していないのです。
今、政治とよばれているのは、政府官僚が作成する技術的処方箋をめぐって、微小な長所を誇大に宣伝し、僅少な短所を大迎に批難してみせる事だけだと言って過言ではありません。


79、何か悪いものを批判しているようだ、何か面白いものが出現しそうだという雰囲気、それがマスメディアの受け入れるところなのです。
そのように受け入れられる政治家が大衆の代理人となりうるのです。
それ以上の説明は要りますまい。
マスクラシー(大衆政治)が平成の御世になって揺ぎ無く確立されたという事です。


80、つまり、「過去の行為」が問題とされている時に、「未来への行為」を問題にしてみせる、というバイソシエーションが大衆政治にあって日常茶飯なのです。
保守思想が政治の世界から消え失せた、という事を一点の曇りなく知るほかありません。
自分の政治的言動を伝統の精神によってリフレックスする、それが保守思想の神髄です。
「現状維持」は保守思想の本来のやり方ではありません。
それにもかかわらず、政治改革とやらの進展が「1億総保守化」と称されています。
1億が総革新化しているのが現状であるのに、それを総保守化と呼ぶのです。
保守思想がこの国でどれだけ歪められてしまったか、あるいは(アメリカと同じく)国民の歴史感覚がどれだけ薄められてしまったか、をよく物語っていると言えます。


81、こうした民主主義の危険に関する歴史の教訓を一顧だにしなかった事の結果、ロシアは、まずマフィアの横行を味わい、次にプーチン独裁(および秘密警察KGBの復活)へと移行しようとしています。
スターリンやブレジネフの独裁よりもプーチンのそれのほうが質が良いのではないか、という議論ももちろんあります。
しかし、民主化と独裁化を単に対立項として位置づけるという浅はかな政治思想が見逃されてよいわけがありません。
社会主義からの斬新的な撤退を図ったのは鄧小平・江沢民によって率いられた中国でした。
彼らの中国共産党は(1989年の学生を中心とする民主化運動としての)「天安門事件」を戦車で鎮圧したあと、翌々年から「改革開放路線」へと進み出ました。
つまりソ連とは逆に、経済改革を先行させて、政治改革は後回し(もしくは無期延期)にしたのです。
しかし、共産主義政党が資本主義、市場主義、競争を指揮するというのは大いなる矛盾です。
それは中国共産党の正当性を根こそぎにする事態です。
中国共産党は、自国の「4千年の歴史」とやらを階級支配の連続と断罪してきました。
つまり、歴史に自らの正統性の根拠を見出せない、それが中国共産党の掲げようとしている愛国主義の矛盾なのです。
いずれにせよ、抗日に正統性を求める中国共産党愛国主義は、「反日」の体裁をとらずにはおれません。
その意味では、1990年代における江沢民の「反日教育」は、中国共産党としては、理に適っていると言えましょう。
愚かしかったのは、その間、中国を商品・資本の輸出先としかみてこなかった我が国の政治家、知識人、経済人のほうです。


82、そうした因果関係も確かにあるでしょう。
しかしそれ以上に重要なのは、「金銭以上の価値」を中国人が探しはじめた、ということではないでしょうか。
分かりやすく言うと、物質的価値が一定程度に満足されたら、どんな国民も精神的価値を求めるのであり、そして中国人にとって今最も手っ取りば早く手に入れられる精神的価値は愛国=反日=正義の観念なのです。
そうと見通せば、日本の国家(国民とその政府)がなすべきなのは、あの大東亜戦争についての謝罪ばかりではないはずです。
謝罪ならば、今上天皇が(平成4年の)「中国訪問」で「中国国民に多大の苦難を与えた事は私の深く悲しみとするところ」と述べた事を含めて、何十回も繰り返されております。
あの戦争の「真実」について日本国家は語るほかないのです。
その語り口は次のようなものになるでしょう。
「あれは根本的には、”白人諸列強からのアジア解放”の戦争であり、”日本国家の自衛線を予防する”ための戦争であった。
しかしその解放後に、”大東亜共栄圏の八紘一宇”が成立すななどという空理空論をふりかざした為、アジア諸諸国のナショナリズムパトリオティズムの重みを軽視する事になった。
また日本国家の”自存自衛”と称して相手国の民族・愛国主義を軽視する事も少なくなかった。
そのせいで、いくら侵略が法律的に許容されていた帝国主義の時代とはいえ、道徳的に許されざる侵攻作戦を多々展開した事は認めるほかない。
しかしそれにしても中国側の発表している(”南京大虐殺”をはじめとする)”侵攻”の事実なるものは誇大であったり歪曲されたりしている事が多い。
日本国家がこれからのアジアに期待するのは真の国際主義である。
つまり各国家の”ナショナルなもの”に互いに敬意を払った上で(協調と反発の相克のなかで)国際ルールを不断に改変していく国際的活動、それ自体がアジアを独得なる地として世界のなかに位置づけるのだ。
その過程で誤解が生じ、たとえば”日本製品不買運動”が起こる事もあるのだろうが、それは”謝罪”に屋上屋を架したとてどうにもなるものでもないので、日本国家は粘り強くあの戦争の”真実”について語っていく。
我々が看過してきた事実や論点がある場合には、それらを筋道を立てて述べてほしい。
それで我らに落ち度があった事が新たに判明したなら新たに謝罪するのに断じてやぶさかではない」。


83、バブル崩壊のなかでのアメリカ式の構造改革論の流行、それは戦後の日本人が国家の観念をほぼ最終的に放擲した事を意味するのではないでしょうか。
実際、1990年代をロスト・ディケイド(失われた10年)と呼ぶのは、構造改革を実行しなかった事ではなく、構造改革によって日本国家の何たるかを見失ったという意味だと解釈しなければなりません。


84、1989年、「ベルリンの壁」が撤去されたのに象徴されたように、東欧諸国で社会主義からの離脱が開始されました。
翌年には、東西の両ドイツが統一され、更に翌々年には、ゴルバチョフ書記長の率先で「ペレストロイカ」(改革)を遂行してきたソ連共産党解散され、続いてソ連邦そのものが消滅するに至りました。
つまり我が国の戦後第4期は「冷戦構造の解体」という世界状況のなかに放り込まれたわけです。
そして世界について議論すべきは、世界に対する覇権がアメリカへの一極集中になるのか、(1991年にい結成されたEUつまり欧州連合によって統一されつつある)西欧、ロシア、中国、日本なども並走する多極分散となるのか、それだけだという事になっていきました。
もう一つは(1991年の)ソ連共産党解散です。
「解放」それ自体が過誤だというのではありません。
解散のあとにいかなる社会秩序を作り上げていくかについて、ゴルバチョフらは、何の展望も持っていなかったばかりか、何一つ検討してもいなかったのです。
人間の社会は、抑圧体制をかろうじて受け入れる事ができても、無秩序状態が続くのには耐えられません。
つまり無秩序のただなかから専制が登場するのです。


85、1990年夏、イラク軍がクウェートに侵攻し、翌年初め、アメリカ軍を中心にして編成された多国籍軍が反撃して、1ヵ月余でクウェートを制圧しました。
これがいわゆる湾岸戦争です。
その間、我が国は、多国籍軍への「後方支援」のほかに、総計で1兆7千億円余の資金援助を行い、更に湾岸問題終結の2ヵ月後に、自衛隊ペルシャ湾に「掃海」の目的で「海外派遣」されました。
ただし、「戦闘への参加」は禁止されており、「後方への支援」だけが許容される、というのが我が国の(自衛隊の海外派遣をめぐる)憲法解釈でした。
したがって、、「派兵」という言葉を使う事も注意深く回避され、「派遣」という言葉が選ばれたのです。
思えば奇妙な解釈です。
憲法の第9条第2項(戦力不保持と交戦権否認)は死文だ、とみるほかありません。
「交戦可能な戦力」としての自衛隊が存在し、そしてその存在が(自衛隊法などによって)長きにわたって公認されている以上、そうなのです。
そうならば、第9条第1項(侵略戦争禁止)のみが有効なのであって、侵略戦争に非ざる戦争ならば、つまり自国の自衛や自国周辺の防衛や国際秩序の保持の為の戦争ならば、戦争への参加が許されるはずなのです。
しかし「第2項」に含められている平和「主義」の雰囲気が物をいって、自衛隊の戦闘参加は禁止という憲法解釈が下されて現在に至っている次第です。
この憲法解釈が日本を「卑怯者」の立場に追いやる事について発言している者がほとんどいないというのも奇妙です。
後方支援を行うという事は、前方活動(戦闘)に「義」があると認めたという事です。
そしてその戦闘に参加しないという事は、義戦は、犠牲が伴うので他国の軍隊にやらせる、という意味になります。
これが卑怯者の言い分でなくて何でありましょうか。
湾岸問題は、日本が卑怯者の国家である事を国際社会に公表する場となってしまった、と言ってさしつかえありません。
ましてや、自衛隊派遣は格好づけにとどまっていて、日本が実質的に行ったのは巨額の資金援助という事だったのですから、クウェートの「感謝状」の相手に日本が含まれていなかったのは当然と言わなければなりません。


86、ましてや、国連憲章(の第107条)には「敵国条項」というものがあって、第二次世界大戦中に連合国がわが枢軸国がわに対して為した行動はすべて免責、と規定されているのです。
そんな国連を崇めんばかりに尊重するということそれ自体が、日本としては、自立心・自尊心の欠如に当たると言わなければなりません。


87、湾岸戦争は、国際秩序の何たるべきか、アメリカへの一極集中は可能なのか必要なのか、について日本の国家(国民と政府)が正面から議論すべき絶好の機会でした。
しかし国際貢献とか国連中心とか対米協力といった曖昧な美名によって、黙々と金銭を供出し自衛隊員に機雷を除去させた、それだけの事に終わってしまったのでした。


88、1992年、経済不況に悩むアメリカで、ジョージ・ブッシュが大統領選で敗れました。
なぜ、湾岸戦争勝利を誇る共和党のブッシュが民主党ビル・クリントンの前に敗退したのでしょうか。
フセイン打倒にまで踏み込めなかった事に「弱虫」とのレッテルが貼られるという、いかにもアメリカ的な世論の動きがありはしました。
しかしそれ以上に、国内における失業問題が深刻で、その解決の為に「チェンジ・ナウ」と訴えたクリントン候補が新鮮な魅力を振りまいたという事なのでしょう。
クリントン政権の8年間、アメリカ経済は徐々に活気を取り戻し、その後半では、ついに「アメリカの1人勝ち」という状況が世界経済に出現しました。
欧州は、ソ連・東欧の崩壊からくる混乱のなかで、いまだEU(による統合)の成果を挙げられず、日本もバブル崩壊の処理にはなはだ手間取っていました。
それが世界経済の背景でしたから、アメリカが、それまでの30年に及んだと言う事もできる長期停滞をくぐり抜けて、設備更新の時期に入っていたという事もあって、1人勝ちの体制に入ったのは当然でした。


89、世間ではあまり指摘されていませんが、確認しておくべき重要な事柄がいくつかあります。
第一に、IT革命なるものによる経済の情報化は、ステート・キャピタリズムとして進展させられたという事です。
ここで「政府主導」というのは「政府介入」の事ではありません。
政府が宇宙開発事業などで蓄えていた技術を民需に転用させ、そしてITによる資本支配を国内外に広めやすくするよう経済制度を改変するという事です。
つまり、アメリカの唱導してきた自由経済は決してレッセフェールではなかったのです。
そのことの系として、第二に、世界経済の「ブロック化」もまたアメリカ国家の意志によって推進されました。
(1993年の)NAFTA(北米自由貿易協定)がそのよい例ですが、「モノと情報」における自由取引圏をアメリカ政府の主導で国際的に形成していくという事です。
第三に、IT革命は各国のメディア界に及ばないわけがありません。
したがって、それは各国の文化にも多大な影響を与えます。
つまり、コンピューター処理の容易な、文字通りにイン・フォメーション(型に嵌められた情報)ばかりが各国の社会の上にばらまかれるという事です。
IT革命は「文明のアメリカ化」を随伴しています。
またそうであってはじめて、アメリカ流の自由経済が世界に拡張していく事も可能になるのです。
こうした事態が総称されてグローバリゼーションと呼ばれました。
ブローブとはまず地球の事であり、一般的には「広域」の事です。
したがってそれはインターナショナルとは決定的に異なっています。
国家間の差異を消減させて、何らかの基準を広域に通用させる、それが広域化であり、その果てが世界化という事になります。
グローバリズム=アメリカニズム=イムペリアリズムというトリニティがクリントン政権下で打ち出されました。


90、かつてエドマンド・バーグが「人間の権利が何であるかは理解不能だが、国民の権利ということならば同意できる」と言ったのはその事をさしています。
ライトとはまずもって「権理」なのです。
つまり、各国の歴史に基づく「理」があって、それによって「権」ったところ、「為してもよい」(自由)とされる事が「権利」なのだとしなければなりません。
歴史感覚の乏しいアメリカ人には、その事がよく分からないのです。

 

91、前世紀末に必要であったのは、世界主義ではなく、「高度な、あるいは複雑な国際主義」の具体的な進め方についての論議であり実践であったはずです。
自分を世界だと思い込んでいるアメリカは、そしてアメリカを世界だと信じ込んでいる日本も、その努力を怠りました。
まことにグローバリズムは「型に嵌められた」情報の見本であったというしかないようです。


92、新世紀が始まったまさにその年、いわゆる「9・11テロ」が、ハイジャックした航空機をつかって、ニューヨークの世界貿易センター・ビルとワシントンDCのペンタゴンとを襲いました。
確かな証拠はないものの、というより情報捏造の証拠が次々と挙がっている始末なのですが、国際テロ組織「アルカイダ」の為出かした事だと(アメリカでは)みなされています。
死者は結局のところ3千人程度にすぎないと判明しました。
しかし、他国を幾度も武力攻撃した事はあるものの自国を大がかりに襲撃されたことのないアメリカ人にとってこれは驚天動地の大事件でした。
アルカイダの最高指導者オサマ・ビンラディンがそこに潜伏しているとみなされていた(アフガニスタンの)タリバンつまり「神学生」の率いる勢力にアメリカが攻撃を加えるに際し、日本の政府は即座に「後方支援」を申し出て、続いて日本の議会は「テロ対策特別措置法」を可決しました。
アメリカは、「アメリカと国際テロリスト・グループ」のいずれに味方するのかと各国に問いかけました。
そして、(今のところ)最大の国際協議機関である国連の決議に縛られるつもりはない、との態度に出たのです。
アフガン侵攻の段階ですでに「アメリカの単独情報と単独判断」に基づく「予防的先制攻撃」の戦略が鮮明に打ち出されていたと言ってよいでしょう。
いずれにせよ、国際テロリスト・グループの解体という所期の目的は達成されなかったのではないでしょうか。
ひょっとしてそのグループの拡散・拡大をすら招いたのではないか、という疑問が残されたままです。


93、いや、そうしたブッシュ戦略には唯々諾々と追随していくのですから、小泉氏にあって宥和と武断の区別すらが不明瞭といういう事なのでしょう。
翌年の3月には、「大量破壊兵器がないことを自ら証明してみせるという責任をフセイン政権は果たしていない」との口実で、アメリカはイラクへの武力攻撃に踏み切ったのです。
それに諸手を挙げて賛成したのも小泉政権であったのです。
予防的先制攻撃も自衛の一種である、という考え方それ自体は、かなりの程度に、頷けるものです。
相手の先制攻撃を拱手傍観しているわけにはいかぬ、という言い分を誰しも頭ごなしに否定する事は出来ないでしょう。
しかし予防的先制攻撃が侵略ではなく自衛である為には、相手に侵略能力と侵略意志と侵略準備がある事が証明されていなければなりません。
完全な証明などは不可能ですが、国際社会が納得できる程度の証明がなければ、「予防の必要」というのは単なる猥疑に基づく単なる言いがかりという事になってしまいます。
アメリカは、それを証明するのはイラクの責任との理屈立てで、国連(多数派)の制止を振り切って、イラク攻撃に及びました。
しかしその理屈立てが完全に間違っているのです。
核兵器や生物化学兵器などの大量破壊兵器を自分が所有して「いる」事を証明するのは容易ですが、それを所有して「いない」事を証明するのは、どだい、不可能なのです。
なぜなら、そうするためには、考えうるあらゆる事態について「悉皆調査」をしてみせなければならないからです。
こんな馬鹿げた要求をイラクにつきつけたという事だけでも、アメリカの知的水準がいかに低くなっているかが分かります。
またその馬鹿さ加減を暴露できなかったのは、現代人が迷妄に陥っている事の証という事なのでしょう。
結局、それから2年ばかり経って、アメリカ議会の独立調査委員会が、「イラク大量破壊兵器を持っているという情報は、”すべて”間違っていた」と公表しました。
実は、そんな発表を待つまでもなく、「予防の必要」についての証拠を完全に欠いたこの先制攻撃は侵略であったのです。


94、しかし、小泉首相は、もし日本の世論にしてアメリカのイラク侵略に非を鳴らす健全さがあったならの話ですが、次のような事くらいは言えたはずなのです。
「何の証拠もないイラク侵略には加担するな、とうちの世論は騒いでいます。
もう少し確かな証拠と論拠を示して下さい。
そうすれば、うちの世論を説得して、後方支援はおろか前方(戦闘)活動にも自衛隊を派兵してみせます」。
実際に行われたのは、侵略開始の4ヵ月後に「イラク復興支援特別措置法」を作って、例によって「非戦闘地域」へ自衛隊を派遣するという事でした。
自衛隊も情けないものです。
「こんな義のない戦争に部下を送り込むのは軍人の名折れだ」と言って辞任してみせた自衛隊幹部は1人もいなかったではありませんか。
こんな経緯のなかで、日米のアライアンスの強化ということだけが宣伝されています。


95、そもそも、「安全と生存」を第一義とする者には軍事について語る資格がありません。
なぜなら「戦争」とは、たとえ自衛のものであっても、自分の安全を危ういものにし、自分の生存を不確かなものにする営みの事にほかならないからです。
したがって、事あるごとに「安全と生存」を叫び立てるような国家をアメリカが守ってくれるはずはない、と見込まれます。
かつてニクソン大統領の補佐官キッシンジャーが中国の周恩来に言ってのけたように、「アメリカの核兵器は、アメリカを守るためのものであって、日本を守るために使われる事はない」のです。


96、しかも、「隣国が中国という仮想敵国である」という「地政学上の理由」でアメリカに追随すべし、と親米派は主張したのでした。
地政学を盾にして「不義の戦争」に加担し、罪咎のない他国民を10万の規模で殺戮するのも構わない、と彼らは宣言したのです。
恐るべき不道徳な思想というべきです。
しかも政治家も外交官でも軍人でもない、知識人にすぎない自称保守派の人士がそういう不徳を公言したのですから、日本の言論も落ちるところまで堕ちたと言うほかありません。
せめてそう自嘲するのでなければ、日本人という名称が意味をなくし、日本人はアメリカの第51番目の州人なのだ、という事になってしまいます。


97、また、歴史感覚の乏しいアメリカで、ナショナリティが順調に生育するわけもなく、その事がステーティズムに傾く根本原因となってもいます。
「世界の工場」となりつつあるもう一つの大国、つまり中国はいうまでもなくステーティズムの国です。
なぜなら、その国は中国共産党の独裁の下に、今、「改革開放」の路線をひた走っているのですから、ステーティズムになるほかないのです。
加えて、民族や言語が50を上回るという事のほかに、過去を階級支配の歴史とみてそれをトータルに否定すると構えるのが共産主義だったのですから、中国人たちのナショナリティも成熟のしようが無いのです。
ロシアにとておおよそ同様の事態が進んでいます。
プーチン独裁体制は、世界第1位の産油国になるという背景のなかで、資源戦略をユーラシア大陸に張り巡らそうとしています。
中央アジアなどへの軍事戦略についても怠りがないようです。
さらに広くみて、中華帝国の圧力を受けている東南アジア諸国が、その圧力に抗するには、ステーティズムを発揮せざるを得ません。
中近東でもイスラエルの圧力に対抗するために、アラブ諸国がステーティズムをこれまで以上に強化するのも当然です。
アフリカ諸国も打ち続く部族抗争のなかでステーティズムにのめり込まざる得ません。
我が国とて、実は、ステーティズムへの偏りを強くしているといってさしつかえありません。
規制緩和によって自由競争が深化しているというのは一面の真実にすぎません。
自由競争の結果として生じる様々に新たな混乱を収捨すべく、旧来よりも多い細かな規制が次々と必要になってきます。
その規制はステーティズムによって遂行されるほかありません。
政府官僚の主導を排せ、という騒がしい改革運動の結果はといえば、政府主導の更なる強化という皮肉な事態をもたらしているのです。
このように眺めてくると、世界はステーティズム(政府主導主義)の時代に入った、と判断してよいかと思われます。
それはナショナリズムの台頭とは似て非なるものです。


98、しかし、ステーティズムにおいて後れをとっているのみならず、それに長期展望を委ねるのは「物作り」にとって危険だととらえる我が国の経済では、企業の長期の見通しは経営者が切り開かなければなりません。
そこに株主資本主義を持ち込んで経営者の役割をないがしろにする事になったら、理論上は、アメリカにおけるよりはるかに徹底的に企業を破壊する事になるのです。


99、こんな単純な道理をわきまえられなくなったのは、やはり、アメリカ流の市場主義がいわばイデオロギー(固定化された観念の体系)として我が国の経済人およびエコノミストの精神を呪縛しているからだと思われます。


100、人々は、かつて、金や銀に対して「経済的価値の尺度」であるという共同幻想を抱いていた。
その幻想はおおよそ崩れ去った。
だが、その種の共同幻想がなければ経済社会は安定しない、安定不可能な(市場という)制度は晩かれ早かれ消滅する。
何が今の市場経済における価値尺度の共同幻想を支えているのか。
国家である。
もしくは宗主国である。
権威ある国際機関だという説もあるだろうが、国際機関は各国の代表によって構成されるのであるから、結局は国家が共同幻想を保証してくれるという事になる。
ところが、国家を否定して共同幻想を破壊するのが近代の病理ともいうべき個人主義である。
個人主義の精華である資本「主義」は、その精華に共同幻想を麻痺させる毒素が大量に含まれているため、やがて衰弱死に至り着く。


101、公心は人格心(に基づく自発的な価値表現)と規律心(に基づく閉鎖的な自我意識)と帰属心(に基づく受動的な服従態度)とから成ります。
前者が薄まり後者が濃くなるのがプライヴァタイゼーションにほかなりません。
私民の活力なんかは、人格と規律(価値と規範)に欠けている為、所詮自己のうちに自閉したり他者の命令に追随したりするだけの事なのです。
革命(大変化)を期待する心性そのものが活力において不足している事の現れである事に気づくべきではないでしょうか。


102、人間精神の活力は、むしろ、おおよそ同じ事を「反復」する行為に見出されます。
反復が可能なのは、その対象にゆるがせに出来ない意義があると考えればこそです。
また反復のなかにおのずと生じてくる微妙な差異に格別の意味があると思えばこそなのです。
換言すれば、物事を「保守」する事に活力の上昇を感じ、それを「革新」するのは活力の低下を覚える、という事です。
いうまでもありませんが、私心が悪くて公心がよい、などと言っているのではありません。
人々は集団のおかれた状況のなかで「議論」しなければならないのです。


103、IT革命は「思索と議論」を深めるのに貢献しているでしょうか。
逆です、断片情報は思索に中断を強いる、情報の急速伝達で議論に打ち切りを迫る、それがIT革命なのです。
あらゆる思索が明瞭さと力強さを失って単なる屁理屈と化し、すべての議論が真摯さと活発さを失くして単なるお芝居に落ちています。
この文明の堕落を表象してくれているのがデモクラシーならぬマスクラシーなのです。
マスクラシーは、右手に(疑似大衆化した)専門人の為に新聞・テレビ・雑誌などのマスメディアを、左手に(疑似専門人化した)大衆人の為に携帯電話やパソコンなどの最新のITを携えています。
そして、大衆人とスペシャリストの連合軍に敵対する一切の勢力を殲滅すべく、大行進中であります。
「馬鹿は死んでも治らない」と言えばそれまでですが、そんな時代に生まれてくる子孫には、如何ともし難く、同情を寄せざる得ないのです。


104、アジアでは、言語、宗教および習俗における共通性が(世界の他地域と比べて)弱いと言ってさしつかえありません。
そういう地域には、国家間の利害調整機関としてのアソシエーションを構想する事はできても、コミュニティを作ろうというのは無理難題だと言ってよいのではないでしょうか。
しかも、アジアのなかで牽引車の役割を果たすのは日中韓の3国です。
まさにその3国が、東アジアにおいて、「歴史認識」をめぐって相争っています。
つまり中国と韓国では、「反日」の動きがこれからも続くでしょう。
今年(2005年)の3月から4月にかけて、特に中国において、反日騒動がこの大陸の東西南北に広がった事は記憶に新しいところです。


105、「罪」の概念は、特に東アジア一帯においては、「他人の恨みを買うこと」を含みます。
中国の恨みは、日本が国家として存続するかぎり、決して消えも弱まりもしないのです。
したがって、日本が国家として謝罪を繰り返したとて、中国側の恨みがかえって内攻するだけという事になりかねません。
しかし、第一次世界大戦あたりから、日本がアジアに「権益」を求めて、侵略とよばれて致し方ない政治および軍事の行動に入っていった事は認めるほかありません。
侵略を受けた側が、第二次世界大戦後に普及しはじめたものではありますが、「侵略は悪」という国際「道徳」に基づいて、日本の旧悪を断罪するのには、もちろん謝罪をもって応じなければならないのです。
しかし、謝罪を通り一遍の外交辞令に終わらせない為にも、侵略の「具体的」な姿を明らかにする必要があります。
中国民衆の生命の犠牲が(かつては300万と言われていたのに)3500万というのは膨張の度が過ぎる事、南京大虐殺30万というのも甚だしい膨張である事などについて、日本国家は何らかの公式の場で中国に抗議しなければなりません。
それが中国の反発を招くとしても、嘘や膨張の上に友好は成り立たぬと知るべきです。


106、ただし、東京裁判戦勝国による敗戦国への「みせしめの儀式」であった事は確認しておくべきですし、したがって靖国神社における「A級戦犯」の合祀は必ずしも不当ではないと日本は主張すべきです。


107、日本が真に謝罪すべきなのは、自国のナショナリズムつまり国民主義(およびそれに基づくステーティズムつまり政府主導主義)のみを大事として、相手のそれを単に排撃すべきものとみなした、そして次第にショーヴィニズムつまり排外主義へと近づいていった、という事についてだと思われます。


108、また、中国が日本を侵略するといった空想的な事態ならばともかく、経済外交や文化外交において日中が対立したとき、アメリカが日本を応援してくれる保証はどこにもないのです。
それどころか、「台湾が中国の手に落ちる」という決して空想的ではない近未来の事を想定したとき、いわゆる「シーレーン」の安全は米中の両覇権の妥協によって保証されるという事にすらなりかねません。


109、これから立て続くと思われるそうした(自虐せざる得ない)惨めな国情は、日本人の自尊心と独立心を次々と剥がしていくでしょう。
そしてついには、それ以上に自尊心を失ったらこの1億3千万の民人はもはや日本人とはいえないという、いわば日本人の精神の岩盤が見えてくるでしょう。
そうした予感が国民規模で広がっているせいでしょうか、戦後日本人の精神の支柱とされてきた日本国憲法および教育基本法の改正に関する論議が、国会でも世論でも、少しずつ熱を帯びてきているようにみえます。
その意味で、日本の国家は危機感を抱懐しているのであり、それだけでも日本国家の未来に望みがなくはないと言っておくべきかもしれません。


110、つまり、日本国憲法の草案がGHQによって書かれ、教育基本法がアメリカの教育使節団により実質的には指示された、という事の意味が親米保守には分からないのです。


111、また、アメリカのイラク侵略に簡単に肩入れ出来るはずが無かったのです。
そんな愚かしい事態になっているのは、我が国民が自国の核武装の是非を、本気で考えた事が無いからでしょう。
アメリカによる核の「持ち込み」で日本は半ば核武装されているにもかかわらず、「核は絶対の悪」と断じるのみで、あとは思考停止、それが新世紀日本人の精神状態であり続けてきました。
もし日本が自力で核武装するとすれば、少なくともその可能性について考慮するときは、NPT(核不拡散条約)から一旦は脱退しなければなりません。
また核はあくまで戦争抑止(という自衛行動)の為と言ってみても、予防的先制もまた自衛の一種なのです。
そして予防の必要を判断する場合、アメリカのイラク侵略にみられたように、誤算が生じるかもしれません。
誤算で他国民を大量に殺してよいわけがありません。
そこで、「核を予防的先制につかってはならぬ」、「核はあくまで、核攻撃を受けたあとの、報復としてのみ用いられる」と憲法に明記する、という事になるかもしれません。
いずれにせよ、対米にせよ対中にせよ、「自主防衛」の構えなき外交はほとんど無効です。
そうなのだという事を示す事実が眼前に次々と現れているのに、我が国の首相は軍備の削減を公表しているのです。
それに日本国民は何の異も唱えてはおりません。

 

開成高校時代から読んでいた西部さんの著書は全てこれで読破しました。

あとは哲学者の柄谷行人氏、国際政治学者の三浦瑠麗氏の新刊を待つばかりです。

三浦瑠麗氏は僕と同じく、東大の「理一」です。>