哲学者の柄谷行人 『帝国の構造 中心・周辺・亜周辺』を読んで。

(この本は2014年に書かれたものです)


1、国家は共同体が拡大しそこに階級対立が生じたときに生じるといわれます。
しかし、一つの共同体の中では、いかに発展や対立が生じても、それを抑える互酬性のメカニズムが働きます。
したがって、先に述べたように、共同体の拡大は、首長制社会以上にいたることはありません。
国家が成立するには、共同体が他の共同体を支配するような契機がなければならない。


2、例えば、モンゴルの世界帝国は、中国からアラビアにいたるまでの大帝国です。
どうしてそれが可能だったかといえば、権力の上層部では首長制がとられていたからです。
モンゴルの世界帝国は、「元」をふくむ各地の帝国から成り立っていましました。
つまり、中国では元の皇帝としてあっても、世界レベルでは首長の一人にすぎない。


3、したがって、帝国の法は、根本的に、国際法なのです。
ローマ帝国の法は、ヨーロッパで「自然法」のもととなりましたが、それは本来、国際法的であったからです。
しかし、それはローマに始まったのではありません。
ペルシア、すなわちアジアの帝国に始まったのです。
世界帝国はどこでも、ローマ法のように体系的に明文化されていなくても、そのような法をもっています。


4、集権的な国家を実現するために必要だったのは、第1に、官僚制と常備軍は専制国家において生まれた。


5、ポランニーが指摘したように、ギリシアではコインを発行し、国家による価格管理をせず、市場に任せていました。


6、ギリシアにはデモクラシーがあり、それが専制国家ペルシアと対比されます。
しかし、それはギリシアが文明が「進んだ」段階にあったからではありません。
その逆に「未開」であったからです。
ギリシア都市国家では、集権的な国家に抗する氏族社会の互酬原理が強く残った。
ギリシアのデモクラシーといわれるものは、その結果です。
同時に、ギリシア文明は、アジア(メソポタミア・エジプト)の帝国の周辺にあったこともと切り離せません。
つまい、そこから多くのものを取り入れたことが大きいのです。
とはいえ、それを選択的に取り入れたことが、ギリシア文明を創ったといえます。
周辺部では中心に従属しますが、彼等は、そうではなかった。
私はそのように選択的態度が可能な周辺部を、「亜周辺」と呼びます。

 

7、では、「帝国の原理」とは何でしょうか。
それは多数の部族や国家を、服従と保護という「交換」によって統治するシステムです。
帝国の拡大は征服によってなされます。
しかし、それは征服された相手を全面的に同化させたりしない。
彼等が服従し献納しさえすれば、そのままでよいのです。


8、ペルシア帝国は規模においても、画期的なものです。
アケメネス朝は、黒海から中央アジアまで、インドからリビアにいたる、史上最大の版図を有する帝国を築いた。
彼等は、サトラビ(総監)という、交代制の州総監制度を設けた。
貨幣制度、度量衝の統一を施行した。
さらに、王道の建設、視覚伝信システムなどを作った。
更に重要なのは、ペルシア帝国で、法治主義が確立されたことです。
もちろん、それらすべてをペルシア帝国が創始したのではありません。
それまでメソポタミアやエジプトにあった国家のシステムを受け継ぎ、それらを集大成したのです。
それがヘレニズム帝国、ローマ帝国に受け継がれたのです。


9、このペルシア帝国を征服したのが、アレクサンダー大王です。
アレクサンダーは元来、遊牧民国家マケドニアの王子でした。
ゆえに、彼は、遊牧民が築いたペルシア帝国のあり方を素直に受け入れることができた。
また、軍事的にも、ギリシアの重装歩兵ではなく、重装騎兵隊を駆使して他を圧倒しました。

 

10、ローマは最初、ギリシアと同じようなポリスでしたが、ヘレニズム帝国、というより、それに先行するペルシア帝国の原理を受け入れたとき、初めて帝国と成り得たのです。
ローマ帝国では、先に述べたように皇帝といっても、元老院で選ばれて命令権を与えられた者でしかありません。
それは君主というより、遊牧民国家のハーンに近かった。
したがって、複数皇帝制がとられた時期もあるし、東西に分けて統治するということも当然のように受け入れられた。
ローマ帝国が世界帝国であったといえるのは、この時期までです。
しかし、ローマ帝国はその全盛期において、西方ではヨーロッパに版図を広げたものの、東方ではそれができなかった。
隣接するパルティアに対して戦争では勝ったが併合することはできなかったし、パルティアに代わって興隆したササン朝ペルシアに押し戻されてしまった。
その意味で、アレクサンダーの世界帝国はいうまでもなく、ペルシア帝国の版図を後継することもできなかったのです。
一方、西方でもゲルマン民族の侵入に悩まされるようになった。
したがって、3世紀から4世紀にかけて、ローマ帝国の膨張は終わった、ということができます。
同時に、その時期からローマ帝国の没落が始まったのです。
したがって、ローマ帝国の滅亡に格別の謎はありません。
どこでも世界帝国はこのようにして滅亡したのだから。
しかも、ローマ帝国は東部では滅亡せず、1453年オスマン帝国にとって代わられるまで存続したのです。
西ローマ帝国は476年ゴート族の侵入によって滅亡しました。
一方、東ローマ帝国は存続しましたが、多民族の宗教、慣習、学問に対する寛容さを失ってしまいました。
帝国はかたちの上で存続したとはいえ、もはや「帝国の原理」をもたないものとなったのです。
他方、西ローマ帝国の地域では、政治的な次元で「帝国」が復活することは二度となかった。

 

11、くりかえすと、西ローマ帝国の滅亡後、ヨーロッパには帝国が成立しなかった。
もちろん、フランク王国シャルルマーニュローマ帝国皇帝となったし、その後には、神聖ローマ帝国がありました。
しかし、これらはローマ教会の主導性なしにはありえなかったのです。
実際には、多くの王や諸候が独立した競合的に存在していました。
皇帝は有力な諸候によって選ばれるものでしかなかった。
西ヨーロッパが一定の同一的な輪郭を保ちえたのは、政治的な国家としてでなく、教会と法によってです。
その意味で、帝国はローマ教会として残ったのです。
西ヨーロッパでは、ローマ帝国を政治的に再建しようとする動きがナチスの「第3帝国」に至るまで止むことがなかったのですが、それは「帝国主義」にしかならなかった。


12、そのような春秋戦国時代を経て、秦の始皇帝による帝国が形成されたのです。
私が秦漢王朝と呼ぶのは、たんに広域国家だからではなく、この時期まで異質であった文明を統合したからです。
このことは、生産技術や軍事力というようなものだけでは不可能です。
この変化において重要だったのは、実は「思想」です。
そして、それを可能にした前提は、周王朝の時期に漢字が共通言語として用いられるようになったことです。

 

13、中国で諸子百家が輩出したのは、都市国家が争った春秋戦国時代です。
彼等は諸国をまわって、彼等の思想を説いた。
史料の上では、諸子百家の中で、孔子が最初にあらわれた人物です。
『老死道徳経』が書かれたのは、孔子よりはるかあと、前4世紀、孟子とほぼ同時代です。


14、その後に形成された漢王朝では、高祖は、都の長安周辺など重要地域には都県制を敷きながら、他方で、一族・功臣を各地に封じ、往来通りの諸候王国を作らせる、折喪敵な「郡国制」を実施しました。
奏帝国では、法家以外の思想は弾圧されました。
しかし、漢王朝儒教が公認され国家教学となったとき、それ以外のものを排除することにはならなかった。


15、漢の武帝がこのような儒教を国教化したことは、たんに漢王朝にとどまらない、画期的な意味をもちました。
漢王朝が前王朝で弾圧されてきた儒教を帝国の原理として採用したことは、数世紀後にローマ帝国でそれまで弾圧してきたキリスト教を国教としたことと類似します。
いずれも、帝国が存続するためには、「正義」が必要であった、ということです。
しかし類似するとはいえ、それらの差異もまた大きい。
儒教は宗教というより、根本的に官僚制と結びついた学問なのです。


16、したがって、一方で、中国史にもとづくとともに、それを越えて帝国を考える必要があります。
むしろ、それによって「中国史」も違って見えてくるはずです。
たとえば、中国史では、奏漢帝国隋唐帝国、元清帝国があった。
それらは様々な意味で、異質なのです。
しかし、そのことは中国史の内部だけでは理解できない。
すなわち、同時代の「世界」と切り離しては理解できません。


17、隋唐王朝でも仏教が隆盛しました。
特に唐では、キリスト教イスラム教、ユダヤ教などが入ってきました。
これは唐が世界帝国となったことを示すものです。
唐に関して重要なのは、何よりも、それが遊牧民国家であることを維持したことです。


18、こうして、トルコ系の匈奴やウィグルが帝国を築いた。
が、彼等は基本的に漢の周辺、つまり、草原地帯に留まっていました。
彼等は形式的に、漢の属国という扱いであっても構わなかったのです。


19、中国史においては、モンゴルは元王朝ということになります。
しかし、モンゴルが作ったのは元だけではない。
アラビア・ロシア・ヨーロッパに及ぶ世界帝国です。
元の皇帝フビライは、世界帝国全体のハーンとなったのです。
モンゴル帝国はアラビアまでとどく桁違いの大帝国です。
それは20世紀に到るまで続いたロシア帝国オスマン帝国イラン帝国ムガール帝国、などを生み出した。
清朝もその中の一つです。


20、もちろん、このような理念だけで征服戦争を行えるわけがありません。
モンゴルに関して、誰もが注目するのは、軍事力、特に騎馬による機動力です。
それは、駅馬による通信網も含みます。
しかし、それなら、他の遊牧民国家にもあったはずです。
では、それらを圧倒する力はどこにあったか。
それは、唐から得た数々の武器です。
その一つは、高性能の攻撃用兵器です。
もともと中国の国家は、騎馬の遊牧民に対して、歩兵によって対抗したのですが、その武器として弩を用いた。
弩は普通の弓より長射程・高威力です。
モンゴルはそれを用いて騎射する戦術をとった。
更に、西方では、攻城包囲戦専門の漢人部隊が編制された。

 

21、こうして、モンゴル世界帝国は{パクス・モンゴリカ」をもたらしました。
その下で、東南アジアからインド、アラビア、ヨーロッパに到る交易と生産の発展が可能となった。
ヨーロッパでも、ヴェニスなどのイタリアの都市国家が隆盛し「ルネッサンス」を享受できたのは、モンゴル帝国が作った「世界通商圏」の周辺にあったからこそです。
西ヨーロッパで「近代世界システム」が生まれてくるのは、それ以後の話です。
モンゴル世界帝国はジンギスカンチンギス・ハーン)とその息子たちによって作られました。

 

22、以上の4大ウルスは、のちに、それぞれ、清、ムガール、イラン、ロシアの帝国になっていきました。
それらに加えて、トルコ系が作ったオスマン帝国も、広い意味でモンゴル帝国の中に入れることができます。
それらに共通するのは、帝国の原理をもっていたことです。

 

23、イスラム教の帝国が中東に形成されたのは、アッパース朝においてです。
弱小部族のアッパース家は、非アラブのムスリムであったペルシア人の支持を取りつける必要があった。
そこでアラブ人の特権を否定し、すべてのムスリムと平等な権利を認めた。
それによって、初期のアラブ的国家から、信仰を中核とするイスラム帝国に転換したのです。
また、中央集権化を目指したアッパース朝は、自主性の強いムスリム軍を抑えるために、マムルークと呼ばれる奴隷軍人による常備軍を作った。
この結果、アッパース朝は、東西交易の発展によって繁栄し、首都バグダードは巨大な都市となりました。
また、ここで、アラビア、ペルシア、ギリシア、インド、中国などの諸文明の融合がなされ、学問が著しい発展を遂げ、近代科学に多大な影響を与えた、といわれます。
しかし、この帝国はその後、ヨーロッパからの十字軍の侵攻に対してはもちこたえましたが、1258年に侵入したモンゴルには、一撃でやられてしまったのです。


24、モンゴル世界帝国はたんに中国に新たな帝国をもたらしただけでなく、世界各地に新たな帝国をもたらした。
それは近世の世界を形成するものです。


25、フビライの時期に成立したモンゴルの帝国は、多元的複合的な世界帝国です。
それはフビライの死後分裂しましたが、1305年に再統合されました。
しかし、中国では元王朝が1368年に滅ぼされ、以後、他の地域でも帝国が崩壊しはじめた。
ゆえに、モンゴル帝国そのものは終わりましたが、ある意味では、その後も続きます。
というのも、近世の各地の帝国はすべて、モンゴル帝国に由来するといっても過言ではないからです。
それ以外にも直接・間接的にモンゴル帝国の影響を受けた帝国があります。
ロシア帝国もその一つです。

 

26、ロシア帝国をその後に生み出すような大きな変化は、1238年、ジンギス・カーンの孫であるパトゥー・ハーンの軍による征服です。
そこで「キプチャク・ハーン国」が作られ、以後、モンゴルによる統治が250年続きました。
この間に、中央集権的な体制が確立され、その版図も巨大化しました。
その下でハーンの支持によって強くなったモスクワ公国が、1480年、「キプチャク・ハーン国」を滅ぼした。
ロシア帝国はここに始まります。

 

27、ちなみに、西ヨーロッパの神聖ローマ帝国も帝国の原理をもっていません。
これはローマ教会によって作られたようなものだから。
が、そこから生まれたハプスブルク家の王朝にはむしろ、帝国的な性格があり、宗教的寛容もありました。
この王朝はオスマン帝国の侵入を阻止する任務をもっており、オスマンに対抗する過程で、逆にその影響を受けたのです。
その意味で、この帝国も、間接的ですが、モンゴル帝国によって形成されたといえます。
その後ハプスブルク家が作ったオーストリア=ハンガリー帝国には、多民族・多宗教が許容されたため、西ヨーロッパの諸国とは根本的に異なる状況が生まれました。
オスマン帝国は支配者がトルコ系で、モンゴル帝国とは別のものです。
しかし、広い意味で、モンゴル帝国を受け継いだといえます。

 

28、つぎに、モンゴル帝国の系譜にあるものとして、インドのムガール帝国をあげておきます。
ムガールはモンゴルを意味しますが、実際は、征服者はトルコ系であり、「トルコ人」と呼ばれていました。
また、ムガール帝国は、他のモンゴル的帝国に比べると、その規模が小さい。
実際、南インドには及んでいません。
以上、大まかにモンゴル帝国の末裔を各地に見てきましたが、最後に取り上げたいのは、清朝です。
明朝を征服して建国した満州族清朝は、当然、元を受け継いでいます。
つまり、清朝は、満州人部族を統合するとともに、モンゴルをふくむ遊牧民世界全体を統べるハーンとして、他方で、中国の王朝としての正統性をもとうとしたのです。
元朝は、アラビア、ロシアに及ぶモンゴル帝国全体とたえず連動していたので、外での事態から影響を受けましたが、清朝の版図は中国周辺に限定されていたからです。
また清朝が明朝に比べて、モンゴル、ウィグル、チベット地域まで版図を拡大したことは、奏漢から、唐、そして元へと、版図を拡大してきた中国の王朝の歴史から見ても、清朝に「正統性」を与えるものでした。

 

29、19世紀以後、このような世界帝国は西洋列強の隆盛の下で没落しました。
西洋中心主義な史観が支配的となったのは、その結果です。
その一つは、世界市場が16世紀の西洋に始まったという見方です。
たとえば、マルクスはこういっています。
『商品流通が資本の出発点である。
商品生産と発達した商品流通である商業とが、資本の成立する歴史的前提をなす。
世界商業と世界市場が、16世紀に資本の近代化的生活史をひらく』

 

30、そこから見ると、ヨーロッパにとって、1096年から1271年まで9度に及ぶ十字軍の遠征が旧来の世界を取り戻すきっかけになったということができます。
西ヨーロッパが経済的に興隆したのは、たんにその内部での生産力の発展によってではなく、その外の世界商業と世界市場に参入することによってなのです。
たとえば、イタリア諸都市の「ルネッサンス」はアジアとの帝国との交易によって可能になった。
ところが、オスマン帝国ができてビザンツ帝国を滅ぼしたため、ヨーロッパの諸国は、陸路ではアジアの通商圏に向かうことができなくなったのです。
そこで15世紀末、ポルトガルはインドへの道を、アフリカの喜望峰を経由するコースに求め、スペインは太平洋のコースに求めて、アメリカ大陸に到達したわけです。


31、たとえば、アダム・スミスは『諸国民の富』の中で、「中国はヨーロッパのどこと比べても、ずっと富裕な国である」と書いています。
さらに、中国の東部諸省および東インドへのベンガル諸州で、農業および製造業の改良が昔からなされていることを指摘しています。
スミスがそう書いたのは、1776年の時点、つまり、イギリスの産業革命の最中です。
ここから見ても、ヨーロッパには科学・技術的発展があり、東洋にはずっと「東洋的停滞」があったかのような見方が、この時期にはまだなかった、ということができます。
むしろ老子の「無為」という概念にもとづいてレッセフェールを説いた経済学者ケネーが示すように、中国の知に対する敬意が一般にあったのです。
このような見方は、19世紀になって急激に消えてしまいました。
西洋諸国が東洋の帝国を圧倒するようになったからです。


32、つまり、そのようにヘゲモニー国家が移動するということが、世界=経済の特徴なのです。
東洋が再び優位に立つとしても、それは世界=帝国の回帰ではない。
それはまさに世界=経済の圧倒的優位を意味するだけです。
この点を明確にしないかぎり、西洋中心主義を批判しても意味がありません。


33、帝国においては、都市は国家の首都です。
都市は政治的な中心であることによって、経済的な中心になるわけです。
たとえば、バグダードはサラセン帝国の時期に世界一といっていいほどに繁栄しました。
が、王朝が滅びると、すぐに没落した。
政治的な中心でなくなると、経済的な中心ではなくなるのです。


34、さらに、それらの間に競合があるため、中心は固定することなく、たえず移動します。
たとえば、世界=都市は、アンヴェルス→アムステルダム→ロンドン→ニューヨーク、といったぐあいに移動するわけです。
中心のたえまない移動によって、国家のヘゲモニーも移動します。
そこで、世界=経済では、ヘゲモニーをめぐるたえまない競争が生じます。
たとえば、ヨーロッパの中でも、ジェノアからスペイン、オランダ、さらにイギリスへと、ヘゲモニー国家の移動があった。
しかし、これはまだローカルなものでした。
つまり、世界=帝国の外に生じた現象でしかなかった。
それが決定的に違ってくるのが、まさに「1800年」の前後です。
端的にそれを示すのは、イギリスがインドを圧倒するようになったことです。

 

35、先に私は、西ヨーロッパは世界帝国の「亜周辺」にあり、自ら帝国を形成することはなかったと述べました。
しかし、ヨーロッパにおいても、旧ローマ帝国に近いところでは、帝国的なところがあります。
たとえば、神聖ローマ帝国ハプスブルク王朝にはローマ帝国の残影があります。
フランク王国を受け継ぐフランス絶対王政もまた、それに準じます。
一方、オランダやイギリスには、その要素がまったくなかった。
先ずスペインから独立した共和国オランダが、国際商業・金融を握ったヘゲモニー国家となり、つぎに19世紀にいたって、イギリスがヘゲモニー国家となった。
さらに、そのつぎのヘゲモニー国家は米国です。
その意味で、世界=経済の中心は、世界=帝国の亜周辺から、さらにその亜周辺へと移動しているといえます。


36、イギリス女王がインドの皇帝になったのは、イギリスを世界帝国とするためでした。
この結果、イギリスは海の帝国であるだけでなく、陸の帝国にもなった。


37、オスマン帝国は、1683年、第二次ウィーン包囲に失敗したのを境に衰退しはじめました。
また、1718年、セルビアボスニアの北部を失い、18世紀後半には、ロシア帝国の南下によって、黒海の北岸を喪失した。
しかし、オスマン王朝はそのような趨勢に対して手をこまねいていただけではありません。
1808年に即位したマムフト二世は、旧来の軍システムを廃止して軍の西欧化を推進し、外務・内務・財務3省を新設して中央政府を近代化させ、留学生を西欧に派遣して人材を育成しました。
さらに、次の皇帝、アプデュルメジト一世も、行政から軍事、文化にいたるまで西欧的体制への転換をはかった。
しかし、帝国が「近代化」するのは簡単ではありません。
「近代国家」は、そもそも帝国が存在しなかったところに形成されたシステムであり、その諸原理を帝国に適用することに無理があるのです。
帝国の弱体の結果、多くの民衆が独立を要求するようになりました。
この嚆矢は、ギリシア人の独立運動です。
1827年、ギリシア王国が独立しました。
その後も、エジプトやバルカンの諸民族が次々とオスマン帝国から自治ないし独立を獲得し、20世紀初頭にはオスマン帝国勢力範囲はバルカンのごく一部とアナトリア、アラブ地域だけになりました。
このようなオスマン帝国国民国家として統合することが課題となったわけです。
第一次世界大戦後に、第一次大戦後、「民族自決」のスローガンとともに、オスマン帝国は解体されました。
アナトリア地域では、ムスタファ・ケマル・アタリュルクの初代大統領とするトルコ共和国が成立した。
しかし、その他の地域は、民族自決といいながら、英仏の委任統治の下にありました。
英仏はオスマンの版図を好きなように分割しただけです。
その結果、人口の多いクルド人が国をもたないことになった。
第二次世界大戦後には、諸民族は独立しましたが、実質的に英・仏・米の支配下にあります。
オスマン帝国にいた多数の民族は、民族自決によって分断され、かえって自律性をなくしたのです。

 

38、第一次世界大戦後、パレスティナ信託統治したイギリスは、それをユダヤ人の国家とするつもりはありませんでした。
また、旧オスマンの地域では、ユダヤ人とアラブ人の対立はなかったのです。
それに対して第二次世界大戦後は、米国が中東に介入し、シオニストを支援し、イスラエルを中東における橋頭堡としました。
これは、ヨーロッパに固有であり且つ責任のある「ユダヤ人問題」(アウシュビッツに象徴される)を、何もなかった中東に”転移”することです。
同時に、それによって、旧オスマン地域の(ユダヤ人をふくむ)諸民族の連合を阻止することです。


39、非宗教的な連合体であったアラブ連盟は、1967年第三次中東戦争イスラエルに敗北し、以後、「イスラム主義」に依拠するようになりました。
それによって「第3世界」というプロジェクトは終わった、といえるでしょう。
更に、1979年イランでシーア派によるイスラム革命があって、アラブの世俗的なナショナリズムは、イスラム主義にとって代われた。

 

40、つぎに、清朝ではどうか。
1840年アヘン戦争での敗北のあと、清朝は改革を開始し、洋務運動と呼ばれる西洋技術を取り入れた近代化を進めたが、法や政治制度などはそのままでした。
しかし、1894年、明治維新(1868年)以来急激に発展を遂げた日本との戦争で敗れたため、清朝は本格的な改革に乗り出しました。
その一つとして、大量の留学生を西洋ではなく、日本に送りこんだのです。

 

41、しかし、私が注目したいのは、清朝の打倒を考えた孫文よりもむしろ、清朝を肯定しつつそれを変革することを考えた思想家たちのほうです。
それは、先ほど述べた「変法自強運動」に参与した康有為、厳復、梁啓超、章炳麟などです。
彼等はたんに「西洋化」をはかったわけではありません。
たとえば、康有為は清朝立憲君主制にすることを提唱しましたが、たんに西洋の思想や制度を導入するのではなく、それを中国の伝統を読み変えることによってなそうとしました。
いわば、孔子を先駆的な進歩主義者として解することによって、具体的には、それは漢帝国を基礎づけた董仲舒儒学を再評価するものです。
また、康有為はとりあえず立憲君主制を提唱したけれども、はるかその先を考えていました。
すなわち、諸国家・諸民族が消滅するような「大同世界」を考えたのです。
康有為やそれに続いた清朝末期の思想家の仕事は、現にある帝国を否定しつつ、しかし、その可能性を高次元で回復しようとするものだったといえます。
康有為の「大同世界」というヴィジョンもそのようなものです。
それはいわば、帝国を”揚棄”することです。
もちろん、康有為らの思想が実現されることは全く無かったのですが、もしこのような理念がなければ、清朝を倒す革命運動は、民族自決、したがって、多民族の分解に帰結したでしょう。

 

42、更に、1918年には、レーニンはそれまで否定していた連邦制を受け入れました。
すなわち、次の諸点がソヴィエトの憲法に明記されたのです。
民族が分離独立する権利、ロシアから分離しない民族には、大幅な地方自治が保証されること、さらに、少数民族派の権利が保証されること、です。


43、先に述べたように、帝国の原理をもたないような広域国家、すなわち、ヘゲモニー国家は、必ず「帝国主義」となります。


44、主権国家はヨーロッパから生まれたのです。
それはヨーロッパ以外に存在しなかった。
そして、そのことは、ヨーロッパに帝国ができなかったということと、深く関連しています。
先に述べたように、ローマ帝国が存在した時期でも、ヨーロッパでは東部と違って、在地有力領主層が競合し合う状態がありました。
つまり、集権化が十分になされていなかった。
更に、そこに外部からゲルマン人が侵入した。
ヨーロッパは、その意味で、ローマ帝国あるいは古代文明と異質なのです。

 

45、ローマ教皇が教会改革を通して諸候を統制する権力をもつにいたったのは、11世紀末です。
そのころ、教皇ウルパヌス二世の呼びかけで十字軍が始まった。
それによって、ヨーロッパの王・封建諸候は互いに競合しながらも、外部に対して一丸となったわけです。


46、アリストテレスプラトンイデアを認めつつも経験的な個物から出発した哲学者ですが、アクィナスも同様に、アウグスティヌス神の国を認めつつも、現にある諸国家の現実から出版しようとしたわけです。
しかし、それが可能だったのは、ローマ帝国が滅びつつあったアウグスティヌスの時期と違って、教会を通してであっても帝国が存在していたからです。


47、このような絶対王権を「主権」と名づけたのが、ジャン・ボダンです。
ボダンは主権を二つの面でとらえました。
第一に、主権は対外的に、ローマ教皇ないしキリスト教の超越的権威に対して自立すること、第二に、主権は対内的にすべての権力に優越すること、です。
この二つは切り離せない。

 

48、ヨーロッパでは、絶対王権を打倒した市民革命の後、国民を主権者とする国家、すなわち、国民国家が生まれました。
しかし、国民国家は先ず主権国家なのです。
国民はそのあとに創造(想像)されたものでしかない。
そして、主権国家は、それを越えるもの、すなわち、上位にある帝国ないし教会を否定するところに成立するものです。
ゆえに、主権国家間の戦争状態は不可避的であり、それを越える術がないのです。
もちろん、主権国家はヨーロッパにおいて成立したものです。
それは、帝国があった他の地域では考えられない。
では、なぜ、それが世界各地に波及していったのでしょうか。
もちろん、ヨーロッパの列強が経済的・軍事的に優位に立ったからですが、主権国家の観念が一般化したのは、彼等が非西洋諸国を侵略したとき、主権国家の原理にもとづいてそうしたからです。
このように、ヨーロッパに始まる主権国家の観念が、必然的に世界中に主権国家を創り出したわけです。

 

49、ウォーラーステインはこれを「帝国主義的な」段階だと考えた。
更に、彼は近代の世界=経済において、そのようなヘゲモニー国家は三つしかなかった、という。
オランダ、イギリス、そしてアメリカです。
イギリスに先立ってオランダがヘゲモニー国家であり、したがって自由主義的段階であった。
その時期、イギリスや他の国は重商主義保護主義)的政策をとった。
それは、海外貿易を握ったオランダに対して、そうするほかなかったからです。
この間、イギリスでは内需を拡大する政策をとり、その結果、産業資本が発展したわけです。
しかし、このオランダが没落し、新たなヘゲモニーの座をめぐってイギリスとフランスが争うようになった。
そして、イギリスの優位が確定されたのが、ナポレオン戦争以後です。
つまり、1815年以後が自由主義的段階に入ったと考えられる。
それはむろん、イギリスがヘゲモニー国家となったことを意味します。
が、19世紀後半には、このイギリスのヘゲモニーが揺らぎ始め、新たなヘゲモニーの坐をめぐる争いが生じた。
それがいわゆる「帝国主義」段階なのです。
この時期、イギリスが下降気味であったのに対して、つぎのヘゲモンの座をめぐって、ドイツとアメリカ、ロシア、さらに日本が争った。
その結果、第一次世界大戦を境に、アメリカのヘゲモニーが確定しました。
最初は、それに対して、ドイツと日本が抵抗した。
それが第二次世界大戦です。
しかし、それはアメリカのヘゲモニー、したがって、自由主義的な段階を一層確立する結果に終わったわけです。
アメリカのヘゲモニーが揺らぎ始めたのは、1970年代からです。
そして、それを揺るがしたのが、アメリカの援助の下に復活を遂げたドイツと日本であった。
その後に、アメリカは新自由主義の政策をとるようになります。
ヘゲモニーは軍事的・政治的な問題と切り離せないのですが、同様に、資本主義経済の問題と切り離すことができません。
というのも、近代世界システムにおいては、国家の「力」は、結局、経済的な「力」にもとづくからです。
したがって、これを資本の蓄積という問題として見る必要があります。

 

50、このように、歴史的段階としての新自由主義あるいは新帝国主義は、かつての歴史・地理的な場で生起します。
だから、それは、いわば「歴史の反復」というべき事態をもたらします。
東アジアにおいて、そのことは明瞭です。
たとえば、現在そこで起こっているのは、かつて日清戦争の時期にあったことの反復なのです。
日清戦争は、東アジア、すなわち日本、中国、朝鮮だけのものではなかった。
そこにロシアが関与していることはいうまでもないが、何よりも米国がそこに関与していたことに注意すべきです。
当時、米国と日本は結託しており、その後に日本が朝鮮を取り米国がフィリピンを取るという密約を交わしたのです。
このような東アジアの地政学状況は、むしろ現在蘇っています。
先ずここで、問題は、没落しつつあるアメリカに代わって、新たなヘゲモニー国家となるのはどこか、です。
それがヨーロッパや日本でないことは、確実です。
人口から見ても、中国ないしインドということになります。
が、このような推測は、世界資本主義が存続すると仮定した場合にのみ成り立ちます。
実際には、中国やインドの経済発展そのものが、世界資本主義の終わりをもたらす可能性があるのです。

 

51、もちろん、資本の終わりは、人間の生産や交換の終わりを意味しません。
資本主義的でない生産や交換は可能であるからです。
しかし、国家にとって、これは致命的な事態です。
資本の弱体化は、国家の弱体化であるから。
それゆえ、国家は、何としてでも資本的蓄積の存続をはかるだろう。
今後に、世界市場における資本の競争は、死にものぐるいのものになります。
それは、たんに南北間の対立だけでなく、資本主義諸国の間の対立となる。
そして、それが戦争に帰結することは確実です。
第一次世界大戦の場合、その直前まで、こんなことが起こると思った人はほとんどいなかった。
今後においても同じです。
局地的な戦争はあっても、世界戦争はとうてい起こらないだろうと、いま人々が考えている。
が、突発する蓋然性は高いのです。
では、戦争が起これば、どうなるか。
そのことを考えるために、かつての帝国主義時代がどのように終わったかを、振り返ってみましょう。
先にいったように、それは第一次世界大戦によって終わった。
この戦争で勝利したのは、最後に参戦した米国です。
その後、米国がヘゲモニー国家となった。
それによって、帝国主義段階が終わったわけですが、それだけでなく、帝国主義段階の終わりを決定的にした要因がある。
一つはロシア革命であり、もう一つは国際連盟の発足です。
しかし、私は、実は、国際連盟の発足のほうが歴史的に画期的な出来事だったと考えています。
それは現実にはほとんど機能しなかった。
その理由の一つは、ここに、ヘゲモニー国家であり且つ国際連盟を推進していた米国が参加しなかったことです。
さらに、ソ連邦が参加していなかったことです。
その結果、第二次世界大戦が生じた。
その後に設立された国際連合は、国際連盟よりははるかにましですが、結局、大国による支配を越えるものではありません。
ゆえに、現在も、軽視される傾向があります。

 

52、ウィットフォーゲルは、亜周辺の例として、ギリシアのほかに、日本とロシアのキエフ公国を例にあげています。
キエフ公国は1237年にモンゴルによって滅ぼされた。
ロシアに「帝国」を築いたのはモンゴルです。
実は、それより少しあとに、モンゴルは高麗を征服したのち、日本にも到来しました。
1274年と81年に大軍を送ったのですが、2度とも敗北して断念しました。
このように、大陸から海で隔たった島であったことが、日本の亜周辺性を存続させたということができます。


53、日本の国家は、7世紀から8世紀に、隋や唐から律令制度を導入しました。
それは中国の帝国を中心と見なし、それに対して自らを位置づけるものです。
「日本」という国名そのものも、このときに始まります。


54、律令制はこのように不可欠なものとして存在したのですが、にもかかわらず、それは存在しないも同然でした。
同じことが天皇についてもいえます。
徳川幕府は「尊皇」を掲げていましたが、この時代に日本人の多くは天皇が存在することさえ知らなかったのです。
このようなことがどうしてありうるのか。
これは、日本が帝国の「亜周辺」であるということを見ないと、説明できません。
いいかえれば、日本に起こったことの特性は、たんに帝国の「中心」と比較するだけでなく、「周辺」と比較しないと、わからないのです。
日本の歴史家・思想家に欠けていたのは、そのような視点です。


55、天皇ファシズムを説明するために、丸山眞男政治学社会学を導入し、吉本隆明は「共同幻想」に関する理論を考えた。
しかし、このような見方は結局、経済的下部構造を無視するようになります。
ただし、私がいう「経済的下部構造」とは、交換様式を意味します。
観念的領域とされる共同体、国家、ネーションは、それぞれ交換様式に根差しているのであって、それから独立してあるわけではありません。
また、もっぱら経済的と見える領域も、ある意味で極めて観念的です。
たとえば、資本主義経済は、根本的に「信用」によって成り立つものです。
それは商品交換の発展としてあるからです。
マルクスの『資本論』はそれを示しています。

 

56、このように、律令制は東アジアにおいて普遍的となった現象です。
したがって、日本の律令制を、中国と日本の比較だけで考えることはできません。
日本とほぼ同時期にそれを導入した帝国の周辺国家、すなわちコリアやベトナムと比較すべきなのです。


57、高句麗新羅百済が争う「三国時代」のコリアと、ヤマトは深く連関していました。
ヤマトに生じた国家的改革は、このような国際関係にもとづいています。
先ず、唐がコリアに侵入してきたことが、ヤマトに危機意識を与えた。
大化の改新(645年)が決行されたのは、そのためです。
実際、その後に、新羅は唐と結託して、ヤマトと近い関係にあった百済を滅ぼしたのです(660年)。
滅亡した百済勢の多くがヤマトに亡命した。
それに対して、ヤマトは百済救援のために派兵したのですが、大敗に終わった。
それが白村江の戦い(663年)です。
ヤマトの朝廷が冠位26階を制定したのは、その翌年です。
そして、これが律令制への第一歩となった。

 

58、一方、ヤマトには中国からの支配が及んでいません。
3・4世紀、邪馬台国の時期には中国の王朝から冊封を受けていた記録がありますが、隋王朝の時代では、ヤマト朝廷が冊封を拒否したことが記録にあります。
聖徳太子は607年に、隋に国書を送り、「日出る処の天子、書を日没する処の天子に致す」と伝えたといわれます。
聖徳太子という人物がたとえ架空であるとしても、その時点で、ヤマトが冊封体制に入らないという意志を表明したことは間違いないでしょう。
『隋書』によれば、この書簡は、隋の煬帝を激怒させたという。
では、なぜヤマトを放置したのでしょうか。
むろん、それはヤマトが簡単に攻められないほど遠方にあったからでしょう。
ただ、日本の亜周辺性は、たんに中心からの隔たりによって生まれたとはいえません。
隋がヤマトを攻撃しなかったのは、当時、高句麗と苦戦しており、背後にあるヤマトと敵対してはならなかったからです。
また、唐が日本に攻め込まなかったのは、新羅が唐に反抗したからです。
さらに、最初に述べたように、元が高麗における抵抗に長く悩まされたあとであり、また動員した高麗の兵士が消極的であったからです。
つまり、日本の亜周辺性は、ある意味で、周辺的なコリアの存在によって保証されたといえるのです。

 

59、つぎに、ヤマトの王朝は689年「飛鳥浄御原令」で、国号を「日本」と名乗り、王の称号を「天皇」としました。
天皇は皇帝yほり上位の概念です。
つまり、天皇と名乗るのは中国の天子に対抗することであり、また、「日本」が帝国であると宣言することです。
しかし、702年に、ヤマトの使者が日本および天皇という変更を伝えたとき、則天武后はそのことを不問に付した。
則天武后が勝手に唐の名を周と改めていたからだという説もありますが、要は、日本を帝国の「圏外」と見なしたということです。
それは、日本が何をしようと干渉できないし、またその必要もない、ということを意味します。
遊牧民国家と違って、侵入してくる恐れがなかったからです。

 

60、日本の天皇は、大王、すなわち、祭司=首長の延長としてあった。
律令制の下でも、それが保持されているのです。


61、一方、日本の天皇は、そのような存在ではありません。
天皇は血統以外に、その存在を正当化する必要がなかった。
逆に、天皇は自ら権力をもつことはなく、たえず交替する権力者の存在を法的に正当化する”権威”になりました。
その意味で、天皇制が存続しえたのは、律令制にもとづくことによってです。
奈良・平安時代には中国の皇帝のようにふるまおうとした天皇がいましたが、それは例外で、水林彪がいうように、天皇は、次々と交替する権力者を法的に支える”権威”であった。
だからまた、存続しえたのです。

 

62、日本では、律令制導入とともに、『日本書紀』が編集された。
この”歴史”は、内外に対して、皇室支配の正統性を示そうとしたものです。
しかし、それはたんに血統による正統性です。
日本で正統性が問題として生じたのは、13世紀、南北朝の時期です。
この時は、血統上ではどちらが正統であるか決められない、二つの王朝が争った。
だから、理論が必要となったのです。
重要なのは、このとき、朱子学を通して「正統」という観念が初めて日本で論議の的となったことです。
たとえば、その観念にもとづいた北畠親房の『神皇正統記』が人々を興奮させた。

 

63、それとは対照的に、日本では、8世紀から10世紀にかけて、表音文字の仮名が創出されました。
それは特定の誰かが創ったのではなく、漢字を表音的に利用した万葉仮名から、自然発生的に生まれたのです。
万葉仮名は、7世紀末に編まれた『万葉集』で使われたからそう呼ばれるのですが、7世紀以前に成立したと思われます。
固有名を漢字の音を借りて表記する方法は、もともと中国にあったし、コリアでも三国時代に、漢文を、漢字を表音的に用いた文字記号で補足して読む「吏読」が発達していました。
日本の万葉仮名はそれを受け継ぐもので、たぶんコリアから帰化人がもちこんだものです。
日本では、このような万葉仮名が一般的に用いられるようになりました。
一つには、日本語の音声が母音子音ともに単純であり、そのため、万葉仮名の数も少ないので、修得するのが容易であったからです。
さらに、それが自然に、簡略化されるようになった。
たとえば、「いろは」という音は、万葉仮名では「以呂波」という漢字であらわされますが、「以呂波」を草書体で簡略化して「いろは」という仮名が創られた。
また、字の一部だけをとると、イ、ロ、ハという片仮名ができる。
だから、仮名や片仮名によって日本の表音文字ができたといわれるのですが、重要なのは、先ず万葉仮名が定着したことです。

 

64、日本では、仮名のおかげで和歌や物語が発展しました。
が、それはたんに仮名によるのではありません。
表音文字によって、民間で、特に女性の間で文学的表現が生じることは、朝鮮王朝の時代、ハングルによって多くの歌や物語が書かれるようになったことからも明らかです。
しかし、コリアでは、それは近代にいたるまで評価されなかった。
官僚体制の下で蔑視されてきたからです。
では、なぜ日本で女性たちによって書かれたものが、その当初から高く評価されていたのか。
それは、日本で、公的な世界に対して、民間的あるいは女性的な世界が重視されたから、ではありません。
日本の宮廷では、男女問わず、和歌が不可欠でした。
物語はむしろ和歌の延長としてあったわけです。
しかし、日本の宮廷で和歌が重視されるようになったことは、元来、宮廷では詩文が重要だという中国の観念にもとづいていたのです。
それ以前に、文学が重視されたことはなかった。
文学の重視は、漢詩文の重視にもとづくものです。
したがって、漢詩文を斥けて、和歌や物語を作ったのではありません。
和歌が中心になっても、漢詩文の重要性は変わらなかった。
むしろ漢詩文から得た着想によって、新たな和歌や物語が作られるようになったのです。
たとえば『源氏物語』の著者、紫式部は宮廷にいたときから歌や物語に関して著名でしたが、彼女が宮廷の女房となったのは傑出した漢詩文の能力を買われたからです。
実際、中宮(皇后の一人)彰子に、「白氏文集」を講義するほどでした。
そして、彼女が54巻の大長編を書きえたのは、司馬遷の『史記』を愛読するような人であったからこそです。

 

65、しかし、『源氏物語』には、そう簡単に片づけられないところがあります。
美的・直観的な態度というのであれば、むしろ、同時代の清少納言の随筆集『枕草子』にこそあてはまるでしょう。
彼女の態度は、趣味判断を理論的・道徳的な判断の上に置くものです。
たとえば、彼女は「春はあけぼの」と断定します。
それ以上の説明はない。
趣味判断の根拠など問うてはならないのです。
それに対して、紫式部の『源氏物語』はたんなる断片的直観ではなく、相反するものを統合する構成力をそなえています。
彼女はむしろ「漢意」を強くもっていたというべきです。
しかし、一般的にいえば、日本の文学の特徴は、清少納言の系列にあります。
それは、美的、直観的、断片的です。
社会的な現実性がなく、普遍的な理念性がない。
というより、それを斥けているのです。

 

66、それに足して、同時期に律令制を導入した日本では、官僚制国家が成立しなかった。
その結果、各地の武士の抗争の中から、武家政権が生まれたのです。


67、武士の発生に関しては、概ね二つの意見があります。
石母田正は、武士を在地領主として、農民を代表する者のようにとらえました。
それは、公家の老朽し頽廃した文化に、溌刺とした新興の武士階級が挑戦したという図式になります。
それは、武士をゲルマン人の戦士=農民になぞられる見方と同じです。
一方、網野善彦は、そのような見方が、領主 - 稲作農民の体制が確立した南北朝以前の現実をそれ以前に投影するものだと批判しました。
それ以前には、商工業をふくむ非農業民が多く存在したこと、武士も「武芸」をもつ職人ないし芸能人の一種であったことを強調したのです。

 

68、武士の上層部は公家を警備する「侍」として、律令性国家の末端に従属しましたが、総体的に武士は辺境にいました。
しかし律令制国家の機構の外に私有地が発展すると、国家に代わって、警察・裁判のような仕事を受け持つ者が必要になった。
武士がその役目を果たしたのです。
彼等は、中央の国家機構とつながる棟梁と、主従関係を結んだ。
平家や源氏という集団は、そのようにしてできたのです。
この武士らが結ぶ主従関係は、「封」を介した互酬的関係です。
したがって、これは集積的なピラミッド型の官僚組織にはなりません。
また、この主従関係は互酬的なので、軍事的貢献に応じた臣下に恩賞を与えないと続かない。

 

69、「武士道」は、武士がもはや戦士ではなく官僚となった時期に発生したイデオロギーにすぎません。
武士の中で最初に政権を握ったのは、西国および水軍を基盤にした平家です。
しかし、平家は朝廷政治、つまり文官的政治の中にのみ込まれた。
平家を倒した源氏の源頼朝は、平家がたどった道を避けた。
つまり、1192年、京都から離れて、東国に新たな政府を開設したのです。
とはいえ、それは律令制の下での「征夷大将軍」という官職でした。
その後、1232年、執権北条泰時は「貞永式目」を発布しました。


70、多くの大名が競合する中で覇権を握った織田信長は、特に鉄砲を活用したことで知られています。
信長やその後を継いだ豊臣秀吉の時代には、鎌倉時代にあったような封建制、あるいは、互酬的な主従関係は成立しなくなっていました。
たとえば、秀吉はおそらく賤民の出身でありながら最高位に立った。
これは「下克上」の極みであり、封建的な主従関係や身分制が消滅したことを示すものです。
このように、16世紀末には中央集権的な政権が形成されようとしていました。
それは、西洋の絶対王政に近いものです。
実際、信長や秀吉はスペインやポルトガルとの交易や宣教師らとの交際を通じて、それを熟知していました。
信長は自らを絶対的な主権者と見なしていたようです。
たとえば、比叡山を攻めて多数の僧侶を焼き殺しても平然としていた。
皇室の権威を尊重するふりはしましたが、いずれは破綻するつもりだった。
しかし、そのせいもあって、中途で暗殺されてしまいました。
信長の地位を継承した秀吉は、逆に皇室に接近し、関白となったのですが、それに満足することはなく、明を征服して皇帝となることを考えた。
実際、そのために、朝鮮半島に攻め込んだのです。
しかし、彼の考えは根も葉もない誇大妄想とはいえません。
彼の企図の背後に、戦国時代を経て強化されてきた軍事力だけでなく、東南アジアにいたる広域通商圏がありました。
明朝は元と違って、そこから内に閉じこもろうとした。
だから、明に代わって、それを制覇しようと考えたのは、別に奇矯ではありません。
この時期すでに、日本は「大航海時代」の世界=経済にコミットしていたのです。
秀吉の誤りは、海洋国家を目指すかわりに、陸の帝国を目指したことにあります。
そのため、簡単に挫折してしまった。
しかし、ある意味で、日本国家が明治以後にやろうとしたことを、秀吉はいち早く実行し、そして、いち早く挫折したといえます。
秀吉の生存中には彼に服従し、その死後権力を握った徳川家康は、すぐさま、このような路線を撤回しました。

 

71、徳川も戦国時代を経て、他の封建領主を完全に制圧したのですが、中央集権的な体制を作ることはなく、他の領主に各地を支配させた。
ゆえに徳川体制は、中国的な意味で「封建制」です。
したがって、明治維新によって「郡県制」が実現されたことになります。
しかし、こういう概念だけでは、徳川体制がどのようなものかを理解できません。
やはり封建制を feudalism という意味で考える必要があります。
第一に、徳川家康は、信長や秀吉のように京都の朝廷の元にいることは危険だと考えました。
したがって源頼朝がかつて東国の鎌倉に幕府を開いたように、東国の江戸に幕府を開いた。
また、皇室や公家に形式的な敬意を示すことによって、自らの「正統性」が皇室から来るという格好をしたのです。
こうして、家康は鎌倉時代にあった武家と公家の二元性を取り戻そうとしたといえます。
といっても、江戸時代の”封建制”は鎌倉時代のそれとは異質です。
第一に江戸時代では、主従関係はかつてのように「封」にもとづく互酬的なものではなくなっています。
武士はもともと在地領主として農民との強いつながりをもっていました。
戦争になれば、農民が戦士となった。
が、徳川体制では、武士は都市に集められ、農民も武装解除をされた。
武士と農民が完全に分離されたわけです。
武士はいわば武官となったわけですが、戦争がないので、事実上、文官と同じようになった。
にもかかわらず、武士が官僚であることは「否認」されたのです。

 

72、第一に”鎖国”政策をとった。
もちろん、オランダとの交易を続けたし、また、中国・コリアとの交易も続けたけれども、その程度の海外交易では、16世紀にあったような経済発展はありえない。
更に、商人を「士農工商」という身分制の最下位に置いた。
実際には、たえず商人の力に屈していたのですが、建前では、商人を最下位においた。
徳川はこのように、16世紀に世界市場とつながって開花した商人資本主義を抑えようとしたのです。


73、ある意味で、徳川は日本が壊した旧来の東アジアの秩序を取り戻そうとしたといえます。
秀吉の侵攻と破壊のあとですから、コリアとの関係を修復するのは容易ではなかった。
徳川家康はそれに真剣に取り組みました。
たとえば、将軍の交代とともに、朝鮮通信使を迎えるようにした。
朝鮮王朝との関係修復は、朝鮮を冊封する明や清との関係を回復することでもある。
その意味で、徳川家康は、東アジアにあった帝国とその周辺という世界秩序を回復しようとしたのです。
また、家康は朝鮮の朱子学を導入して幕府の公認の教義としました。
儒教を優位に置くことは、戦国時代にあった価値を否定するものです。
それはいわば、礼楽を武に優越させることだから。
にもかかわらず、家康は文官による官僚制国家を作ろうとはしなかった。
武士階級を往来のままにとどめたのです。

 

74、徳川体制には、このように相矛盾した面が各所に見られます。
たとえば、家康は郡県制をとらず、封建性をとったのですが、実際には、徳川体制はきわめて中央集権的でした。
それを如実に示すのが、参勤交代制度です。
これは、大名が家族を江戸に人質として置き、また、一年ごとに江戸に住むというものです。
この移動の経費、江戸での滞在費が大変な負担でした。
これは諸大名に浪費を強いることによって、彼等の経済的・軍事的な発展を阻止するものです。


75、明治維新のあとに、日本は急速に産業資本主義的発展を遂げました。
しかし、それは明治時代に始まったものというより、16世紀に存在した徳川時代に抑えられてきたものが、その足枷を外された結果だというべきです。
最後に、徳川幕府がその永続性のためにとった政策が裏目に出たもう一つの例は、自らの正統性を天皇の権威に求めたことです。
徳川御三家の一つ、水戸藩では、尊皇思想が唱導されました。
むろん、それは徳川の正統性を根拠づけるためです。
しかし、皮肉なことに、それが幕府を崩壊させる一原因となりました。
具体的にいえば、19世紀半ば、幕府は、米国などの西洋諸国の圧力に屈して「開国」し、不平等条約を結んだのですが、そこから「尊皇攘夷」を掲げる倒幕運動が起こった。
それは、幕府が皇室をさしおいて外国に屈したということを糾弾したのです。


76、明治維新のリーダーらは、倒幕を命じる天皇の詔を得ることで徳川幕府勝利しました。
明治維新が実質的にブルジョア革命であることは、明らかです。
しかし、その種の事柄が公言されたことはなかった。
逆に、維新は、天皇親政を掲げること、つまり、律令国家の回復を目指すことによって実現されたのです。
実際、明治政府は当初、神衹官を復興させています。
また郡県制を採用して、これまでの藩主を知事に任命しました。
それが徳川の「封建制」を否定する維新(復古)だったのです。
重要なのは、日本の国家=資本がそれを、天皇という古代的な、”権威”に依拠して成し遂げたということです。
のみならず、1930年代の経済的政治的危機において、それを克服するために、国家=資本は、天皇という”権威”を再喚起しようとした。
それが特に、”天皇ファシズム”と呼ばれるものです。
たとえば、戦後の日本では、天皇ファシズムは否定されました。
が、日本の支配層が天皇の権威に依拠することに関しては、何の変化もなかったのです。
そもそも、戦後の米占領軍による統治がそうでした。
マッカーサー将軍は、内外で戦争責任を問われた天皇を支持し、戦争責任を免除させた。
それは、日本の社会主義勢力に対抗して、日本を統治するためです。
日本の歴史ではいつも、このように、実際の権力をもつ者が天皇制を利用してきたのです。

 

77、16世紀に明を征服して帝国を築こうとした豊臣秀吉も、また、明治以後の「日本帝国」も、帝国のあり方を理解できなかった。
ゆえに、帝国主義にしかならなかったのです。
戦後の日本人は、それまでの帝国主義を否定しました。
しかし、「帝国」を理解できないという点において、変わりはありません。
そのため、東アジアの近隣諸国との間によい関係を築くことができない。
結局、内に引きこもるか、ないしは、攻撃的に外に向かう。
つまり、内閉的孤立と攻撃的膨張の間を揺れ動くことになります。
日本が今後、「アジア共同体」の中に入ることはおそらく無理でしょう。

 

柄谷行人さんは東大の先輩にあたります。>