竹田恒泰 『現代語古事記: 決定版』を読んで。

竹田恒泰氏は、明治天皇の玄孫です。>


1、ちなみに、2012年が「古事記」完成から1300年の年周りに当たる。


2、では、今なぜ「古事記」なのか。
その答えは、20世紀を代表する歴史学者であるアーノルド・J・トインビーの遺した次の言葉に端的に現れている。
「12、3歳くらいまでに民族の神話を学ばなかった民族は、例外なく滅んでいる」。
この言葉は、民族の神話を学ぶことが民族存立の要件であることを示唆するもので、現在の日本人が日本神話を学んでいないことが、どれだけ大きな問題を孕んでいるかを教えてくれる。


3、よく「天孫降臨は歴史的事実ではない」とか「神武天皇は実在しなかった」という人がいるが、「古事記」は神話であり、聖典であり、事実かどうかという読み方は、読み方としては間違っている。
ここに書かれた記述は「真実」なのであって、「事実」かどうかはさして重要ではない。
女懐胎をはじめ、とても事実とは思えない記述も多い。
しかし、欧米ではこうした記述を「事実」ではないと言うのは、愚かな主張とされている。


4、「古事記」を読むことは、天皇の由来を知ることであり、それはすなわち、日本とは何か、そして日本人とは何かを知ることである。


5、天地が初めて発れた時、高天原に成ったのは天之御中主神でした。
間もなく高御産巣日神、続けて神産巣日神が成りました。
この三柱の神は、いずれも独神で、すぐに御身をお隠しになりました。
独神とは男女の区別が無い神で、男神と女神の両方の性質をお備えになった神なのです。


6、そして次に初めて、男神と女神が成ります。
ウヒジニノカミとその妻のスヒチニノカミです。
二柱は兄と妹の関係ですが、夫婦になりました。
兄と妹の結婚は神々にとっては理想的な結婚と考えられています。
ゆえに、人間にとっては禁忌なのでしょう。


7、イザナキノカミとその妻のイザナミノカミ成りました。
最後に成ったイザナキノカミとイザナミノカミは、間もなく日本列島をお生みになる重要な神です。


8、「古事記」にはたくさんの神が登場しますが、その1番はじめに現れた神は、天之御中主神です。
天照大御神最高神だと思っている人も多いかもしれませんが、天照大御神が現れるのは、ずっと先のことです。
この天之御中主神こそが、「古事記」に登場する最初の神なのです。
天之御中主神は宇宙の根源、もしくは宇宙そのもので、ありとあらゆる所に満ちていて、お姿をとらえることはできませんでした。
成った途端に、完全にお隠れになりました。
けれども、御身をお隠しになったとはいえ、その後、目に見えない所から神々の世界に影響を与えることで、宇宙を統合する特別な神なのです。
天之御中主神は、「古事記」にはその後1度も登場なさらないので、その姿、言葉、行動などは何一つ知られていません。
神秘に包まれた神だといえます。


9、そうすると、次々と立派な国が生まれました。
1番初めにお生みになった子は、アワジノホノサワケノシマ(淡路島)。
続けてイヨノフタナノシマ(四国)をお生みになりました。
この島は、胴体は一つですが、顔が四つあります。
顔ごとに名前があって、イヨノクニ(愛媛県)をエヒメといい、サヌキノクニ(香川県)をイイヨリヒコといい、アワノクニ(阿波国徳島県)をオオゲツヒメといい、トサノクニ(高知県)をタケヨリワケといいます。
次にオキノミツゴノシマ(島根県隠岐諸島)をお生みになりました。
またの名はアメノオシコロワケといいます。
次に、ツクシノシマ(九州)をお生みになりました。
この島もまた、胴体は一つで、顔が四つあります。
顔ごとに名前があって、ツクシノクニ(福岡県)をシラヒワケといい、トヨノクニ(大分県と福岡県の一部)をトヨヒワケといい、ヒノクニ(熊本県佐賀県長崎県)をタケヒムカヒトヨクジヒネワケといい、クマソノクニ(南九州)をタケヒワケといいます。
次に、イキノシマ(長崎県壱岐島)をお生みになりました。
またの名はアマヒトツハシラといいます。
次にツシマ(長崎県対馬)をお生みになりました。
またの名はアメノサデヨリヒメといいます。
次にサドノシマ(新潟県佐渡島)をお生みになりました。
そして、次にオオヤマトトヨアキヅシマ(畿内を中心とする地域)をお生みになりました。
またの名はアメノミソラトヨアキヅネワケといいます。
このように、八島が先に生まれたことによって、我が国のことを大八島国というのです。
二柱の神はお帰りになる時に、キビノコシマ(岡山県児島半島)をお生みになりました。
またの名はタケヒカタワケといいます。
次に、アズキシマ(淡路島の西にある小豆島)をお生みになりました。
またの名はオオノデヒメといいます。
次にオミナシマ(大分県国東半島の東北にある姫島か)をお生みになりました。
またの名はアマヒトツネといいます。
次にチカノシマ(長崎県五島列島)をお生みになりました。
またの名をアメノオシオといいます。
次にフタゴノシマ(五島列島南の男女群島男島女島か)をお生みになりました。
またの名はアメノフタヤといいます。
このようにしてまた6つの島をお生みになり、「国生み」が終わりました。
これで日本の国土が完成しました。


10、また、生成の神であるワクムスヒノカミの子は、穀物の神であるトヨウケビメノカミです。
ところで、トヨウケビメノカミは、後に天照大御神の食事を司る神として、伊勢の神宮の外宮に祭られることになる、極めて重要な神様です。
およそ、イザナキノカミとイザナミノカミの二柱の神が共にお生みになった島は、14の島です。
また、お生みになった神は35柱です。
これはイザナミノカミがまだ神避らぬうちにお生みになった島と神です。
ただし、蛭子と淡島は子の数に入れません。


11、遣されたイザナキノカミは1人お悲しみになり、ついにイザナミノカミを追って黄泉国へお出掛けになりました。
しかし、イザナキノカミを追うのは醜女だけではありませんでした。
八種の雷神と1500の黄泉の軍勢も追って来ます。
どれも怖い顔をした悪霊です。
イザナキノカミは腰に差していた十拳剣を抜いて後手に振りながら走りました。
うしろ手で何かをすることは、相手を呪う行為です。
イザナキノカミは、ようやく黄泉国と現実の世界の境にあたる黄泉比良坂に差し掛かり、そこに1本の桃の木を見付けます。
急いで桃の実を3個取り、投げ付けると、どうしたことか、悪霊たちはすっかり勢いを失い、逃げ帰りました。
桃の実に命を助けられたイザナキノカミは、桃の木に「私を助けてくれたように、葦原中国(葦の茂地上の世界。特に日本を指す)に住むうつしき青人草(現世の人。「人間」への言及はここが初出)が苦しみ悩む時、同じように助けなさい」と迎せになり、オオカムズミノミコトと名前を賜いました。


12、黄泉国に残ったイザナミノカミは、ヨモツオオカミと呼ばれるようになり、また、その追いついたことをもってチシキノオオカミ名付けられました。
そして黄泉比良坂を塞いだ大石をチガエシノオオカミ、またはサヤリマスヨミドノオオカミと呼ぶようになりました。
その黄泉比良坂は、今、出雲国島根県)の伊賊夜坂といいます。


13、つまり、天つ神の神勅によって、日本の国土が形成され、天つ神の子孫である天皇一族がその国を治めることの経緯とその正統性を明確にするのが本旨なのです。


14、黄泉国とは何かについては、実は多くの説があって決着に至っていません。
黄泉国がどのような国なのか「古事記」は全く語っていないのです。
本文から読み取ることができることはわずかです。
しかも、黄泉国は現実とは異なった世界のように描かれているにもかかわらず「黄泉比良坂は、出雲国の伊賊夜坂という」とも書かれていて、現実の地名をもってその場所が語られるのです。
島根県東出雲町には現在も揖屋神社があり、黄泉比良坂の伝説地となっています。


15、三柱のワタツミノカミは筑前(福岡県)で海人集団を率いた豪族、アズミノムラジの祖先にあたります。
そしてアズミノムラジらは、そのワタツミノカミの子のウツシヒカナサクノミコトの子孫です。
この、ソコツツノオノミコト・ナカツツノオノミコト・ウワツツノオノミコトの三柱の神は航海の神で、スミノエ(大阪市住吉区住吉大社)の三前(三社)の大神として祭られ、スミヨシノオオカミと呼ばれています。
墨江の三前の大神は、後に第14代仲哀天皇に神託を与え、これに従わなかった天皇の命を奪い、そして神功皇后新羅遠征を守護した神として後で再び語られます。
さて、イザナミノカミは最後に顔をおすすぎになりました。
左の御目をお洗いになった時に成ったのが、天にましまして照りたもう神である、天照大御神
右の御目をお洗いになった時に成ったのが、月の神である、ツクヨミノミコト。
御鼻をお洗いになった時に成ったのが、嵐の神で、勇猛敏速に荒れすさぶる神である、タケハヤスサノオノミコトです。
この時、イザナミノカミは大変お喜びになり「自分はたくさん生んできたが、その果てに三柱の貴い子を得た」と迎せになり、自らが付けていらっしゃる首飾りを天照大御神に賜い「高天原を知らせ(治めろ)」と命ぜられました。
そしてツクヨミノミコトにはヨルノオスクニ(夜の世界)を知らすように、またタケハヤスサノオノミコトには海原を知らすように命ぜられました。


16、多くの豪族が、神とつながりがある家として、また天皇と血縁関係のある家として、このように記されています。
中央や地方の有力氏族の正統性が「古事記」によって担保されているのです。


17、すると、スサノオノミコトは「自分の心が明るく清いから、たおやかな女の子が生まれたのです。
だから私の勝ちだ」と仰って、勝ち誇ったように、天照大御神の田の畔を壊し、溝を埋め、しかも大嘗(新嘗祭。神に新穀を供える神事)を行う神聖なる御殿に糞をまき散らして、高天原で大暴れしました。
しかし、弟の悪態はひどくなる一方でした。
天照大御神が機織り小屋で神の衣を織らせていると、スサノオノミコトはその小屋の屋根に穴をあけ、尻の方から皮を剥いだ馬を落とし入れました。
その時、機織女はびっくりして、梭で、陰上(女性器)を突き刺して死にました。
これには天照大御神も黙ってはいらっしゃいませんでした。
天の石屋戸をお開けになって、洞窟の中にお引き籠りになったのです。
すると高天原は暗闇に包まれました。
葦原中国もことごとく暗くなりました。
昼が来ない夜だけの世界になり、万の神の声が夏蠅のように満ちあふれ、万の災いがことごとく起こるようになったのです。


18、スサノオノミコトが自らの潔白を示すために提案なさったのが誓約です。
ですから、誓約の本来の目的はスサノオノミコトに邪心が無いことを証明することだったはずです。
ところが、邪心の有無を明確にするためには、本来誓約の前には必ず勝ち負けの基準を決めておく必要がありますが、「古事記」の物語の上ではその取り決めが無いため、勝ち負けが曖昧になっています。
誓約の物語上の目的は、むしろ誓約の勝敗ではなく、誓約によって天照大御神の後継者が得られたことと、誓約が原因となって間もなくスサノオノミコト高天原から追放されることの2点だったのではないでしょうか。
天照大御神の子はこの場面で誕生した五柱の神だけですし、また誓約の勝ちさびによって、スサノオノミコト乱暴(収穫祭の妨害行為と考えられる)に結び付くのですから、この誓約は物語上重要な位置を占めているといえます。
相手の持ち物を使って神が化成していることから、この誓約の方法からは、一見どの神がどちらの神の子になるのか判断しにくいですが、誓約直後の天照大御神のお言葉によると、男神五柱が天照大御神の子で、女神三柱がスサノオノミコトの子とされています。
その後、国譲りの場面で、天照大御神アメノオシホミミノミコトのことを「我が子」とお呼びになっていらっしゃいますし、アメノオシホミミノミコトの玄孫が初代神武天皇に即位あそばされることになります。
しかし、この誓約で生まれた男神と女神にとって、天照大御神スサノオノミコトは両親と考えるべきではないでしょうか。
自分の物を使って成った子ならば自分の子ですが、相手の物を使って成った子は、2人の交わりによって生まれたと考えるのが自然でしょう。


19、そして、天照大御神がゆっくりと石屋戸から外を覗こうとなさった時、戸の脇に隠れていたアメノタヂカラオノカミが、天照大御神の御手をつかんで外へ引き出し、すかさずフトタマノミコトが、後方にしめ縄を張って「これより中に戻ってはなりませぬ!」と申し上げました。
かくして、天照大御神が天の石屋戸からお出になったので、高天原葦原中国に、再び明かりが戻ったのです。


20、高天原を追放されたスサノオノミコトは、自らの罪を贖うため、神々に供える為の食物をオオゲツヒメノカミにお求めになりました。
オオゲツヒメノカミは、鼻、口、尻から、色々な美味しそうな食べ物を取り出して、料理して差し出しました。
するとスサノオノミコトは、その様子をご覧になって、オオゲツヒメノカミが食べ物をわざと汚して差し出したのだと勘違いなさいます。
スサノオノミコトオオゲツヒメノカミを殺しました。
すると、殺されたオオゲツヒメノカミの体から、次々と大切なものが生ったのです。
頭からは蚕、二つの目からは稲、二つの耳からは粟、鼻からは小豆、陰部からは麦、尻からは大豆が生りました。
これらを拾い上げさせたのは、天地初発の時に高天原に成った神で、コトアマツカミの一柱とされるカムムスヒノカミです。
カムムスヒノカミはこれらを「種」として地上にお授けになります。
これが五穀の種の起源なのです。
排泄物から料理を作った神の屍から五穀が生った事は、排泄物はやがて大自然に還り、また食物になるという「物質循環の仕組み」を暗示しているのではないでしょうか。
この逸話から、排泄物も資源である事に気付かされます。


21、そこでスサノオノミコトは「あなたの娘を私に献上するか」とお尋ねになりました。
老人が「畏れ多いことです。
しかし、あなた様のお名前も存じ上げません」と申し上げると「自分は天照大御神の弟である。いま天より降りてきた」と自らの身分を明らかになさいました。
それを聞いたアシナヅチテナヅチの神は「さようでいらっしゃるなら、畏れ多い事です。
娘を差し上げましょう」と申し上げました。


22、そこでスサノオノミコトは、腰にはいていた十拳剣を抜いて、寝ている蛇に切りかかりました。
真っ赤な血がほとばしり、斐伊川は朱に染まりました。
スサノオノミコトがその尾をお切りになった時、何か堅いものに当たって十拳剣の刃が欠けてしまいました。
これは怪しいと思し召し、覗くようにご覧になると、蛇の尾から、それはそれは神々しい剣が出てきました。
クサナギの剣です。
スサノオノミコト高天原にいらっしゃる天照大御神に、この事を報告あそばされ、クサナギの剣を献上なさいました。
このクサナギの剣が、やがて皇位の印「三種の神器」の一つになります。
戦いが終わると、スサノオノミコトは出雲で新婚の為の宮殿を作るべき場所をお探しになりました。
須賀(島根県雲南市大東町須賀)にお着きになったところで「ここに来て、自分の心はすがすがしい」と仰せになって、その地に宮を作って、お住まいになりました。
そのような事があったので、その地を「須賀」というのです。


23、スサノオノミコトが須賀の宮をお作りになった時、その地から雲が立ち上がりました。
そこで次のお歌をお詠みになりました。
八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣作る その八重垣を」
古事記」には数々の和歌が収録されていますが、この和歌が1番初めの和歌になります。
平安時代に編纂された「古今和歌集」の序文を著した紀貫之は、この歌を、日本最初の三十一文字(和歌)であると述べています。


24、八俣大蛇は「斐伊川」そのものではないかという説があります。
そう考えると、八俣大蛇伝説が事実を反映させた物語であると想像できます。
曲がりくねった斐伊川はいくつもの支流を持ち、時には氾濫して人々を飲み込む事がありました。
翁が、毎年1人ずつ娘がさらわれ「今こそその怪物がやってくる時期なのです」と述べたのは、斐伊川に毎年氾濫の時期があった事を思わせるものです。
また「古事記」の八俣大蛇神話では、スサノオノミコトが八俣大蛇を切り付けて川が赤くなるくだりがありますが、斐伊川は鉄分で赤く濁る川です。
スサノオノミコトが八俣大蛇を退治なさった事は、治水工事により斐伊川の氾濫を治めたと見る事ができます。
古代において治水は統治に不可欠な要素だったのです。


25、スサノオノミコトにまつわる一連の物語には、間もなくオオクニヌシノカミが国作りを始める事の前提条件を整える意味があるのではないでしょうか。
オオクニヌシノカミの祖先がスサノオノミコトで、スサノオノミコト天照大御神の弟でいらっしゃいますから、天照大御神オオクニヌシノカミは始祖を同じくする事が分かります。
天つ神と国つ神は親戚なのです。
後にオオクニヌシノカミは天照大御神に国を譲る事になりますが、国を護る神と護られる神は赤の他人同士ではない事になります。


26、オオナムヂノカミが言われたとおりに根之堅州国に出掛けると、スサノオノミコトの娘のスセリビメと出会いました。
2人は目を見つめ合うとたちまち惹かれ合い、すぐに結婚します。


27、これは絶好の機会です。
オオナムヂノカミはスサノオノミコトの髪を束ねて、その部屋の太い柱に結び付け、更には、500もの人で引くほどの大きな岩でその部屋の入口を塞ぎ、スセリビメを背負って、逃げました。
髪が解けてようやく走り出したスサノオノミコトは、地上世界との境である黄泉比良坂までいらっしゃって、遠くをご覧になり、大きな声でオオナムヂノカミに向かって叫びました。
「その生太刀と生弓矢で、おまえの兄弟たちをやっつけろ。
山の裾、また川の瀬に追っていって打ち払え。
そしておまえはオオクニヌシノカミとなって国を作り、わが娘のスセリビメを正妻として、出雲の山に、地底の石を土台にして太い柱を立て、天空に千木を高く上げて、壮大な宮殿を建てるんだぞ、この奴(こいつめ~)」


28、さて、オオクニヌシノカミは言われたとおり、生太刀と生弓矢で、大人数の兄弟である八十神を、山の裾ごとに、また川の瀬ごとに、次々と追いつめて倒していき、そして初めて国をお作りになりました。
これがオオクニヌシノカミの国作りの始まりです。


29、そして、イザナミノカミの死により長い間中断されていた国作りが、オオクニヌシノカミの手によって再開される事になります。


30、ところで、オオクニヌシノカミにはすでにヤガミヒメという妻がいらっしゃいました。
そこへある日、オオクニヌシノカミがスセリビメという新しい妻を連れてお帰りになったのです。
ヤガミヒメスセリビメに遠慮して、自分の子を木の俣に挟んで実家に帰っていきました。
一族繁栄の為には沢山の子供を儲けなくてはいけませんが、それにしてもオオクニヌシノカミは恋多き神でした。
ある時、オオクニヌシノカミは、高志国(越国、北陸地方)にヌナカワヒメという美しい姫がいるとお聞きになり、求婚する為にその家に出掛けて、次のお歌をお詠みになりました(歌は省略)。

 

31、このように、オオクニヌシノカミとヌナカワヒメは愛の歌を詠み交わしました。
これが神語で、男女の問答歌の始まりです。
そして2人は結ばれます。
このようにしてオオクニヌシノカミは国を広げるたびに、各地の女性と交わり、多くの子供を授かっていきます。
国許で悲しい思いをなさっていたのは正妻のスセリビメでした。
オオクニヌシノカミが出雲から大和国奈良県)へ出陣しようとあそばした時、あまりにスセリビメが寂しそうにしていらっしゃるので、オオクニヌシノカミは片手の馬の鞍に掛け、片足を鐙に入れて、妻に次のお歌をお詠みになりました(歌、省略)。


32、オオクニヌシノカミがその神に名前を尋ねるも、答えず、周囲の神たちに尋ねても皆知りませんでした。
クエビコを呼んで尋ねてみました。
クエビコは山の田の案山子の事で、一本足だから歩く事はできませんが、天の下の事をよく知っている神です。
するとクエビコは「この方は、カムスヒノカミの御子、スクナビコナノカミでいらっしゃいます」と答えました。
カムスヒノカミは「古事記」の冒頭の天地初発のところで、アメノミナカヌシノカミに続けて3番目にこの世に成った神で、天照大御神よりも遥かに古い神です。
そして、オオクニヌシノカミが昔、八十神に殺された時に生き返らせたのも、カムスヒノカミでした。
オオクニヌシノカミがカムスヒノカミにお伺いを立ててみると「それは自分の子である。
私の手の指の間から生まれた子である。
おまえと兄弟になってその国を作り堅めなさい」と仰せになりました。
これにより、オオクニヌシノカミとスクナビコナノカミの二柱の神は、共に並んでこの国を築き上げました。
その後にスクナビコナノカミは、常世国に行ってしまいました。


33、イザナキノカミとイザナミノカミによって始められた国作りは、ついにオオクニヌシノカミの手によって完成しました。
しかし、それはオオクニヌシノカミの力のみではなく、スクナビコナノカミと、「御諸山の上に巫すの神」の力を借りて行われた事に注目してください。
スクナビコナノカミはカムスヒノカミの子でいらっしゃいますから、国作りに天つ神が関わった事を意味します。
また「御諸山の上に巫すの神」は大和(三輪山)の神ですから、国作りには大和の神も関与していた事になります。


34、では、なぜ「古事記」はこの位置で御諸山の神の事を書いたのでしょうか。
それは、大和の神が国作りに影響を及ぼす事により、これまで出雲を中心として書かれていた葦原中国が、後に日の御子が統治する事になる大和を中心とする世界につながるものである事を示す為だと考えられます。


35、天照大御神は、我が子、「アメノオシホミミノミコトが知らす(治める)べき国である」と仰せになり、天降りさせました。
アメノオシホミミノミコトは誓約によって成った神です。
アメノオシホミミノミコトは天の浮橋(天と地の境にある橋)にお立ちになって「豊葦原之千秋五百秋之水穂の国は、ひどく騒がしい」と仰せになり、再びお帰りになって天照大御神にそのように申し上げました。
そこで、タカミムスヒノカミと天照大御神は天の安の河の河原に、八珀万の神を集めさせ、思金神に思案させて、次のように詔あそばされました。
「この葦原中国は、我が子の知らす国と委任した国である。
しかし、この国には荒ぶる国つ神どもが多いと思われる。
どの神を遣わせて荒ぶる神たちを説得させるべきだろうか」
ここに、思金神をはじめ八百万の神が相談し「アメノホヒノカミを遣わすべきです」と申し上げました。
アメノホヒノカミも誓約によって成った神です。
そしてアメノホヒノカミを遣わせましたが、オオクニヌシノカミに媚びへつらってしまい、3年経っても報告に戻る事はありませんでした。
そのため、高天原にいらっしゃるタカミムスヒノカミと天照大御神はお困りになり、再び諸々の神たちに「葦原中国アメノホヒノカミを遣わせたが、久しく復命が無い。
次にどの神を遣わすのが良いだろうか」とお尋ねになりました。
その時、思金神が「アマツクニタマノカミの子のアメノワカヒコを遣わすべきです」と提案したので、天之麻迦古弓(立派で光り輝く弓)と天之波波矢(羽の付いた矢の意か)をアメノワカヒコに賜い、葦原中国に遣わす事になりました。
かくしてアメノワカヒコ葦原中国に降り立ちますが、オオクニヌシノカミの娘のシタデルヒメと結婚し、この国を自分のものにしようと企むようになりました。
そして8年の歳月が流れました。
いよいよお困りになったタカミムスヒノカミと天照大御神は、また諸々の神たちに「アメノワカヒコが久しく帰ってこない。
アメノワカヒコが留まっている理由を聞きたいのだが、どの神を遣わせたら良いだろうか」とお尋ねになりました。
すると思金神は「鳴女を遣わすべきです」と答えました。
鳴女とは雉の事です。
そして、タカミムスヒノカミと天照大御神は鳴女に「『汝を葦原中国に遣わせたのは、その国の荒ぶる神どもを説得させて従わせる為である。なぜ8年もの間戻らず、連絡もしないのか』と問え」と仰せになりました。
すると、天から降りた鳴女はアメノワカヒコの家の門の湯津楓(モクセイか)の木に止まり、天つ神から預かった詔を正確に伝えました。
鳴女の言葉を聞いたアメノサグメ(隠密なものを探り出す巫女)は、これは凶と判断し「この島は、鳴き声が良くないから、射殺すべき」と言って扇動し、アメノワカヒコは天つ神から賜った天之波士弓(ハゼノキで作った神聖な弓)と天之加久矢(光り輝く神聖な矢)で、その雉を射殺してしまったのです。
雉の胸を貫通した矢は空へ高く上り、天の安の河の河原においでになった天照大御神と高木神の所に飛んでいきました。
高木神は、その矢をご覧になって、驚きなさいました。
血が付いた矢は、アメノワカヒコに授けた矢だったのです。
そこでまた諸々の神たちを集めてその矢を見せ「もしアメノワカヒコが命令に背かず、悪しき神を射た矢が届いたのであれば、アメノワカヒコには当たるな。
もし邪心があったならば、アメノワカヒコはこの矢にあたって死ぬ」と仰せになって、その矢を取り、矢でできた穴から衝き返してお下しになると、矢は寝ているアメノワカヒコの胸に当たって、アメノワカヒコは死にました。

 

36、「古事記」が描く高天原の統治機構は合議制です。
何か問題が起きると八百万の神が議論を重ねて結論を出し、その結論に従って天照大御神が詔を渙発なさいます。
たとえば、ここでも本文は「タカミムスヒノカミと天照大御神は天の安の河の河原に、八百万の神を集めさせ、思金神に思案させて、次のように詔あそばされました」と記しています。
そして、このような記述は繰り返し何度も出てくるのです。
天照大御神が政策を直接決定なさる事はありません。
高天原における意志決定の方法は、天皇の統治にも踏襲されています。
実際のところは、天皇の統治の方法が「古事記」の高天原の統治に投影されたと考えるべきでしょう。
天皇が直接政治を行わない事を「天皇不親政の原則」といいます。
たしかに、天皇の下に地方の豪族たちが束ねられたのが大和朝廷で、古代から合議制で国を運営していました。
その後、時代が下がっても天皇不親政の原則は継承され、飛鳥時代奈良時代平安時代はもとより、武家政権の時代と帝国憲法下、更には日本国憲法下においてもこの原則は守られました。
天皇不親政の原則は、その起源を高天原の統治機構に見る事ができます。


37、二柱の神は出雲国島根県出雲市)に降り立ち、建御雷神は十掬剣を抜き、逆さまに波の先に刺し立て、その剣先にあぐらを組んで座りながら、オオクニヌシノカミに「我々は、天照大御神とタカミムスヒノカミの命によって、次の事を問う為に遣わされた。
汝がうしはける(領有する)葦原中国は、我が御子の知らす(治める)国である、と任命なさった。
汝の考えはいかがなものか」と尋ねました。
するとオオクニヌシノカミは「私は申し上げるわけにはいきません。
我が子のヤエコトシロヌシノカミが申し上げることでしょう。
けれども、息子は鳥を狩りに、また魚を釣りに御大之岬まで行ったまま、帰っていません」とお答えになりました。
そこでアメノトリフネノカミを遣わせて、ヤエコトシロヌシノカミを呼んできて尋ねた時に、ヤエコトシロヌシノカミは父のオオクニヌシノカミに「かしこまりました。この国は、天つ神の御子に奉りましょう」と言って、その船を踏んで傾け、天の逆手という特殊な柏手で打って船を青紫垣に変えて、その中に隠れました。
ここにきてにわかに国譲りが実現しそうになりましたが、まだもうひと悶着起こります。


38、一方「うしはく」とは、政治の権力を指します。
政治の権力者は政策を決定する責任を負う者で、古代においては摂政・関白、武家政権の時代は将軍、近現代では内閣総理大臣が国を「うしはく」地位にあるといえます。
日本の歴史において、国を「うしはく」者は、例外なく天皇の任命を受けています。
現在の内閣総理大臣も同様です。
「国譲り」といってもオオクニヌシノカミの地位が明け渡されたわけではありません。
御雷神がオオクニヌシノカミに尋ねたのは次の2点を確認するためでした。
すなわち、第一にオオクニヌシノカミは葦原中国を「うしはく」存在であって「しらす」存在ではない事。
そして第二に、葦原中国を「しらす」のは日の御子である事、です。


39、高天原から遣わされた建御雷神と天鳥船神の二柱は、オオクニヌシノカミに「おまえの子のコトシロヌシノカミはこのように言ったが、他に意見を申す子はいるか」と尋ねると、オオクニヌシノカミは「もう1人我が子、タケミナカタノカミがいます。
これ以外に意見を申す者はいません」と申し上げました。
オオクニヌシノカミがこのようにお話しになっている間に、タケミナカタノカミが千人がかりで引くほどの大きな岩を手の先でもてあそびながらやって来ました。
タケミナカタノカミが「我が国にやって来て、こそこそと隠れて物を言うのは一体誰だ。
ならば力比べをしてやろうじゃないか。
私が先に手を取ってみせよう」と言いました。
ところが、タケミカヅチノカミがその手を取らせると、その手はたちまち氷の柱に変化し、更に剣となってタケミナカタノカミを襲おうとしたのです。
これに驚いたタケミナカタノカミは怖れて退きました。
今度はタケミカヅチノカミタケミナカタノカミの手をつかみにかかります。
タケミカヅチノカミはまるで若い葦を握りつぶすように、タケミナカタノカミの手を握りつぶし、たちどころに遠くへ投げ飛ばしてしまいました。
命の危険を感じたタケミナカタノカミは逃げました。
すると、タケミカヅチノカミがこれを追いかけていき、科野国の州羽の海(信濃国、長野県の諏訪湖)に追いつめ、殺そうとした時、タケミカヅチノカミは「どうか私を殺さないで下さい。
今後この地から他へは行かない事にします。
また、父オオクニヌシノカミの命令に背く事もいたしませんし、ヤエコトシロヌシノカミの言う事にも背きません。
この葦原中国は、天つ神御子の命ずるまま献上いたします」と言って頭を下げたのです。
タケミナカタノカミと天島船神は天つ神御子の考えに背かないと言っていたが、あなたの心はいかに」と聞きました。
オオクニヌシノカミはここに次のように申し上げました。
「私の子供、二柱の神の言うとおり、私も背くつもりはありません。
この葦原中国は命令に従って差し上げる事にいたしましょう。
ただ、天つ神御子が天津日継(皇位)をお受けになる、光り輝く宮殿のように、地盤に届くほどに宮柱を深く掘り立て、高天原に届くほどに千木を高く立てた、壮大な宮殿に私が住み、祭られる事をお許し下さい。
それが許されるのであれば、私は多くのまがり込んだ道を経ていく片隅の国(出雲国)に隠れて留まる事にいたしましょう。
また、それ以外の私の子供たち、百八十神には、ヤエコトシロヌシノカミが、神々の先頭に立ち、神々を統率するならば、それに背く神はいません」
このように申し上げると、オオクニヌシノカミは、出雲国の海岸近くに立派な宮殿(出雲大社)をお作りになり、水戸神の孫のクシヤタマノカミが料理をして服属の微(しるし)としての天の御あえを天つ神に献上しました。
こうして、タケミカヅチノカミ高天原に帰り、葦原中国を説得して平定した様子を、報告しました。
これが「古事記」に記された出雲の国譲り神話です。


40、昭和59年(1984)に出雲(島根県)の荒神谷遺跡から358本の銅剣が出土し、2世紀頃に祭祀によって統治された出雲国が存在していた事が有力となりました。
これまで日本全国で出土した銅剣が300本程度でしたから、一ヶ所でそれを上回る銅剣が出土した事で、出雲国が一定の軍事力を持った国であった事が想定されます。


41、出雲国大和国とは別の独立した国家だったなら、出雲国は、古墳時代に大和王朝の勢力下に組み込まれた事になります。
ところが、大規模な戦争があった事を示す考古学資料が発見されませんので、戦争はなく、話し合いで大和朝廷に統合された事が分かります。
すなわち、「古事記」が記す「国譲り」は、考古学の成果によれば、史実であった可能性が高いのです。
しかも、日本列島に統一国家が成立した古墳時代を通じて、戦争の形跡が見られず、文化の断絶もありませんから、大和朝廷は大方話し合いで諸国をまとめ、統一国家となったのでしょう。
これは世界史の奇跡と言うべきです。
もし「古事記」が史実を無視して、ただの空想物語を書いたものなら、タカミムスヒノカミの命を受けた神が国作りをして、出雲の国譲りは省略する事もできたはずです。
国譲りを書く事の難しさはすでに述べたとおりです。
では、なぜ「古事記」は国譲りの詳細を描いたのでしょう。
それは、出雲の国譲りが史実だったからに他ならないと私は考えます。


42、こうして、天照大御神とタカミムスヒノカミは太子(皇太子)であるマサカツアカチハヤヒアメノオシホミミノミコトに詔あそばされ「今、葦原中国を説得して平定したと報告があった。
よって、命令したとおりに、葦原中国に降って、国を知らせ(治めよ)」と仰せになりました。


43、次に、天照大御神とタカミムスヒノカミはアメノウズメノカミに「おまえはか弱い女であるが、神と向かい合った時に気後れしない神である。
だから、おまえが行って『我が御子が天降ろうとする道に、そのようにいるのは誰か』と尋ねなさい」と命ぜられました。


44、そして、御鏡を五十鈴宮(伊勢の神宮のないくう、三重県伊勢市)にお祭りになりました。
次に、トヨウケビメノカミは、外宮の渡相(伊勢の神宮の外宮、三重県伊勢市)に鎮座する神です。
次にアメノタヂカラオノカミは佐那那県に鎮座しています。
「佐那那県」は地名で「佐那の県」を指します(三重県多気町にアメノタヂカラオノカミを祭る佐那神社がある)。
ところで、降ってきたアメノコヤネノミコトは、中臣連らの祖です。
中臣連は大和朝廷の祭祀を行った氏族で、後に子孫とされる中臣鎌足が「藤原」の姓を与えられ、藤原氏となります。


45、天照大御神ニニギノミコトが降臨する時に、鏡・勾玉・剣の3点を賜いました。
このうち、鏡は別格で、天照大御神が「この鏡は、私の御魂として、我が身を拝むように祭りなさい」と仰せになった事から、天照大御神の御魂が宿る特別なものとされています。
三種の神器天皇皇位の証であり、三種の神器の授受は皇位継承の重要な要素です。
古事記」のこの部分の記述については、後の神武天皇即位について三種の神器の継承が記されていない事から、三種の神器の起源を語っているわけではないともいわれますが、私はそう思いません。
天照大御神ニニギノミコトに神器を下賜あそばしたのには、必ず意味があるはずです。
これらの神器は、葦原中国の統治に必要不可欠なものに違いありません。
後にニニギノミコトの孫が初代天皇に即位あそばされますので、ニニギノミコト三種の神器は必ず、神武天皇に受け継がれているはずです。
もし「古事記」が神武天皇御即位の場面を記述していて、三種の神器に関する記事が欠落しているならともかく、「古事記」には神武天皇御即位の場面そのものが書かれていません。
ですから、神武天皇御即位について三種の神器の継承が記されていないからといって、「『古事記』は三種の起源を語っていない」という事にはなりません。
神代に作られた三種の神器は、天皇天皇である事の証であり、天孫によって高天原から葦原中国に持ち込まれ、歴代天皇によって継承され、現在に至ると考えなくてはなりません。


46、そこでニニギノミコトは「ここは韓国(古代朝鮮)に向かい、笠沙之岬(鹿児島県南さつま市笠沙町の野間岬)に道が通じていて、朝日がまっすぐに射す国、夕日の日が照る国である。
だから、この地はとても良い地だ」と仰せになって、地の底にある岩盤に届くほど深く穴を掘って、太い宮の柱を立て、高天原に届くほど高く千木を立てて、そこにお住みになりました。
このようにして、天照大御神の孫が、葦原中国を治める為に、高天原から降っていらっしゃいました。
これが「天孫降臨」です。


47、ニニギノミコトの降臨によって、神武天皇につながる日向三代が始まります。
日向三代は神の世から人の世へと移行する過渡期だと考えられます。
高天原は現実の世界との重なりが不明ですが、葦原中国は現実の世界そのものであり、ニニギノミコトが降臨あそばれた高千穂を始め、「古事記」が記す数々の地名、そして神社や遺跡が今も残ります。
しかし、高千穂の場所をめぐっては、古くから九州南部の霧島連峰の「高千穂峰」と宮崎県「高千穂町」の二つの説が対立しています。
では、なぜニニギノミコトは高千穂に降臨なさったのでしょう。
出雲の国譲りを経た直後ですから、出雲に降臨なさる方法もありました。
また「古事記」編纂にあたり、大和朝廷の権威を最大限に高める意図を発揮して、降臨の地を三輪山とする方法もあったはずです。
これについては二つの視点から考えます。
まず「古事記」そのものから答えを導き出そうとするなら、天照大御神生誕の地だからという理由になるでしょう。
古事記」が記す降臨の地は「筑紫の日向の高千穂のくじふる嶽」ですが、筑紫の日向はかつてイザナキノカミが禊をなさって天照大御神がお生まれになった場所でした。
天孫であるニニギノミコトが最も由縁のある筑紫の日向の地に降臨あそばされた事は、とても自然な事だと思います。
次に、考古学の視点から考えます。
古事記」は後に神武天皇が本拠を日向から大和にお移しになる東征を伝えていますが、ニニギノミコトの降臨が日向である事と関係があると考えられます。
古墳時代、鉄器の鋳造は国家規模の事業でした。
弥生時代に九州地方でみられた鉄器が後に大和でもみられるようになったのは、王権を象徴するものが九州から大和に移動した結果と思われます。
また2世紀後半には瀬戸内海を中心に防衛を意図したと思われる高地性集落遺跡が集中している事は、神武天皇の東征伝説と符号します。
中国の史料である「後漢書」にも、この時期に「倭国大乱」があったと記します。
降臨の地が筑紫の日向であるのは、王朝成立のきっかけとなった軍事的な勢力が、南九州から畿内に移動して来た事が史実であるからではないでしょうか。


48、ある日、ニニギノミコトは、笠沙之岬で麗しい美人と出会いました。
ニニギノミコトは一目で恋に落ちてしまいました。
ニニギノミコトが「あなたは、誰の娘か」とお尋ねになると「オオヤマツミノカミの娘で、名はコノハノサクヤビメと申します」と答え、続けてニニギノミコトが兄弟についてお尋ねになると「姉のイワナガヒメがおります」と申し上げました。
ここでニニギノミコトが「私はあなたと結婚したいと思うが、どうか」とお尋ねになると「私から申し上げる事はできません。私の父、オオヤマツミノカミが申し上げる事でしょう」と答えました。
ニニギノミコトは早速、その父、オオヤマツミノカミの所に尋ねに使いを遣わせると、オオヤマツミノカミは大いに喜び、コノハノサクヤビメに、姉のイワナガヒメを添えて、沢山の嫁入り道具を持たせて、送り出しました。
古代では、結婚は家同士の結び付きなので、1人の男性に姉妹が同時に嫁ぐ姉妹婚はよく行われていたのです。
ところが、容姿端麗なコノハノサクヤビメに対し、姉のイワナガヒメは大変醜くかったのです。
初めて会ったニニギノミコトはその醜さに驚き恐れ、その日のうちにイワナガヒメを実家にお返しになりました。
そしてその晩、妹のコノハノサクヤビメだけをお留めになり、交わったのです。


49、その後しばらくすると、コノハノサクヤビメがニニギノミコトのもとにやって来て、「私は妊娠しました。
今、産むにあたり、この天つ神の御子は、私事としてこっそり産むべきではありませんので、お伝えしました」と申し上げました。
すると、ニニギノミコトは「コノハノサクヤビメよ、たった一夜の交わりで妊娠したと言うのか。
それはきっと私の子ではない。
きっと国つ神の子であるに違いない」と疑って仰せになりました。
コノハノサクヤビメは次のように答えて申し上げました。
「私が産む子が、もし国つ神の子ならば、無事に出産する事はないでしょう。
しかし、もし天つ神の子であるならば、無事に出産する事でしょう」
このように申し上げると、コノハノサクヤビメは出入り口の無い八尋殿(高い神聖な建物)を作り、その中に入ると、内側から土で塗り塞ぎ、出産が近づくとその御殿に自ら火を放ち、その燃えさかる火の中で子を生みました。
コノハノサクヤビメは体を張って、生まれた子がニニギノミコトの子である事を証明して見せたのです。
火の中で生まれた子は、ホデリノミコト。
これは隼人の阿多君(薩摩国阿多部、鹿児島県南さつま市を本拠とした豪族)の祖です。
次にホスセリノミコト、次にホオリノミコト。
併せて三柱です。


50、ニニギノミコト自身にも寿命が与えられてしまったようです。
原則として神は死にませんから、これまで神の墓はありませんでした。
しかし、「日本書紀」にはニニギノミコト崩御の記事と、埋葬地の記事がみえます。
つまり、ニニギノミコトには墓があるのです。
ニニギノミコトの御陵に比定されたのは、新田神社(鹿児島県薩摩川内宮内町)で、現在は宮内庁が管理しています。
この後に登場するニニギノミコトの子のホオリノミコト(山幸彦)と、その子のウカヤフキアエズノミコトも同様に「日本書紀」に崩御と埋葬の記事があり、比定された御陵があるのです。
ホオリノミコトについては、後に「古事記」でも埋葬について語られます。
このように、日向三代の時代に、天つ神御子には寿命が与えられ、その子孫の歴代天皇にも自ずと寿命が与えられる事になります。
天つ神御子がこの時代に神から人に成ったのです。
ただし、神としての性格が失われた事を意味するものではありません。
天皇が人である事に疑いの余地はありませんが、神としての性格を備えているのです。

 

51、ニニギノミコトとコノハノサクヤビメの間に生まれた子のうち、ホデリノミコトは「海の獲物をとる男」という意味の海佐知毘古(海幸彦)として、海の大小の魚を獲っていらっしゃいました。
またホオリノミコトは「山の獲物をとる男」という意味の山佐知毘古(山幸彦)として、色々な獣を獲っていらっしゃいました。


52、ニニギノミコトと山の神の間にお生まれになったホオリノミコト(山幸彦)は、海の神の宮殿に旅をして、海の神の娘と結ばれた事により、今度は海の神の霊力をも手にする事になりました。
しかも、間もなくホオリノミコトは海の神の娘との間に子を授かります。
そして、後にホオリノミコトの孫が初代神武天皇に即位あそばされますが、このようにして、葦原中国の統治者として理想的な血統が整えられていくのです。
ワタツミノカミの宮を訪問する物語は、ホオリノミコトが海の神の娘と結ばれた事と、後継者を得る事が重要な要素であると思われます。


53、これまで、天照大御神の御子のアメノオシホミミノミコトがタカミムスヒノカミの娘を娶ってニニギノミコトがお生まれになり、ニニギノミコトが山の神の娘を娶ってホオリノミコト(山幸彦)がお生まれになり、ホオリノミコトが海の神の娘を娶ってウカヤフキアエズノミコトがお生まれになり、更にはウカヤフキアエズノミコトが再び海の神の娘を娶ってカムヤマトイハレビコノミコト(後の神武天皇)がお生まれになる経緯をみてきました。
したがって、カムヤマトイハレビコノミコトは天照大御神スサノオノミコトの男系の男子でいらっしゃるうえに、天地初発で成ったコトアマツカミのタカミムスヒノカミの系統をも受け継いでいらっしゃるだけでなく、海の神と山の神の系統をも受け継いでいらっしゃいますので、日の神、初発の神、海の神、山の神の霊力を余すところなく具えていらっしゃる事になります。
これにより、天つ神の御子は地上世界を統治する正当なる力を得ました。
古事記」は以降、初代神武天皇をはじめ、歴代の天皇について享年と御陵の場所を明記しています。


54、そこから更に回り込み、紀国(紀伊国和歌山県三重県南部)の男之水門にお着きになると、イツセノミコトは「賤しき奴に手傷を負わされて死ぬ事になるとは」と雄叫びをあげ、その傷がもとで死んでしまいました。
兄を亡くしたカムヤマトイハレビコノミコトは、それでもその地より更に回り込んでお進みになりました。
一行が熊野村(和歌山県新宮市付近か)に着いた時、大熊が見えたり隠れたりして、そのうちいなくなったのですが、その時からというもの、カムヤマトイハレビコノミコトは急に体調をお崩しになり、床にお臥せになりました。
それだけではありません、従う兵士たちもみな具合を悪くして、寝込んでしまいました。
ところがこの時、熊野のタカクラジがひと振りの太刀を持って、天つ神御子(カムヤマトイハレビコノミコト)が臥していらっしゃる所に行って、その太刀を奉ると、天つ神御子はようやく起き上がり「長い間寝てしまった」と仰せになりました。
そしてその太刀お受け取りになると、何もなさらないのに、熊野の山の荒ぶる神は自ら切り倒されてしまい、臥して寝込んでいた兵士たちは、ことごとく目を覚ましました。
そのようなわけで、天つ神御子が、その太刀を得たいきさつをお尋ねになったところ、タカクラジは次のように申し上げました。
「私は不思議な夢を見ました。
天照大御神とタカミムスヒノカミの二柱の神は、タケミカヅチノカミをお呼びになってこう仰せになったのです。
葦原中国(地上世界、特に日本を指す)はとても騒がしい様子である。
私の子供たちも苦しんでいるようだ。
その葦原中国は、そもそもおまえが説得して平定した国であるから、タケミカヅチノカミ、あなたが降っていきなさい』。
するとタケミカヅチノカミは答えて言いました。
「私が地上に降らなくとも、その国を平らげた太刀があります。
ですからその太刀を降ろすべきでしょう
この太刀を降ろす方法は、タカクラジの倉の屋根に穴を開け、そこから落とし入れるのが良いでしょう」。
こう言うと、今度は私に「朝に縁起よく目覚めたら、あなたが取り持って天つ神御子に献上しなさい」と仰せになりました。
私は夢の教えのままに、朝になって自分の倉を見てみると、本当に太刀があったのです。
それでこの太刀を差し上げました」。
この刀は石上神宮奈良県天理市石上神宮)に鎮座しています。


55、また、「古事記」からは、カムヤマトイハレビコノミコトが日の神の御子である事を強く意識していらっしゃる事が読み取れます。
そもそも東征の目的は平和に天下を治める事ができる場所を探す事でした。
そして、二柱の兄弟は、その地は東にあるとお考えになったのです。
東に向かうという事は、つまり日が昇る方向に向かって旅をする事を意味します。
そして、この旅の出発点が「日向」だったのです。
日向は皇室の発祥の地として、ふさわしい地名ではないでしょうか。


56、タカクラジが霊剣を献上した事で天つ神御子は一難を逃れました。
すると、タカミムスヒノカミは命令して仰せになりました。
「天つ神御子よ、ここから奥の方にすぐに御出ましになってはなりません。
荒ぶる神がとても沢山います。
今、天より矢田カラスを遣わします。
そうすれば、その矢田カラスが導くはずですから、その後をお進みになるとよいでしょう」。
そこで天つ神御子は、その教えのとおりに、矢田カラスの後についてお進みになると、吉野河の河尻(下流)にお着きになりました。
その時、筌を作って魚を獲っている人がいました。
天つ神御子が「あなたは誰だ」とお尋ねになると「私は国つ神。名はノエモツノコといいます」と申し上げました。
これは阿陀の鵜飼(阿陀は奈良県五條市。阿陀の鵜飼は、鵜を飼って魚を獲り朝廷に納めた集団)の祖です。
そこから更にお進みになると、尾の生えた人が井戸から出て来ました。
その井戸は光っていました。
そこで「あなたは誰だ」とお尋ねになると「私は国つ神。名はイヒカといいます」と申し上げました。
これは吉野首(大和国吉野郡、奈良県吉野郡の氏族)らの祖です。
「尾の生えた人」というのは、吉野地方の木こりが尾のように見える毛皮を付ける習慣があり、それを「尾の生えた人」と表現したのでしょう。
そしてその山に入ると、また尾が生えた人に出会いました。
この人は岩を押し分けて出て来ました。
そこで「あなたは誰だ」とお尋ねになると「私は国つ神。名はイワオシワクノコといいます。
今、天つ神御子がいらっしゃると聞いたので、出迎える為に参りました」と申し上げました。
これは吉野の国巣の祖です。
ところで、吉野の国巣は吉野の土着の氏族で、大嘗祭などに服属儀礼として歌舞を奏で物産を献上してきました(現在、奈良県吉野町に国栖の地名が残る)。
その他より踏みうかち越え、宇陀の地(吉野から奈良盆地に至る途中、奈良県宇陀市)にお進みになりました。
「踏みうかち越え」とは穴が開くほど強く踏み越えたという意味です。
このような土着の氏族が名乗る一連の逸話は、その地の首長たちが次々に天つ神御子に服従した事を示すものだと考えられています。


57、宇陀にはエウカシとオトウカシの2人がいました。
そこで、天つ神御子はまず矢田カラスを遣わせて、2人にこのようにお尋ねになりました。
「今、天つ神御子がおいでになっていらっしゃる。あなたたちも仕え奉らないか」
ところが、エウカシが鳴鏑で矢田カラスを射って追い返しました。
2人の兄弟は、天つ神御子を待ち受けて撃とうと、兵士を集めました。
ところが十分な兵士を集める事ができず、「仕え奉ります」と偽って伝え、その間に大きな御殿を作り、御殿の中に押機(踏むと打たれて圧死するように仕掛けた罠)を作って待ちました。
すると、オトウカシは1人で天つ神御子を出迎え、跪いて「私の兄のエウカシは天つ神御子の使いを射返し、待ち受けて攻めるために軍を集めようとしましたが、思うように集まらず、御殿を作り、その中に押機を仕掛けています。
ですから出迎えて兄の企てを白状しました」と申し上げました。
そこで大伴連らの祖のミチノオミノミコトと、久米直らの祖のオオクメノミコトの2人がエウカシを呼び「自分がお仕えするために作った御殿の中には、おまえがまず入り、どのように仕え奉ろうとするのかを明らかにしろ!」と罵って言い、太刀の柄を握り、矛を向けて弓に矢をつがえて、エウカシを御殿の中に追い入れました。
するとエウカシは、自分が作った押機に打たれて死にました。


58、戦に勝利した天つ神御子は、その地より更にお進みになり、忍坂(奈良県桜井市)にある、岩をくりぬいて作った大きな家にお着きになりましたが、尾の生えた土雲(大和朝廷に従わなかった土着民をさげすんでいう言葉)の八十建(多くの勇猛な者たちの意)がその岩穴で待ち構え唸っていました。
そこで天つ神御子の命令によって、八十建に御馳走が届けられました。
そして八十建に、多くの調理人を付けて、1人ずつに太刀を偑かせて、その膳夫たちに「歌が聞こえたら、すぐに皆で切りかかれ」と言っておきました。~このように歌い、刃を抜いて、もとともに土雲を打ち殺しました。


59、ところで、「師木」は大和の地名です。
エウカシとオトウカシは師木の豪族と思われます。
この兄弟は「日本書紀」にはエシキ・オトシキとして登場し、兄はカムヤマトイハレビコノミコトに反抗して滅ぼされ、弟は帰順してシキノアガタヌシとなったと記されています。
エシキとオトシキを撃つと、そこへニギハヤヒノミコトが現れて、天つ神御子に「天つ神御子が天降りされると聞いたので、追って降って来ました」と申し上げ、天津璀(天つ神の子孫であることの印)を献上して天つ神御子に仕える事になりました。
ニギハヤヒノミコトは天つ神御子よりも先に大和の地に入り、トミビコを従えていたのです。
そしてニギハヤヒノミコトがトミビコの妹のトミヤビメを妻にして生んだ子はウマシマジノミコトで、物部連、穂積臣、婇臣の祖にあたります。


60、これまでカムヤマトイワレビコノミコトの戦いは、具体的に書かれていましたが、ヤソタケルとの戦い以降は、歌によって綴られています。
そのため、戦いの経緯は何も語られていません。
知る事ができるのは、苦戦しながらも連勝した事です。


61、大和平定と神武天皇御即位は、我が国の建国を意味します。
現在、2月11日は「建国記念の日」という祝日になっていますが、これは「日本書紀」の神武天皇御即位の記述に、2月11日と定められたものです。
ヤマト王権は、間もなく大和王朝に発展し、その後、1度の王朝交代も無く、現在の日本国につながります。
そして、初代の神武天皇から、現在の第125代の今上天皇(現在の天皇陛下)まで、連綿と皇統が継承されているのです。
ですから、我が国の建国を祝う日は、神武天皇御即位以外に妥当する日はあり得ないのです。
したがって、「古事記」が記す神武天皇御即位までの物語は、日本の建国の物語だった事になります。
神武天皇が天下をお治めになったカシハラノ宮は最初の皇居であり、我が国最初の都でもあります。
これ以降は、天皇の統治がどのように行われてきたか、すなわち、天皇の統治の歴史が記されています。
ところで、「古事記」からは神武天皇御即位の年代を特定する事はできませんが、「日本書紀」の記述によれば、紀元前660年(西暦)となります。
これには考古学の見地から反論がありますが、逆に考古学の成果では、三輪山周辺に前方後円墳が作られた3世紀初頭がヤマト王権成立の根拠となる為、どれだけ遅く見積もっても、ヤマト王権は3世紀初頭には成立していた事になります。
王権成立の兆しが現れた途端に巨大古墳を造営する事はほぼ不可能ですから、王権成立のきっかけは、3世紀初頭からだいぶ遡ると考えるべきでしょう。


62、大和平定は、高天原から降ってきたというニギハヤヒノミコトが、カムヤマトイワレビコノミコトに服従した事により成し遂げられました。
このニギハヤヒノミコトとは一体何者なのでしょう。
これについては、諸説あり、定まりません。
もちろんニギハヤヒノミコトはこの時点で初出です。
ニギハヤヒノミコトは、カムヤマトイワレビコノミコトとは別系統の天孫氏族です。
ところが、ニギハヤヒノミコトはカムヤマトイワレビコノミコトよりも先に大和に入り、しかも、すでにカムヤマトイワレビコノミコトの宿敵であるトミビコを従えていました。
カムヤマトイワレビコノミコトは、かつて浪速之渡(大阪湾の沿岸部)でトミビコと戦い、イツセノミコトが戦死しています。
そして、ここの「久米歌」にあるように、再びトミビコと一戦を交えています。
高天原から振ってきたニギハヤヒノミコトは、そのトミビコを従えていたというのですから、大したものです。
しかもニギハヤヒノミコトはトミビコの妹を妻にしていますから、ニギハヤヒノミコトとトミビコは近い親戚です。
豪族の娘を娶る事によって、その土地の神の霊力を手にするという考え方がありました。
つまりニギハヤヒノミコトはカムヤマトイワレビコノミコトよりも先に大和に入り、トミビコを従えて、土地を支配していた事になります。
ニギハヤヒノミコトはカムヤマトイワレビコノミコトに天津瑞を渡しました。
これは服従の作法であり、国譲りを彷彿とさせます。
トミビコは大和の豪族ですから、トミビコを倒す事によって、大和平定が実現するはずでしたが、ニギハヤヒノミコトがカムヤマトイワレビコノミコトに服従の意を表した事で、トミビコとの戦闘を経ずに大和平定が完成したのです。
また、ニギハヤヒノミコトとトミビコの妹との間に生まれた子が、物部連らの祖であることも、非常に興味深い事です。
物部連は大伴氏と並んで朝廷の軍事を司る伴造氏族です。
では、なぜ神武東征にニギハヤヒノミコトが登場するのでしょうか。
それは、「古事記」に出雲の国譲りが語られるのと同じ理由があったのではないかと思います。
すなわち、カムヤマトイワレビコノミコトと同系の一族が大和を支配していた事が史実だったからです。
そうでなければ、このようなきわどい話題は「古事記」に書き記す必要がありません。
しかも、物部連の祖ですから、一定の影響力があったはずです。
したがって、史実であったがために、国譲りと同様、歴史書編纂に当たり語らないわけにはいかなかったものと思われます。


63、天つ神御子(カムヤマトイワレビコノミコト)は、即位前に九州の日向(九州南部)の地においでになった時、すでに結婚あそばされ、2人の御子がありました。
その妃は、阿多(鹿児島県南さつま市)のオバシノキミ(阿多隼人の一族)の妹の、アヒラヒメです。
そして、2人の間に生まれた御子は、タギシミミノミコトとキスミミノミコトといいます。
しかし、御即位後、さらに大后(皇后)とすべき美人をお求めになっていると、オオクメノミコトが次のように申し上げました。
「このあたりに『神の御子』というべき乙女がいます。
というのも、ミシマノミゾクイ(摂津国三島郡の豪族か)の娘の、セヤダタラヒメは、その姿かたちはとても麗しく、三輪山のオオモノヌシノカミが一目見てすっかり気に入ってしましました。
その美人が大便をする時、オオモノヌシノカミは赤く塗った矢に化けて、美人が大便をするその厠の溝へ流れ下って、その美人の陰(性器)を突きました。
するとその美人は驚いて立ち上がって走り、あわてふためきました。
すぐにその矢を持ってきて床に置くと、矢はたちまち麗しい壮夫になりました。
そして、オオモノヌシノカミがその美人を娶って生んだ子の名は、ヒメタタライスケヨリヒメといいます。
このようなわけで、『神の御子』というのです」。
ところで、またの名があるのは「富登」が女性の陰部を示す言葉であるため、これを嫌い、後に改めたものです。
さて、ある時7人の乙女が高佐士野(奈良県桜井市三輪の大神神社の北の台地か)で遊んでいました。
その中にはイスケヨリヒメもいました。
そこでオオクメノミコトがそのイスケヨリヒメを見ると、次の歌を詠んで天皇に申し上げました。
~そして、イスケヨリヒメは「仕え奉ります」と答えました。
イスケヨリヒメの家は狭井河の上流にありました。
天皇はイスケヨリヒメの所に行幸あそばされ、一夜を寝てお過ごしになりました。
後にイスケヨリヒメが宮中に参内なさった時、天皇は次の御製をお詠みになりました。
こうして生まれた御子の名は、ヒコヤイノミコト、次にカムヤイミミノミコト、次にカムヌナカワミミノミコト(後の第2代綏靖天皇)の三柱です。


64、イスケヨリヒメの父のオオモノヌシノカミは、出雲国譲り神話で、天つ神御子に葦原中国を譲ったあのオオクニヌシノカミの分身という考え方がありますが、もしこの見地に立つならば、神武天皇とイスケヨリヒメの結婚は、高天原系と出雲系が結合した事を意味します。
神武天皇は大和の氏神の娘を娶る事で、土地の神の霊力を得て、大和の統治者としての正当性をお持ちになった事になります。
神武天皇が地上世界の統治者となる為には、避けて通る事ができない結婚だったのです。
この結婚により、天皇の系譜は、天つ神と国つ神の系譜を統合させたものになります。
いよいよ、統治権の総覧者たる天皇にふさわしい血統が整えられたのです。
あらゆる面から、神武天皇は正統な統治者となったのです。
ところで、オオモノヌシノカミの国作りで「三輪山の上に巫すの神」が、自分を祭るようにオオモノヌシノカミに仰せになった記述がありました。
その時は神名も明確にされていませんでしたが、三輪山の神がオオモノヌシノカミである事が、ここで判明します。


65、神武天皇が崩りました。
すると、神武天皇が日向においでになった時に生まれた、長男のタギシミミノミコトが、神武天皇の后であるイスケヨリヒメを妻にしました。
タギシミミノミコトはイスケヨリヒメがお生みになった三皇子らの腹違いの兄です。
息子が母親と結婚するのは、現在では考えられませんが、当時の先帝の后を妻にする事は、王位の継承者である事を示す意味があったのです。
イスケヨリヒメは神武天皇が大和の地においでになってから娶った女性なので、タギシミミノミコトの生母ではなく、義母に当たります。
しかし、タギシミミノミコトは3人の弟を殺そうとして陰謀をめぐらせていました。
すると、イスケヨリヒメは憂い苦しみ、子供たちに陰謀の事を伝える為に、次の御歌をお詠みになりました。
ここで、兄のカムヤイミミノミコトは、弟のカムヌナカワミミノミコトに皇位を譲り「私は仇を殺す事ができなかった。
あなたは仇を見事に殺した。
したがって、私は兄ではあるけれども、天皇とはならず、これをもってあなたが天皇となり、天の下を治めなさい。
私はあなたを助け、祭りを行う人として仕えましょう」と言いました。
ゆえに、カムヌナカワミミノミコトが天皇に即位あそばされ、天の下をお治めになりました。
第2代綏靖天皇です。


66、神武天皇崩御の後、タギシミミノミコトを倒したカムヌナカワミミノミコトが即位あそばされました。
第2代綏靖天皇です。
綏靖天皇から開化天皇までの8代の天皇については、これまでと異なり、誰と結婚して誰を生んだかという記述が延々と続く為、そのまま文章にするととても退屈な文章になってしまうので「古事記」に書かれた事は、すべて一覧の形式にまとめました。
第2代綏靖天皇から第9代開化天皇までは、熟読しなくてもその後の物語は理解できるはずです。


67、「古事記」には、綏靖天皇から開化天皇までの8代の天皇について、崩御の年齢、宮廷の場所、御陵の場所、妻と子供の名前などを記しているだけで、具体的な御事業などは明らかにされていません。
そのため、この8代の天皇は「欠史八代」と呼ばれる事があります。
ところで、実在の真偽はともかく、「古事記」の8代の天皇の記述には、重要な事も含まれています。
それは多くの豪族の氏祖注が書かれている事です。
たとえば、間もなく政治に深く関わり、政権を掌握する事になる蘇我氏の系譜もこの部分に書かれています。


68、綏靖天皇崩御の後、第1皇子が即位あそばされました。
第3第安寧天皇です。


69、安寧天皇崩御の後、第2皇子が即位あそばされました。
第4代懿徳天皇です。


70、懿徳天皇崩御の後、第1皇子が即位あそばされました。
第5代孝昭天皇です。


71、孝昭天皇崩御の後、第2皇子が即位あそばされました。
第6代孝安天皇です。


72、孝安天皇崩御の後、第2皇子が即位あそばされました。
第7代孝霊天皇です。


73、孝霊天皇崩御の後、皇子が即位あそばされました。
第8代孝元天皇です。


74、孝元天皇は「欠史八代」の一代として、長年実在が疑われていましたが、昭和43年(1968)に発見された埼玉県稲荷山古墳出土鉄剣銘に「意富比垝」と書かれていた事から、孝元天皇の皇子であるオオビコノミコト(『日本書紀』ではオオヒコノミコト)の実在が確認されました。
したがって、その父である孝元天皇も実在したと考えられるようになったのです。
オオビコノミコトは、後の崇神天皇の条に見えるとおり、軍を率いて北陸道方面に遠征し、諸国を平定する事になります。


75、孝元天皇崩御の後、第3皇子が即位あそばされました。
第9代開化天皇です。


76、開化天皇崩御の後、第3皇子が即位あそばされました。
第10代崇神天皇です。
限られた情報しか記載の無かった欠史八代と比べると、崇神天皇については細かく記されています。
崇神天皇は師木の水垣宮(奈良県桜井市)で天下をお治めになりました。
天皇は、3人の后妃との間に、男玉7、女玉5、併せて12柱の皇子女を儲けました。


77、崇神天皇の息子のうち、イクメイリビコイサチノミコトが次に天皇の御位あそばされます。
後の第11代垂仁天皇です。
崇神天皇の御世には疫病が多く起こり、人民は死んで尽きそうになりました。
この時、天皇はお悲しみになり、嘆いて神床という、夢に神意を得るために特別に清めた寝床で夜お眠りになっていらっしゃると、オオモノヌシノカミが夢に現れ、次のように仰せになりました。
「これは我が御心である。
オオタタネコに我が御魂を祭らせなさい。
そうすれば神の祟りも起こらず、国は安らかに治まるだろう」。
早速、天皇は早馬による使いを四方に御差遣になり、オオタタネコという人を探させ、河内の美努村(大阪府八尾市)にその人を見付けました。
そこで天皇が「あなたは誰の子か」とお尋ねになると「私はオオモノヌシノカミがスエツミミノミコトの娘のイクタマヨリビメを娶って生んだクシミカタノミコトの子の、イイカタスミノミコトの子の、タケミカヅチノミコトの子のオオタタネコです」と申し上げました。
すると、天皇は大いにお喜びにあり「天下は治まり、人々は栄える」と仰せになってオオタタネコを祭主として御諸山にオオモノヌシノカミを拝み祭りました。
これによって疫病はすっかり止み、国は安らかに治まりました。


78、オオモノヌシノカミが登場するのはこれで3回目です。
1回目は上つ巻で、自分を祭るようにオオモノヌシノカミに仰せになる場面。
2回目は神武天皇の条で、オオモノヌシノカミの娘である皇后の出自が語られる場面でした。
今回は祟り神として現れ、オオタタネコに自分を祭らせるよう、崇神天皇に求めます。
これにより三輪山祭祀の形が確立されたと考えられます。
神武天皇はオオモノヌシノカミの娘媠にあたりますが、オオモノヌシノカミは、神武天皇ではなく、自らの子孫にあたるオオタタネコに祭祀を行わせるようにお求めになりました。
ここに、祭祀は男系の子孫によって継承されるべきであるという、祭祀継承の原則があった事を見る事ができます。
天皇の祭祀も同様に、男系の子孫によって継承され、現在に至ります。
現在の日本の一般社会においても変わる事はありません。
神棚や仏壇、そしてお墓などを考えれば、祭祀の継承は、日本の家族制度と不可分一体である事が分かると思います。


79、崇神天皇は、第8代孝元天皇の御子であるオオビコノミコトに高志道(北陸道)に御差遣になり、オオビコノミコトの子であるタケヌナカワワケノミコトを東方十二道(東海地方を中心とした諸国)に御差遣になって、大和朝廷に従わない人々を和らげ平定させました。
また崇神天皇の兄弟にあたるヒコイマスノミコを丹波国京都府兵庫県の一部)に遣わせてクガミミノミカサを殺させました。


80、さて、その後オオビコノミコトは、最初の命令のとおりに高志国に向かいました、
途中、相津(会津国、福島県)で、東方に派遣されていた子のタケヌナカワワケノミコトと行き会いました。
それでその地を相津というのです。


81、崇神天皇崩御あそばされました。
古事記」では、この時初めて干支が付けられます。
戊寅は西暦258年に核当すると思われます。


82、神武天皇がお作りになった国は、大和の一部を治める小国だったのに対し、崇神天皇はその国を拡張させ、大和国を統一し、更には周辺諸国にも勢力を拡大させたのです。
ちなみに、第12代景行天皇の御世では南九州から関東に勢力が拡大します。


83、イクメイリビコイサチノミコトは師木の玉垣宮(奈良県桜井市)で天下をお治めになりました。
第11代垂仁天皇です。
天皇は2人の后と5人の妃の間に、13柱の王と、3柱の女王を儲けました。


84、垂仁天皇の皇子のうちオオタラシヒコオシロワケノミコトが次に践祚あそばされます。
後の第12代景行天皇です。
次にイニシキノイリビコノミコトは血沼池(大阪府泉佐野市にあった池)、狭山池(大阪府大阪狭山の池)、日下の高津池(大阪府東大阪にあった池)を作りました。
いずれも農業用の溜池です。
次に、ヤマトヒメノミコトは伊勢大神宮を拝み祭りました(伊勢神宮の創建)。


85、母親のサホビメは自害してしまいましたが、その御子は、父親である垂仁天皇のもとで育てられました。
さて、天皇が御子をお遊びになる様子は、尾張(愛知県西部)の相津(所在未詳)にある、二股に分かれている杉の木から二股の丸木舟を作って、それを大和国奈良県)の市師池や軽池に運んで浮かべてお遊びになるほどでした。
ところが、この御子は、幾握りもある長い顎鬚が胸元に垂れ下がるまで、言葉をお話になりませんでした。
ある時、空高く飛んでいく白鳥の声をお聞きになって、御子が初めて口をパクパクさせてものを言おうとなさいました。
そこで天皇山辺オオタカという人物を遣わせて、その鳥を捕らせようとなさいました。
そして、この人はその白鳥を追って、木国(和歌山県)から針間山県(兵庫県南西部)に至り、また追って稲羽国(鳥取県東部)を越えて、丹波国京都府兵庫県の一部)、多遅麻国(主に兵庫県北部)に至り、東の方に追い廻り、近淡海国(滋賀県)に至り、三野国(岐阜県南部)を越え、尾張国(愛知県西部)を通って科野国(長野県)に追い、ついに高志国(北陸地方)に追い至り、その鳥を捕まえて天皇に献上しました。


86、また、垂仁天皇は、ミヤケノムラジ(新羅系渡来氏族)の祖である、タジマモリを常世国(海の彼方にある不老不死の国)に御差遣いになって、非時香木実という1年中採れる香りの良い木の実を求めさせました。
そして、タジマモリがついにその国に至り、その木の実を採り、矛八矛を持って帰ろうとしましたが、その間に天皇崩御あそばされました。
垂仁天皇の御陵は御立野の中にあります(奈良県奈良市、尼辻宝来山古墳)。


87、オオタラシヒコオシロワケノミコトは、日代宮(奈良県桜井市)において天下をお治めになりました。
第12代景行天皇です。
天皇は多くの妻をお持ちになり、80人の御子を授かりました。
これらの御子の中でもワカタカシヒコノミコトとヤマトタケルノミコトとイオキノイリコノミコトの3王は、皇位を継承する資格を持つ太子におなりあそばされます。


88、景行天皇は三野国(岐阜県)にエヒメとオトヒメという、それはたいそう美しい嬢子がいるとお聞きになりました。
この姉妹はミノノクニノミヤツコの祖であり、オオガミヌシの娘です。
そこで、天皇は、御子のオオウスノミコトを姉妹の所に御差遣いになり、2人を連れて来るように命ぜられました。
しかし、遣わされたオオウスノミコトは、美しい姉妹を天皇の元に連れ帰らず、自分がその2人と結婚してしまいました。


89、そこで天皇が「どのように言い聞かせるのか」とお尋ねになると、オウスノミコトは「明け方に兄が厠に入った時、待ち構えてつかみ潰して、手足を引き裂いて、袋に包んで投げ捨てました」と申し上げました。


90、ヤマトタケルノミコトが西征を終えて大和にお帰りになると、父の景行天皇は「東方十二道(東海地方を中心とした諸国)の荒ぶる神、及び従わない者どもを説得して平定せよ」と命ぜられました。
ヤマトタケルノミコト天皇の命令を受けて東にお出掛になる時、伊勢の大御神宮(伊勢神宮)に参り、神のおわすお宮を拝みました。
尾張の国に着いたヤマトタケルノミコト尾張国造(愛知県の豪族)の祖である、ミヤズヒメの家にお入りになりました。
そして相武国(相模国、神奈川県)に御出ましになった時、そのクニノミヤツコが偽って「この野の中に大沼があり、この沼の中に住む神は、とても道速振る(霊力のある)神です」と申し上げました。
そこから更に東にお進みになり、走水海(東京湾の入口)をお渡りになろうと思し召すと、その海峡の神が波を起こし、船を翻弄してぐるぐるとまわしたため、お渡りになる事ができませんでした。
そこで、ヤマトタケルノミコトの后のオトタチバナヒメノミコト(婚約しているミヤズヒメとは別)が「私が御子に代わって海の中に入りましょう。
御子は遣わされた任務を全うし、天皇に報告なさらねばなりません」と申し上げるとと、絹畳八重(幾重にも重ねた絹の敷物)を波の上に敷いて、そこに下りました。
すると、荒波は自然と収まり、船を進める事ができたのです。
そして7日の後、オトタチバナヒメノミコトの櫛が海辺で見つかりました。
そこで、その櫛を取り、御陵を作って納め置きました。
そこから更にお進みになり、荒ぶる蝦夷たち(野蛮な人達)をことごとく説得し、また山河のあらぶる神たちを平定して、大和にお帰りになる途中、足柄(神奈川県の足柄山)の坂の下に至り、乾飯(旅行用の食料)をお召しあがりになっていらっしゃると、その坂の神が、白い鹿となって現れました。
そこで、食べ残した蒜のかけらを持って投げ付け、その目に当てて打ち殺しました。

 

91、この時代に大和朝廷勢力範囲が、南九州から関東にまで拡大し、その勢力が東北の一部にまで及んだ事です。


92、ワカタラシヒコノスメラミコトは近淡海の志賀の高穴穂宮(滋賀県大津市)において天下をお治めになりました。
第13代成務天皇です。
そして、タケウチノスクネ(第8代孝元天皇の孫)を大臣とし、大小の国々の国造を定めました。
また、国々の境界、及び大小の県の県主を定めました。


93、さて、これまで皇位はすべて直系によって継承されてきましたが、成務天皇の次にヤマトタケルノミコトの御子が即位あそばされたため(第14代仲哀天皇)、皇位は傍系により継承され、直系継承は途絶えました。
次の第14代仲哀天皇は第12代景行天皇の孫でいらっしゃいます。
しかし、傍系とはいえ、ヤマトタケルノミコト成務天皇の兄に当たります。
ヤマトタケルノミコトが遠征先で若くして薨去となったため、その御子が成長する間、ヤマトタケルノミコトの弟が皇位を受け継いだとも考えられます。


94、タラシナカツヒコノスメラミコト(ヤマトタケルノミコトの御子)は穴門の豊裏宮(山口県下関市)、また筑紫の訶志比宮(福岡市東区)で天下をお治めになりました。
第14代仲哀天皇です。
この天皇が大江王の娘、オオナカツヒメノミコトを娶って生んだ御子はカグザカノミコ、オシクマノミコ。
併せて2柱。
また大后の神功皇后を娶って生んだ御子はハムヤワケノミコト。
次にオオトモワケノミコト、併せて2柱。


95、「西の方に国がある。
そこには金銀をはじめとして、目の輝くような種々の珍宝が多くある。
私が今から、その国を帰服させよう」(『日本書紀』はその国が朝鮮半島新羅国であると記している)。
しかし天皇は「高い所に登って西の方を見ても、国は見えず、ただ大海があるだけだ」と仰せになり、偽りをなす神だと思し召し、琴を押してやってお弾きになろうとせず、静かにお座りになっていらっしゃいました。
火を灯して見ると、すでに天皇崩御あそばされておいででした。
仲哀天皇は、神の怒りに触れて呪い殺されてしまったのです。
そうすると、この時に神から告げられた言葉は、細かい所まで前のお告げと同じでした。
やはり、海の向こうの西の国を攻めろというのです。
そして「およそこの国は、あなた(神功皇后)の御腹にいる御子が治める国である」とのお告げもありました。
そこで、タケウチノスクネが「畏れおおい、我が大神、その神(神功皇后のこと)の腹にいる御子はどちらの性別でしょうか」と申し上げると、大神は「男子である」とお答えになりました。
タケウチノスクネは続けて「今このように教えてくださる大神の御名を知りたく思います」と述べて詳しく求めると、大神は次のように仰せになりました。
「これは天照大御神の御心である。
また、我は底筒男、中筒男、上筒男の3柱の大神である」。
これにより、その3柱の大神の御名が明らかになったのです。


96、そこで神功皇后が、つぶさに教えられたとおりにあそばされ、軍を整え、船を並べて海を渡りお進みになった時、海原の魚が、大小にかかわらず、ことごとく船を背負って渡りました。
そのうえ、追い風が吹いて、船は波が寄せるのにまかせて進んだのです。
そしてついに、その船が立てた波は新羅国に押し上り、その波は勢いよく国の中程にまで達しました。
ここにその国王は畏まって「今より後は、天皇のお言葉に従い、自ら御馬甘(馬飼い)として、年ごとに船を並べて、船の腹を乾かすことなく、棹や舵を乾かすことなく、天地が続く限り永遠に仕え奉ります」と申し上げました。
これにより、新羅国を御馬甘と定め、百済国の渡屯家(外地にある朝廷の御科地)と定めました。
そして、神功皇后はその御杖を新羅の国王の家の門に衝き立てて、スミノエノオオカミの荒御魂を国守神として祭り鎮め、国にお帰りになりました。
神功皇后は、新羅征討の仕事がまだ終わらないうちに、子を生みそうになりました。
そして、新羅から帰り筑紫国にお渡りになると、御子(ハムダワケノミコト)がお生まれになりました。
後の第15第応神天皇です。


97、仲哀天皇は、天皇が神の怒りに触れて命を落とすという、衝撃的な場面から始まりました。
遺された神功皇后は、神の勢いを恐れ、神託に従って新羅遠征を実行する事になります。
神託が天照大御神の御心であると語られる事からも、国の統治に天照大御神の意思が関わっている事を確認する事ができます。
この新羅遠征により、新羅百済天皇の世界に含まれました。


98、出産を終えた神功皇后大和国奈良県)にお帰りになる時、人々の心が疑わしく、生まれたばかりの子の命が狙われる危険がありました。
その子の兄たちが軍を差し向ける可能性があったのです。
そのため、神功皇后は喪船を一隻用意させ、御子をその喪船に乗せて「御子はすでに亡くなりました」と言い広めさせました。


99、戦いに勝った神功皇后の大臣のタケウチノスクネノミコトは、その太子(ホムダワケノミコト)を連れて、戦の禊をしようとして、淡海(琵琶湖)や若狭国福井県西部)を巡りました。


100、ホムダワケノミコトは生まれる以前から、神託により、天皇となる事が定められていました。
しかし、オシクマノミコらの反乱は超えなければならない一つの試練で、これを経て皇位継承への筋道が整えられました。
そして、御子が神と名前を交換した事は、御子が神と対話した事を示します。
これにより、御子は大神の力を得て、天皇にふさわしい神性を備えた事になるのです。


101、これは酒楽の歌で、酒宴の場の歌を意味します。
御子は角鹿の神と名を交換し、神が作った酒で宴を行う事で、即位が承認されました。
第15代応神天皇です。
神の怒りに触れて落命なさった、御子の父に当たる第14代仲哀天皇は西暦362年6月11日に崩御あそばされました。
狭城の楯列陵に埋葬されました(奈良市、五社神古墳)。


102、第15代応神天皇は、父の第14代仲哀天皇崩御あそばされた時、まだ母親のお腹の中にいらっしゃいました。
ですから応神天皇は、お腹の中ですでに天皇に即位しておいでになりました。
応神天皇は軽島の明宮(奈良県橿原市)で天下をお治めになりました。
天皇の皇子女は、男11、女15の併せて26柱の王です。
多くの御子のうち、後にオオサギキノミコトが即位あそばされ、天下をお治めになります。
第16代仁徳天皇です。


103、さて、応神天皇はオオヤマモリノミコトとオオサザキノミコトに「君達は、年上の子と年下の子とどちらが愛おしいと思うか」とお尋ねになりました。
天皇がこの問いを発せられたのは、年下のウジノワキイラツコに天下を治めさせる心づもりがおありになったからでした。
「オオヤマモリノミコトは山海の政(海部・山部・山守部などの部民を治める事にしなさい。
オオサザキノミコトは食国の政を執り報告しなさい。
ウジノワキイラツコは皇位を引き継ぐために、太子になりなさい」。


104、そして木幡村(京都府宇治市)に至った時、道の分かれた所で、麗しい嬢子と出会いました。
天皇が嬢子に「あなたは誰の子供か」とお尋ねになると、その嬢子は「鰐のヒフレノオカミの娘で、名はミヤヌシノヤカワエヒメです」と申し上げました。
そこで、天皇はその嬢子に「私が明日帰る時に、あなたの家に寄ろう」と仰せになりました。
早速、ヤカワエヒメは、男の人と道端で出会った事などをつぶさにその父に語りました。
すると父は「それは天皇に違いない。
畏れ多い事だが、我が子よ、お仕えしなさい」と言って、家をきれいに掃除して待っていると、翌日、約束どおりに天皇がおいでになりました。
そして、ヒフレノオカミが大御盃を娘のヤカワエヒメに持たせて献上すると、天皇はその大御盃をお取りになりながら、次の御製をお詠みになりました。
このようにして出会って、生んだ御子が、ウジノワキイラツコ、応神天皇皇位を継がせようとした御子です。


105、応神天皇は後継者である3皇子に、それぞれ役割を分担させました。
「山海の政(部民を治める事)」、「食国の政(天下の政治を執る事)」、「皇位の継承(天下を知らす事)」です。
これは天下統治の在り方を示す重要な記述ではないでしょうか。
天皇の位を受け継いで天下を知らす事が、国の統治そのもですから、三つの役割のなかでは頂点に位置します。

 

106、応神天皇は、日向国のモトアガタノキミ(宮崎県の豪族)の娘、カミナガヒメの姿が美しいとお聞きになって、仕えさせようと、宮中に御召しになりました。
その時、オオサザキノミコトは、その嬢子が難波津に着いたところを見て、その姿がとても美しいのに惚れてしまい、オオカミのタケウチノスクネに次のように頼みました。
「この、日向から天皇がお召し上げになったカミナガヒメを、天皇にお願いして、私に譲ってもらえないだろうか」
そこで、タケウチノスクネがその事を天皇に申し上げると、天皇はカミナガヒメをその御子にお与えになりました。
それは次のような様子でした。
天皇新嘗祭という宮中で行われるお祭りの翌日、豊明の宴会を催されたその日に、カミナガヒメに大御酒柏を持たせ、太子にお与えになったのです。


107、応神天皇の御世には、海部、山部、山守部、伊勢部が定められました。
そして、剣池が作られました。
また、この時代には新羅の人々が渡って来ました。
また、タケウチノスクネノミコト(第8代孝元天皇の孫)が渡来人を率いて、堤池という治水地を作らせました。
また、百済の国王であるショウコオウが、牡馬一頭と牝馬一頭をアチキシに託して天皇に献上しました。
このアチキシはアチキノフビトらの祖です。
アチキシは、朝廷の文書記録を担当した帰化氏族のひとつです。
また、天皇百済国に「もし賢い人がいれば派遣するように」と命ぜられました。
そこで命令を受けて派遣されたのがワニキシです。
百済国は、論語十巻、千字文一巻、併せて11巻をワニキシに託して献上しました。
ワニキシはフミノオビトらの祖です。
フミノオビトは、朝廷の文筆を担当した帰化氏族のひとつです。
また、百済国は手人韓鍛、名はタクソと、呉服のサイソの2人を派遣しました。
手人韓鍛は鍛冶職人、呉服は中国の呉の国の機織りの女性の事です。


108、ハタウジは、帰化民族の中でも最大勢力で、機織り、養蚕、土木などの最新の技術を朝鮮半島から日本に伝え大和朝廷において一定の地位を占める事になります。
応神天皇の御世には、朝鮮半島から最新の技術を持った職人たちが次々と渡来してきました。


109、応神天皇崩御あそばされると、皇子3柱の間で皇位継承をめぐる争いが起きます。


110、また昔、新羅の国王の子がいました。
名をアメノヒボコといいます。
この人が日本に渡って来たその理由は次のようなものでした。
新羅国に一つの沼があり、名を阿具沼といいました。
この沼のほとりに、1人の賤しい女が昼寝をしていました。
すると、ここに日光が虹のように輝いて、その陰部を照らしました。
1人の賤しい男がいて、その様子を奇妙に思い、常にその女の行動をうかがっていました。
すると、この女は昼寝をした時から身籠り、赤い玉を生んだのです。
そこで、それをうかがっていた賤しい男は、その玉を頼んでもらい受け、包んで腰に付けました。
この人は、田を谷間に作りました。
そして、百姓たちの食料を一頭の牛に背負わせて、谷の中に入ると、国王の子のアメノヒボコと偶然に出会いました。
するとアメノヒボコは、その人に「なぜおまえは食料を牛に背負わせて谷に入るのか。
おまえはきっとこの牛を殺して食べるのであろう」と言い、捕えて牢屋に入れようとすると、その人は「私は牛を殺す事はしません。
ただ百姓たちの食料を運んでいるだけです」と答えました。
しまし、許されませんでした。
そこで、腰に付けていた玉を取り出して、国王の子であるアメノヒボコに贈りました。
するとアメノヒボコはその賤しい男を許し、その玉を持ち帰り、床の側に置くと、玉は美しい嬢子になったのです。


111、ここで「古事記」は神功皇后の出自について細かく記載しています。
神功皇后の先祖はアメノヒボコという、新羅の国王の皇子であり、アメノヒボコが日本に渡来する経緯について語られています。
このように、神功皇后新羅の皇子の子孫であるなら、神功皇后が朝鮮と関わり合いを持つのは必然である事になります。


112、応神天皇は、西暦394年9月9日に崩御あそばされました。
御陵は誉田山古墳。


113、上つ巻が神の代の物語で、下つ巻が人(天皇)の代の物語ならば、中つ巻は神と人(天皇)の代の物語といえます。
つまり、中つ巻は神の代と人の代の中間に位置し、両者を結ぶ役割を担っているのです。
中つ巻は、ある程度の歴史的事実を反映していながら、同時に、それが神話としての本質をしっかり併せ持っています。
中つ巻では神が天皇に直接命令を下す事がありますが、下つ巻ではそのような場面はなくなります。
神武天皇東征から書き始められた中つ巻は、数々の話し合いや戦を経て、天皇の統治が南九州から東北、そして朝鮮にまで及んだ経緯を明らかにしています。


114、第16代仁徳天皇は難波の高津宮(大阪市中央区)で天下をお治めになりました。
この天皇が葛城のソツビコ(タケウチノスクネの子)の娘、大后のイワノヒメノミコトを娶って生んだ御子は大江のイザホワケノミコト(後の第17代履中天皇)、次にスミエノナカツミコ、次にミズハワケノミコト(後の第18代反正天皇)、次にオアサツマワクゴノスクネノミコト(後の第19代允恭天皇)。
併せて4柱。
また、先に述べた日向のモロアガタノキミの牛諸の娘、カミナガヒメを娶りました。
カミナガヒメには、仁徳天皇がお気に召され、父の応神天皇からもらい受けた逸話がありました。
そして、仁徳天皇の次にはイギホワケノミコトが天下をお治めになりました(第17代履中天皇)。
次に、たじひのミズハワケノミコトもまた天下をお治めになりました(第18代反正天皇)。
次に、オアサツマワクゴノスクネノミコトもまた天下をお治めになりました(第19代弁恭天皇)。


115、仁徳天皇の御世は秦人(応神天皇の御世に朝鮮半島南部から渡来した集団)を使役して茨田堤と茨田三宅を作りました(大阪府寝屋川市)。
この時、枚方市から大阪市まで七里(28キロメートル)に及ぶ堤防が築かれたと伝わります。


116、さて、天皇は高い山にお登りになり、四方の国土をご覧になり「国中に炊煙が立ち昇っていない。
国内は皆、貧しいのだろう。
今から3年の間、ことごとく人民の課と役を免除しよう」と仰せになりました。
そのため、宮殿は破れ壊れ、ことごとく雨漏りするようになってしまいましたが、全く修理する事なく、器でその漏れる雨を受け、漏れない所に移って避けました。
やがて天皇が国中をご覧になると、国土に煙が満ちていました。
そこで、人民が豊かになったと思し召し、ようやく課と役を課しました。
こういうわけで、百姓は栄え、役使に苦しまなくなりました。


117、仁徳天皇が困窮する民を憂いてしばらく課役をお許しになった事は「日本書紀」にも記されています。
日本書紀」によると、仁徳天皇は皇后に次のように仰せになったそうです。
「天が君を立てるのは、百姓のためである。
だから、君は百姓をもって本とする。
かつての聖王は、1人でも飢えたなら、自らを責めたという。
いま百姓が貧しければ、朕も貧しい。
百姓が富めば、朕も富む。
百姓が富み君が貧しいという事は、未だない」。
天皇は「百姓」や「国民」を「大御宝おおみたから」とお読みになります。
仁徳天皇の御事情やこのお言葉から、天皇にとって最も大切なのは「民」である事が分かります。
つまり、我が国は建国の当初から、民を主体とする国民本位の政治が行われていたのです。
中国や欧州の王朝では民は君の所有物であり、君を主体とする君主本位の政治が行われてきましたが、それと対照的です。
もし、国民本位の政治を行う事を「民主政治」ないし「民主主義」と呼ぶなら、我が国は2千年以上、民主政治を続けてきた、現存する最古の民主主義国という事になるでしょう。


118、仁徳天皇の子のイザホワケノミコトは伊波礼の若桜宮(奈良県桜井市)で天下をお治めになりました。
第17代履中天皇です。
天皇は大御酒をお呑みになり、浮き浮きした良い気持ちになって、お眠りになりました。
するとその弟のスミノエノナカツミコ(仁徳天皇の御子で履中天皇の同母弟)が、天皇を殺そうと思い、御殿に火をつけました。
そこで、ヤマトノアノアタイ(帰化氏族)の祖であるアチノアタイが天皇をこっそり連れ出して、御馬にお乗せにして大和へ逃れました。


119、履中天皇の弟にあたるミズハワケノミコトは、スミエノナカツミコを誅した功績により、履中天皇の皇太子に立てられましたが、後に履中天皇崩御に伴って即位あそばされました。
第18代反正天皇です。
反正天皇は多治比(大阪府羽曳野市松原市堺市をまたがる地帯)の柴垣宮で天下をお治めになりました。
天皇は、ワニのコゴトノオミの娘、ツノノイラツメを娶ってカイノイラツメとツブラノイラツメの2柱の御子を生みました。
また、同じ臣の娘、オトヒメを娶って、タカラノミコとタカベノイラツメを生み、併せて4柱の御子を生みました。
天皇は西暦437年7月に崩御あそばされました。
御陵は田出井山古墳・楯井古墳。


120、「日本書紀」によると反正天皇の御在位は5年という短い間だったといいます。
また、中国の宋の正史である『宋書』に記された「倭の5王」の1人の「珍」は反正天皇の事だと考えられています。
古事記」にはこの天皇の御即位前の活躍は記されているものの、御即位後の功績は何も記されていません。
しかし、宋の記録によると、倭王珍は宋の文帝に朝貢し、倭国朝鮮半島百済新羅任那などを支配する事を認めるように申し出たといいます。
この時、大半は退けられましたが「倭国王」を名乗る事が認められたといいます。

 

121、皇位は原則として親から子へ継承されてきました。
これまでの例外は叔父から甥に皇位が継承された、第13代成務天皇から第14代仲哀天皇への一例のみでしたが、履中天皇から反正天皇への継承は、これまでと異なった原理で行われました。
ここで初めて兄から弟へ皇位が継承された事になったのです。
その理由は明確ではありませんが、反正天皇の即位は兄から弟への継承という新しい事例となり、後の先例となります。


122、反正天皇の弟のオアサツマワクゴノスクネノミコトは遠飛鳥宮奈良県明日香村)で天下をお治めになりました。
第19代允恭天皇です。
第16代仁徳天皇の御子であり、第17代履中天皇と第18代反正天皇の同母弟にあたります。
後に飛鳥の地で多くの宮が営まれる事になりますが、反正天皇の遠飛鳥宮がその最初になります。


123、允恭天皇が初め、天皇の位を継承しようとあそばされた時、天皇はご遠慮になりました。
「私には一つの長年の病があり、皇位を受け継ぐ事はできない」と仰せになりました。
ところが、大后をはじめ、官人たちが強く願い出たため、御位にお就きになりました。
この時、新羅朝鮮半島新羅)の国王が、八十一船で貢物を献上しました。
この貢物の大使いの名はコムハチニカニキムといいます。
この人は薬の処方をよく知っていたため、帝皇の病を治療し差し上げました。
ところで、天皇は、天下のあらゆる人達の氏姓が本来のものとは誤っている事を憂えて、天下の多くの職業集団の長の氏姓をお定めになりました。
「氏」とは世襲により継承される家の名の事で、また「姓」とは朝廷から賜わる家の階級の事です。
天皇は西暦454年正月15日に崩御あそばされました。(市ノ山古墳)


124、允恭天皇の後は、キナシノカルノヒツギノミコが皇位を受け継ぐ事になっていました。
母が異なる兄弟姉妹の結婚は許されていましたが、同じ母の兄弟姉妹の結婚は不倫とされ、固く禁止されていました。
ところが、それにもかかわらず、まだ即位する前に、カルノヒツギノミコは同母妹のカルノオオイラツメと禁断の愛を紡いで次のお歌を詠みました。


125、このようにカルノヒツギノミコがカルノオオイラツメと不倫をした事によって、百官(多くの官人)や天下の人達は、カルノヒツギノミコに反感を持ち、弟のアナホノミコに期待するようになりました。
すると兄のカルノヒツギノミコは恐れて、オオマエオマエノスクネ(物部氏)の大臣の家に逃げ入って、武器を備え作りました。
その時に作った矢は、銅の矢尻を使っていました。
アナホノミコもまた、武器を作りました。
この王子の作った矢は、まさに今時の矢で、鉄の矢尻を使った矢です。
ちなみに、古墳時代中期に銅製の矢尻はなくなり、鉄製の矢尻が普及するため、この記述は考古学的な知識と一致します。
このように武器を揃えると、アナホノミコは軍勢を集めてオオマエオマエノスクネの家を囲みました。
ところが、その門に着いた時、ひどい氷雨が降ってきました。
すると、オオマエオマエノスクネが手を挙げて膝を打ち、舞い踊り、歌いながらやって来ました。
このようにオオマエオマエノスクネが歌いながらやって来て「我が天皇の御子よ。
兄の王に兵を向けてはいけません。
もし兵を向けたら、必ず人々は笑うでしょう。
私が捕えて差し出しましょう」と申し上げると、それを聞いたアナホノミコは、兵を解いて退きました。
そこで、オオマエオマエノスクネはカルノヒツギノミコを捕らえて、引き連れて現れ、差し出したのです。
そして、カルノヒツギノミコは伊余湯(愛媛県松山市)に島流しにされました。


126、カルノヒツギノミコが失脚した事により、同じく允恭天皇の御子で、カルノヒツギノミコの弟に当たるアナホノミコが石上の穴穂宮(奈良県天理市)で天下をお治めになりました。
第20代安康天皇です。
天皇は、弟のオオハツセノミコ(後の雄略天皇)のために、サカモトノオミらの祖である根臣を、オオクサカノミコ(第16代仁徳天皇の御子で、允恭天皇の異母弟)の所に御差遣いになって「あなたの妹のワカクサカノミコをオオハツセノミコと結婚させたいと思うので、協力しなさい」と伝えさせました。
するとオオクサカノミコは、四度拝み「もしそのようなオオミコトがあればと思い、妹を外に出さずにおきました。
これは畏れ多い事であります。
オオミコトのとおりに奉ります」と申し上げました。
ところが、根臣は、受け取ったその礼物の玉を盗み取り、オオクサカノミコを貶めて、天皇に「オオクサカノミコは勅命を受けず、『私の妹は同族の下敷きになりはしない』と言って太刀の柄を握って怒りました」と嘘の報告をしました。
それを聞いた天皇は大いにお怒りになり、オオクサカノミコを殺して、その王の正妻のナガタノオオイラツメを連れて来て皇后となさいました。


127、ところが天皇は、その幼い王が御殿の床下で遊んでいるのを知らずに「私には常に心配している事がある。
おまえの子のマヨワノミコが大人になった時、私がその父王を殺したと知ったら、復讐心を抱くのではあるまいか」と仰せになりました。
そこで、御殿の床下で遊んでいたマヨワノミコは、この言葉を聞き取ると、すぐに天皇が寝ているのを密かにうかがって、傍にあった太刀で天皇の首を打ち斬り、ツブラオオミの家に逃げ込んだのです。
安康天皇の御陵は菅原の伏見岡にあります(奈良市)。


128、安康天皇がマヨワノミコに殺害されると、当時まだ少年だったオオハツセノミコ(安康天皇の弟。後の雄略天皇)はこの事を聞いて、怒りを顕にし、兄のクロヒコノミコの所に出掛けて「王が天皇を殺しました。
どのようにするおつもりですか」と尋ねました。
しかし、クロヒコノミコは驚かず、大して気にもかけない様子でした。
そこで、オオハツセノミコは兄を罵り「殺されたのは天皇で、しかも兄弟であるのに、あなたは何も頼もしい心を持たず、兄が殺された事を聞いても驚かずに怠けているとは」と言って、その首をつかんで引きずり出し、刀を抜いて打ち殺してしまいました。
また、オオハツセノミコは、もうひとりの兄であるシロヒコノミコの所に行き、先ほどと同じように尋ねたところ、大して気にもかけない様子はクロヒコノミコと同じでした。
そこで、首をつかんで引きずり出し、小治田(奈良県明日香村)に連れて行き、穴を掘ってシロヒコノミコを立たせたまま埋めると、腰まで埋めた時、シロヒコノミコの二つの目玉が飛び出して死んでしまいました。
そして、オオハツセノミコは軍を起こし、安康天皇を殺したマヨワノミコが逃げ込んだツブラオオミの家を取り囲みました。
この時、ツブラオオミも軍を起こして迎え撃ち、射放つ矢が、群生して生える葦のように一斉に飛んできました。
そこで、オオハツセノミコは矛を杖にして、その中に向かって「私が言い交わした嬢子は、もしかしてこの家にいるか」と尋ねました。
するとツブラオオミは、この言葉を聞いて自ら出て来て、身に着けていた武器を解いて、八度拝んでから申し上げました。
「先日求婚なさった、私の娘のカラヒメは、あなた様の側に仕えさせましょう。
また、私の私有地である五ヶ所の屯宅を副え奉りましょう。
しかし、なぜ私自身が参上しないかというと、古より今に至るまで、臣下が皇族の宮に隠れた事は聞いた事がありますが、いまだ王が臣下の家に隠れた事は聞いた事がないからです。
このことから思うに、賤しい奴の私ごときが力を尽くして戦ったとしても、勝つ事はないでしょう。
ただしかし、私を頼って家にお入りになった王を、死んでも見捨てるわけにはいきません」。
ツブラオオミはこのように申し上げて、また武器を取り、家に戻って戦いました。
そうして、力尽き、矢も尽きたので、マヨワノミコに「私は手傷を負い、矢も尽きました。
今はもう戦う事ができません。
どういたしましょう」と申し上げると、王は「ならばもうなすすべはない。私を殺しなさい」と言いました。
そこでツブラオオミは刀で王を刺し殺し、自分の首を切って死んだのです。


129、このようにして、オオハツセノワカタケルノミコトは即位あそばされ、長谷の朝倉宮(奈良県桜井市)において天下をお治めになりました。
第21代雄略天皇です。
天皇はオオクサカノミコ(仁徳天皇の御子で、雄略天皇の叔父)の妹、ワカクサベノミコを娶りましたが、子はありませんでした。
またツブラオオミの娘、カラヒメを娶って生んだ御子はシラカノミコト(後の第22代清寧天皇)、次に妹のワカタラシヒメノミコト。
併せて2柱です。
この天皇の御世に、呉人(中国南方の人)が日本に渡って来ました。
その呉人を呉原(奈良県明日香村)に定住させました。
天皇は大和から河内へ御出ましになりました。
その時、山の上に登って国内をご覧になると、堅魚木を屋根の上に載せている家がありました。
天皇は、その家を訪ねさせ「堅魚木を屋根に載せているのは誰の家だ」とお尋ねになると、供の者が「志幾の大県主(大阪府柏原市・八尾市・藤井寺市付近の豪族)の家です」と申し上げました。
そこで、天皇は「奴め、自分の家を天皇の御殿に似せて作るとは何事か」と仰せになり、人を遣わせてその家を焼かせようとなさいました。
すると、その大県主は恐縮し、平伏して「私は愚かでした。
愚かであるゆえに気付かず、誤って作ってしまった事は、とても畏れ多い事です。
そこで、お詫びの印として、品物を奉りましょう」と申し上げて、布を白い犬にかけ、鈴を付けて、腰はきという名の自分の親族に犬の綱を持たせて献上しました。
そこで、天皇は、火を着けるのを止めさせました。


130、またある時、天皇葛城山にお登りになった時、多くの官人たちは、ことごとく紅い紐を付けた青染めの衣服を与えられていました。
その時、向かいの山の屋根から、山の上に登ってくる人たちがいました。
ところが、その人達の行列は、すっかり天皇の行列と同じで、またその装束の様子や人々も、どちらも似ていてそっくりでした。
そこで、天皇がご覧になって「この大和国には私をおいて王はいないのに、今、どういう人がそのように行くのか」と尋ねさせると、答える様子もまた、天皇の言葉と同じでした。
天皇は大いにお怒りになって弓に矢をつがえ、多くの官人たちも皆、弓に矢をつがえました。
すると、その人達もまた皆、弓に矢をつがえました。
そこで、天皇がまた「それならば名を名乗れ。
そしてそれぞれ名乗ってから矢を放とう」とお尋ねになると「私が先に問われたので、私が先に名乗る事にしよう。
私は凶事も一言で、吉事も一言で言い分ける神、葛城のヒトコトトヌシノオオカミである」とお答えになりました。
天皇はすっかり恐縮なさり「畏まりました。
私は現身の人間ですから、あなたが大神であられるとは存じませんでした」と申し上げて、大御刀や弓矢をはじめとして、多くの官人たちの着ている衣服を脱がせ、拝んで奉りました。
そして天皇がお帰りになろうとすると、大神は、山の峰から長谷山までお送りになりました。
一言大神は、このようにしてこの時お姿をお見せになったのです。
天皇は西暦489年8月9日に崩御あそばされました。
御陵は河内の高鷲にあります(高鷲丸山古墳・平塚古墳)。


131、さて、この歌には大きな意義があります。
国生み神話が「古事記」編纂時(8世紀)に新しく創作されたものではなく、第21代雄略天皇の御世、もしくは第12代景行天皇の御世にはすでに成立していた事を示しているからです。


132、雄略天皇の御子のシラカノミコトは伊波礼(奈良県桜井市)において天下をお治めになりました。
第22代清寧天皇です。
この天皇には后は無く、また御子も無かったため、御名代としてしらかべ8(シラカノミコトの名にちなんだ部民)をお定めになりました。
そのため、天皇崩御あそばされた後、天下を治めるべき王がいらっしゃいませんでした。
そこで皇位を受け継ぐ王を尋ね求めると、葛城の高木角刺宮にいらっしゃるイチヘノオシハワケノミコの妹のオシヌミノイラツメ、またの名をイイドヨメノミコが皇位をお継ぎになる事になりました。


133、履中天皇の御子のイチノヘノオシハノミコの御子であるオケノイワスワケノミコトは、近飛鳥宮で8年の間、天下をお治めになりました。
第23代顕宗天皇です。
天皇はイワキノミコの娘のナニワノミコを娶りましたが、子はありませんでした。
この天皇が父王のイチノヘノオシハノミコの御骨をお探しになった時、淡海国(滋賀県)に住む賤しい老女が参上して「王子の御骨を埋めた所を、私はよく知っています。
また、王子の御骨である事は、その御歯を見れば分かるでしょう」と申し上げました。
イチノヘノミコの御歯は八重歯だったのです。
そこで人を集めて土を掘り、御骨を探し求めると、御骨を見付けたので、蚊屋野(イチノヘノオシハノミコが殺害された場所)の東の山に御陵を作って葬り、カラブクロの子らにその御陵を守らせました。
そうした後に、その御骨をお持ちになって河内にお戻りになりました。
そして、お戻りになると天皇は、この老女をお召しになり、忘れずにその地を覚えていた事をお誉めになって、宮中に召し入れて手厚くおもてなしになりました。


134、天皇は、かつて父が殺される災難に遭ってお逃げになった時に、猪甘の老人にその御鰈を奪われた事がありました。
そこで天皇はその老人をお探しになりました。
そして、探し出すと、呼び出して飛鳥河の河原で斬り殺し、その一族の膝の筋を断ち切りました。


135、天皇は、父王を殺した雄略天皇を深くお恨みになり、その霊に報復したいと思し召されました。
そこで、大長谷天皇の御陵を壊そうと、人を御差遣いになったところ、兄のオケノミコトが「この御陵を破壊するのに他人を遣わすべきではありません。
もっぱら私自らが行き、天皇の御心のままに破壊して参りましょう」と申し上げました。
そして、天皇崩御あそばされると、次にオケノミコトが皇位をお受け継ぎになりました。
天下をお治めになること8年。
御陵は片岡の辺りにあります(奈良県香芝市)。
また、父の怨敵である雄略天皇の御陵を破壊するように命ぜられた天皇を、皇太子であり兄であるオケノミコト(後の仁賢天皇)が諫める美談があります。
これにより、仇を取る事と、天皇の権威を保つ事を両立させる事ができました。
天皇が過ちを犯しそうになった時、側に仕える者が諫める事で、天皇が道を踏み外す事を事前に防ぐ事ができた一つの例です。


136、顕宗天皇の兄のオケノミコは石上の広高宮(奈良県天理市)において天下をお治めになりました。
第24第仁賢天皇です。
天皇雄略天皇の御子のカスガノオオイラツメを娶って生んだ御子は、タシラカミノイチツメ(後の継体皇后)。
次にオハツセノワカサザマノミコト(後の武烈天皇)。
この中のオハツセノワカサザマノミコトが次に天下をお治めになりました(仁賢天皇の御陵は大阪府藤井寺)。


137、仁賢天皇の皇后となったカスガノオオイラツメは、雄略天皇の皇女です。
雄略天皇仁賢天皇にとって父の仇であるはずですが、なぜ仁賢天皇は父の仇の娘を皇后にお迎えになったのでしょう。
雄略天皇の系譜は、次の清寧天皇に後継ぎがいらっしゃらなかったため、早くも2代目にして途絶えています。
そして、その次に皇位をお継ぎになったのが、仁賢天皇、すなわち雄略天皇に殺害されたイチノヘノオシハノミコの王子だったのです。
ですから、もし仁賢天皇がカスガノオオイラツメと結婚なさっていなければ、雄略天皇の系統に敵対心をもつ仁賢天皇が、皇位を簒奪したと評価される可能性があります。
したがって、仁賢天皇とカスガノオオイラツメとの結婚は、允恭天皇の系統と履中天皇の系統が平和裏に統合された事を意味します。
雄略天皇が正統な天皇であり、その娘を皇后とする事で、仁賢天皇も正統な天皇となったのです。
もちろん、雄略天皇仁賢天皇にとっては親の仇ですが、この結婚は御陵の土を掘った逸話と共に、和解の形でもあります。


138、オハツセノワカサザマノミコトは長谷の列木宮(奈良県桜井市)において天下をお治めになること8年でした。
第25代武烈天皇です。
この天皇に太子がいらっしゃらなかったので、御子代としてオハツセベをお定めになりました。
御子代とは、皇族に子がない時に、その名を伝える為に設けた部民とされています。
御陵は片岡にあります(奈良県香芝市)。
天皇崩御あそばれて、皇位を受け継ぐべき王がいらっしゃいませんでした。
そのため、第15代応神天皇の5世の子孫であるオホドノミコト(後の継体天皇)を近淡海国(滋賀県)から上がらせて、タシラカミノイチツメ(仁賢天皇皇女)と結婚させ天下を授け奉りました。


139、応神天皇の5世の子孫であるオホドノミコトは伊波礼(奈良県桜井市西部から橿原市南東部にかけての地域)の玉穂宮において天下をお治めになりました。
第26第継体天皇です。
天皇が、ミオノキミらの祖である、名はワカヒメを娶って生んだ御子は、2柱。
次にタケオヒロクニオシタテノミコト(後の宣化天皇)。
また仁賢天皇の御子で大后となったタシラカノミコトを娶って生んだ御子は、アメクニオシハルキヒロニワノミコト(後の欽明天皇)、1柱。
この中のアメクニオシハルキヒロニワノミコト(欽明天皇)が天下をお治めになる事になりました(ただし、欽明天皇の即位は、実際は次の安閑天皇宣化天皇の後)。
次に安閑天皇が天下をお治めになりました。
次に宣化天皇が天下をお治めになりました。
そして、ササゲノミコは伊勢神宮に仕えました。
天皇は西暦527年4月9日に崩御あそばされました。
御陵は太田茶臼山古墳


140、継体天皇の御子のヒロクニオシタケカナヒノミコトは勾の金箸宮(奈良県橿原市)において天下をお治めになりました。
第27代安閑天皇です。
この天皇には御子がいらっしゃいませんでした。
西暦535年3月13日に崩御あそばされました。
御陵は河内の高屋築山古墳。


141、安閑天皇の弟のタケオヒロクニオシタテノミコトは奈良県明日香村において天下をお治めになりました。
第28代宣化天皇です。
天皇が、仁賢天皇の御子のタチバナノナカツヒメノミコトを娶って生んだ御子は、イワヒメノミコト(後の欽明天皇皇后)。
次にオイワヒメノミコト(後の欽明天皇)。
宣化天皇の御陵は島屋ミサンザイ古墳。


142、宣化天皇の弟のアメクニオシハルキヒロニワノスメラミコトは師木島の大宮(奈良県桜井市)において天下をお治めになりました。
第29代欽明天皇です。
天皇宣化天皇の御子のイワヒメノミコト(宣化天皇の皇女)を娶って生んだ御子はヌナクラオオタマシキノミコト(後の敏達天皇)。
次にタチバナノトヨヒノミコト(後の用明天皇)。
次にトヨミケカシキヤヒメノミコト(後の推古天皇)。
次にハツベノワカキザキノミコト(後の崇峻天皇)。
この中の敏達天皇が天下をお治めになりました。
次に崇峻天皇も天下をお治めになりました。
欽明天皇の御陵は平田梅山古墳(奈良県明日香村)。


143、欽明天皇の御子のヌナクラフトタマシキノミコトは他田宮(奈良県桜井市)において天下をお治めになること14年でした。
第30代敏達天皇です。
この天皇がオキナガノマテノミコの娘のヒロヒメノミコトを娶って生んだ御子は、オシサカヒコヒトノヒツギノミコ。
その中のオシサカヒコヒトノヒツギノミコが庶妹のタムラノミコを娶って生んだ御子は、岡本宮で天下を治めた天皇(後の第34代舒明天皇)。
敏達天皇は西暦584年4月6日に崩御あそばされました。
御陵は太子西山古墳。


144、敏達天皇の弟のタチバナノトヨヒノミコトは池辺宮(奈良県桜井市)において天下をお治めになること3年でした。
第31代用明天皇です。
この天皇が庶妹のハシヒトノアナホベノミコト(欽明天皇の皇女)を娶って生んだ御子は聖徳太子
この天皇は西暦587年4月15日に崩御あそばされました。
御陵は春日向山古墳。


145、用明天皇の弟のハツセベノワカキザキノミコトは倉橋の柴桓宮(奈良県桜井市)において天下をお治めになること4年でした。
第32第崇峻天皇です。
この天皇は西暦592年11月13日に崩御あそばされました。
御陵は倉橋岡の辺りにあります。


146、崇峻天皇の妹のトヨミケカシキヤヒメノミコト(欽明天皇の皇女、敏達天皇后)は小治田宮(奈良県明日香村)において天下をお治めになること37年でした。
第33代推古天皇です。
この天皇は西暦628年3月15日に崩御あそばされました。
御陵は山田高塚古墳。


147、「古事記」の編纂を命ぜられたのは第40代天武天皇で、当時は推古天皇の次の舒明天皇以降が「現代」と考えられていました。
そもそも「古事記」という書名が「古い事を記した書物」というような意味があり、舒明天皇以降の現代については記述する意図が最初から無かったものと思われます。
古事記」が完成したのは第43代元明天皇の御世でした。
元明天皇推古天皇の兄弟の玄孫に当たり、推古天皇崩御から元明天皇の御即位まで79年の開きがあります。
古事記」が完成した元明天皇の時代では、推古天皇の時代はすでに古い時代に当たると考えて良いでしょう。
また、武烈天皇からは、簡潔な記事しか見えなくなる事はすでに指摘したとおりですが、これは「古事記」が神話を中心にまとめられたものだからです。
そのために、武烈天皇以降の記述が簡素なものとなり、全3巻という少ない紙面のなかで、第33代推古天皇までを記し、完結しているのです。
一方正史「日本書紀」の編纂方針は異なり、時代が下るほど、事績や出来事などの記述が豊富になっていきます。
そして、全30巻という膨大な紙面を費やし、第41代持統天皇まで記述しています。
日本書紀」が完成したのが第44代元正天皇の時代でした。
当時の「現代」を含め、近い時代まで記されている事が分かります。