国際政治学者の舛添要一 『「新しい戦争」と日本の貢献』を読んで。

<この本は2002年に発行されました。

舛添要一氏の東京都知事時代の不祥事は知っています。

が、…これは学問です。 そこは割り切っています>

 

1、2001年9月11日、アメリカ東部夏時間午前8時45分。
ニューヨーク・マンハッタンにある世界貿易センタービル(WTCビル)北棟の100階付近に1機の航空機が衝突した。
その航空機が、ボストンのローガン空港を離陸した直後にハイジャックされたアメリカン航空ボーイング767型機であった。
92人の乗員乗客ともども事故ではなくテロの手段としてWTCビルに突っ込んだという事が判明するのは後になってからの事で、ただそのときは事故か事件かさえはっきりしないまま、テレビカメラだけが黒煙を上げる超高層ビルを撮り続けていた。
事態の禍々しさと重大さが理解できたのは、日本時間で午後10時を少し過ぎた頃に起こった2機目突入の直後である。
しかし、何度もリピートされる画面からその黒い影が2機目の航空機である事がはっきりしたとき、テロリズムという事がが私の脳裏をよぎった。
しかもこれまで誰も経験した事がないような未曾有の規模のテロだと直感したのである。
現地時間の午前9時30分にはブッシュ大統領が遊説先のフロリダで行ったテレビ演説でテロである事を公表、そのわずか13分後にはワシントンにあるペンタゴンのビルに3機目が突入、さらに午前10時過ぎにはピッツバーグ市の郊外で4機目が墜落。
現地アメリカからのライブ映像という形で、全世界の市民がリアルタイムで出来事の推移を見守ったという体験も初めてではなかったか。
物事の伝播を水の波紋にたとえる事がある。
それにならえば今は波紋の最初の輪の中に世界全体がすっぽり入ったといえるだろう。


2、このようなリアルタイムの情報を受けて、世界各国の首脳たちもそれぞれの肉声でアメリカへの哀悼の意とテロリズムへの怒りや決意を表明した。
もっともはやく一声を発したのはフランスのシラク大統領で、テロの非道さを怒り、フランス国民とアメリカ国民との連帯を表明している。
1機目の突入から1時間半しか経っていない午前10時17分。
フランス時間では11日午後4時17分であった。


3、イギリスのブレア首相も午前10時30分(イギリス時間午後3時30分)には、「テロリズムに立ち向かい、世界から殲滅しなければならない」と非常に強い調子で述べ、正午にはドイツのシュレーダー首相、午後2時頃にはイタリアのベルルスコーニ首相も記者会見を開いている。
いずれもアメリカ国民を慰撫すると同時にアメリカへの強い支持を表明した内容だった。
また、イスラエルシャロン首相とPLO(パレスチナ解放機構)のアラファト議長も正午前には同様の発表を行っている。
東西冷戦時代にはアメリカと対抗していたロシアと中国の反応も決して遅いものではなかった。
午後1時前にはロシアのプーチン大統領が、アメリカへの支持と国際社会の結束を呼びかけるテレビ演説を行い、ほぼ同じ頃、中国の江沢民国家主席新華社電を通じてアメリカ国民への哀悼の意を伝えている。
さすがに中国がアメリカへの支持を前面に出す事はなかったが、それでも国家主席自身の声がこれほど敏速に発表されるのは異例の事である。


4、これら各国の反応に比較して我が日本の反応はどうであったか?
テレビや新聞各紙から散々叩かれた通り、誠に遅いものであった。
小泉純一郎首相が記者会見を開いたのは午後9時20分(日本時間12日午前10時20分)、テロ発生から実に12時間以上も経過していたのである。
ただ、政府のために少し弁解しておけば、テロ発生の直後には首相官邸に連絡室を設け、約3時間御に福田官房長官が記者会見を開いてはいる。
対応としては決して遅くはない。
時刻だけ比較すればドイツやイタリアより早かったのである。
しかし、小泉首相ではなく福田官房長官が出てしまった。
一国の首脳が会見を行うのと官房長官のそれとでは外交的な重みがまったく違うし、メディアの取り上げ方も違う。
さらに言うなら、福田官房長官の会見内容は日本政府の取った対応の報告と邦人の安否に関する情報が中心で、その点では海外で旅客機の墜落事故が起きたときの対応とさほど差のあるものではなかった。
邦人の安否が大切ではないというのではない。
しかし、他の首脳の発言と比較しようもないのである。


5、小泉首相が会見場に出て、何も見ずに「大変な事が発生した。
アメリカ国民にお見舞い申し上げるとともに、卑劣なテロを憎み、テロと戦う事を表明する」と1~2分間でも肉声を出していればよかったのだが、それができなかったのである。


6、この失敗に懲りたためか、小泉首相はテロ後の9月24日に訪米した際には、ジュリアーニニューヨーク市長との共同記者会見で英語のスピーチをしたり、CNNとの単独インタビューに応じるなど失地回復のパフォーマンスをやってのけた。
また、アメリカがタリバンへの攻撃を開始した10月7日には、パウエル国務長官から攻撃開始の事前連絡を受けてからわずか2時間余りの後の午前3時前に「アメリカの行動を支持する」旨の首相本人による記者会見を開いている。
今回のような事態に対して日本があまり影響力を発揮できない事は周知の事実であるし、他国から見れば小泉首相の対応の遅れはそういう日本の体質を表す小さな出来事のひとつとしか捉えられていないのではないかと思えるのである。


7、日本は世界第2位の経済大国であり、それに相応しい外交を展開しなければならない。
とりわけ、軍事大国にならない事が国是である以上、外交の果たす役割は益々大きくならざるを得ない。
基本的には、日米安全保障条約体制を基軸として、先進国の一員として行動するとともに、他方ではアジアの主要メンバーとして活躍せねばならない。


8、さて話を元に戻すと、事はそれほど単純ではない。
首相や政府のみならず日本という国全体に蔓延している危機管理意識の希薄さこそが大問題なのである。
今回の同時多発テロは決して国家対国家の戦争と同じではない。
グローバル化によっていとも簡単に国境を越えてくるようになってきた脅威、テロリズムはそういう脅威のひとつなのである。


9、たとえばテロだけを例にとってみても、現在どの国や地域でその危険があるか、多くの日本人は知らないし、仮に知っていても自らの危機管理と結びつけて考えた事はないはずである。
イスラエルイスラム過激派が対立して自爆テロが繰り返されているパレスチナアイルランド共和国軍(IRA)によるテロの恐怖が去らない北アイルランド、民族独立を目指す組織がテロを続けるスペイン北部のバスク地方パレスチナ同様に自爆テロの頻発するインドのカシミール地方、イスラム過激派テロ組織アブサヤフの活動するフィリピンのミンダナオ島、武装イスラム集団の脅威が消えないアルジェリア、先住民問題でゲリラ組織のサバティスタ民族解放軍が武力闘争を行っているメキシコなど、世界を見渡せば10指に余る国や地域で長い間テロの危険が続いている。
対テロといった生命に関わる危機管理に限定せず、もっと広い意味での危機管理という観点でも、日本人の意識はかなり低いと言わざる得ない。


10、日本以外の世界各国の動きはどうであったのだろうか。
名実ともに最大のアメリカ協力国になったイギリスは、ブレア首相が外相や軍参謀総長などからなる戦時内閣を招集して対応。
インド洋にあるディエゴガルシアの島のイギリス空軍基地を米軍に提供しているほか、タリバン攻撃の初日には海軍の原潜からアフガニスタン巡航ミサイル・トマホークを発射し、アメリカと共同戦線を張る事を宣明に打ちだしている。
そのイギリスも加盟するNATOの動きも敏速でテロ翌日の9月12日には加盟各国の大使級理事会を開催して集団的自衛権の発動を決定している。
第二次大戦の後に誕生したNATOの50年を超える歴史の中で、集団的自衛権の発動は初めての事である。
これによってNATO加盟している19ヵ国がアメリカを軍事的に支援できる体制が整ったといえる。
実際に、フランス、イタリア、スペインは部隊派遣の意思を発表しているし、トルコ軍は11月2日に自軍特殊部隊90人のアフガニスタン派遣を表明、ドイツも11月6日にシュレーダー首相が4千人規模の部隊派遣を発表した。
また、NATO軍自体も10月12日からAWACS(空中警戒管制機)5機を使ったアメリカ領空の警戒活動をスタートさせ、10月26日にはボスニアヘルツェゴビナに駐留している平和安定化部隊が、地域内にあったアル・カイダの拠点を攻撃してそのメンバーを地域外へ追放している。
このほかオーストラリアも要請に応じた国防軍の派遣を確約している。


11、日本とまったく同じ立場から現在の国を作り上げたドイツを例にとると、1956年にドイツ基本法憲法に相当する)を一部改正して連邦軍を設立。
1968年にも基本法を改正して緊急事態法を新たに設けている。
これらの法体系があるからこそ、ドイツ軍の兵士が軍事活動に参加できるのである。
日本には、このドイツの緊急事態法に相当するような有事に備える法体系がなかった。
テロとの対決を果断に打ち出せない根本的な理由は危機管理意識の希薄さだが、直接的な理由は有事の法体制がない事にあるのだ。
少なくともある程度の基幹国家として成立している国であるなら、有事に対する基本的な法体制は設けている。
その点で、日本は例外的であり、ある意味では国家としての体をなしていないと言える。


12、私は1970年代に約2年間ジュネーブにある研究機関で働いた事があるが、スイスに住んで非常に驚いた事は高速道路が滑走路として利用できる設計になっている事であった。
スイスは永世中立という国是の支えとして国民皆兵制をとっており、定期的に有事に備える訓練が実施される。
その緊急事態訓練の際、近隣の住民たちの手によって高速道路にある中央分離帯が撤去されるのだ。
それが簡単にできる構造になっていて、分離帯がなくなった道路上に戦闘機が下りてくるのである。
アフガニスタンへのアメリカの空爆を見てわかるように、真っ先に爆撃の標的になるのは空港である。
空港を使用不能にすれば制空権を握れるからである。
高速道路を滑走路に、地下鉄の駅をシェルターにという施策はお隣の韓国でも採用されているし、スイス以外のヨーロッパの国にも核攻撃に耐えるシェルターを設けているところは少なくない。


13、これまで、日本の政府がテロに対してどういう対応をしてきたかという論議で必ず引き合いに出されるのが、1977年9月に起こった「日本赤軍ダッカ事件」の顛末である。
パリから東京に向かっていた日本航空のDC8機がインドのボンベイ上空で日本赤軍のメンバー5人によってハイジャックされて、バングラディシュのダッカ空港に強制着陸。
ハイジャック犯が乗客乗員の命と引き換えに、日本国内で服役中だった日本赤軍メンバー9人の釈放と身代金(当時の日本円で)16億円を要求し、当時の日本政府がこれをすべて受け入れたというのが事件のあらましである。
当時の福田赴夫首相が言った「人の命は地球よりも重い」という言葉が流行語のようになり、人質全員がチュニジアで解放された事から、国内にはこの措置を称賛する声もあったが、国際的には非難こそあれ評価の声はまったく上がらなかった。
テロを防ぐためには、テロリストの要求を呑む事はもちろん、テロリストと交渉する事さえ避けるべきというのが常識だからだ。


14、こういうお粗末さを解消しようとの目的をもって今回検討されたのが、テロ対策特別措置法、自衛隊法の一部を改正する改正自衛隊法、そして改正海上保安庁法のいわゆるテロ関連3法案であった。
テロ対策特別措置法は自衛隊の海外での活動を、改正位自衛隊法は国内での自衛隊の活動についての法案だが、テロ対策特別措置法と比較すると他の2法案への関心はあまり高くなかった。


15、しかし、本来はお粗末な日本のテロ対策を強化するために考えられた改正自衛隊法の内容が、じつは大変にお粗末なものなのである。
改正自衛隊法の眼目は「警護出動」の新設だ。
国内の治安維持・回復目的で内閣総理大臣自衛隊を動かす自衛隊法の根拠として「治安出動」がある。
何か国内に大変な事態が発生して警察力だけではどうにもならないとなった時は、内閣総理大臣の治安出動命令によって自衛隊が出動し、必要なら武器を使用してもいい事になっているのである。
ただしこの治安出動は、外国から攻められた場合の「防衛出動」を別にすると最も重いレベルの命令なのでクリアすべき要件が多く、突発事に敏速に対応できるとは言い難い。
実際にこの治安出動命令が出された事は1度もないのである。
そこで、同じ内閣総理大臣の命令であっても、もう少し敏速に対応できる出動形態として「警護出動」の新設が考えられたわけだ。
「警護出動」が新しく出来たのはいい事である。
出動の対象をテロに限定したのも、アメリカの同時多発テロを受けての事だから理解できる。
問題はその警護出動した自衛隊がどこを警護するのか、その場所なのだ。
内閣総理大臣は、本邦内にある自衛隊の施設または駐留米軍の施設・区域に対するテロ行為が行われるおそれがあり、その被害を防止するため特別の必要があると認める場合には、当核施設等の警護のため自衛隊の部隊等の出動を命ずる事が出来るものとする」。
自衛隊の施設とアメリカ軍の施設だけを警護するというのである。
世界貿易センターのような巨大なビルや国会、ターミナル、球場、原子力発電所などテロの標的になりそうな場所の事は無視してしまっているのだ。
テロリストが本当に日本を震撼させる意図があるなら、自衛隊の施設や駐留アメリカ軍などを狙ったりするはずがない。
国会、皇居、連休などで満員になっている新幹線、そして原発、ターゲットはいくらでも考えられる。


16、こういう状況を作ってしまっている背景には、警察機構と自衛隊との縄張り争いというか、警察側の強い縄張り意識が横たわっている。
たとえば、「警護出動」に関する自衛隊法の条文にある「自衛官の職務遂行」の部分では、質問や避難の措置、立ち入りは、その場に警察官がいない場合に限定して自衛官がやっていい事になっている。
警察の方が上なのである。


17、自衛隊を出動させると軍国主義につながるという反対意見も大変に多い。
軍国主義になる最大の原因は政治家にシビリアンコントロールの能力がない事だから、軍国主義を危惧するのは政治家としての自分の能力を否定している事とイコールなのだ。
そんなレベルの議員が国会を牛耳っているから、こういう法案になるのである。


18、たとえば、サダム・フセインをしてクウェート侵攻に踏み切らせた大きな理由のひとつには、石油の価格設定を巡る問題があった。
当時のイラクは、1980~1988年の8年間にわたってイランとのイラン・イラク戦争の後遺症で国家経済が破綻する寸前にあった。
そこで外貨を獲得するための唯一最大の手段である原油価格の値上げをもくろみ、OPEC総会で加盟各国の了承を取り付けていたのである。
ところが、クウェートがこれを無視して抜け駆け的に安く販売してしまった。
当然、高く設定しようとしていた価格は下がり、ますます国家財政は厳しくなった。
そこで、「クウェート憎し」に駆られて侵攻したというのが、石油問題から見た湾岸戦争である。


19、私たち日本人は中東の民族問題や宗教にについてあまりにも知らなすぎる。
テレビを見ながら、あるいは酒場談義程度ならまだ罪はない。
ところが政治家までテレビのワイドショーと同程度の知識レベルで、今回のテロへの対応を考えようという人がいるのだから恐れ入る。


20、少々話は遡るが、歴史的背景から検証してみたい。
われわれ日本人には、中東、アラブ世界というと民族的にはひとつであり、何か事あるときはアラーの名の下に一致団結するというイメージがあるが、真相は決してそれほど単純ではない。
例をひとつ挙げると、1980年の9月に勃発したイラン・イラク戦争
この戦争はイスラム原理主義シーア派を率いるホメイニ師イラン革命に成功、これを看過できなかったアメリカがイラクに軍事援助を行って起こったが、あれはもともとアラブ人とペルシャ人の民族対決だった。
中東イスラム世界の中ではイランはペルシャ民族であり、だからこそ他のアラブ諸国は、アラブ民族を代表して戦いに挑んだ形のイラクをこぞって支援し、サウジアラビアクウェート、UAEなどは、イラクに巨額の戦費を無利子で貸し付けたわけである。
その額はサウジ250億ドル、クウェート100億ドル、UAE30億ドルにも上がる。
ところがイラン・イラク戦争が終了して2年後に、イラクは支援してくれた同じアラブ民族であるクウェートへ侵攻して、この湾岸諸国から借りた100億ドルの借金を無効にしてしまう。
もっと巨額な資金を貸していたサウジアラビアがそれを見て「次はこちらが危ない」と思い、その脅威を防ぐためにすぐにアメリカ軍の自国内駐留を認めた。
翌年起こった湾岸戦争時には数十万人の米兵がサウジに駐留していたといわれている。
これによって、異民族どころかアラブ民族内でも決定的な対立が生まれてしまった。
このように湾岸戦争をきっかけに中東世界は大きく変化してアラブの一枚岩が崩れ、サダム・フセインを支持する側と反対する側に二分されたのである。

 

21、また、中東ではイラン、イラク、トルコの国境地帯に居留するクルド人の問題もある。
クルド人民族主義運動の根強さは、サダム・フセインが約5千人を毒ガスで虐殺するという暴挙に出たことでも明らかで、私は彼等クルド人の独立が実現しない限り中東でのテロの芽は消えないと思っている。


22、こういう中東の事情に加え、今回のアメリカによる報復攻撃の舞台になっているアフガニスタンには、アフガニスタン独自の民族問題も存在している。
アフガニスタンという国は、東洋と西洋の境目に位置するという地理的な理由もあり、過去に何度も大国によって蹂躙された歴史を持っている。
現在の悲惨ともいえる国内状況を生んだきっかけは、1979年の旧ソ連軍によるアフガン侵攻である。
強大な軍事力を背景にアフガンに進駐したソ連軍に対抗したのは、聖戦(ジハード)の名の下に集まった義勇兵ムジャヒディン(イスラム聖戦士)で、彼らは10年の戦いの後、1989年ついにソ連軍を撤退させることに成功する。
しかしその後、今度は内部分裂を起こして内戦に突入してしまう。
ちなみにオサマ・ビンラディンが最初にアフガニスタンにやってきたのも、旧ソ連軍に対抗するムジャヒディンとしてだった。


23、パレスチナ(今のイスラエル)がもともとユダヤ人の土地だったというのはいつごろのことなのか、なぜユダヤ人はそこを出てしまったのか、それを考えると歴史は一気に2000~3000年前に遡らなければならない。
つまり領土の所有を証明する2枚の権利書の一方は2000年前に遡り、もう一方はさらに1000年遡り3000年前の話なのである。
パレスチナユダヤ人の土地であったことは、旧約聖書に書かれている。
紀元前517年にようやくエルサレムに神殿を再建してユダヤ教を成立させるのである。
ただし平和な時代は長くは続かず紀元前後にローマ帝国によって侵略を受け、ついにユダヤ民族はパレスチナの地から追い出されて「ディアスボラ」と呼ぶ離散の道をたどることになる。


24、パレスチナ人は2000年間、パレスチナに住んでいた。
ところが突然20世紀になって「実は私たちは3000年前にここに住んでいた」というユダヤ民族が出現して、今度は彼等が追い出されてしまった。
パレスチナ問題はそういう歴史の流れを踏まえて考えなければ理解できない。


25、キリスト教の神はゴッド、イスラム教の神はアラー、そしてユダヤ教の神はエホバ。
呼び方が違うし、何よりも信仰の形態が少なくとも表面的にはまったく似ていないので、3つの宗教にそれぞれ別の神がいるのだと思っている日本人は少なくない。
しかし、実際は同じ神を指している。
3宗教のうちもっとも古いのがユダヤ教で、紀元前517年に成立したといわれる。
それから500年ほどしてキリスト教が誕生して「神の子」を名乗り、その弟子たちがキリスト教を成立させる。
イスラム教は、そのキリストからさらに600年ほど後の7世紀に、現在のサウジアラビアで誕生する。
メッカに生まれたムハンマドマホメット)が、神の啓示を受けて神の使徒としてその言葉を人々に伝え始めたのがスタートである。


26、イスラムと西欧の教科書問題でメインとなったテーマは十字軍だった。
日本でも南京事件などの記述について中国や韓国との間に教科書問題があるが、あれとまったく同じ性質の問題が十字軍の記述についてイスラムの教科書と西欧の教科書との間に存在しているのである。
十字軍というのは、パレスチナ特に聖地エルサレムの奪還を旗印に、11世紀末から13世紀まで200年間に合計7回(8回という説もある)の遠征を行ったキリスト教徒の軍隊のことだ。
エルサレムイスラム・キリスト・ユダヤ各宗教の聖地であることは、現在のパレスチナ問題を解決する最大の障壁にもなっていることからよく知られているが、それは中世でも同じだった。


27、現在、エルサレムを占領しているイスラエル軍(および後ろ盾のアメリカ)を「新十字軍」ととらえる見方もイスラムにはある。
中世十字軍の7度にわたる遠征は結局は失敗に終わり、エルサレムイスラム教徒の手に戻るが、それを再びイスラムの手から奪い取ったイスラエル軍は十字軍と同じという陸Tなのである。


28、20世紀初頭のパレスチナはトルコの統治下にあった。
パレスチナ人は2000年前から住んでいたが、13世紀末に興ったオスマン・トルコが16世紀に隆盛して以来ずっと、主権はトルコにあったのである。
変化は1914年に勃発した第一次世界大戦を契機にして起こる。
ドイツを中心にした同盟国とイギリス・フランス中心の協商軍が戦ったこの戦争の真っ最中に、イギリスがアラブ諸部族に対して独立を約束したのだ。


29、「フセイン・マクマホン協定」をイギリスが結んだ裏には、ドイツ同盟軍についているトルコを叩くという目論見があった。
トルコを叩くには、オスマン・トルコの圧政に苦しめられてきたアラブ民族に決起をうながすのが効果的だと判断し、独立を約束することで民族意識の高揚を煽ったのだった。
狙い通りにトルコは屈し、大戦にもイギリス協商軍側が勝利する。
ところがパレスチナの独立は果たされなかった。
果たされなかったどころか、第一次大戦が終わると、ヨーロッパ各地からユダヤ人が続々とパレスチナの地へ入植してきたのだ。
この理由は、イギリスが発行したもう1枚の権利書にあった。
世界中に離散していたユダヤ人の間には、19世紀末ごろから父祖の地・パレスチナユダヤの国をつくろうという運動が起きていた。
エルサレムにあるシオンの丘の名をとってシオニズム運動、運動家をシオニストという。
イギリスは彼等シオニストの要請を飲む形で、第一次大戦が終わると1年前の1917年に「バルフォア宣言」を出し、パレスチナへのユダヤ国家建設を認めたのである。
イギリスは大戦に勝利するという目的のために、わずか2年の間にひとつの土地に2枚の権利書を公認してしまったということになる。
結果はユダヤ人たちの入植と、それに押し出されるパレスチナ人たちの難民化。
2000年前にユダヤ人が流浪の民になったのと同じ運命を、20世紀になってパレスチナ人が辿る。
したがって、ユダヤ人の過去2000年の状況を嘆くというのなら、パレスチナ人の今の悲惨な状況も嘆かなければならないのである。


30、ところが問題はそんなに単純ではない。
もっとも大きい問題がアメリカの存在。
アメリカには非常に多くのユダヤ人が住んでいる。
ユダヤ教徒の数は本家のイスラエルよりも多くて、600万人とも700万人ともいわれているほどである。
数が多いことに加えて、優秀な人材がそろっているので、アメリカ社会のさまざまな分野で強い影響力を持っている。
中でも特筆すべきは、ウォールストリートつまり金融の世界と、「ニューヨークタイムズ」「ワシントンポスト」などメディアの力で、アメリカの金とメディアの多くにはユダヤ人が大きな影響力を行使しているといっても過言ではないのである。


31、話は本筋から少しそれるが、ユダヤ人が優秀であるのは流浪の民の歴史を持っているからである。
祖国を持たない民族にとって生き残っていく方法はただひとつ、自らが優秀であることしかない。
自分以外に頼れるものがないから、自分に能力がないと生き残れない。
だから、親は借金をしても子供に教育を受けさせようとする。
ハーバードへ入れる、スタンフォードへ入れる、そうやってユダヤ人たちは能力を磨き、今の地位を築いてきたのだ。


32、第一次世界大戦の終了後、ユダヤ人たちは続々とパレスチナへ入植してきたが、すぐに建国できたわけではない。
すでにそこで生活しているパレスチナ人がおり、彼等もまた「フセイン・マクマホン協定」によってイギリスから建国の保証を受けていた。
しかもイギリスは、実はアラブ人とユダヤ人に対して相矛盾する約束をしていただけでなく、フランスとは自国の権益を拡大する「サイクス・ピコ協定」と取り交わしていた。
その協定が成立したのは1916年で、第一次大戦後にロシアも含めた3国で、オスマン・トルコ帝国の領土を分割することを取り決めたものだ。
ところが、1917年の革命後、ロシア政府が暴露したことで、この秘密協定の存在が明らかになった。
そうした状況を受けて国際連盟は、第一次大戦終了から4年後の1922年に、パレスチナをイギリスの委任統治下に置くことを決定する。
ユダヤパレスチナ双方の言い分の調整役は、複雑な状況を作った張本人であるイギリスしかできないということである。


33、第一次大戦後、落ち着くかに見えた世界情勢は再び混迷の度を深めていき、1939年ついに第二次世界大戦が勃発してしまう。
大戦中にナチスドイツが繰り広げたユダヤ人への迫害は熾烈を極めた。
いわゆるホロコーストで、すべてを捨てて住んでいる土地を出ざる得なかった多くのユダヤ人の目が、パレスチナへ向いたことは想像に難くない。
1945年に第二次大戦が終わり、その2年後に国際連合は「パレスチナ分割決議」を採択した。
パレスチナ人とユダヤ人の双方が住んでいるという現状を認めて土地を2分割し、エルサレムだけは国連の統治下に置くとしたのだ。


34、歴史表を見るとパレスチナがイギリスの委任統治領だったのは1948年5月14日までとなっている。
パレスチナに入植したユダヤ人が「イスラエルの独立」を宣言した日だ。
アメリカや当時のソ連はすぐにこれを承認。
アメリカが承認した背景には前途したアメリカ国内でのユダヤ人の力があることは言うまでもなく、以降パレスチナを巡るあらゆる場面でアメリカは常にイスラエルの最大の擁護者であり続けることになる。
ただし、いくら米ソが承認してもアラブ諸国がこれを看過するはずはなく、5月15日にはエジプトを中心にヨルダン、イラク、シリア、レバノンの5ヵ国連合がイスラエルに攻撃を開始した。
これが第1次から第4次まで繰り返された中東戦争の始まりだ。
イスラエルは翌1949年に国連に加盟し、イスラエルパレスチナの国際的な立場には大きな差がつくのである。


35、そのナセル・エジプトに決定的ダメージを与えたのが、1967年の第3次中東戦争だった。
別名「6日戦争」といわれるこの戦争は、イスラエルが圧倒的な空軍力・陸軍力でエジプト、ヨルダン、シリアを電撃的に壊滅させた。
その結果、イスラエルヨルダン川西岸やガザ地区はもちろんのこと、エジプトのシナイ半島全体とシリアのゴラン高原まで占領下に置くことになる。


36、エジプトがシナイ半島を取り返すべく1973年にもう1度戦いを挑んだのが、第4次中東戦争である。
ユダヤ教の贖罪の日に始まった。
この戦争では、エジプトとシリアが同時にイスラエルに攻め込んた。
しかし、その攻撃を持ちこたえたイスラエルが、やがて反攻に出る。
戦争それ自体は開戦時の状況に戻ったところで停戦になるが、事態は思わぬ波及を見せた。
アラブ産油国が中心になって、OPECが「石油戦略」を発動し、原油価格が暴騰したのである。
中東の宗教・民族問題に、石油問題が密接に繋がった瞬間だった。
いずれにせよ、この4度の中東戦争はいずれもイスラエルとエジプトとの戦いが中心であった。
パレスチナ問題はアラブ全体の問題であり、アラブの盟主はエジプトだったからである。
アラブの中ではやはりエジプトは強く、エジプトの力でなんとかイスラエルと戦える状況だったと言ってもいい。
1978年に当時のカーター米大統領の仲介によって、イスラエルのベギン首相とエジプトのサダト大統領は和平に合意し、翌1979年には平和条約に調印している。
これもイスラエルの相手がエジプトだったからこそ実効性を持ち、イスラエルによるエジプトへのシナイ半島返還が実現している。
残念ながらこの和平協定がパレスチナ自体の平和に結びつくことはなく現在に至っているが、少なくともイスラエルとエジプトの間にその後争いは起きていない。


37、1970~1980年代にかけて、イスラエルパレスチナの間に目立った歩み寄りの動きを見ることはできない。
戦いに倦んだヨルダンによる難民の追放(1970年ヨルダン内戦)、パレスチナのゲリラ組織「黒い九月」によるミュンヘン五輪イスラエル選手村へのテロ(1972年)、テルアビブ空港乱射事件(1972年)、レバノンベイルートへ移動していたPLO本部をねらったイスラエルレバノン進攻(1982年)など、国際社会を震撼させる大きな事件が多発する一方、ヨルダン川西岸やガザのイスラエル占領区ではパレスチナ人によるテロとイスラエルの報復が繰り返され、一般のパレスチナ人によるインティファーダ(民衆蜂起)も始まっていた。


38、出口が見えなくなったかのように思えたパレスチナ問題に、突然明るい光が差したのは1993年9月のことだ。
9月13日、アメリカ・ワシントンDCのホワイトハウスで、当時のクリントン大統領を間にはさんだイスラムのラビン首相とPLOのアラファト議長が、がっちりと握手を交わしたのだ。
パレスチナ暫定自治宣言」への調印。
それは中東のみならず世界史のエポックとなる大きな出来事だった。


39、その裏側には双方が態度を軟化さぜると得ない事態が起こっていたのである。
ひとつは米ソによる東西冷戦の終結、もうひとつはイラククウェート侵攻に端を発した湾岸戦争だった。
東西冷戦の終焉とソ連の崩壊は、PLOに経済的な打撃を与えた。
イスラエル=アメリカへの対抗ということでソ連から受けていた支援が仰げなくなり、武器の調達に窮するようになった。
つまり戦争継続に必要な兵站体制が維持できなくなったのである。


40、湾岸戦争はそれまで一枚岩を誇っていたアラブ世界を2つに分断し、さらに武闘派の名をほしいままにしてきたイラクが欧米の軍隊に敗れたことは、アラブ世界に一種の挫折感と焦燥感をもたらした。
そして、この挫折感がイスラム原理主義復古主義の台頭を招くことになる。

 

41、より正確にいうとデリケートな部分は東エルサレムにある。
イスラム教の聖地「岩のドーム」とユダヤ教の聖地「嘆きの壁」は、東エルサレムの同じ場所に隣同士で残っているのだ。
現在、その一角はユダヤ人居住区でもパレスチナ人居住区でもない。
21世紀になって対立がより深刻化したのには、イスラエルの政権を右派のリクードが握り、強硬派のシャロンが首相になっていることも大きく影響している。
それをブッシュ米大統領が支援しているのだから、究極の手段としてビンラディンのようなイスラム原理主義者による「アメリカ攻撃」というテロリズムにも繋がっていく。
深層は常にパレスチナ問題にあると言っていい。


42、2001年9月11日、ニューヨークの世界貿易センタービルが崩れ落ちたとき、ブッシュ大統領は「これは新しい戦争だ」と言った。
この言葉にはふたつの大きな意味が含まれている。
ひとつは文字通りこれまでに起こったことのない形の戦争という意味。
宣戦布告などなんの予告もなしに、国籍不明の武装集団が、旅客機を使った自爆という方法でアメリカ本土の中枢部に攻撃をかけてくることなど、いかに超大国アメリカといえども想定していなかった事態だろう。
テロの起こった当初、全米のマスコミはしきりに日本軍による真珠湾攻撃を引き合いに出したが、正規軍同士の戦いだった太平洋戦争とは本質的にまったくの別物である。
もうひとつは、未経験の事態が今後の国際社会のありようを大きく変えるかもしれないという意味。


43、マネーの動きに対して、ネーション・ステイトの枠組みだけではまったく対応できなくなっている。
人・物・情報も同じだ。
好むと好まざるとにかかわらず、グローバル化の波はとどめようもなく、国境という概念は加速度的に希薄になってきている。


44、同時多発テロが起こったことを、国際社会の枠組みの変化のみならず「パックス・アメリカーナ」崩壊の象徴だと見る人もいる。
パックス・アメリカーナとは、アメリカを中心にして維持されている国際秩序をいう。
外交、軍事、経済、それに文化も含めてさまざまな要素に裏打ちされなければならない用語なので、たとえば経済面に比重を置いて「1950~1960年代の黄金時代を境にパックス・アメリカーナは終わった」と言う学者もいれば、軍事に重きを置いて「東西冷戦が終結して唯一の超大国となった時代こそが、真のパックス・アメリカーナだ」と言う人もいる。
私はもっと広い意味で「アメリカが世界でもっとも協力な国として君臨している時代」ととらえる方が正しいと考える。
したがって、第二次世界大戦が終了した1945年から今日に至るまで、世界はパックス・アメリカーナの時代である。
そのパックス・アメリカーナ同時多発テロで崩壊していく?
それは違う。
崩壊ではなく、むしろパックス・アメリカーナの強化に繋がるのではないかと考える。
テロによって状況が変わるのは確実なのだが、それでアメリカが急速に弱体化するということはなく、質を変えた第2章のパックス・アメリカーナパックス・アメリカーナⅡになるということなおである。


45、日本の法体系もこのパックス・アメリカーナⅡの構造に合わせて変わらないといけないのだが、あいかわらず国対国、アメリカ対ソ連が冷戦状態にあったときのイメージのままであり、テロ対策への自衛隊の貢献という話になると、「戦争に巻き込まれてしまうのか」などという意見が出てくる。


46、パックス・アメリカーナⅠからⅡへの変化は、どの国も無縁ではいられない国際システムの変更である。
ならばどのように変わっていくのか?
それを考える上で、過去の歴史、特に近代に入ってからの国際社会の変化を辿ることは重要な意味を持っている。
国際社会の動きについて考えるとき、「世界システム論」という理論が私たちにひとつの指針を与えてくれる。
国際社会が歴史的にどういう変化をとげたかを、ひとつのダイナミックなシステムとしてとらえることで理解しようという理論で、イマニュエル・ウォーラースティンという学者が最初に唱え、1980年代に大変にもてはやされた学問である。
世界システム論では、特定の1国の経済力が突出して世界のナンバーワンになることを「覇権(ヘゲモニー)」という。
覇権国家は歴史の変化とともにいAからBへ、BからCへと移り変わっていくのだが、そこにはいくつかの法則性が見出せるとされている。
第1の法則性は「100年周期」。
ひとつの国の天下はだいたい100年で他の国に取って代わられる。
世界システム論の基本には、資本主義的経済が誕生した15世紀末を境にして、世界のシステムは世界帝国型から世界経済型へ変わったという図式がある。
その基本にしたがって世界経済型になった16世紀以降の覇権国家の移り変わりを見ると、ほぼ100年ごとにトップの座は入れ替わっている。
1期目の16世紀、これは大航海時代をつくり上げたポルトガルの時代だ。
ポルトガルは1580年にスペインに統合されてしまうのだが、大西洋からアフリカの喜望峰を巡ってインド洋、太平洋にまで進出し活発に貿易を行っていた。
2期目の17世紀、ポルトガルの後を襲って世界の覇権を握ったのはオランダである。
ポルトガルと同じようにアジアへの東方貿易を活発に行い、1600年にアムステルダム銀行創設、1602年に東インド会社を創設して香料貿易をポルトガルから奪って独占した。
その勢力は17世紀末まで維持される。
3期目の18世紀はいよいよ大英帝国イギリスの時代である。
世界の歴史に少々疎くても、イギリスが強大な力を持って世界各地に植民地をつくっていったことぐらいは誰でも知っている。
このイギリスの覇権時代を「パックス・ブリタニカ」と呼ぶが、例外的に100年経っても終焉とはならず、スペイン継承戦争勝利を収めた1714年から第二次世界大戦が終わる1945年まで200年余に及ぶ。
つまり3期、4機は2世紀にわたってパックス・ブリタニカなのである。
100年を超えても120年とか160年ではなく2世紀というところが、100年周期説を勇気づける。
そして1946年から現在に至る5期目の覇権国がアメリカ、つまりパックス・アメリカーナとなる。
この100年覇権システムは、ポルトガル人による種子島への鉄砲伝来(1542年)に始まる、日本史への西欧各国の登場順とも見事に符号しているのである。


47、100年周期説は、隆盛を極めた覇権国家がほぼ100年でその勢いを失うという法則だが、生き物ではないので寿命を迎えて自然に衰えていくということなどありえない。
想像の通り、他の国との戦争に敗北することが覇権の終わりを招く。
この覇権国家が交代するきっかけとなる戦争にも特色がある。
それが第2の法則性「30年戦争」だ。
覇権国の末期にはその時代の大国すべてがからむ戦争が起こり、それが約30年続くと世界の秩序が変わってリーダーが交代するというのである。


48、覇権は、ほぼ100年を周期として入れ替わる。
トップ交代のきっかけになるのは、100年にわたる天下のラスト約30年間ほど続く大国間の戦争である。
世界システム論にはこの2つに加えてもうひとつの法則性が、実はある。
覇権国家にはこれに対抗する勢力としてナンバー2の国が必ずある。
しかしナンバー2の国が次の覇権を手にすることはない」という第3の法則性だ。
ナンバー1とナンバー2が戦ってナンバー1が敗れる。
するとナンバー2も一緒に落ちてしまい、第三者がトップの座を占めるというのである。
1期目のポルトガルのときのナンバー2は隣国スペインであり、ポルトガルの統合に成功している。
しかし、すぐにオランダが台頭して、17世紀はオランダが牛耳ることになる。
そのオランダにはフランスが戦いをしかける。
このときナンバー2のフランスが敗れる。
そこで、フランスもオランダとともに落ちて、第三者であるイギリスが覇権を握る。
3期目のイギリスの最初の挑戦国はフランスだった。
イギリスはこれに勝ち、力を維持してパックス・ブリタニカを現出する。
4期目はドイツとの2回の戦争、これにもイギリスは勝つが、今度は覇権の維持はかなわず連合軍の一員であったヨーロッパ以外の国アメリカが表に出てきたということになるのである。
以上が世界システム論に基づく国際秩序の変換の大まかな構図である。


49、第二次大戦後の1946年から現在まで、アメリカの天下が継続していることに異論をはさむ人はいないだろう。
100年周期と30年戦争の法則性にしたがえば、2020年から2050年ぐらいまではパックス・アメリカーナが続くことになる。
パックス・アメリカーナに対抗するのはどこなのか。
日本かロシアか、それとも中国か?
時期はいつなのか?
過去の変換を参考にそれらを考えるのが、世界システム論の役割である。


50、私は「ひとつの国が世界のパワー(列強)になるのには、最低5000万人の人口が必要だ」と考えている。
国際政治の上で各国の人口というのは想像以上に重要なファクターを占めていて、第一次大戦後にフランスでドイツに対する自国防衛が討議されたとき、ドイツと比較した人口の少なさがフランスの代の弱点として指摘されたほどだ。
現在ももちろんその論理は健在であり、ロシアを含めたサミット参加国の中で人口が5000万を切っているのはカナダだけである。
ただ、これも必要条件だというだけで十分条件ではありえない。
発展途上の国にも、5000万人超の人口をかかえるところはある。
したがって十分条件にするには、経済などその他の国力が一定レベルに達した上で人口5000万人以上という条件にしなくてはならない。
ただこの人口の論理をイスラム世界にあてはめてみると、世界中に15億人以上のイスラム教徒が存在し、これは大国、中国の人口以上になる。
しかも、2025年には18億人以上に達すると予測されていて、そういう意味からもイスラムパワーはますます脅威になってくるのである。


51、第二次大戦後の、海軍力だけでは推し量れない各国の国力については、複数の学者が異なる論を立てている。
「地理的条件」「天然資源」「工業力」「軍備」「人口」「国民性」「国民の士気」「外交の質」「政治の質」を国力の要素としてあげたのはハンス・J・モーゲンソーであり、J・フランケルは「人口」「地勢」「経済」「政府組織と軍事組織」「心理的・社会的要素」「国際的戦略的地位」を挙げている。
また、レイ・S・クラインは「人口・領土」「経済力」「軍事力」「国家的戦略目標」「国民の意思」の5要素をもとに国力を数値化する公式を考え出している。
ちなみに、そのクラインの公式に基づいて計算した1978年当時の国力ランキングによると、1位ソ連、2位アメリカ、3位にブラジルが入り、次いで西ドイツ、日本、オーストラリア、中国、フランス、イギリス、カナダの順となっている。


52、このように、次の覇権国家がどこになるかを推し量る国力の指標は、海軍力の比較だけで足りた時代から大きく様変わりして、非常に複雑になっている。
そこで私としては国力判断の指標を以下の4点において、これからの話を進めたいと考えている。
その4点とは「軍事力」「経済力」「金融力」そして「文化」である。
このうち「文化」は、その国が世界に対してどういう「価値観」を示せるかを指す。
歴史的に見ても世界を支配しようという国は、常になんらかの大義名分を必要とした。
たとえば、ポルトガル・スペインの時代から始まって近世以降のヨーロッパの白人たちは、ずっとアフリカを植民地化してきたが、そのときに彼等の言った言葉が「ホワイトマンズ・バーデン(白人の責務)」あるいは「フラターニティ(博愛)」である。
未開な有色人たちに大いなる愛をもって文明の恵沢を与えるのが白人の担う責務なのだ。
この価値観を錦の御旗として植民地化政策を推し進めていったのである。


53、1980年代に世界システム論に基づく将来の国際秩序を考えたとき、パックス・アメリカーナはもしかすると20世紀中に終わるのでは、という思いが頭をよぎったことがある。
1946年に始まったパックス・アメリカーナが20世紀中に終わるとすると、覇権国家100年周期説とは相容れないが、そこを改めて経済循環説にあるような半分の50年周期とすれば、1995年ごろに世界システムの転機が訪れることになる。
こう考えた背景には、1970~1980年代にかけての度重なるドルの暴落、双子の赤字といわれて膨らみ続けた財政赤字貿易赤字、経済面だけを見てこの時期にパックス・アメリカーナは終わったという学者もいたぐらいである。
仮に1995年ごろにアメリカの覇権が終わるとすれば、「30年戦争説」はどうなるのか?
これにもかっこうのモデルがあった。
1946年に始まって1975年のサイゴン陥落で終わったベトナム戦争である。
ちょうど30年間だ。


54、2020年ごろにアメリカの覇権が終わり、次なる存在、それは必ずしもひとつの国とは限らないが、新しいリーダーが主導する世界の秩序が生まれる可能性がある。
ポスト・パックス・アメリカーナ
次のバトンを受け取る存在はどこかについて、私は5つの可能性があると考えている。
1パックス・ジャポニカ
2パックス・コンソルティス
パックス・アメリカーナ
4パックス・ロシア
5パックス・X

1はもちろん日本、2のコンソルティスとは一国ではなくて、アメリカとEUと日本が共同で世界をリードしていくというような新しい覇権の形、5は1~4までのどれでもない国、たとえば中国とかインドが出てくるモデルである。

 

55、8つの文明とは、「西欧文明」「東方教会文明」「イスラム文明」「中華文明」「日本文明」「ヒンドゥー文明」「ラテンアメリカ文明」そして「アフリカ文明」である。
現在の世界がこの8つの文明にすでに分かれているのではなく、現在は1つの超大国・アメリカと他のいくつかの大国や地域大国からなる一極・多極システムといえる構造になっている。
やがてこの構造が崩れて最終的な形としての多極システムへと移行する。
このときに世界の国々をグループ分けする基準が8つの文明であり、限定的な紛争や、貿易戦争、冷戦、ライバル関係などといった様々な争いや対立は、すべて文明の境界線上や異文明間で起こる。
これが「文明の衝突」である。


56、ハンティントンは「文明の衝突とはグローバルな広がりを持った種族間の紛争である」と述べ、異文明間の関係について「異なる文明に属する集団間の関係が緊密になることは滅多になく、通常は冷淡で、多くの場合敵対的である」と書いている。


57、むしろ気になるのは、ハンティントンが「文明の衝突」の中で、日本を8つの文明のひとつとして捉えて「孤立した国家である」と定義づけ、イスラム文明と日本文明の2つを他との比較で異質だとしているところだ。
日本文明を異質だとする根拠には、次の4点を挙げている。
ひとつは他の7つの文明には必ず複数の国が含まれるのに対して、日本だけは1文明1国であり文明的な繋がりを持つ国がないという点で、信頼感をベースに協力や支援をし合う国々がないとする。
2点目は近代国家でありながら西欧化しなかったところだという。
西欧化しなかったことで、生活様式から基本的な価値観に至るまで非西欧を維持していると指摘する。
3点目は革命を経験せずに近代化を成し遂げたことで、これは以前からよく言われる日本の特徴である。
そして4点目としては、他の国と文化的繋がりがないために、国際社会の中で日本にしかない弱点と利点が生まれたことを挙げている。
弱点とは危機の際に他の国から情緒的な支持を得られないこと、利点は他の国を支援する責任がないため自国の権益追求に邁進できることだ。
ハンティントンは、イスラム文明のように日本が危険な存在になると言ってはいない。
しかし「日本にとって唯一の同盟国であるアメリカとの関係は、アメリカがヨーロッパの同盟国とのあいだで築いているような、打ち解けた思いやりのある親しいものであったことはないし、これからもそういう関係が築けるとは考えにくい」とし、「日本は家族を持たない文明である」と断じている。


58、西欧社会から見ればイスラム社会も日本の社会も異質さという点では変わらないのかもしれない。
たとえば、敬虔なキリスト教徒の目には、1日に5度の礼拝を欠かさず、豚肉を一切口にしないイスラム教徒の生活と、ふだん何の信仰も持たず結婚式や葬式など行事によってキリスト教神道仏教を平気で使い分けている日本人の生活のどちらが異様なものとして映るだろうか。
おそらくは日本人である。
問題はその日本独自の特性が世界に通用するか、異質は異質として受け入れられるかどうかである。
もし受け入れられるならば、あえて他に迎合する必要はない。
これまで通りのスタイルを堅持していけば、異質ではあっても孤立はしないはずである。
たとえば歌舞伎や能・狂言といった伝統芸術、食文化、建築様式とそれと不可分の生活様式などはそうであろう。
日本国内でも「和」と形容される分野については西欧化してこなかった異質性は評価されこそすれ、敵視されることはない。
しかし、本章のテーマである国際社会の一員としての日本の振る舞い、とりわけ有事での対応で展開する日本ならではの論理が世界に通用することはない。
何か事が起きるたびに憲法自衛隊の関係を巡って神学論争のような国会討議を繰り返し、国内的には一応のケリがついたというだけでチグハグな結論を世界に発信する。
国際社会での信頼感をなくし、孤立を深めるばかりである。


59、たとえば、チャールズ皇太子やアンドリュー王子などイギリス王室の男子は、確実に全員が軍に入隊する。
そしてひとたび事が起きれば最も危険な場所で戦ってくる。
だからこそイギリス王室が国民の支持を失わずにすんでいるのである。
第二次世界大戦前は日本でもそうであった。
ひとり天皇家を言うのではなく、日本のリーダーになるような男たちはという意味でだ。
ところが、戦争が終わって軍国主義への反省が声高に叫ばれるようになると、安全保障や危機管理について学ぶ場はまったく無くなってしまった。
軍事=悪のような空気が醸成され、安全保障を語ることすらはばかられるような国になったのである。
だから何か軍事に関わるようなことが発生すると、周章狼狽して皆逃げ腰になるのは当たり前なのだ。
自らの命をかける覚悟で最初に事に立ち向かうべきリーダー自身が、そのための訓練を受けていないのである。


60、ヨーロッパの諺に「真に平和を求めるなら、戦争の準備をしなさい」というのがある。
癌を憎み癌をなくすために癌を研究するのと同じように、戦争の危険を回避するために、過ちを繰り返さないために戦争を学ぶのである。
平和が欲しいから戦争を研究している。
この論理が受け入れられずに、今まで流れてきたのが日本という国なのである。
普通の国では戦争を勉強せずに政治家になることなどないと言ってもいい。
いざという時に宣戦布告を行うのは政治家なのだ。
その政治家が戦争の悲惨さを知らずに何ができるのかということだ。
仮に「武器・弾薬」という言葉が嫌いなように「戦争」という言葉に抵抗があるなら、「安全保障学」と変えてもいい。

 

61、こと安全保障や危機管理に関する限り、日本は世界的に見て極めて異常な国と言わざるを得ない。
第1章で触れた小泉首相の対応の遅れは、ただテレビに出演するのが少し遅れたというだけの話ではない。
もし、その程度のことに目くじらを立ててと思う人がいるなら、この国の異常さに毒されている証拠である。


62、今の世界を支配しているのは、アメリカが旗頭とする資本主義である。
それに対する反抗がグローバリズムで、世界の統合が行き過ぎであるとして時間の逆戻りを主張する。
しかし、それは止められるものではない。
反グローバリズムを叫ぶ人達が、グローバル化の巨大な牽引力になっているインターネットを通して、自分たちの主張を広めようとするのはなんとも皮肉な話だが、社会主義の実験が失敗した今、マーケットメカニズム以外の道は考えられないのである。


63、テロ対策特別措置法などいわゆるテロ関連3法案が2001年10月29日に参議院本会議を通過、成立した。
2年間の時限立法ではあるが、史上初めて自衛隊による海外での後方支援が可能になったのである。


64、しかし、この条文通りに行動すると、自衛隊員のすぐ近くにNGOの難民救済で現地入りしている日本の若者がいて、その命が危険にさらされていても助けることは許されないのである。
NGOで勝手に来ている人は自衛隊員の管理下に入っていないからだ。
また、自衛隊の横でアメリカ軍やイギリス軍の兵隊が助けを求めていても手は出せない。
自己の管理下にないのは当然だし他の自衛隊員でもない、外国の兵士だからだ。
こんなバカげたことがあるかと常識的には思うのだが、国会の場では現実味に乏しかったり、白黒がはっきりしないような表現にしておかないと野党が反対するからどうしようもないのである。


65、私は今回のテロ関連3法案については少なからず不満を持っている。
すでに述べてきた条文の不備や内容の曖昧さ、さらに後述する集団的自衛権行使の問題についてのものが大きいが、こういう法案にせざるを得ない日本の政治状況及び政治を取り巻く周囲の環境についても忸怩たる思いを抱いている。

 

66、アメリカとソ連の冷戦終結まで自社対立構造が続いていたため、その時点までは何も進んでいなかった。
少し様子が変わったのは湾岸戦争終結してからである。
湾岸戦争では130億ドル(約2兆円)もの戦費を拠出しておきながら、国際的にまったくといっていいほど評価されなかった。
やはり金銭だけではなく人間を出して汗をかかないと国際貢献したことにはならないだろうという反省で1992年に作られたのがPKO協力法(国連平和維持活動協力法)である。
国連の旗の下に道路の補修や選挙の監視など、本当に後方のそのまた後方の支援をやれるようになり、文民警察官の派遣も可能となった。
ただ、この法律では平和維持活動は行っても武器の使用は行わないとなっており、PKF(国連平和維持軍)への参加は今も凍結されたままである。
次いで1999年には日米安全保障条約ガイドライン関連で、いわゆる周辺事態法が成立した。
これは日本の周辺でアメリカ軍が日米安全保障条約に基づく軍事活動を行うときに、日本の領土から一歩踏み出した公海上やその上空での後方支援を可能にしたというもの。
日本が武力攻撃を受けたときに、日本の近くで相手と戦ってくれているアメリカ軍の後方支援をするという、しごく当たり前の行動が、2年前にようやく認められたのである。
そして今回のテロ対策特別措置法になってさらに活動範囲が広がって、周辺の枠を越えて外国の領土であっても相手国の了解があれば行けることになった。
まさに、薄皮を1枚1枚はぐように1歩ずつ進んでいるという印象である。


67、社会党社民党に変わった今も「戦争巻き込まれ論」を展開している。
第1章でテロ関連3法案の参院採決で改正海上保安庁法はわずか8名の反対だったと書いた。
不審船を停止させるための発砲を認めるという、共産党も賛成したこの法案にも8名の社民党議員は反対したのである。
また、同党の議員がアフガニスタンへの物資輸送には民間機を使用せよという意見を出した場面もあった。
完全に安全確保された場所ではなく、危険な事態が発生する可能性があるから自衛隊をという話であるのに、警察の代わりに民間のガードマンを使えと言うのだ。
国家としての責任をもって行う仕事だということが理解できていない発言である。
こういう「戦争巻き込まれ論」的考えを助長するような報道姿勢をとってきたマスコミ、特に朝日、毎日など進歩的といわれるメディアの影響も大きかったし、それは今も続いている。


68、50年近く一党の政権が続いたために、本来なら旗幟鮮明にすべき進歩的メディアが、表面的中立を装いながら実は世論を一方向へ誘導しようとしているように思えてならない。
マスメディアに頻繁に登場する進歩的と称される文化人の跳梁跋扈もその背景にはある。
日本の戦後50年の歩みを見ると、非常に左翼的メディアの力が勝っていたという思いを強くする。
残念だが、それは今も変わらないのである。


69、日本政府は「集団的自衛権の行使を認めない」という立場をこれまでずっと表明している。
国連憲章の第51条では、個別的および集団的自衛権が認められている。
国連の憲章の理想は、自前の国連軍が整備されていて、そこが世界の安全保障を担うことだが、実際にはまだ存在しないので過渡的な方策として国連加盟国の軍隊を使って目的を達成できるようになっている。
そのための集団的自衛権なのである。
集団的自衛権というのは、たとえば友人何人かで歩いているときにその中の1人が暴漢に襲われたら、友人全員で暴漢に対抗するというような行為を言う。
これに対して襲われた1人だけが対抗するのが個別的自衛権である。


70、しかし、最後の一線で、両方の自衛権は認めるけれども、行使することができるのは個別的自衛権のみで集団的自衛権は行使できないと逃げてきたわけなのである。
認めているのに行使できない権利などというのは本来存在しない。
「選挙権は認めるが投票してはいけない」「言論の自由は認めるが政府の批判をしてはいけない」と言うのと同じなのだ。
テロ対策特別措置法の基本原則にある「対応措置の実施は、武力による威嚇または武力の行使に当たるものであってはならない」などもその最たるもので、個別的自衛権だけは行使を認めておきながら、武力の行使はいけないと言う。
自衛隊員はどうすればいいのか?
問題大ありである。


71、最もすっきりした解決方法は、憲法の解釈を変更して「集団的自衛権の行使を日本国憲法は認めている」とすることであり、それによって自社対立構造の時代から延々と繰り返されてきた禅問答もどきの有事法制議論には終止符が打たれるはずだ。
憲法上、集団的自衛権は認められるが行使はできない」、この解釈を作ったのは内閣法制局である。


72、複数の国の同盟関係とは、図式化すれば同盟国への他からの攻撃を自国への攻撃と見なして対応するということである。
集団的自衛権を行使しない同盟はあり得ない。
ところが、今回の法案も含めて現在の日本の法体系では、同盟とは名ばかりであり、アメリカに一方的に守られる形しかとれない。
日本が攻撃されればアメリカは救援の部隊を差し向けるが、アメリカが攻撃されても日本は食料や燃料を届けるのが精いっぱいなのである。


73、アメリカが他の国と戦うとき、その相手国と日本との関係を悪化させないために「集団的自衛権を行使しない」立場を堅持するのはひとつの見識ではあるが、たとえばその相手国を北朝鮮として考えると、日本がそれだけで危機を回避できるとは到底思えない。
それならば、きちんとした形で集団的自衛権の行使を認めるべきだろう。
憲法を変える必要はなく、憲法の解釈を変えればいいのである。
まず憲法の解釈を変えて集団的自衛権の行使を認められるとし、次の段階で国民の理解が得られることを条件に自衛権の行使を明記した憲法改正へと進むように、2段階のステップを踏むのが最良の策だろう。


74、ロバートソン事務総長が以下のような声明を出した。
「9月11日の米国に対する攻撃が国外から行われたものであること、従って、欧州または北米の1または2以上の同盟国に対する武力攻撃を全同盟国に対する攻撃とみなす旨、規定したワシントン条約北大西洋条約)第5条が対象としている行為であると見なすことが決定された」。


75、日本にとってより現実味の高いミサイル攻撃のケースを想定してみよう。
首都・東京にミサイルが撃ち込まれる。
自衛隊の防空能力で対応できないほどの数であるため、東京を守るためにはミサイルの発射基地を攻撃して破壊するしかない。
この場合、国連憲章でも日本国憲法でも認めている自衛権の行使で対応できるかどうかだ。
「我が国が自衛権を行使する場合、その地理的範囲は必ずしも我が国の領域に限られるものではなく、公海および公空にも及びうるが、武力行使の目的をもって武装した自衛隊の部隊を外国に派遣することは、一般に自衛のための必要最小限度を超えるものであって、憲法上許されない」
これが、自衛権の行使がどのぐらいの範囲まで可能かについての政府の見解であり、基本的には今も変わっていない。
外国への派兵は憲法上許されないのである。


76、自衛隊に限らず軍隊の持つ能力は「装備」「編成」そして「訓練」の3点から推し量ることができるが、自衛隊は3点すべてにおいて非常に厳しい制約を設けられている。
「個々の兵器のうちでも、性能上専ら相手国の国土の破滅的破壊のためにのみ用いられるいわゆる攻撃的兵器を保有することは、これにより直ちに自衛のための必要最小限度の範囲を超えることとなるから、いかなる場合にも許されず、したがって、例えばICBM、長距離核戦略爆撃機、あるいは攻撃型空母を自衛隊保有することは許されない」
これは1988年の参院予算委員会での防衛庁長官答弁で、装備の面で大きな制約のあることがわかる。
自衛隊には巡航ミサイルも空母も艦載機も戦略爆撃機もないのである。


77、平和を求めるからこそ戦争についてあるいは危機管理について理解を深めなければならない。
何か緊急事態が起こったとき、そのダメージを最小限にとどめるために行動の規範となる有事の法則が必要になるのである。


78、阪神・淡路大震災地下鉄サリン事件も、危機管理が必要な後天的な事例である。
しかし、今日にいたるまで、アメリカのFEMA(連邦緊急事態管理局)のような組織もできなければ、自衛隊の化学防護隊も緊急車両化されていない。
それが、警察と自衛隊の縄張り争いの結果だとすれば、馬鹿を見るのは国民である。


<僕は、この本を読んで、舛添氏の先見の目に感服しました。

だって、2002年に発行された本ですよ。

そして、舛添氏の主張に、僕は大賛成です。

そして、舛添氏も東大の先輩にあたります>