哲学者の柄谷行人 『憲法の無意識』を読んで。

(この本は柄谷行人氏の最新本です)


1、日本の戦後憲法9条には幾つもの謎があります。
第一に、世界史的に異例のこのような条項が戦後日本の憲法にあるのはなぜか、ということです。
第二に、それがあるにもかかわらず、実行されていないのはなぜか、ということです。
たとえば、自衛隊があり米軍基地も多数存在しています。
第三に、もし実行しないのであれば、普通は法を変えるはずですが、9条がまだ残されているのはなぜか、ということです。
集団的自衛権も可能だという「解釈改憲」もなされています。
しかし、憲法9条を変えるということは決してなされない。
なぜそうしないのでしょうか。
むろん、それを公然と提起すれば、政権は選挙で敗れてしまうからです。
では、なぜそうなのか。
人々が憲法9条を支持するのは戦争への深い反省があるからだという見方がありますが、私はそれを疑います。
護憲論者は、それは自分たちが戦争の経験を伝え、また憲法9条の重要さを訴えてきたからだ、というでしょうが、それは疑わしい。

 

2、ここで、問題を、その反対の側から、つまり、憲法9条を廃棄したいと考えている側から見てみましょう。
彼等は60年にわたってこれを廃棄しようとしてきたが、できなかった。
なぜなのでしょうか。
彼等は、それは国民の多くが左翼知識人に洗脳されているからだ、と考える。
しかし、これは端的に間違いです。
左翼は元来、憲法9条に賛成ではなかったからです。
のちの新左翼においても同じです。
彼等の多くは護憲派に転じました。
しかし、彼等が意見を変えたことを非難する資格は、保守派にはありません。


3、したがって、ごまかしながらやっていくほかない。
改憲を目指して60年あまり経ったのに、まだできないでいる。
なぜなのか。
それは彼等自身にとっても謎のはずです。
その謎を解明しようとせずに、左翼政党や進歩派知識人のせいにするのは、自らの無力・無理解を棚上げにすることです。
憲法9条が執拗に残ってきたのは、それを人々が意識的に守ってきたからではありません。
もしそうであれば、とうに消えていたでしょう。
人間の意志などは、気まぐれ脆弱なものだからです。
9条はむしろ「無意識」の問題なのです。
この無意識については後ほど詳述します。
ここではいったん、無意識は、意識と異なり、説得や宣伝によって操作することができないものであるといっておきます。


4、9条は「無意識」の次元に根ざす問題なのだから、説得不可能なのです。
そして、このことを理解していないのは護憲派も同様です。
しかし、保守派のなかに、9条が無意識の次元にかかわるものであることに勘づいていた人がいました。
文芸批判家の江藤淳です。
彼は1981年に、憲法9条が存在した秘密を、米占領軍の巧妙な言論統制に見ようとしました。
憲法公布の際に、つぎのような勅語が発せられた。
「朕は、日本国民の総意に基づいて、新日本建設の礎が、定まるに至ったことを、深くよろこび、枢密顧問の諮訽及び帝国憲法第73条による帝国議会を経た帝国憲法の改正を裁可し、ここにこれを公布せしめる」。
しかし、江藤淳は、憲法がGHQによって起草されたこと、そして事実が民間検閲局(CCD)の「検閲」によって隠蔽されたことを指摘します。


5、占領軍の検閲によって、憲法9条がかくも深く浸透するほどにい「日本の国民心理の操作誘導を行う」ことができた、とは到底思えません。
にもかかわらず、江藤淳憲法9条を「検閲」の観点から見たことは、重要なヒントを与えます。
実は、かつてこの論文を読んだとき、私は江藤淳が「隠微な検閲」というとき、フロイトを意識していたのかどうか、という疑問を抱きました。


6、前期のフロイトの考えでは、無意識には、欲望を満たそうとする「快感原則」と、それを満たすことがもたらす危険を避けるために抑制しようとする「現実原則」があります。
そして、検閲は現実原則のあらわれである。
現実原則とは、いわば社会の規範です。
しかし、実は、そのような見方は前期フロイトのものです。
憲法の無意識」を理解するためには、それでは不十分なのです。
戦後憲法の問題をみるためには、後期フロイトの認識が不可欠です。
憲法9条を後期フロイトの認識からみることは、たんなる理論的応用ではありません。
それらは歴史的に結びついているからです。
憲法9条が第二次大戦後の日本に生まれたように、後期フロイトの認識も第一次大戦後のオーストリアに生まれた、といってよいのです。


7、第一次大戦の前には、フロイトオーストリアの戦争を支持しました。
たとえば、彼は弟子のアブラハムにこう書き送った。
「おそらくここで30年間で初めて、私は自分をオーストリア人だと感じています。
せめてもう1度だけ、あまり将来性があると思えないこの帝国にチャンスを与えてやりたいと思っています」。
こう書いたあt、戦争が予期した以上に長引き、悲惨な事態をもたらしたため、フロイトは戦争に対する楽観的な見方を捨てました。


8、フロイトの考えでは、戦争における野蛮さは、普段は抑圧されていた「感情生活」が、国家がその抑制を解き放ったために露出したものにすぎない。
その結果、起こるのは次のようなことです。
「戦争は我々から、文明が後から被せた層をはぎとり、我々の中に原人間を再び出現させるのである。
戦争は我々に、もう1度、自分の死を信じることができない英雄になることを強いる。
戦争は、我々に、疎遠な人に敵のレッテルを貼り、その死を招くべきであり、その死を願うべきであると思わせる」。
フロイトの考えはこうです。
フロイトのこの見方は特に新しいものではありません。
それまでの新カント派的な「知性」の哲学を否定する「生の哲学」と通底するものです。
ちなみに、フロイトは、文化が高尚・精神的であるのに対し、文明は単に実利的であるとするようなドイツの慣習的な見方を斥けました。


9、しかし、フロイトにとって、戦争神経症はたんなる後遺症ではなかった。
後述するように、この病状は、たんに受動的なものではなく、むしろショックを克服しようとする能動性を示すものだからです。
フロイトは「反復強迫」という言葉でこのことを説明しています。
フロイトは、このとき、それまでの枠組みでは説明できない事柄に気づいたのです。
それまで彼は次のように考えていました。
人間の心は、快感原則と現実原則という二元性によって規定される。
現実原則とは、いわば、親を通して刷り込まれる社会の規範です。
無意識においては快感原則が支配的です。
しかし、それが意識に出てくるとき、現実原則によって抑制され修正される。
それが先程述べた「検閲」です。


10、しかし、後期のフロイトはこのような二元論を放棄したのです。
1920年には次のように考えています。
反復強迫の過程を正当化するものは十二分に残されているし、反復強迫は我々には、それによって脇に押しやられる快原理以上に、根源的で、基本的で、欲動的なものとして、現れてくる」。
こうして彼は、快感原則および現実原則よりも根源的なものとして反復強迫を見い出した。
この反復強迫をもたらすのは、人間のもつ「死の欲動」です。
死の欲動とは、生物(有機体)が無機質に戻ろうとする欲動です。
フロイトは、それが外に向けられたとき、攻撃欲動となると考えました。


11、このあと、フロイトは「自我とエス」(1923年)で、超自我という概念を提起しました。
彼はそれまで無意識を「エス」と呼んでいましたが、そこに、超自我を加えたのです。
超自我は、死の欲動が外に向けられて攻撃性として現れたのち、何らかの契機を経て内に向かうことによって形成されたものだとフロイトはいいます。
超自我は、自己の外から来る”検閲官”とは異なり、内的な起源をもっています。
むろん超自我も”検閲”はするのですが、検閲官による検閲が他律的であるのに対して、超自我によるそれは、いわば自律的、自己規制的なのです。
後期フロイトはむしろ、超自我は集団(共同体)のほうにより顕著にあらわれる、と書いています。
そして、彼は、文化とは集団における超自我であると考えました。


12、先述したように、超自我は、死の欲動が攻撃性として外に向けられたのち内に向かうことによって形成されるものです。
現実原則あるいは社会的規範によっては、攻撃欲動を抑えることはできない。
ゆえに、戦争が生じます。
つまり、攻撃欲動は、内に向けられて超自我=文化を形成することによって自らを抑えるのです。
いいかえれば、自然によってのみ、自然を抑制することができる。
この「自然の狡知」とも呼ぶべき考えは、すでにカントにあったものですが、それについては別に論じます。


13、フロイト第一次大戦後に戦争神経症患者に遭遇して、人間の攻撃性が、自らの内に向かうことによって形成される超自我の存在に目を向けるようになった、と私は述べました。
このことに照らして、私は日本の戦後憲法9条を、一種の「超自我」として見るべきだと考えます。
つまり、「意識」ではなく「無意識」の問題として、さらにいえば、「文化」の問題として、それは、9条が意識的な反省によって成立するものはないないことを意味します。
無意識というと、一般に、「意識されていない」という程度の大雑把な意味で理解されています。
あるいは、潜在意識と同一視されます。
たとえば、宣伝などで、潜在意識に働きかける、いわゆるサブリミナルな効果を狙うものがあります。
しかし、フロイトは、そのようなものを「前意識」と呼んで、「無意識」から区別しました。

 

14、フロイトは、強迫神経症の患者は、外から見ると罪責感に苦しんでいるようにみえるけれども、当の本人はそれについては何も意識していない、ということを指摘しました。
彼はそれを「無意識の罪悪感」と呼んだ。
日本人が憲法9条にこだわるのは、それと同じです。
日本人はドイツ人に比べて歴史的な反省が欠けているといわれることがあります。
確かに「意識」のレベルではそういってもいいでしょう。
しかし、憲法9条のようなものはドイツにはありません。
憲法9条が示すのは、日本人の強い「無意識の罪悪感」です。
それは一種の強迫神経症です。


15、私の見るところ、フロイトが1924年に書いた次の一節は、その疑問に答えるものです。
「人は通常、倫理的な要求が最初にあり、欲動の断念がその結果として生まれると考えがちである。
しかしそれでは、倫理性の由来が不明なままである。
実際にはその反対に進行するように思われる。
最初の欲動の断念は、外部の力によって強制されたものであり、欲動の断念が初めて倫理性を生み出し、これが良心というかたちで表現され、欲動の断念をさらに求めるのである。」

 

16、フロイトのこの見方は、憲法9条が外部の力、すなわち、占領軍の指令によって生まれたにもかかわらず、日本人の無意識に深く定着した過程を見事に説明するものです。


17、連合国軍が作成し日本が受諾した「ポツダム宣言」では、日本における軍国主義の根を永久に絶つこと、一切の戦争犯罪人を処罰することが明言されていますが、それは、自衛権放棄や天皇の戦争責任を明示するものではありません。
しかし、日本の降伏後、それらの基本条項を具体化するにあたって、意見が分かれてきます。
ポツダム宣言の時期には目立たなかった対立が、連合国の中に生まれてきたからです。
これはむろん、米ソの対立に由来するものです。
そして、この対立はまた、アメリカにおける民主党共和党の対立とも交錯します。
ちなみに、ルーズベルト大統領は民主党員であるのに、連合軍の総司令官ダグラス・マッカーサー共和党員であり、また次期大統領を目指している人物でした。


18、マッカーサー元帥は、何よりも天皇制の護持を考えた。
それは占領統治を成功させるためです。
彼は憲法9条を推進しましたが、それを直接の目的としたのではありません。
しかし、連合国の中には天皇制の存続に否定的な国が多く、また、米国の世論でも天皇の戦争責任を問う者が多数でした。
さらに、アメリカ単独の「極東諮問委員会」を解消し、アメリカ、イギリス、ソ連3国の外相会議で「極東委員会」を設置することが決められてしまった。
これは日本占領の最高政策決定機関を、東京からワシントンに移すということです。
その上、東京裁判の開廷が迫っていました。
そのような状況で、マッカーサー天皇制を維持するために、憲法改正草案の作成を急がせたのです。


19、しかも、戦争放棄マッカーサーよりも、むしろ日本の幣原首相の「理想」であったことです。
幣原は、第一次大戦後の外相であり1921年のワシントン軍縮会議の代表でもあったから、戦争を違法化するパリ不戦条約(1928年)について熟知していました。
マッカーサーはのちの「回想記」でも9条は幣原の提案であったといっています。
日本はドイツとともに国際連盟を脱退し、またパリ不戦条約を踏みにじった。
その結果が第二次大戦であり、敗戦です。
そのような過程に具体的にかかわっていた幣原のような人が、戦後に日本はどうすべきかと考えたとき憲法9条を考えたのは、ある意味で当然です。


20、実際には、吉田首相はマッカーサーの要求に従って、警察予備隊を作りました。
米軍が朝鮮半島に向かったあとの安全保障のためという名目です。
しかし、吉田はあくまで憲法改正を斥けた。
警察予備隊が保安隊、自衛隊に発展した時点でも、それらは「戦力ではない」と言い張って、憲法改正の必要を否定したのです。
これはある意味で、9条の「解釈改憲」の始まりです。


21、要するに、私がいいたいのは、憲法9条が無意識の超自我であるということは、心理的な憶測ではなく、統計学的に裏づけられるということです。
最後に、世論と選挙のの関係について言述べておきます。
結論からいうと、総選挙は、「集団的無意識」としての「世論」を表すものにはなりえません。
なぜなら、争点が曖昧な上、投票率も概して低く、投票者の地域や年齢などの割合にも偏りがあるためです。
ただ、総選挙を通して、憲法9条を改正しようとする場合、最後に国民投票を行う必要があります。
国民投票も、何らかの操作・策動が可能だから、世論を十分に反映するものとはいえません。
なお、世論を知るという点では、先に述べたランダム・サンプリングによる世論調査の方がより的確だと、私は思います。
しかし、現在なされているような電話による調査では不十分です。
そもそも携帯電話しかもたない若者が多いからです。
さらに、質問の仕方に留意しなければなりません
たとえば、「憲法改正をどう思うか」という問いでは漠然としすぎているので駄目です。
憲法9条を廃棄するか」と特定して問うべきです。
何しろ、問うている相手は、人々の「意識」ではなく、「無意識」なのですから。


22、私は先に、戦後憲法の9条は、本来、1条を作るために必要なものであり、二次的なものであったと述べました。
しかし、その後、9条ばかりが問題とされるようになり、そして、それがいかなる経緯で作られたかが盛んに論じられてきました。
その際に見落とされてるのは、当初は1条のほうが重要だったという事実です。
興味深いのは、1条と9条の地位が逆転したということです。
その理由は、1条(象徴天皇制)が定着したことにあります。


23、ところで、1989年は、日本の天皇が逝去しただけでなく、奇しくもソ連圏の崩壊が始まった年です。
つまり、この年に起こったのは、昭和の終わりだけでなく、戦後の「米ソ冷戦体制」の終わりでもあった。
事実、その後に湾岸戦争が起きたのです。
発端は、イラクが隣国のクウェートを侵略したことにあります。
このような地域紛争は、それまでなら、米ソの共同管理下で抑えられていたのですが、それがもはやできなくなった。
アメリカが圧倒的に優位に立ったからです。
しかし、アメリカはイラクを制裁するにあたって、国連の同意を得ました。
これは旧「連合軍」以来の出来事です。
このとき、日本は中東への派兵を迫られた。
憲法9条が内外でリアルな問題となったのは、この時点が初めてです。
日本の政府は、国連の下での平和維持活動のためという口実で自衛隊を現地に送った。
ただ、まさに「平和維持活動」しかしなかったため、逆に、国際政治では評価されなかった、ということが、日本の政治家・官僚にとってトラウマとなったようです。
次回は何としても軍を送る、というのが彼等の課題となり、それは2003年イラク戦争開戦時の小泉首相の態度にも如実にあらわれています。
アメリカが開戦を宣言すると、小泉首相は真っ先に自衛隊派遣を唱えました。
しかし、イラク戦争の場合、ヨーロッパ諸国や国連は開戦に反対しました。
したがって、日本の自衛隊派遣には湾岸戦争のときにあったような正当性がなかったのです。
それはアメリカに追随するものにすぎなかった。
この時も、派遣された自衛隊は平和維持活動しかしていなかったのですが、今回は、現地の人達の方がそうは考えなかった。
ゆえに、現地で、彼等は敵意に囲まれたのです。
長く秘されていたことですが、帰国後に54名の自衛隊員が自殺したのは、そのためでしょう。
戦闘に加わらなくても、周囲からの敵意の中にいる重圧があったことが原因だと思います。
そもそも自衛隊員は災害などに対する”自衛”のために入隊したので、外地の戦場に立つことを予期していない。
この状況はその後も同じです。
真に軍隊を派遣するつもりなら、憲法9条を廃するほかありません。

 

24、天皇制は最初、祭祀あるいは呪術的な力にもとづいた政治的権力でしたが、政治的権力を失ったあとも、「権威」でありつづけた。
日本で政治的権力を握った者は、藤原氏以来、必ず天皇を仰ぎその権威にもとづいて統治しようとしました。
むろん、天皇を斥けることはできたでしょうが、そうすれば、他のライバルが天皇を担ぐだろう。
ゆえに、権力の正統性を得るためには、先ず天皇を担ぐ必要があったのです。
戦国の世を統一した徳川幕府もその体制を固めるために、「尊王」を唱えました。
明治維新天皇を担ぐことによってのみ可能でした。
王政復古天皇親政を掲げることで徳川幕府を倒したのです。
伊藤博文が設計した明治憲法は、「立憲君主制」と議員内閣制に基づいており、天皇の権限を制限するものです。


25、たとえば、徳川時代には天皇の存在は知られていなかった。
西洋列強は幕末に江戸の将軍(タイクーン)と外交交渉を始めたとき、最初、京都に天皇(ミカド)がいることを知らなかったくらいです。
そもそも、大半の日本人も知らなかったのです。
将軍ではなくて、天皇がこの国の主権者だというような考えは、黒船の到来と尊皇蝦夷運動とともに広がったにすぎません。
その意味で、天皇明治維新まで「象徴天皇」のようなものであった。


26、明治憲法は、戦後憲法と違って、自主的に作られ、外から強制されていないといわれますが、それも事実ではありません。
明治憲法を作ったのは、外に対して、日本が近代国家であることを示すためでした。
それによって、幕末に締結された不平等条約を廃棄するためです。


27、先に述べたように、明治憲法が曖昧なのは、製作者が1人ではなかったこと、その間に対立と駆け引きがあったことからきています。
明治憲法を作った主役は伊藤博文です。
彼は長州出身で明治の藩閥勢力の1人です。
普通、藩閥勢力にとっては、山県有朋がその典型ですが、君主主権が望ましい。
元老的存在になる支配が可能になるからです。
そして、実際そうなりました。
しかし、反対に、伊藤は議員内閣・政党政治を実現することを考えていました。
それは藩閥勢力に対立してのことではなく、むしろ、藩閥勢力をそれに対抗する自由民権運動から守ろうとしてのことでしょう。


28、伊藤博文の考えは、当然ながら、西洋から得たものです。
特に、1882年に渡欧したとき、ウィーンで会った法学者シュタインの影響が大きかった。
通常、明治国家はプロシアをモデルにしたと考えられています。


29、とはいえ、大日本帝国の条文は、伊藤の構想をそのまま反映するものではありません。
そこには相互に矛盾する諸要素が書き込まれています。
たとえば、伊藤は内閣を天皇から独立した機関にしようとしたのですが、そうなっていません。
第55条では、国務大臣は各々天皇を輔弼することになっています。
また、総理大臣については規定がありません。
国務大臣の1人であると見なされているようです。
これでは内閣の独立などありえないし、議院内閣制もありえません。
第56条では、枢密顧問が天皇を輔弼することになっています。
これは事実上、元老たちが統治するということです。
さらに第11条では、陸海軍に対して天皇が統師権をもつことになっています。
これも、実際は元老が陸・海軍を統治するということです。
しかも、陸軍と海軍はそれぞれ天皇と直結することになっているので、相互に独立しています。
その意味で、この憲法では、内閣や議会が自立できないようになっているのです。
要するに、この憲法は元老による統治を裏づけるものです。
しかも、元老のことは憲法のどこにも地位が規定されていない。
しかし、山県有朋が死ぬと、情勢が変わった。
そこで美濃部達吉の「天皇機関説」が主流となったわけです。
憲法にはそのような解釈を許容する要素があったし、元老が死んで病弱な大正天皇の世になると、憲法を変えることなく、議会制民主主義に傾斜するようになりました。
それが”大正デモクラシー”と呼ばれた時代です。

 

30、1925年には普通選挙法も成立したのです。
1917年(大正6年)に起こったロシア革命、さらに満州事変をはじめとする軍部の独断専行がなされたのです。
たとえば、旧憲法第11条によれば、陸海軍に対して天皇が統師権をもつことになっています。
けれども、そのような条文が作られた時期に背後にいた元老たちはもういない。
条文だけが残っているのです。
そうなると、陸・海軍を抑えるものは誰もいない。
内閣はおろか、天皇も知らぬ間に事が進められるようになります。
たとえば、陸軍の石原(関東軍作戦参謀)たちは、独断で満州事変(1931年)を企てた。
それが長い日中戦争につながったのです。
ところが、石原は1936年の二・二六事件青年将校のクーデター)では、「陛下の軍隊を私するな」といって反乱軍を鎮圧する側にまわった。
要するに、解釈次第で、どうにでもなるわけです。

 

31、日本では、二・二六事件や近衛内閣において、国家社会主義が顕著になりました。
それは”ファシズム”と呼ばれてきました。
確かに、イタリア・ドイツ・スペインなどに見られるファシズムと類似した点はあります。
それは、ナチの党名「国家社会主義ドイツ労働者党」が示すように、「社会主義」や「労働者」を掲げるものなのです。
ただ、ファシズムの場合、どこでも、憲法の廃止、議会の停止、王政の廃止がなされています。
しかし、日本ではこのようなことはなかった。


32、戦後憲法は、明治憲法に則る帝国議会で議決されました。
が、先に述べたように、そこに本当の意味での連続性はありません。
たんに新たな体制を正当化するために、連続性が仮構されす。
むしろ、明治憲法以前を考えるべきなのです。
むろん、明治以前に憲法はありません。
が、成文法がないとしても、国家の体制・機構はあった。
たとえば、徳川幕府の体制では、天皇はいわば象徴天皇としてあったといえるのです。
先に私は、マッカーサー天皇制を残そうとしたとき、かつての日本の権力者が代々とってきた智恵を受け継いだと述べました。
それは、天皇を斥けるのではなく、逆に天皇を仰ぎその権威に基づいて統治するということです。
その結果として、「万世一系」の天皇制が生まれた。
そして、そのことがまた、天皇制に権威を与えたわけです。
では、なぜそれが可能であったのでしょうか。
たとえば、中国およびその周辺では、王朝は交替します。
なぜなら、外から遊牧民が征服者として到来するからです。
その場合、征服王朝は血統以外のところで自らの正統性を示さなければならない。
そこで、中国で支配的となった観念はつぎのようなものです。
君主は天命を受けて統治する。
中国の君主が天子と呼ばれるのはこのためです。
天命は、民意・民心を通じて表れる。
人民の支持がなくなれば、天命が尽きる。
そして、王朝が交替する。


33、奈良時代には、唐から中央集権的な統治制度が導入されました。
それが律令制と呼ばれるものですが、長くは続かなかった。
国家が農民に等しく土地を与える均田制は私的所有となり、官僚側も藤原氏のような貴族の支配の下で形骸化しました。
それでもなお、藤原氏天皇にとって代わることはなかった。
また律令を廃止することもなかった。
逆にそれらを存続させることによって、自らの権力を固めたのです。
ちなみに、律令制は特に官位制として明治維新まで続きました。
官位は天皇を頂点とする位階を示すものです。


34、藤原氏以後、天皇が政治的実権を握ったことは、後醍醐天皇による建武新政の短期間をのぞいて、1度もなかった。
天皇はいうならば「象徴天皇」であることが常態だったのです。
その理由は何か。
それは、日本が極東の島国であったというただそれだけのことにつきます。
ただ、外部からの征服がまったくなかったわけではありません。
たとえば、13世紀に元寇があった。
文永の役(1274年)と弘安の役(1281年)です。
フビライの指令で、14万の大軍が押し寄せてきた。
2度とも撃退したとはいえ、結果的に鎌倉幕府は衰退しました。


35、後醍醐天皇王政復古を企てたのはそのような状況においてです。
1333年に権力を握り、さまざまな制度改革を開始しました。
それは天皇による独裁政治でしたが、2年で終わってしまった。
王政復古は事実上、足利尊氏新田義貞のような武士の力に依拠して成立したのに、彼等を無視したことが原因でした。
彼等は武家政権の再興をはかるようになった。
そして、1335年に足利尊氏が反乱を起こし、翌年には光明天皇北朝)を擁立して、室町幕府を開きました。
一方、後醍醐天皇は吉野に逃れ「南朝」を起こした。
こうして「南北朝時代」が始まったわけです。
室町幕府はかたちの上では1573年まで続いたことになっていますが、実際は、南北朝の動乱応仁の乱、さらに戦国時代が続いて戦争ばかりだった。
つまり、続いたのは幕府というより、「戦争」だったのです。


36、14世紀になって、後醍醐天皇らが「王政復古」を唱えたとき、それは本居宣長のいったような、「古道」、つまり律令制以前の古の日本の天皇の在り方に回復することではなかった。
その逆に、律令国家、つまり、集権的官僚制の国家を作ることでした。
それはいわば「中国化」であり、復古というよりも新機軸です。


37、日本では外から危機が生じるとき、いいかえれば、超越的なものが外から到来するとき、内部で天皇を超越化するということです。
それを示す最初の例は「大化の改新」(645年)です。
これが起こったのは、唐が新羅とともにヤマトに到来することが必至と見えた時期です。


38、しかし徳川家康における「尊王」は、織田信長豊臣秀吉におけるそれとは違います。
家康は皇室を徳川幕府のシステムの中に位置づけたのです。
信長や秀吉は中央集権主義的、膨張主義でした。
信長は権力を握れば、天皇制を廃止するつもりだったのでしょうが、伝統的な体制を尊重する部下の明智光秀によって殺された。
その後、権力を掌握した秀吉は「関白」となって皇室に近づいたのですが、その一方で、明帝国の征服を唱え、朝鮮半島を侵略しようとした。
むろん、それは失敗に終わりました。
徳川家康はその後に権力を握ったわけですが、彼は様々な点て、秀吉が行ったことの後始末をしなければならなかったのです。
家康が図ったのは、「戦国時代」を完全に終わらせることです。


39、それについて述べる前に、ここで秀吉の錯誤に関して簡単に述べておきます。
16世紀の日本には、西洋諸国が到来していました。
すなわち、近代の資本主義的「世界市場」が日本に及んでいたのです。
のみならず、日本人も東南アジアに向かっていました。
各地に日本人の町ができていた。
むろん、秀吉もそのことを承知しており、ルソン(フィリピン)に朝貢を促す書簡を送って無視されたという事実もあります。
したがって、もしその時期、秀吉が陸の帝国を目指して朝鮮半島に攻め込むのではなく、海洋帝国を目指したならば、案外うまくいったかもしれません。
明は元と違って、東南アジアとの交易に関心がなかったからです。
しかし、陸の帝国を目指した秀吉の拡張主義がもたらした惨過は、家康をして一切の膨張、発展を拒む縮小主義に向かわせました。
彼がとった政策は、一見すると、鎌倉時代の「封建制」の回復です。
彼は幕府を関東(江戸)に開いた。
室町幕府はいうまでもなく、信長や秀吉が京都周辺にとどまったのと対照的です。
実は、徳川の封建性は極めて中央集権的なものです。
それを示すのが参勤交代です。
毎年大名を遠方から首都に参勤させるような大掛かりな財政的負担を強いる制度は、中国の帝国の全盛期でもありえなかったものです。
これが幕末まで続いたのです。


40、もう一つ重要なのは、徳川幕府外交政策です。
鎖国政策といわれていますが、実態は異なります。
明・朝鮮との交易があったし、オランダとの交易もあったからです。
その一つとして朝鮮通信使の制度があります。
徳川の将軍の交代のたびに、彼らが日本にやって来て、朝鮮の学術・文化を日本人に伝えたのです。
当然ながら、朝鮮王朝の背後には明がいました。


41、ある意味で、現在の憲法の下での自衛隊員は、徳川時代の武士に似ています。
彼等は兵士であるが、兵士でない。
あるいは、兵士ではないが、兵士である。
このような人達が海外の戦場に送られたらどうなるでしょうか。
彼らは戦わねばならないし、戦ってはならない。
そのようなダブルバインドの状態に置かれます。
それは、たんに戦場で戦うのとは別の苦痛を与えます。
先程いったように、イラク戦争に送られた自衛隊員のうち54名が「戦力」でなかったにもかかわらず帰国後に自殺したということがそれを示しています。


42、戦後憲法1条の「象徴天皇」制は、徳川時代にあった制度と類似するといっていいでしょう。
では、9条の先行形態に関してはどうでしょうか。
これは、パリ不戦条約(1928年)、さらに遡ればカントの「永遠平和のために」(1795年)の理念に基づいています。
憲法9条は「前文」にあるように、国際連合(1945年)を前提とするものですが、それもカント的な理念に基づいています。
しかし、9条は日本人にとって、まったく外来のものというわけではありません。
ある意味ではそれは「徳川の平和」にあったものです。


43、日清戦争があったのは、徴兵制が敷かれてから23年後です。
この戦争では政治的な高揚があったのですが、その後に、反戦運動が始まりました。
その典型的な例は、無教会派のキリスト教徒、内村艦三です。
彼は日清戦争の際に英文で戦争の「大義」を説いたのですが、その後、それが帝国主義戦争であったことに気づいて自己批判し、次の日露戦争に際しては、新聞「万朝報」でアナキスト幸徳秋水と一緒に非戦を唱えたのです。
しかし、この点で私が注目したいのは、日露戦争の際に、与謝野晶子が、「あぁ弟よ、君を泣く、君死にたまふことなかれ」と歌ったことです。
むろんこれは「非戦」を訴えるものですが、その理由が内村艦三や幸徳秋水などと異質なのです。
与謝野晶子の歌は、「弟」に、君は武士ではなく堺の商人の子なのだ、戦で死ぬなどということは「家のおきて」にない、というものです。


44、しかし、武士の生き方を「獣の道」と見ることは、誤解です。
「武士道とは死ぬことと見つけたり」というようになったのは、徳川時代に武士が都市に住み戦もしなくなってからの話にすぎません。
それ以前、武士は「武芸」を売り物にする芸能者の一種でした。
むやみに死んだり人を殺したりすることはなかった。
武士はもっと遡れば、山地で焼畑農業とともに弓矢で狩猟を行う人達だったのです。


45、要するに、徳川時代は、どの身分・階層も250年以上戦争と無縁であった。
これは日本史でも珍しい時期です。
明治維新から36年後に日露戦争があり、それから40年後に、日本は第二次大戦で敗戦を迎えました。
明治維新とともに開始されたプロジェクトは、77年ほどで挫折したのです。
しかも、人類史上未曾有の兵器である原爆を蒙った。

 

46、たとえば、日本は国際連盟常任理事国でした。
しかし、満州事変のあと、国際連盟の調査団によってその経緯が違法であるとして非難され、その挙句1933年に国際連盟を脱退してしまった。


47、中江兆民(1847-1901年)は、ルソーの「社会契約論」を漢訳した「民約訳解」(1882年)が中国・朝鮮でも広く読まれたため、「東洋のルソー」と呼ばれました。
しかし、それはたんに漢訳をしたからという以上に、彼がルソーを孟子と結びつけたからです。
「民権自由は欧米の専有に非ず」、それはつとに孟子民本主義に見い出される、と兆民はいう。
孟子は、平和論に関しても、「仁者敵うすれば小国であっても大国に負けることはない、と。
このように、兆民は、近代西洋の思想をたんに輸入するのではなく、東洋思想の土台の上に受容しようとしたのです。


48、ルソーはサン・ピエールの「永久平和論」(1713年)を取り上げて、「抜粋」および「批判」(1761年)を書きました。
サン・ピエールはヨーロッパ諸君主の国家連合体を構想した人ですが、それに対してルソーは、君主らの合意に基づく国家連合の限界を指摘しました。
たとえそれによって平和が実現されたとしても、「牢獄の平和」のようなものでしかない。
真の平和を実現するためには、先ず、諸個人の社会契約によって人民主権に基づく国家が形成すること、さらに、それらの諸国家が契約によって連合体を形成することが必要である、というのがルソーの考えです。


49、日本で最初に平和運動を開始しカントの平和論を取り上げたのは、詩人・北村透谷です。
彼は10代の半ばで自由民権運動の活動家となりましたが、その運動が末期的な武装闘争に向かった時点で、脱落しました。
そのあと、キリスト教に入信し、また島崎藤村らとともに雑誌「文学界」を刊行した。
透谷は、そのように「政治から文学・宗教へ」という、近代日本における、そのような典型的なパターンを最初に出た人なのです。
確かに、透谷は「政治から文学・宗教へ」の道をいったんはたどったのですが、そこからあらためて「政治」に向かった。
それを見逃してはなりません。
彼は、「文学界」のリーダーとなりましたが、仲間であった島崎藤村らは透谷の行為を十分に理解できなかった。
透谷は1894年、日清戦争の3ヶ月前に自殺しました。
25歳のときです。
そのため、近代文学の始祖というべき伝説的存在となったのですが、私はむしろ透谷に最初の「近代文学批判」を見たいと思います。


50、カントの「永遠平和のために」は1795年に出版されました。
つまり、フランス革命(1789年)の後、周辺国家による干渉とそれに対する革命防衛戦争が起こった時期に書かれたのです。
この防衛戦争の中で頭角をあらわしたのが、軍人ナポレオンです。
彼については、96年に司令官となり、その後終身統領となったこと、1804年に皇帝となったこと、さらにナポレオン戦争と呼ばれる、ヨーロッパ・ロシア・エジプトに及ぶ世界戦争を起こしたことなどが、よく知られています。
しかし、カントがこの本を書いたころは、まだ無名の存在であったといえます。
カントがこの本を書いたのは、よくいわれるように、そのような戦争を予感したからでしょうか。
私も以前はそう考えていましたが、どうもそうではないということに気づきました。
彼はむしろ楽天的な見通しをもっていたようなのです。


51、ただ、ナポレオンによる侵略は西ヨーロッパやロシアにおいて、それに対する抵抗運動を通して、各地にむしろフランス的な革命を広げることになりました。
それは国民(ネーション)を各地に生みだした。
それは、ドイツでは、フィヒテの講演「ドイツ国民に告ぐ」」(1807年)に代表されます。
つまり、ドイツの哲学者たちは、カントのコスモポリタズムそしてそれに基づく平和論を斥けたのです。
さらに、ヘーゲルとなると、カントに対する批判はもっと入り組んだものになります。
たとえば、ヘーゲルはナポレオンを肯定しました。
「理性の狡知」があるのだ、とヘーゲルはいうのです。
そのようにして、ヘーゲルはナポレオンの侵略的戦争を弁証法的に肯定したわけです。
そして、カントの平和論をたんに悟性的な考えとして見下した。


52、ヘーゲルの考えでは、条約であろうと、国際法であろうと、それらが機能するためには、規約に違反した国を処罰する実力をもった国家がなければならない、ゆえに、覇権国家がないかぎり平和はありえない、というのです。
だから、カントのいう「理想論」は大衆には人気があるだろうが、現実的政治においては無力でしかありえない、と。
実際、ナポレオン戦争以来、19世紀の間、カントの平和論は忘却されました。
優位に立ったヘーゲルがいう”リアリズム”です。


53、ルソーは、ヨーロッパ諸君主の国家連合体を構想したサン・ピエールの論を評価して抜粋し、かつ批判しました。
王候の権利を保護するだけのことにしかならない。
ゆえに、永遠平和は、諸個人のためには、革命が不可欠である。
しかし、革命が、それ以前よりもひどい害悪、あるいは戦争をもたらす可能性がある。
ルソーは、革命と永遠平和に関して懐疑的であったといえます。
事実、彼の懸念は的中しました。
フランス革命は大戦争もたらしたからです。
カントは「普遍史」の段階では、このようなルソーの懐疑の上で考えようとしました。
それに関して、彼は二つの論点を明確にしました。
第一に、永遠平和は、人々が善意によって実現するような理想ではない、ということです。
それをもたらすのは、むしろ戦争であり、人間の「反社会性」である。
第二の点について述べます。
それは、一国だけの革命はありえない、ということです。


54、ここでカントが考えていたのは、むしろ市民革命の在立条件です。
たとえば、そのような革命が一国で起こったときにどうなるか、という問題。
これは机上の論ではなかった。
まもなく起こったフランス革命では、事実、周囲の諸国からの干渉が生じたのです。
たとえば、1791年8月に、オーストリア皇帝とプロイセン国王は共同声明で、武力干渉を辞さないことを表明しました。
これは威嚇にすぎなかったけれども、それに対抗して、フランスの革命勢力の一派であるジロンド派オーストリアに宣戦布告した。
国外勢力とつながる貴族の反革命運動を一挙に封じるために、戦争に訴えたのです。
さらに、1793年1月にルイ16世が処刑されたあとには、「第一次対仏大同盟」が結成された。
これは本格的な軍事的干渉です。
そこには、オーストリアプロイセン、スペインだけでなく、イギリスが入っていました。
そして、そのことは、すでにルソーが懸念していたことであり、また、カント自身も「普遍史」で予想していたことです。しかし、「永久平和」を書いたとき、カントはこの先に世界戦争が迫っているとは考えなかった。


55、カントが述べたのは、つぎのようなアンチノミーです。
「完全な市民的体制」を創るような革命は一国だけでは不可能である。
諸国家が連合する状態が先になければならない。
一方、諸国家の連合が成立するためには、それぞれが「完全な市民的体制」となっていなければならない。
では、どうすれば、この循環論を脱することができるでしょうか。
私の見るところ、のちに同じ問題に出会ったのがマルクスです。
彼の考えでは、完全な市民社会体制は人間の不平等を廃棄する社会主義であり、また、それは国家を廃棄するものでなければならない。
それは、プラトンの考えたような共産主義、つまり、哲学者=王が管理するような国家社会主義とはまったく違います。
この意味で、マルクスアナーキストと同じです。
ところが、国家を揚棄するような革命は、一国だけではありえない。
国家は他の国家に対して存在するのだから、ゆえに、社会主義革命は世界同時的でなければならないと、マルクスは考えたのです。


56、第一次大戦のあとには、もう一つの大きな出来事がありました。
それは国際連盟の創設(1920年)です。
これはカントの理念に触発されたものですが、その実態は、サン・ピエールの構想した諸国家連合に類似するものです。
すなわち、帝国主義諸国家の連合体です。
たとえば、国際連盟のもとに創設された統治制度である「委任統治制度」などは、植民地支配の新版にすぎません。
しかも、国際連盟にはそれを提唱した米国が加入せず、ソ連も入らなかった。
ゆえに、それは第二次大戦を阻止することができなかったのです。
その後にできた国際連合も、根本的には、国際連盟と同じです。
これは第二次大戦に勝利した「連合国」が世界の諸国を管理する体制なのであって、本当の意味でカントに基づくものとは到底いえない。
なぜなら、ここには「市民革命」の要素が欠落しているからです。


57、ちなみに、フロイトは初期からカントの考えに対してほとんど常に否定的でした。
彼にとって、カントのいう理性は父や社会の規範を示すものでしかなかった。
また、カント的な知性は表層的なものであって、無意識の深みに及ばないと考えていました。
しかし、第一次大戦後に彼はそのような見方を変えたと思います。
特にカントを名指しして再評価しているわけではありませんが、明瞭なのは、彼が第一次大戦後に”知性”や”文化”について肯定的に語るようになったことです。


58、むろん、国家は実力(暴力)なしにありえません。
しかしまた国家の権力は、それが交換となるときにのみ、つまり服従する者がむしろ自発的に国家に従う場合にのみ、成り立つのです。
同様の例をあげると、人々は領主に服従すれば、他の暴力からは護られる。
また、人々は領主あるいは国家に対して税を払うが、それは公共事業・福祉政策などのかたちで再分配され自分に戻ってくる。
そうでなければ、人々は服従しない。
支配-服従の関係が「交換」に基づくときにのみ、国家の「権力」が成立するのです。


59、そのことは、あとでいうように、世界資本主義が、ヘゲモニー国家イギリスの下で、自由主義的段階にあったということを意味します。
マルクスが「資本論」を書いたのは、この時期であり、おそらくそれはこの時期をのぞいては困難であったでしょう。
事実、この時期が過ぎると、大きな変化が生じました。
帝国主義と呼ばれる様相が出てきたのです。


60、19世紀末に出てきた帝国主義について、最初に本格的に論じたのは、イギリスのホブソンで、つぎに、オーストリアヒルファーディング、ドイツのカウツキー、さらに、ロシアのレーニンです。
ここに、ホブソンと同時期に、日本で幸徳秋水が独自に帝国主義を論じたことを付け加えておきたいと思います。
彼は、「20世紀の怪物 帝国主義」(1901年)において、帝国主義軍国主義に基づく領土拡張政策としてとらえました。
この見方が、日本の帝国主義の在り方を反映したものであることは明らかですが、ホブソンの理論も、それぞれ、自国の現実を反映しているのです。

 

61、その点で、私は歴史学者ウォーラーステインから多くの示唆を受けました。
彼は、資本主義を国家から切り離さなかった。
彼の考えでは、自由主義とはヘゲモニー国家がとる経済政策です。
そして、帝国主義とは、ヘゲモニー国家が衰退して、多数の国が次のヘゲモニーの座阿をめぐって争う状態です。
さらに、ウォーラーステインは、近代の世界経済の中で、そのようなヘゲモニー国家は三つしかなかった、という。
オランダ、イギリス、そして、アメリカです。
ここで追加的に説明しておきます。
第一に、私は歴史的段階の移行を60年の単位で見ています。
つまり、ヘゲモニー国家が存続するのは、60年だということです。
そのあと、ヘゲモニー国家が不在の時期が60年続く。
したがって、120年で、循環することになります。
私の考えがウォーラーステインと異なるのは、この点です。


62、ヘゲモニー国家であった時期のオランダは自由主義的で、政治的にも共和制でした。
同時代のイギリスが保護主義絶対王政であったのと対照的です。
たとえば、首都アムステルダムデカルトやロックが亡命し、ユダヤ人共同体から破門されたスピノザが安住できたような、当時のヨーロッパで例外的に自由な気風の都市でした。
これは、いわば、イギリスがヘゲモニー国家となった時期のロンドンにマルクスが亡命していたのと相似する現象です。
また、スコットランドの人々は数世代にわたって、大学教育を受けるためにオランダに行くようになった。
これが18世紀末のスコットランド啓蒙主義をもたらし、さらに、イギリス工業の劇的な発展をもたらしたといえます。
つまり、イギリス人はオランダから学んだのです。
18世紀の帝国主義的段階で、ヘゲモニーを争ったのはイギリスとフランスです。
それがフランス革命およびナポレオン戦争の背景にあったのです。
そしてイギリスはナポレオンの敗北の後、すなわち、1810年以後にヘゲモニーを確立しました。
イギリスの自由主義はそのとき始まった。
マルクスが「資本論」を書いたのは、この時期のイギリスにおいてです。
つまり、「自由主義的」な段階です。
しかし、19世紀後半、特にマルクスの死(1883年)以後の時代には、イギリスのヘゲモニーが揺らぎ、新たなヘゲモニーの座をめぐる争いが生じました。
それが一般にいわれる「帝国主義」なのです。
具体的にいえば、下降気味のイギリスに対して、新興のドイツとアメリカ、ロシア、さらに日本が次のヘゲモニーをめぐって争った。
その結果が第一次大戦であり、それを通して、アメリカが事実上、ヘゲモニーを得たわけです。
ただし、それはすぐに自由主義的段階には進まなかった。
それに対して、ドイツと日本が抵抗したからです。
それが第二次大戦に帰着しました。
しかし、それはアメリカのヘゲモニー、したがって、世界資本主義の自由主義的な段階をより強固なものとする結果に終わったのです。


63、実際、自由主義時代のオランダがそうでした。
オランダはまず製造業で覇権を握り、それによって、商業と金融の覇権を握るようになった。
しかし、全領域で覇権をもった期間は短い。
先ず繊維工業を中心とする製造部門で、その間保護主義をとっていたイギリスに追い抜かれた。
しかし、商業・金融におけるヘゲモニーはその後も維持しました。
一方、イギリスは製造部門で覇権を握って「世界の工場」となり、やがて商業・金融の領域でもオランダを凌駕するようになった。
そして、全部門でヘゲモニーを握った。
それがイギリスの「自由主義」時代です。
しかし、それとともに、イギリスはまもなく製造部門では後退していきました。
1870年以後、重工業の部門で、ドイツやアメリカに遅れをとったのです。
むろん、イギリスは、海外投資と金融の部門では圧倒的な優位を保ったし、また軍事的にも「世界の7つの海」を支配していました。
にもかかわらず、ヘゲモニー国家としては没落する過程にあったのです。


64、アメリカがヘゲモニー国家となったのは、第一次大戦後です。
それによって、それまでの帝国主義的段階は終わった。
その結果、イギリスはヘゲモニー国家として没落し、それがアメリカに継承されたのです。
ヘゲモニー国家が確定したという意味で、第一次大戦以後の世界は、「自由主義的な」段階です。
むろん、アメリカのヘゲモニーに対しては、ドイツや日本の抵抗があり、それが第二次大戦となった。
また、それ以後は、ソ連による抵抗がありました。
しかし、それはアメリカのヘゲモニーを脅かすことにはならなかった。
むしろ、それはアメリカをヘゲモニー国家とする世界システムを補完する役割を果たしたというべきです。


65、帝国主義時代に支配的なイデオロギーは、弱肉強食という社会的ダーウィニズムでしたが、新自由主義時代にもその新版があらわれた。
たとえば、勝ち組・負け組、自己責任、といった言葉が公然と語られるようになったのです。
労働者は正社員、パートタイマー、失業者という位階に分断された。
それは自由競争による自然淘汰の結果として当然視される。


66、ここで、第三世界ではないが、米ソの間で「第三の道」を追求した国について触れておきます。
それは第二次大戦後のフランスです。
フランスはド・ゴールの下で、米ソの間に立つ「第三の道」を取ろうとした。
それは「第三世界」と無関係ではありません。
むしろ第三世界を支援するものです。
それはたんに政治的な戦略に限られるものではなかった。
むしろ、フランス的な「第三の道」は文学・思想において顕著であり、広い影響力をもったのです。
たとえば、サルトルがいう「実存主義」は、いわば資本主義(アメリカ)でも社会主義ソ連)でもない、第三の立場を意味しました。
その後、サルトルを批判するような思想が出てきましたが、事実上、それらも同じようなスタンスをとっています。
中でも、デリダは、西洋の形而上学に存する”本質と現象”というような二項対立を脱構築することを追求した。
しかし、そのような哲学がアクチュアリティをもったのは、それが西洋の形而上学というよりも、米ソ冷戦時代の「二項対立」を脱構築することを含意していたからです。


67、先ほどいったように、「自由主義的な段階」、つまり、1870年までは、旧世界帝国(清朝ムガールオスマン、イラン)が健在でした。
しかし、帝国主義段階に入ると、これらは帝国主義の列強によって解体されていったのです。


68、以来、旧世界帝国に属していた諸民族は、「第二世界」ないし「第三世界」に属するようになったわけです。
しかし、第二世界(ソ連圏)の崩壊とともに、「第三世界」も崩壊した。
それにかわって、19世紀まであった旧帝国が様々な形をとりながら、復活してきたのです。
1930年代には完全に無力な状態におかれていた、中国、インド、その他が、今や経済的な強国として現れています。
また、かつてオスマン帝国やイランであったところも、いわばイスラム圏として復活してきているのです。
重要なのは、歴史的段階としての新自由主義が、かつての帝国主義と類似するだけでなく、同一の空間において生起するということです。
だから、「歴史の反復」というべき事態が生じるのです。
少なくとも東アジアにおいて、そのことは明瞭です。
たとえば、現在、中国・日本・南北朝鮮の間には、かつて日清戦争の時期にあったのと構造的に同じ状況が存在しているからです。
日清戦争のころの中国は、もともと帝国である上に、アヘン戦争以後の軍近代化を経ていて、日本にとっては強敵でした。
また、日清戦争にいたるそもそもの原因は、朝鮮王朝における二つの派、つまり、日本側に立って開国しようとする派と、清朝の支援を受けて鎖国を維持しようとする派の対立にありました。
それは、いわば”南北”朝鮮の対立です。
つぎに、台湾は日清戦争のあと、清朝が賠償として日本に与えたものです。
これらが今も東アジアの地政学的構造を作っていますが、それだけではありません。
19世紀末には、ロシア帝国が中国・朝鮮に迫っていました。
だから、日清戦争の後に日露戦争が起こったのです。
そして、その戦争のさなか、第一次ロシア革命が起こった。
さらに、よく見落とされてしまうのは、この時期、米国はハワイ王国を滅ぼし、つぎにフィリピンに向かっていた。
日清戦争後には、日本が朝鮮を優越支配し米国がフィリピンを領有するという秘密協定があったのです。
以上の点で、現在の東アジアの地政学構造が反復的なものであることは明らかです。


69、くりかえすと、現在の東アジアの地政学的構造が形成されたのは、日清戦争(1894年)のころです。
さらに、そのような構造をもたらしたのは、日清戦争の時期に日本がとった選択でもありました。
それは福沢諭吉がいった「脱亜入欧」路線です。
といっても、日本がとったのは、福沢自身の意図とは違って、「欧」と共に「亜」に侵入すること、すなわち、帝国主義でした。
ところが、現在でも、日本は日清・日露戦争まではよい国だったのに、日露戦争後に帝国主義に向かったかのように勘違いされています。
現在の東アジアの状況を理解するためには、日清戦争の時期に遡って見直さないといけないのです。


70、イスラエルの建国が強行されたのは、中東に拠点を作る米国の戦略によるものです。
しかし、そのことが中東に、西欧に固有の「ユダヤ人問題」を転換し、注入することになった。
オスマン帝国の時代には、そんなものはなかったのです。
たとえば、ユダヤ人やキリスト教徒が大臣をしていました。
先程いったように、中東における宗教的原理主義は、「第三世界」の理念が消滅したあとに生まれたものです。
が、それは、ある意味で、イスラエルシオニズムに類似しています。
たとえば、イスラム国(IS)が建設されたのは、イスラム圏の伝統を踏襲するようにみえてもそうではなく、むしろイスラエル建国の模倣であるといえます。


71、帝国主義的な段階とは、資本=国家が次のヘゲモニーをめぐって争う段階だといいました。
そこで、最後の問題は、没落しつつあるアメリカに代わって、新たなヘゲモニー国家となるのはどこか、ということです。
それが日本でもヨーロッパでもないことは、確実です。
人口から見ても、中国ないしインドということになります。
しかし、次の点に注意しなければならない。
それは、中国やインドの経済発展そのものが、世界資本主義の終わりをもたらす可能性があるということです。


72、たとえば、第一次大戦の場合、それが始まった時点では、4年も続く戦争になると思った人はいなかった。
各国が軍事同盟を結んでいたために、その連鎖が世界戦争に帰結したのです。
日本も日英同盟があったため参戦しました。
今後においても同じようなことがありえます。
局地的な戦争はあっても、世界戦争はとうてい起こらないだろうと、いま人々は考えている。
が、突発した局地的な戦争が世界戦争に発展する蓋然性は高いのです。