落合信彦 『そして、アメリカは消える』を読んで。

(この本は落合氏の最新本です)


1、2016年3月22日には、ベルギーのブラッセルで複数の爆弾テロがあった。
31人が亡くなり、重症を負った人々の中で、後に死んだ人々も何人かいた。
ヨーロッパは非常に攻撃されやすい。
特にベルギーはEUの理事会の事務局があり、またNATOの本部もある。
領土はわずか3万1000平方キロ。
人口は約1100万人。
こんな小国がヨーロッパの中心になったのは、まだテロリズムがヨーロッパに起きていない頃だった。


2、かつてイギリスの首相を11年間務めたマーガレット・サッチャー女史とロンドンでインタビューを行った時、EUについての説明を受けた。
「ヨーロッパは歴史的に戦争が多い大陸でした。
第二次大戦が終わって、1951年にウィンストン・チャーチル氏が首相となりました。
彼はその時、『ヨーロッパでの戦争はこれで終わりにしたい。
そのためにはヨーロッパ全体がひとつになること』と言いました。
しかし彼は、具体的な計画などは話しませんでした。
1955年に彼は引退しましたが、その3年後、欧州経済共同体(EEC)と欧州原子力共同体が生まれました。
その時、私はちょっとおかしいと思いました。
1949年に、すでにNATOができており、ヨーロッパの平和はNATOによって保障されます。
それに加えて経済共同体を作るなど、なぜなのか不思議に思ったのです。
EECはその後、ECとなり、最終的にはEUとなり、そのうえ通貨がユーロになってしまった。
これはまったく余計なことです。
私は当時首相でしたが、そんなEUに参加するのは絶対に反対でした。
経済共同体を作るなどもってのほか。
貧しい国と裕福な国々が手をつないで繁栄することを考えていたのでしょうけれど、そんなことは到底無理なことです。
資本主義は競争の経済です。
それなのに一緒に仲良く走り、一緒にゴールインするなんど小学校の運動会でもしません。
こんなおとぎ話のようなことをしていたら、いずれEUは失敗するでしょう。
先にどんな問題が起きるかじっくり考えないで目先のことだけに必死になると、例えば弱小国が債務不履行となったらどうしますか?
会議を開いて検討するでしょうが、不履行国もいろいろな言い訳を考える。
そんなくだらない会議を開く。
そういうことばかりしていたらどうなるでしょうか」。
今のギリシャがまさにそれだ。
EUに約束した政府の改革も行わないで、ただノーノーと言っている。
サッチャー女史は「イギリスはEUには参加しない」と頑強に拒否したが、野党労働党と保守党の一部が賛成したため、やむなく参加した。
しかしユーロは受け入れず、ポンドを通貨として使い続け、ついに国民投票でEU離脱を選択した。
サッチャー氏のように頭が切れ、先を見通すことのできる政治家は今のイギリスにはいない。
私が不思議でならないのは、EUがなぜ難民を送り込む国々に文句を言わないのかということだ。
交渉さえもできないのか。
あと30年もすれば、ヨーロッパは過激なイスラム教徒たちに乗っ取られてしまうということを考えないのか。
これでは丸っきり中世のオスマントルコ帝国に攻め込まれたヨーロッパになってしまう。
オスマン帝国の代わりにISが大挙してやってくるかもしれない。
さしあたってEUがやらねばならないことは、
①移民や難民を受け入れる法律を破棄すること。
②EU内はどこの国にも行けるシェンゲン条約を終わらせることの2点である。
それがなくては、EUは崩壊しかねない。


3、2016年2月27日にアメリカとロシアの仲裁でアサドの軍と反政府派が停戦したが、その直後からアサド政権は停戦違反を犯し、反体制派は国連に対して「政権はすでに15回の停戦違反を行い、自分たちは多数の砲撃を受け、ロシアも空爆を行っている」と訴えた。
ロシアの停戦監視チームは9件の停戦違反があったと報告しているが、どちら側が違反したかとは、はっきり言っていない。
停戦条約を仲介した時、アメリカはロシアと組むことに懐疑的だった。
プーティンという人間は今日言ったことを明日になるとすぐひっくり返すからだ。
停戦が成立した翌日の2月28日、ロシアはアサドを助けて反政府派を空爆した。
アメリカが仲介の仲間であるはずのロシアが反政府派を攻撃したことについてロシアに説明を求めても、プーティンは知らぬ存ぜぬの一点張りを通すか、または停戦を破ったのは反政府派だったので空爆せざる得なかったと言い張るかもしれない。
なにしろプーティンの二枚舌はどうしようもない。


4、本来ならIS指導者アル・バグダディが2014年に「IS樹立」を宣言した時、その危険性を察知してNATOやアメリカが初期段階で地上部隊を空爆を展開していたら、状況は今とは大きく変わっていただろうが、そういうことはなかった。
今では遅過ぎの感がある。
なぜこんな状況になってしまったのか。
その責任の大部分はアメリカにあると言っても過言ではないだろう。
アメリカ人の多くは8年ほど前から「世界の警察」と呼ばれることに辟易していた。
理由は簡単だ。
中東やアフリカの国々は互いに紛争や小競り合いをしまくっていた。
そこに国連が割って入ってアメリカの介入を求めた。
当時、世界の警察官と言われたアメリカは要請を受ける。
問題の国々の民衆は待ってましたとばかりにアメリカ兵を大歓迎する。
紛争が一段落するとアメリカは、再びトラブルが起こりそれが戦争に発展してしまう危険性を考えて、その地にしばらく残る。
しかし、その地の人々はアメリカに対してウェルカムどころか、そのプレゼンスを嫌がるのだ。
そして「ヤンキー・ゴー・ホーム」と叫ぶ。
アメリカにしてみれば多額の資金を使って軍を展開して、相手を助けたのにこのザマだ。
このような事態が何度も続いた結果、アメリカ国民の大部分は感謝もされない介入に嫌気がさした。
世界の警察など馬鹿らしくてやっていられないという思いが国中に蔓延した。
ちょうどタイミングよく、別な意味でアメリカを「世界の警察」の立場から撤退させたいと考える男がいた。
バラックフセインオバマである。
2008年、オバマが意外にも第44代大統領に当選した。
彼は上院議員を1期しかやっていないし、ちょいちょい議会を休んでいた。
議員になる前は売れない弁護士であり、仕事はシカゴのスラム街でコミュニティ・オーガナイザーということをやっていた。
オバマは2009年1月20日に大統領就任演説を行ったが、48年前のケネディの演説とは天と地の差だった。
この大統領はちょっとおかしいと私自身感じたし、超大国アメリカが崩れていくという嫌な予感を抱いた。
彼は選挙中「チェンジ」という言葉をよく使ったが、大統領になってからそのチェンジを実践した。
貧困層には生活保護を増やし、イリーガルに運転免許を出したり教育費を補強したりして、保険のない移民には特別措置などを行った。
またオバマは裕福な国民や中産階級に重い税金を課し、オバマケアを一応、現実のものとした。
選挙中から彼は「アメリカの格差社会を直すには、富の配分を変えなければならない」と言ったが、それを実行したのである。
しかし、政府支出は膨らむ一方になった。
今の日本と似ている。
結果は中産階級の崩壊だった。
多くの国民が職を失い、ホームレスになったり自殺したりして社会問題になっている。


5、オバマの無能さはこれまで何度も見せつけられた。
例えば、2012年、リビアベンガジでクリストファー・スティーブン大使を含む4人がイスラム過激派に殺された。
一国の大使は、大統領の代わりとして着任している。
しかもスティーヴンスはオバマの親しい友人だった。
スティーヴンスは殺される数週間前から、大使館や領事館がイスラム過激派襲われる可能性大なので海兵隊を送るよう、国務省オバマに要請した。
しかし、オバマ国務長官であったヒラリー・クリントンもその要請を拒否した。
この2人は何のために大統領と国務長官になったのか。
自国の大使を助けもしないでオバマはゴルフに熱中し、ヒラリーは国務長官なのに金儲けに走っていた。
本来ならオバマは、スティーヴンスを殺したリビアイスラム過激派を爆撃するか、海兵隊を送ってもよさそうなものだが、それもやらなかった。
かつてレーガンは西ドイツのディスコ「ラ・ベリ」でリビア人テロリストが仕掛けた爆弾によってアメリカ兵が殺された時、軍に命じてリビアトリポリベンガジを爆撃させた。
カダフィは震え上がって、その後テロは起こさなかった。
たった1人のアメリカ兵が殺されても相手を爆撃するレーガンのような大統領は、しばらくはアメリカに出てはこないだろう。


6、アフガニスタンでは、あと何年かアメリカ兵がとどまることになるだろう。
その間にアメリカでは、新しい大統領が誕生する。
その大統領はイラクやアフガンを含めてオバマの残した負の遺産を全部受け継がねばならない。
だが、共和党ドナルド・トランプ民主党ヒラリー・クリントンに、オバマの尻拭いができるわけがない。
アメリカの政治や社会不安を改革するにはよほど能力のある人物が必要だが、残念ながらそのような人材は現在、民主党にも共和党にもいないのだ。


7、だが、今の大統領選で必死になっている連中はただの漫才師にすぎないと私には見える。
互いに中傷し合って自分のことしか考えていないようだ。
そんな人物が大統領になったら、アメリカは今以上にめちゃくちゃになってしまうだろう。
ヒラリーはメール問題でFBI国務省に追われているし、トランプは政治や外交、歴史などはまったく知らない。
教養や品格もまったくない。
私はかつて彼にインタビューしたことがあるが、カネと不動産の話ばかりで社会情勢や政治、歴史、彼の人生哲学などについて聞こうとしてもまったく反応しない。
そんな相手にインタビューするのは時間の無駄と思ったので8分ほどで止めてしまった。
今のアメリカは劣化の一途をたどっている。
2015年10月に2週間アメリカに行ってきたが、その2年前に行った時とはずいぶんと変わっていた。
なにしろ移民が多いのだ。
アメリカは確実に格差経済になりつつある。
金持ちはカネにしがみつき豪勢な邸宅に住む。
中産階級から脱落した人々は下層階級となる。
それもこれも税金を中産階級からしぼり取ったオバマに責任がある。
しかし、彼は責任などとらない。
責任という言葉を知らないのではないか。


8、それにしてもアメリカのような大国が、わずか100年ほどで没落してしまうとは誰も考えていなかっただろう。
しかし、こうなる理由はあった。
無能で口先だけのオバマ、それを当選させた無知な国民たち、そして一般アメリカ人たちの引きこもり状態。
これだけ条件が揃えば、当然、国家は没落する。
このままいけばアメリカは永遠の眠りについてしまうかもしれない。


9、リーダーとは判断力と行動力、そして決断力が必要なのだ。
何事にも信念を持ってぶつかる勇気を持たねばならない。
オバマにはそれらの要素がまったくない。
アメリカが世界から笑われているのは当然なのだ。
ゆえにアメリカはもはや大国ではなくなった。
これが一時的な現象で再びアメリカが世界のために大国にのし上がることを願うのみだ。
ケネディレーガンはさぞかしあの世で泣いているだろう。


10、アルバート・アインシュタインはかつて言った。
「この世で無限のものが2つある。
ひとつは宇宙、もうひとつは人間の愚かさである」。
言い得て妙としか言いようがない。
宇宙はともかく、人類の愚かさはとどまることのない津波のような勢いで蔓延し続けている。
今の世界を見れば一目瞭然である。
ヨーロッパ、アメリカ、ロシア、中国、そして中東の国々などを見ても、静かな平和や人々の幸せが見当たらない。
なぜこのような世界になってしまったのだろうか。
問題はアメリカにあると私は思っている。
それも昨日や今日起きたことではない。
話は約60年前に遡る。
フランスの植民地であったヴェトナムは、フランスとの戦争中だった。
フランスが勝って当然の戦いだったが、ヴェトナム側は植民地奪回に必死だった。
それが現実となったのが、1954年5月。
フランス軍は北西部の都市ディエンビエンフーホー・チ・ミンが結成したヴェトミン(ヴェトナム独立同盟会)軍によって圧倒的な敗北を喫し、植民地から撤退せざる得なかった。
当時ヴェトナムはひとつの国家だったが、その後ジュネーヴ協定によって北と南に分けられ、北はホー・チ・ミン、南はゴ・ディン・ディエムが首相の座についた。
前者を後押ししたのはソ連で、後者はアメリカのCIAだった。
これがアメリカ崩壊の始まりだった。
時の大統領にも知らされず国防相にも知らされず、CIAは突っ走った。
これには2人のパワーメンの存在があった。
当時の国務長官ジョン・フォスター・ダレスとその弟であるCIA長官アレン・ダレスである。
兄は外交を一手に握り、弟のアレンはCIAを完全にコントロールしていた。
ホー・チ・ミンはヴェトナムを奪還したものの、2つの国に分けられてしまったことが受け入れがたかった。
彼はゲリラ部隊を南に送り込み始める。
これに対してCIAはグリーン・ベレーや武器などを南の最大都市・サイゴン(現ホー・チ・ミン市)に送り込む。
本来ならペンタゴンが行うことだが、彼らは外され、CIAが自分たちの舞台としてしがみつき、よそ者はシャットアウトされた。
おそらくCIAは、北ヴェトナムなど簡単にやり込められるとたかをくくっていたのだろう。
しかし、ホー・チ・ミンはアメリカが正規軍を送らず軍事顧問を送るだけの状況に目をつけた。
軍事顧問は戦争に参加してはならず、橋や壊された民家を修復したり、村人たちを集めて、いかに敵から逃げて自分や家族を守るかを教えたりしていた。
グリーン・ベレーがアドヴァイザーとなるのは少々おかしいが、CIAはサイゴン政府の軍が北のゲリラたちを簡単に蹴散らすと見ていたのだろう。
ここに大きな穴があったのだ。
当時、サイゴンのCIA支部は、ゴ・ディン・ディエムは政治能力がまったくなく、あまり長くはもたないとの結論に達していた。
その情報をワシントンの本部に送ったのだが、本部は何の反応もせず無視した。
その代わりと言っては皮肉だが、長官のアレン・ダレスがランズデールという軍人でありCIAエージェントでもある男をサイゴンに送り込んだ。
彼はディエムの個人的相談役にするためだった。
アレン・ダレスがランズデールを送り込んだのは、彼が今まで1度として失敗したことがないエージェントだったからだ。
ランズデールはまずディエムに反対する勢力を潰しにかかった。
当時、強力な影響力を持っていたいくつかの宗教団体やヤクザ組織があり、政治にも関係するような力を持っていた。
ランズデールは彼らをこのままにしておけば、いつか必ずディエム政権を倒そうという挙に出ると考えた。
そこでランズデールは彼らを根こそぎ排除するため、特別エリート・ボディーガード部隊を作る。
そして次々と反対派を殺していった。
そのやり方があまりに残酷なため、一般市民さえ恐れをなした。
反対派が一掃されたのを機に、ランズデールはディエムに大統領になるための国民投票をするよう促した。
それにより元首だったバオタイ帝を圧倒的な差で引きずり降ろしたが、ランズデールのことだから投票で何らかのトリックを使ったか、またはカネをバラ撒いたのかもしれない。
いずれにしてもディエムは大統領になった。
そして首相の時とは完全に違った人間になっていた。
権力の権化になってしまったのだ。
まず彼は弟のゴ・ディン・ニューを最高顧問に任命し、ディエムの政党以外はすべて活動停止とした。
南ヴェトナムは独裁国家となりつつあったのだ。
民主主義国家アメリカのCIA介入によって南ヴェトナムが独裁権力の巣となるとは、皮肉を通り越してブラック・ジョークだ。


11、1961年1月20日にジョン・F・ケネディが大統領に就任した時、CIAはすでに4000人のグリーン・ベレーを軍事顧問として南ヴェトナムに送り込んでいた。
しかし、ヴェトコンはすでに農村部の多くを影響下に置き、ディエム政府は南ヴェトナムの3分の1ほどの領土しかなかった。
CIAにしてみればやっと北との戦争を起こせるという状況になったと考えただろう。
軍産複合体の元締めだったCIAのアレン・ダレスは、ケネディ就任の直後、彼を説得して亡命キューバ人によるキューバ侵攻を命じた。
この計画はケネディアイゼンハワーからバトンタッチする1年前から練られていた。
計画の中心者はアイゼンハワー政権の副大統領だったリチャード・ニクソンだった。
アレン・ダレスはケネディに「侵攻は100%以上成功する」と言い切った。
ケネディはアメリカ軍を決して投入しないこと、そしてアメリカが侵攻をバックアップしていることなどが絶対にキューバ側に悟られないことという2つの条件を出した。
これらの条件をアレン・ダレスは受け入れたが、心中では笑っていたはずだ。
亡命キューバ人の1500人の兵士がすでにグアテマラの基地で1年近く演習していた。
基地はCIAがグアテマラ政府から借りたものだった。
それをキューバの情報機関が知らぬわけがなかった。
1961年4月、亡命キューバ人たちはキューバ侵攻を始めた。
しかし、ほとんど実戦もせず沿岸で待機していたキューバ軍によって簡単に叩きのめされてしまった。
ピッグス湾事件である。
亡命キューバ人たちは、もしケネディがアメリカ軍の戦闘機を出して援護してくれたなら惨めな敗戦には至らなかったと怒った。
だが、はっきり言えばケネディには何の落ち度もなかった。
大統領になったばかりだった彼はアレン・ダレスの口車に乗せられ騙されたのだ。
それでもケネディは何の言い訳もせず、すべては自分の責任と言い通した。
CIAや軍部もケネディに対して反感を見せた。
実は、亡命キューバ人にキューバ侵攻を煽ったのは軍産複合体であり、その代表であったCIAがすべてを整えていたのだ。
軍産複合体という言葉を初めて使ったのはアイゼンハワー大統領だった。


12、1962年10月に起きたアメリカとソ連によるキューバミサイル危機は第三次世界大戦となる危険性があった。
軍の将軍や政治家たちは毎日のように大統領室を訪れてアメリカ軍によるキューバ侵攻や空軍の爆撃の許可を要請した。
しかし、ケネディは拒否。
彼はあくまでソ連のフルシチョフとの対話で彼を説得し、平和的解決の道を選んだ。
将軍の中にはケネディ売国奴と決めつけた者もいた。
が、結果的にはケネディの説得をフルシチョフが受け入れ危機は去った。
軍産複合体は、ケネディがこのまま大統領を続けるなら自分たちのエスタブリッシュメントは破壊されてしまうと考えた。
何とかケネディを大統領から外さねばならないと彼らが考えたのは当然だった。
すでにケネディによってCIA長官アレン・ダレスと副長官チャールス・カベルは更迭されていた。
軍産複合体と言っても、軍部と軍事企業だけがその幽霊団体に入っているわけではない。
恐ろしいほど多くの大企業やマフィア、政治家、官僚などがいる。
去りゆくアイゼンハワーがこの複合体に危険を感じて国民に語ったのは当然だった。
ひょっとすると彼自身、次の大統領ケネディが消されると思っていたのかもしれない。


13、ニクソン副大統領の頃からCIAのアレン・ダレスとくっついていた。
軍産複合体にとっては政治をコントロールできる便利屋だった。
ケネディ暗殺の調査を行ったウォーレン委員会のメンバーにかつてケネディからクビにされたアレン・ダレスを参加させるように主張したのはニクソンだったとされる。
ダレスを入れれば委員会は余計なことをせずにオズワルドを単独犯と決めつけることができると考えたのだろう。
結果はどんぴしゃりだった。
ケネディが暗殺された63年11月22日の直前、ニクソンがダラスを訪問していたことはよく知られた事実だ。
彼はペプシ・コーラの取締役会のためにダラスを訪問したと記者たちに語った。
しかし、それは嘘だったことが明らかになっている。
おそらく彼のことだから、ケネディが殺されることを確認したかったのだろう。
彼が会ったのは謀略を成功させる人物だけだったと私は思っている。
マフィアは射撃者たち、ダラス警察の警官たち、FBIやCIAの現場を司る人材。
彼らと話し合って安心したニクソンケネディがダラスに到着する2時間前、ダラスを発ってニューヨークに帰った。


14、インディアナ州の州都・インディアナポリスで選挙のキックオフをした時のことだった。
その日の午後、ボビー・ケネディが飛行機でニューヨークから着くはずだった。
タラップの下にはブラスバンドが整列し、数百人に市民が国旗を振ってボビーの到着を待った。
時間より少し遅れて、ボビーの飛行機が到着した。
ボビーがタラップの上に姿を見せた時、観衆は大歓声を上げ、ブラスバンドの音楽が始まった。
彼を迎えた若い男女は相当な数だった。
ボビーはいつものスマイルをちょっと見せただけで、短い演説を行った。
彼は最初に、その日の午後マーティン・ルーサー・キング牧師がテネシー州メンフィスで白人の狙撃者に殺されたと語った。
一瞬水を打ったような静けさがあたりを包んだ。
ノーベル平和賞まで受けたキング牧師が殺されてしまったのだ。
それから5分あまり、ボビーはキング牧師が行った数々の差別改革について話した。
それから歩いて出口へと向かった。
ボビーは選挙での最初のスピーチをするインディアナポリス市の黒人街での集会に行くはずだった。
しばらく行くと、1人の大男がボビーの前に立ちふさがった。
そして自分はインディアナポリス署の署長であると自己紹介して言った。
「セネター・ケネディ、あなたは命を狙われている。
すでに2人のスナイパーがビルの屋上で見つかり私の部下が捕えた。
まだまだいる可能性がある。
今日は街に入らないほうがいい」。
ボビーは一応その署長に礼を言って、待たせてある車に向かおうとした。
するとその署長は両手を上げてボビーの行く手を遮った。
ボビーはいらだった表情で署長を見た。
そしてはっきりとした口調で言った。
「命というものは意味がある時に使って初めて価値があるのだ。
私は行く」。
背筋をぞっとさせるような迫力だった。
署長は催眠術にかかったような表情でわきにどいた。
兄のジョンが殺されたように、自分もやられるだろうとこの時のボビーは思っていたのだろう。
だから命という言葉を使ったのだ。


15、6月4日のカリフォルニアでのボビーの勝利にジョンソン体制派は慌てふためいた。
しかし、動転したのは彼らだけではなかった。
ジョン・ケネディを殺し、次は弟のボビーを殺すというコンセンサスにあった軍産複合体のトップが、ボビー暗殺を決行させた。
その夜、勝利パーティはロス・アンジェルスのアンバサダーホテルで開かれた。
われわれヴォランティアも参加するようボビー自らに言われた。
数百人の男女が集まって乾杯の繰り返しだった。
30分ほど経った時、ボビーが演壇に現れた。
地べたを揺るがすような大歓声が轟く。
彼はまずサポーターたちに感謝に意を表して話を締めくくった。
「Now it's on to Chicago,and let's win there.」。
疲れ切っていたボビーは自分の部屋に帰るため人々と握手しながら1番近いエレヴェーターがある食器室に向かった。
その時、突然、銃声ととも怒号と悲鳴が聞こえた。
まさかと思って私は一瞬その場に立ち尽くした。
次の瞬間、周囲の人々を押しのけてボビーのいるところに走り寄った。
1人の黒人が小さな男(サーハン・サーハン、ボビー暗殺犯として服役中)に馬乗りとなって、何かを罵りながら彼は男を殴り続けた。
黒人はルーズヴェルト・グリアーというプロ・フットボール選手で、ボビーの個人的ボディーガードだった。
その場からちょっと離れたところでボビーがウェイターに頭を抱えられて横たわっていた。
至近距離から頭と顔に3発の銃弾を撃ち込まれていたのだ。
医者が駆けつけてきて、開いたままの目を調べ、次に耳を胸に当てた。
そして周囲にいた人々に「大至急、救急車が必要です」」と言って自ら電話口に走った。
私はボビーから1メートルほどのところにしゃがんで彼を見下ろしていた。
血まみれの顔とシャツ、身動きもしない手や足がすべてを物語っていた。
大きく開いたまなざしは、あたかも彼がかつてインディアナポリスの警察署長に言った言葉の続きを思わせた。
「命というものはこうして使うのだ」。
1968年6月6日午前1時44分、ジョン・ケネディ亡き後、その夢と理想を再生でき得たただ1人の男、ロバート・フランシス・ケネディは42歳にしてこの世を去った。
そして私の青春の1ページもまた閉じられた。
以来、私はボビーを人生の師として歩んできた。

 

16、フォードは大統領としてまあまあの成績を残した。
もちろん、国民はウォーターゲート事件を忘れたわけではない。
その怒りは76年の大統領選で爆発する。
相手は民主党ジミー・カーター
かつてのジョージア州知事だ。
この選挙では国民の興味がほとんどなかった。
2人の候補はそれほど知名度がなかった。
結果はカーターが勝ったが、低い投票率で彼にとっては苦い勝利だった。
彼はまずCIAの人数を減らす、経済をまともにする、人権外交など。
CIAの人員は当時ラングレイ本部に1万5000人余がいたが、カーターは5000人を解雇した。
世界中に散ったエージェントたちも半分以上が解雇された。
情報機関で働く者を解雇するのは非常に危険だ。
普通の事務員ならまだいいが、分析部門、カウンターインテリジェンス部門、傍受部門などの解雇は危険きわまりない。
国家機密が他国に流れてしまうからだ。
カーターは情報機関についての知識はまったくなかったのだろう。
経済についても、カーターは素人に近かった。
彼は、戦争は嫌いだったが1度だけ軍を投入したことがある。
イランのホメイニが亡命先のフランスから帰ってきて、イラン革命が起こった。
1979年11月4日、在イラン・アメリカ大使館がイラン人学生たちに占拠され、大使館員ら52人が人質となった。
翌年の80年は大統領選挙の年だったので、カーターは何とか世界的ニュースになるようなことをしたかったのだろう。
それはいまだイランで人質になっている人々を救うことだ。
彼らは半年も人質になっていた。
80年4月、「イーグルクロー作戦」と呼ばれた、陸軍、海軍、空軍、海兵隊など4軍団が人質救助にあたる作戦が開始された。
これにはデルタフォースまで参加した。
使われたのは8機のRH53ヘリ、6機のC-130輸送機、2機のC-141輸送機だった。
イーグルクロー作戦は大失敗だったが、責任のひとつはカーターにある。
これでカーターの支持率は急落した。


17、大統領1期目を終えたカーターは2期目の大統領の座を狙って選挙に打って出た。
しかし、相手が悪かった。
ロナルド・レーガンだったからだ。
演説やディベイトでは、大人と子供だった。
レーガンは超オプティミストで、ネガティヴなことは話さない。
彼はアメリカ人がケネディの死以来、精神的にも物質的にも苦しんできた事実を知っていた。
だからこの選挙ではまず人々に明るさを取り戻してもらいたかった。
ユーモアを交えながら彼はヴェトナム後遺症について話した。
演説が終わると集まった群衆から地を揺るがすような拍手と歓声、そしてレーガン・コールが続く。


18、結果、80年の大統領選ではレーガン勝利を得た。
彼が就任した81年1月20日は、イランが人質をアメリカに返した日だった。
81年3月30日、彼はワシントンのヒルトンホテルで講演を行って、裏口に待たせてある車に向かおうとした。
そのときジョン・ヒンクリーという男が拳銃でレーガンを撃った。
そして部下やボディーガード、警察官の3人を撃った。
レーガンの体のどこかに弾丸が入っていると感じ取ったシークレット・サーヴィスの1人が、大統領車にレーガンを詰め込んで運転手に一番近い病院に行くよう指示した。
病院に着くとレーガンは車を降りて歩き出した。
心臓から1センチもないところに銃弾の穴があり、血が流れていた。
手術室に集まった医師や看護師に、横になったレーガンが言った。
「君たちがみな共和党員だといいんだがね」。
死ぬか生きるかの状況にあってもこんなジョークが言える人間はそうはいまい。
そのジョークに対して主治医が返した。
大統領閣下、今日はここにいる全員共和党員です」。
70歳になっていたレーガンだが、体は人一倍頑丈だった。
手術を無事終え、4月11日にはホワイトハウスに戻った。
その後、彼は経済政策に取り組んだ。
レーガンの「レーガノミックス」は多くの専門家から失敗すると言われたが、レーガンは気にもかけなかった。
彼はケネディ同様、エキスパートや専門家などを信用しなかった。
常識的思考を嫌ったからだ。
彼はまず大減税を行った。
まさにレーガンが考えた通りになった。
減税によって国民の消費は増し、企業は新たな設備投資を行い、資金の流れは活発になり、人々はより多くの収入を得て、それまでよりも多くの税金を低い税率で支払った。
結果としては政府の収入は驚くほど増えた。
また、レーガンは意味のない規制を撤廃することに力を入れた。
無駄な規制は国民の自由を奪ってしまうからだ。
その結果、第2期レーガン政権が始まった頃、アメリカのGDP成長率は7%以上になった。
ケネディ時代に近いアメリカに戻ったのである。
アイゼンハワー以来の大統領は、表立ってソ連はひどいなどとは言わなかった。
しかし、レーガンは違った。
自分の考えていることをてきぱきと言う。
かつてレーガン内閣で国防長官を長年務めたキャスパー・ワインバーガー氏にインタビューした時に聞いたのだが、ある日の閣議で大統領が「ソヴィエト連邦は悪の帝国である。
悪は滅ぼさねばならない」と語ったという。
その後”悪の帝国”という言葉が新聞に載った。
ソ連や東欧の衛星国のマスコミはレーガンこそ悪であると罵った。
ヨーロッパの政治家やマスコミも、うまくいっているソ連との関係をぶち壊すとレーガンを批判した。
しかし、レーガンは平然としていた。
自分は絶対に正しいと信じていたからだ。
世界の大部分の政治家やインテリは、レーガンの真意を理解すらできなかった。
ソ連には、共産党に自由を奪われている人が数多くいた。
政府を批判でもしたらシベリアの収容所に送られ人間として扱われない状態に置かれていた。
一般のソ連市民や東欧の庶民たちは、歓声を上げてやっと西側の大物政治家が真実を言ってくれたと大喜びした。
当時のヨーロッパの政治家の反応を見る限り、彼らは自分の人権は大切にするが、他人のことなど考えもしないとレーガンには映っただろう。
それなのに、ベルリンの壁が崩壊し、ソ連が瓦解した時、彼らは民主主義が勝ったと、あたかも自分たちが貢献したような態度を見せた。
醜いダブル・スタンダードである。
レーガン共産主義との見せかけの平和など、長続きするものではないと信じていた。
西側はソ連を甘やかしすぎていたのだ。
一方で、レーガンソ連との戦争など考えてもいなかった。
対話でソ連を屈服させられるという自信があったからだ。
しばらくしてから、レーガンサッチャー女史から連絡があった。
彼女はゴルバチョフと話したと言って、「彼は今までのソ連のリーダーとは違います。
一緒に仕事ができる男です。
会う価値はあります」と語った。
レーガンサッチャーを信じた。
1985年、ジュネーヴレーガンゴルバチョフが初めて会談する。
ゴルバチョフサッチャーの言った通りの人物だった。
頭は切れるし、はっきりとものを言う。
会談は成功とはいかなかったが、失敗ではなかった。
お互い腹の探り合いだった。
それでも2人は、核戦争不戦を含めた共同声明を発表。
ほかにも科学、文化、教育交流協定などに調印した。
翌年の1986年10月、アイスランドレイキャビクで2度目の首脳会談が行われた。
ゴルバチョフレーガンもストレートにものを言う男たちであるから会議に無駄な時間はとらない。
まずゴルバチョフは中距離および長距離核ミサイルをゼロにしたらどうかと提案した。
ゼロ・オプションなど事前に考えてもいなかったレーガンは突拍子もないゴルバチョフの提案を突っぱねた。
ゴルバチョフは最初からレーガンが彼の提案を受け入れないと知っていたのだろう。
続いて話題はSDIになった。
ゴルバチョフはSDIについて反対の姿勢をとった。
それもそのはず、なにしろソ連核兵器やミサイルを使えなくするようなシステムであり、核兵器を時代遅れにしてしまうのだ。
だからゴルバチョフはゼロ・オプションを提案したのだ。
それでもソ連軍部は弾道ミサイルを作り続けた。
国庫の金はどんどん消えていく。
それに比べてレーガンは政府が得た収入の40%を軍備に使った。
賭け金はつり上がっていく。
ゴルバチョフは完璧に負けたと感じたはずだ。
1987年12月、ゴルバチョフはワシントンを訪問しINF(中距離核戦力)全廃条約に著名した。
米ソ両国がヨーロッパや米ソ国内に展開する射程500キロから5500キロの、弾道ミサイルおよび短距離ミサイルとクルーズ・ミサイルの全廃である。
レーガンには2つの夢があった。
ひとつは共産主義国ソ連の崩壊。
もうひとつは核兵器なき世界を作ることだった。
INF全廃条約は貴重な一歩だったが、残念ながら、現在のロシアを見ると条約など守ってもいない。
ゴルバチョフのようなステーツマンがいないからだ。
ロシアをコントロールしているのはプーティンというポリティシャンである。
それにしても、サッチャー女史というステーツマンがゴルバチョフに会い、彼を褒め称えてレーガンに紹介していなかったら東西冷戦は終わらなかっただろうし、ソ連崩壊もなかっただろう。
すばらしいメンタリティを持った3人のステーツマンが歴史の舞台に登場して、世界を明るくしてくれたのだ。
今の世界にはどの国を見ても、尊敬に値するステーツマンはいない。


19、もうひとつレーガンの決断はリビア攻撃だ。
1986年4月、西ベルリンのディスコで爆弾が爆発した。
アメリカ兵が1人、即死した。
レーガンは瞬時にそれがテロリストによる行動であったと考えた。
その後、CIAとNSAからの情報が入り、リビアカダフィが秘密警察にやらせたテロだったと判明した。
レーガンカダフィを「砂漠の狂犬」と呼んでいたが、いよいよその狂犬に罰を下す時が来たと悟った。
彼は国防相に命じてリビア爆撃の準備をさせた。
国務省はドイツやイタリア、その他NATOの国々に爆撃機の発進のための基地使用を求めたが、彼らは断ってきた。
カダフィの復讐のターゲットとなるのが怖かったのだ。
何のためのNATOなのかレーガンは戸惑ったことだろう。
フランスなどは自国の領空さえ使ってはならないと言ってきた。
こんな連中を相手にできないと考えたレーガンサッチャー女史に電話をする。
彼女は即座にレーガンに要請を受け入れた。
18機のF-111と25機の海軍機はイギリスの基地から飛び立ったのだが、そのまま直線で東南に向かえばターゲットとなるリビアトリポリベンガジに最も早く行きつく。
しかし、それをするにはフランス領空を飛ぶのが絶対条件だった。
フランスはすでに領空飛行禁止をアメリカに突きつけていた。
となると方法はひとつしかない。
ジブラルタル海峡から地中海に入るしかない。
フランス領空を使った場合の2倍近い距離となる。
F-111と25機の海軍機はそのルートを飛ばざるを得なかった。
往復約1万キロ、飛行と爆撃時間を合わせて13時間。
爆撃の歴史で最も長い時間をかけたのが、このエルドラド・キャニオン作戦だった。


20、サッチャー女史は現役の首相時代からEUに大反対だった。
切れる頭と鋭い観察力で、左翼政府が多いEUは経済的に失敗し、難民問題は解決できないと考えていた。
まさにその問題が今のEUを締め付けているのだ。
さすがサッチャー女史、25年前から今のEUが直面する問題が見えていたのだ。
サッチャー女史は首相の時、数回暗殺されかけた。
レーガンも1度経験している。
テロリストに対する警戒心と不信感は当然厳しい。
アメリカとイギリスは以前から特別な関係にあったが、レーガンサッチャー時代にさらにそれが深化したと言える。


21、ブッシュ大統領は戦いに勝利し、イラク民主化を日夜考えていた。
戦争は3月に始まり、5月に終わった。
それはすでにマスコミによって報告されていたのだが、ブッシュは勝利のスピーチをしたかった。
そこで彼はパイロットの帽子と制服を着て戦闘機に乗り空母アブラハム・リンカーンを訪問した。
乗組員たちを見まわして、最初の言葉は「We won the war!」、空母が揺れるほどの歓声が上がった。
一応、アメリカは勝利したが、イラク軍の兵士たちは負けを認めることができなかったのだろう。
その後も道路際にリモコン爆弾を置いたり、パトロール中の戦車や装甲車にロケットを発射して戦車を動けなくしたりした。
戦争には勝ったが問題はその後だった。
多くの女性は選挙を待ち望んだが、投票所を作るのに膨大な時間がかかる。
そして元イラク兵士は投票反対を叫ぶ。
彼らの多くはサダム・フセインを軽蔑したが、アメリカはもっと軽蔑の対象となった。
元兵士たちの何人かはいつの間にかアルカイーダのメンバーになっていた。


22、2009年、オバマが大統領に就任する。
彼が経済的に何をするのか、軍事に対してはどう考えているのか、ソ連や中国との外交はどうするのかなど、人々が知りたい問題は山ほどあった。
ブッシュが残したイラク戦争の傷はまだ消えていなかった。
イラクの選挙は一応無事に終わったが、議長はスンニ派、そして多くの議員もスンニ派シーア派はごく少数。
イラク国民はシーア派が6割だから、これではしっかりとした政府ができるわけがない。
オバマは2011年、まだよちよち歩きのイラクからアメリカ軍を撤退させてしまった。
その直後、ISがシリアとイラクの国境に現れる。
オバマは事前にこれを知っていたのか、それともイラク国内の紛争を嫌がったのか。
どっちにしても彼は戦争をしたくはなかった。
彼は大統領就任後、ノーベル平和賞を受賞していた。
もし戦争などしたらノーベル平和賞が泣くとでも思ったのだろう。
広島にも来て、貴重な演説をし、被爆者を抱きしめた時の彼は優しさと人間性の固まりだった。
しかし、大統領として彼が行ったことは、すばらしかったとは言えない。
富裕層や中産階級から税金を取り、それを低所得者層に与える。
それにより中産階級は減って、バラ撒きを求める低所得者層ばかりになってしまった。
アメリカは競争力を失ったのである。


23、プーティンは必死に勉強しながら、柔道の練習にも通いました。
それが報われてKGBからリクルートされたのです。
最初の頃はレニングラード支部の事務局で働きましたが、よほど諜報員としての才能があったのでしょう。
すぐに第一課対外諜報部に回され、その後、東ドイツドレスデン支局行きとなりました。
カヴァー(仮の姿)はソ独友好館館長でした。
90年に彼はKGBを辞めてしまいます。
彼はロシア大統領府総務局次長に抜擢されました。
おそらくエリツィン自身がプーティンの性格や何も恐れず、力で相手を圧倒する才能に目をつけていたのでしょう。
2年後の98年5月にはロシア大統領府第一副長官となり、その2ヵ月後にはFSB長官を兼任していました。
翌年の8月にはすでに副首相となってしまった。
エリツィン内閣の出世頭と言ってもオーバーではありません。
今はプーティン氏が大統領になりましたが、どうもきな臭い感じがしますね。


24、プーティンは16年間にわたりKGBの諜報員として働いた。
2000年から始まったプーティン政治だったが、当時ロシアは経済的に破綻していた。
それをプーティンは急激な勢いで回復させた。
国民の所得はおよそ3倍となり、失業や貧困は半分となった。
またプーティンはエネルギー政策に力を入れて、ロシアをエネルギースーパーパワー国家と言われるまでに発展させた。
経済は年々7%の勢いで成長した。
エリツィンが辞めてから死ぬまで彼を信用できずに、その携帯をずっとFSBに盗聴させていたと言われるプーティンのことである。
エリツィン泥棒成金たちの会話などは全部わかっていたはずだ。
プーティンのターゲットとなったのは泥棒成金の中でも大金持ちでユコスという石油会社を持っていたミハイル・ホドルコフスキーだった。
彼は次の大統領選に出馬すると公言していた。
しかし相手が悪かった。
自分を否定したり、批判する人間を許さないのがプーティンの性格である。
彼はホドルコフスキーを脱税と詐欺の罪で監獄行きにしてしまう。
これはやばいと思った多くの泥棒成金たちはハエのごとく集団でヨーロッパやアメリカ、南米などにカネを持って逃亡した。
2008年に2期目の任期は終わったが、ドミトリー・メドヴェージェフを大統領に立て、自分自身は首相となった。
メドヴェージェフは単なる人形に近かった。
プーティンは首相だったが、その仕事ぶりは大統領の時とあまり変わらなかった。
憲法を変えたり、言論の自由を束縛したりしていた。
それに対して国民や政治家は何も言わない。
というより言えないのだ。
もし反対すれば、プーティンが動かすFSBやマフィアにより殺されるかもしれないからだ。
彼の政策はよかったが、人間としての行動はすでに述べたように決して褒められるものではなかった。
持って生まれた暗い性格と16年間のKGBでの経験をもとにした独裁性が最初から頭をもたげていたのである。
自分に反対する者や批判する者を容赦なく消してしまう。


25、2006年、元KGBとFSBの幹部だったアレキサンダー・リトヴィネンコが亡命先のロンドンで殺されたケースはまさにそれだった。
彼はFSBを辞めるにあたってプーティンと話し合ったが、プーティンは必死に止めたという。
リトヴィネンコがどれだけ諜報員としての才能があるかを知っていたからだ。
しかし、リトヴィネンコはプーティンの異常性に嫌気がさしていた。
彼はイギリスに行くと言ってプーティンと別れる。
その後、間もなく彼は家族とともにイギリスに亡命する。
亡命は2000年だった。
彼は、メディアのインタビューやテレビなどでプーティンを批判し続けた。
2006年11月1日、突然、リトヴィネンコは激しい嘔吐に襲われた。
体中に痛みが起き、もはや立ってもいられない状態だった。
妻が救急車を呼んで彼を入院させた。
医師たちは必死に病気の源を探すが、何も出てこなかった。
リトヴィネンコの容態は日々悪くなる。
ベッドに横たわった彼はテレビのカメラに向かって言った。
「私がこうして彼らに殺されたのを世界中の人々に見て欲しい」。
2006年11月23日に彼は帰らぬ人となった。
ポロニウム-210」が死因であったと判明したのは彼の死の直後だった。
それまで医者たちは放射能チェックを何度も行ったが、結果は芳しくなかった。
それもそのはず、ポロニウムガンマ線を発しない放射性物質だからだ。
イギリスのMI5とスコットランド・ヤードがすぐに調査を始め、リトヴィネンコは放射性のポロニウム-210入りの緑茶を飲まされて殺されたと断定した。
ポロニウムなどそう簡単に手に入るわけがない。
MI5はアンドレイ・ルゴヴォイとドミトリー・コヴタンという2人のロシア人を暗殺者と特定する。
2人ともかつてのKGBと現在のFSBのエージェントであったことがわかった。
こうなると事件は爆発的に大きくなる。
ポロニウムなどやラジオアイソトープ放射性同位体)は、国家の施設が作り厳重に保管している。
いくら諜報部のエージェントであっても、それを使うにはクレムリンの許可が必要である。
ということは大統領の署名を得なければならないということだ。
MI5は、クレムリンが命じた暗殺であったという結論に到達した。
スコットランド・ヤードの刑事やMI5のエージェントたちは捜査を続けた。
当時、イギリスとロシアの関係は次第に悪くなっていく。

 

26、ロシアほど野蛮で残虐な国は私の知る限り中国とISだけだ。
知識人はプーティンを第2にスターリンと考えている。
ただ彼らがプーティンに対して何も言わないのは、先に述べた通りFSBやマフィアにすぐ殺されてしまうからだ。
だから多くの学者や研究者、作家などが、外国に逃避しているのだ。
この頭脳流出は、ロシアという国をますます堕落させるだろう。
現在のロシアは確実にソヴィエトに帰りつつある。
カネの亡者と何も言えない国民。
これまでに5回暗殺されかけたプーティンだが、おそらく6度目はないだろう。
FSBがガッチリと彼を守っているし、マフィアの情報網もある。
プーティンの残酷性や国民をゴミのように扱うやり方は、筆舌に尽くしがたい醜さだ。
2006年、アレキサンダー・リトヴィネンコが逃亡先のイギリスで殺される約1ヶ月前、ロシアで最も著名なジャーナリストであるアンナ・ポリトコフスカヤが暗殺された。
この事件はヨーロッパやアメリカで大きな波紋を呼び、それぞれの政府は透明な事件解決をロシア政府に要請した。
私は彼女を最もすばらしいジャーナリストとして尊敬していたので、その後のロシア政府の動きを注視していた。
なぜアンナが殺されねばならなかったのか?
それは彼女がロシアという国を救うために真っ向からプーティンの性格や政策を批判したからだ。
何も言えない国民の代わりとして最前線に立ったのだ。2006年10月7日、ポリトコフスカヤは自宅のアパートに帰り、エレヴェーターに乗った時、待っていた暗殺者たちに4発の銃弾を浴びせられて、その場で命を落とした。
ロシアのジャンヌ・ダルクはプーティン大統領の命令により、この世から消えてしまったのである。
享年48だった。
西側諸国の反応は怒りに満ちていた。
ポリトコフスカヤは国際的に知られたジャーナリストで、ヨーロッパでは卓越したジャーナリストとして何度も賞を受けていた。
ヨーロッパ評議会は、すぐさまロシア政府に対してスピーディーかつ正義を重んずる結果を出してほしいという厳しい決議書を送った。
しかしプーティンに握られているロシアはそんなことを屁とも思わない。
ロシア憲法には言論やメディアの自由が保障されている。
しかし、プーティンには国家の憲法など関係ない。
彼が憲法なのだ。
彼は次々と法律を変えて自分と政府の有利な地位を盤石にした。
これによって多くの裁判官たちはプーティンの命令を何でも聞く、堕落と腐敗の仲間になっていった。

 

27、ロシアが戦争で世界を破壊するとしたら、環境的に世界を滅亡させるのは中国と決めつけても、中国人以外は誰も文句は言うまい。
南シナ海ではやりたい放題、東シナ海ではガスを採掘して日本との合意をおざなりにする。
日本政府は抗議したがそれ以上のことはしない。
2014年には小笠原諸島周辺で珊瑚をとるために200隻以上の船がやってきて、珊瑚礁をめちゃめちゃにしてしまった。
この時も日本政府は彼らを逮捕などしなかった。
それが中国をつけあがらせている。


28、それにしても中国のめちゃくちゃな環境破壊に対して、国連や世界の環境保護団体はなぜ立ち上がろうとしないのだろうか。
アメリカやEU諸国も何も言わない。
中国と摩擦を起こしたくないのか、それとも中国自体が崩壊するのを待っているのか。
中国という国は国際上、ワシントン条約国際刑事裁判所などを無視するほどモラルに欠ける。
政府も国民もカネだけを追いかける。
しかし、中国はロシア同様、恥の観念がない。
歴史を見ると中国という国はすばらしい文化を持っていた。
民度も高い。
しかし今の中国はどうだろうか。
簡単に言えば、清朝の時代から中国にはガタが来はじめていた。
清朝漢民族によって作られたのではなく、女真族によって作られた。
今では中国の少数民族の一つである満州族の祖先である。
女真清王朝によって満州族と名前を変えられた。
当時、漢民族は1億人前後に達していたが、満州族はたったの200万人。
文化的にはあまり似ていない2つの民族が一緒になったのだが、清王朝は意外にも漢民族を上手にコントロールした。
1636年に始まった王朝は、三賢帝の時代に最盛期を迎え、中国の領土も圧倒的に拡大された。
中国全土から始まって、チベット、新彊、香港、台湾、北モンゴルなどに及んだ。
中国との貿易は人口や商品を考えれば大いに儲かると見たヨーロッパ諸国はいろいろな手を使って相互貿易を試みたが、王朝側に断られる。
それでも、執拗に清との貿易に固執する国があった。
イギリスである。
しかし、イギリスが輸入する物はたくさんあるが、輸出する物はそれほどない。
結果として毎年膨大な貿易赤字に陥った。
そこでイギリスは奥の手を使う。
アヘンの密輸出であった。
最初は少量だったが、売れると確信すると次第に増やしていく。
王朝はこれを知っていても何の介入もしなかった。
イギリス相手にことを起こしたくはなかったのだろう。
19世紀に入るとあまりに多くの国民がアヘン中毒になっていることに気付いた王朝は、アヘン密輸船を片っ端から調べて大量のアヘンを没収した。
ここでイギリスは戦争という牙を剥き出す。
1840年に戦争は始まったが、まるで大人と子供の戦いだった。
イギリス軍の近代的な武器や情報の前に、清軍はおもちゃのように弄ばれた。
1842年に終わった戦争は、清王朝にとっては高くついた。
南京条約を突きつけられて、上海を含む5港を開港、賠償金を求められ、さらには香港島がイギリスのものとなった。
イギリスは清王朝与し易しと思ったのか、1856年、再び王朝にケンカを売る。
アロー戦争と呼ばれ、イギリス国籍のアロー号の客が王朝によって拘束されたことにイギリスが怒って戦争を仕掛けたものだった。
この戦争でも王朝は負けて、新たな条約を押し付けられる。
天津条約や北京条約である。
これらによって王朝はすでに開港していた5つの港のほか11港を開けねばならなくなる。
その後も王朝は、日清戦争に負けてしまう。
王朝の運命は誰が見ても長くはなかった。
911年、その時がやってくる。
辛亥革命の勃発だった。
原因は単純だが、漢民族にとっては重要なことだった。
王朝は財政に破綻していたため、ヨーロッパ列強から融資を受けることを考えた。
だが、何の担保もなくては無理である。
そこで考え出したのが、民営鉄道を国有化することだった。
これを知った国民は大反対。
結果として起きたのが辛亥革命だったが、革命というより暴動と言ったほうがよいかもしれない。
暴動はたちまち中国全土に拡大した。


29、革命と言いながら、各地のリーダーはバラバラだった。
それをひとつにまとめたのが誰あろう、かの孫文だった。
1912年1月、孫文は臨時大統領となり、中華民国の誕生を宣言した。
王朝のトップであった愛新覚羅溥儀はラスト・エンペラーとして皇帝の座から退いた。
かくして200年以上も続いた清王朝は永遠に消えてしまった。
共産党の権力争いで勝った毛沢東人民解放軍を率いて蒋介石の国民党軍とぶつかった。
日本軍が敗北した1945年8月においても共産党と国民党は戦っていた。
そして1949年、毛沢東は北京で中華人民共和国の樹立を宣言する。
蒋介石は敗北して台湾に逃げる。
民主化や自由などとは縁遠い共産党の独裁政治が始まったのだ。
中国人の多くはいまだに毛沢東を偉大なリーダーだったと褒め称えているが、あんな人物のどこが偉大だったのか理解に苦しむ。
毛沢東の政策はどれをとってもめちゃくちゃだった。
大躍進政策中に飢餓で死んだ国民は3000万人から5000万人とも言われている。
チベットだけでも1500万人が命を失ったとされているが、もっと多かったという歴史家もいる。
1人の馬鹿のためにこれだけの国民が死んでしまう国などほかにあるだろうか。
そして毛沢東が考えついたのが文化大革命だった。
1965年から始まった文革は10年続いた。
文革中の主役としてまず挙げられるのは、紅衛兵であろう。
毛沢東が作り上げた、若く過激な部隊である。
彼らは当時まだ主席だった劉少奇を拘束してリンチを加えた。
劉少奇は自宅監禁されて家族と離され、妻は逮捕された。
毎日のように紅衛兵が訪れてリンチを加えたため、劉少奇の健康はたちまち蝕まれていく。
明らかに毛沢東の命令だった。
修正主義者として鄧小平や毛沢東に忠実だった何人かも投獄された。
1968年、劉少奇共産党から永久除名され、すべての職務から解任され失脚した。
1969年10月に河南省に移送され、汚らしい倉庫にぶちこまれ、1ヶ月後にこの世を去った。


30、用心深いアメリカが中国と国交を樹立したのは、7年後の1979年1月だった。
田中は功を焦って、中国についての歴史や当時の権力争いも調査しないで中国の罠にはまってしまった。
同時にアメリカからのきついしっぺ返しに晒される。
しっぺ返しとはロッキード事件である。
当時、アメリカの航空機製造会社は海外からの受注に対して、他社との競争に勝つため、その国の首相や大統領に賄賂を贈る習慣があった。
CIAはそれを見逃さなかった。
ロッキード社は田中に5億円の賄賂を贈っていたのだ。
アメリカを知る利口な人間なら情報機関が絡んでいると即座に気付くはずだが、田中はそんなことは考えない。
CIAに田中を片付けろと指示したのは、おそらくキッシンジャーだったろう。
しかし田中は功を焦るあまり丸腰で北京に飛んだ。
周恩来にとっては、待ちに待った鴨がネギを背負ってやってきたと大喜びだっただろう。
周恩来と田中では素養、品格、そしてIQがまったく違う。
メジャーと草野球の差だ。

 

31、世界第2位の経済大国・中国に、3位の日本がこれまで3兆円以上の援助を与えてきたのに、まだ続けているのはなぜなのか?
カネと権力の亡者である政治家は利権を手放したくないのだろう。
中国は四川省の山奥に核ミサイルを配置している。
もとは北京郊外に配置していたが60年代から70年代にソ連との関係が悪化し、ソ連が北京に原爆を落とすと脅したため、核ミサイルは四川省に送られ、ロケット部隊や最新のミサイルなどを作るため、研究者たちが極秘に駐留している。
ICBMはアメリカやロシアに向けられているが、IRBMは日本に向けられているという。
この話は1994年、四川省にある鄧小平氏が生まれた家を訪れた時、同行した中国人の友人から聞いたのだが、同じような話は以前、台湾のエージェントからも聞いていたので、事実であると確信した。
私が言いたいのは、中距離弾道ミサイルを日本に向けているのは中国の勝手だが、そんな国になぜ援助を与え続けなければならないのかということだ。
日本の政治家はそんなことも考えないで利権に執着するのか。
国民の税金を盗む詐欺師であり、売国奴だ。
それもこれもすべて田中が始めたことである。
日本の政治家がせっせとODAを与えている間に中国は成長し続け、軍事大国、輸出大国となる。
ODAを使っての軍備拡張はルール違反だが、そんなことに従うような国ではない。
格差に苦しむ貧困層にさえ目もくれない政府が、いちいちODAの使い途など考えるわけがない。
金さえもらえればそれをどう使おうが勝手と思っているのだ。
金には色がついていない。
自分の国は世界の中心だと思っている政府であり、国際法基本的人権、自由平等など考えてもいない。
南シナ海では巨大な埋立て地を作って滑走路まで建設し、戦闘機を配置した。
周囲の国が反対すると戦艦を出動させて脅すたけでなく、相手の船にぶつかって沈める。
ヴェトナムの漁船はすでに何隻も沈められている。
東シナ海ではガス発掘のために海底を掘る。
自然や環境などどうでもいいという国である。
その中国が、世界第2位の経済大国になってしまった。
そして現在、日本はその結果に直面している。
中国は尖閣諸島をいつでも攻撃できる態勢に入っている。
アメリカ国民は尖閣諸島など知らないし、そんな島のためにアメリカ兵を送り込むようなことに反対するだろう。
日本人の政治家や国民の多くはアメリカの国務省や統合参謀本部のトップが”いざとなったら尖閣を守る”と発言したことを信じている。
しかし、アメリカ国民は大反対するだろう。
アメリカでは日本と違って国民の意見が政治家を動かし、尖閣のような誰も住んでいない島を守るのは愚の骨頂と主張するだろう。
田中は周恩来に対して尖閣諸島について話したいと言ったが、周恩来に拒否された。
田中やその取り巻きがキッシンジャーの能力の半分でも持っていたら、こんなことにはならなかったはずだ。

 

32、世界のメディアは中国を「大国」と呼ぶ。
何をもってそう呼ぶのか、さっぱりわからない。
真の大国と言える条件を考えてみた。
①政治家の抜きん出た能力と政治の安定。
②民主主義と法治国家
汚職や腐敗のない政治。
④格差が最小の社会。
⑤教養、品格、文化を大切にする国民性。
⑥犯罪の少ない国、すなわち民度が高い国民や政治家。
⑦教育に力を入れる政府と国民。
⑧他国から刺激されても簡単に武力を使わない国。
⑨一般庶民が知るべき情報をオープンにする透明な政府。
以上、大国の9条件を掲げたが、現在の中国はこれらの条件をどれだけ満たしているのだろうか。


33、これは上級管理職がよくやることだが、下級役人も負けてはいない。
実際にあった話だ。
四川省のある村では村役場の小役人が、村人たちを集めて田んぼのそばにトイレを作ることになったと語った。
そうすれば田んぼの中で排泄をする必要はなく、仕事もはかどる。
村人たちは喜んで賛成する。
しかし、トイレ税は払ってもらうと小役人が言うと、村人たちは興ざめする。
だが、いったん賛成してしまったからには税金を払わなくてはならない。
村人たちはなけなしのカネを納める。
だが、3ヶ月経っても工事は始まらない。
農民代表の村長が役場に抗議すると、担当者はカネを持ってどこかに消えてしまって、おそらく帰ってはこないだろうと言う。


34、政治家や官僚の第一の仕事は国民の幸せな生活を守ることである。
しかし、彼らの大部分は国民の幸せなど頭にない。
自分のことしか考えていないのだ。
内陸部の農民たちにとって人生は地獄とも言える。
そんな国が国連常任理事国であること自体ちゃんちゃらおかしいのだ。
大国としての条件5は「教養、品格、文化を大切にする国民性」だが、これについては、すでに世界中が知っているだろう。
近年中国人の旅行者がやたらと増えている。
日本に来て「爆買い」とやらをやっているが、汚職でカネを貯めた官僚連中も多いという。
問題は彼らの立ち振る舞いだ。
ホテルに泊まれば枕、シーツ、灰皿などを盗む。
花見では桜の枝を切って盗み、宴会中は大きな声で話し、終えると食べ物の残りやゴミを片付けることもしない。
基本的常識がないのだ。
中国を取材した時、驚いたことは数多くある。
例えば道を歩いていて反対側から携帯電話を見ながら歩いてきた中年の男がいて、こっちにぶつかったのだが、何も言わずに去って行く。
謝り方さえ知らないのだろう。
上海の地下鉄では、幼児が排泄をする。
親は止めもしない。
自転車にぶつかられた老婆が倒れていても、道行く人々は見向きもしないで通り過ぎる。
信号が赤になっても平気で渡る。
ヨーロッパの国々でも中国人の素養や常識のなさが問題となっている。
いくつかの有名ホテルやレストランは、今では中国人を断ることにしているという。


35、大国の条件6は庶民が安心して住める、「犯罪の少ない国」だが、現在の中国はどうだろうか。
政治家や官僚の汚職についてはすでに書いた通りだが、国家をコントロールすべき彼らが権力闘争に明け暮れ、政敵を殺すという大犯罪を続けている。
それを知る国民の一部は悪に走る。
人身売買、政治家や官僚に複数の女を与える大型売春、人を殺して臓器売買、妊娠中の女性を何人も拉致して閉じ込め、子供を産んだら売り飛ばす。
そのほか、中国マフィアが密航者から入金を取り、ドラッグ販売などあらゆる悪事を働く。
大国ではなく、”犯罪大国”と言ったほうがいい。
こういう国は世界の表舞台に出るべきではない。


36、7番目の条件である「教育に力を入れる」という点は、アフリカの国々よりもレヴェルが低い。
前述したように、かつて中国政府のO.Kを得て、貴州省雲南省少数民族を取材したことがあった。
彼らの生活や教育現場を見たわけだが、あまりにも酷かったことに唖然とした。
雲南省には、北京政府によって指定された貧困県が73あったが、その中でも金平県はトップクラスだった。
少数民族の3分の2は文字を読めず、自分の年齢さえ知らない人が多い。
車を見たことがないし、われわれのような外国人を見たこともない。
しかし、人間的にはすばらしいものを持っている。
彼らの素朴で純粋な笑顔を見ていると、これが貧困に潰されている人々なのかとつい思ってしまう。
大部分の子供たちは小学校へも行けなかった。
学校が極端に少ないからだ。
もしあっても家族が貧しいため文房具などは買えないし、弁当さえ持っていけない。
ある村では97人の子供たちが小学校に行きたがっていたが、学校に通っているのはたったの18人だった。
少数民族は、いずれも貧困生活に押し潰されていた。
北京政府は少数民族に教育は必要ないとでも思っているのかもしれない。


37、今の日本は崩壊しつつある。
政治、社会、外交すべてに軸がない。
政治は安倍という低レヴェルの男に牛耳られっぱなし、経済はバラバラの状況で格差がますます広がり、社会には考えられないほどの凶悪犯罪が起きている。
政権が拉致被害者家族に約束したことは、まったく実現していない。
北朝鮮は笑っているだろう。
外交官は強気に出られない。
ケンカもできないお坊ちゃんたちばかりだ。
外務省など、その存在さえ見えない。
小泉政権下で拉致解決のために北朝鮮に同行して人気者となった安倍は、リーダーとなった今、北朝鮮という国をまったく理解していない。
経験もない人材を大臣にして、海外豪遊旅行を繰り返し、血税をバラ撒きに行っている。
拉致被害者の家族たちのことを考えているとは到底思えない。
安倍は北朝鮮が破れかぶれになっていることを知らないのか。
金正恩がなぜ軍部に「いつでも核爆弾を使えるように準備せよ」と命じたのか。
彼自身、北朝鮮には未来がないことは理解しているはずだ。
しかし金正恩はかつてのヒットラーのように自殺はしないだろう。
そこまでのおつむはないし、とてつもない自己中心主義者だからだ。


38、ある新聞社が行った世論調査によると国民の62%は生活が苦しいと答えていた。
これに対して政治家たちは一言も言わない。
それどころか安倍は、中国に対抗してメコン川流域の5ヵ国に3年で7500億円の援助をすると言った。
自分の民を幸せにするのが先のはずだが、やはり彼には人間としての情がない。
そんな日本は遅かれ早かれ滅亡の一途をたどるだろう。
自民党の政治家諸君、そろそろ安倍に牙を剥いてもよいのではないか。
失礼、これは失言だった。
君たちの大部分は政治家ではなく、ただ高い給料にぶらさがっている政治家なのだから。


39、読者の皆様に一言、伝えておきたい。
長年、北朝鮮を除いて世界中を訪れてきて、日本がいかに世界から離れているかをいつも感じていた。
大部分の人々がいまだ精神的な鎖国状態にあると言っても過言ではなかろう。
日本の新聞は海外のことを、ほとんど何も書いていない。
私はどの国に行っても新聞を読むが、ヨーロッパやアメリカのプレスには外国の記事がたくさんあって読み応えがある。
最近の大新聞は、読みたくもないくだらない記事や巨大な広告で紙面をカヴァーしている。
社会の木鐸として、また読者に重要な情報を知らしめるのが新聞というメディアの役割のはずではないか。
残念ながら今の日本にはニューヨーク・タイムズワシントン・ポストフィナンシャル・タイムズなどのような世界を切るプレスはひとつもない。
日本人が鎖国状態に陥っているのは当然かもしれない。
テレビも同じようなものと化している。
中東やヨーロッパ、アフリカや南米などで起きていることを滅多に報道しない。
2015年11月にパリで起きたISによるテロぐらいのスケールの事件にはテレビ局も飛びついたが、情報がないため、それほど細かいことは視聴者に報告できなかった。
インターネットのニュースも同じだ。
たまには外国について述べることもあるが、大部分は日本についてのニュースばかり。
それも殺人など犯罪についてのニュースが多い。
そんなことは新聞の三面記事に出ている。
犯罪以外はほとんど誰と結婚したとか誰が子供を産んだなどまったくインテレクチュアルなニュースはない。
そんな記事に興味もないし、ただの井戸端会議のインターネット版にすぎない。

 

40、今、日本は世界に注目されている。
しかし決してよい意味での注目ではない。
かつて西ヨーロッパ諸国と肩を並べ、急速に成長した国が、「どのように衰えて沈んでいくのか」が注目されているのだ。
日本は「衰えゆく先進国のモデル・ケース」になってしまった。
世界からそのように扱われていても、この国の政治家や国民は気付いてさえいないようだ。
この状況を打破するためには、これからを生きる若者たちが軸とならねばならない。
引きこもりなどしていられない状況なのだ。
今の日本には褒め称えることよりも、批判すべきことのほうが断然多い。
真に祖国を愛する人間なら批判すべきは批判せねばならない。
かつてフランスの作家であり哲学者でもあったアルベール・カミュは言った。
「私は国を愛したい、そして正義をも愛したい」。